20151228

「ワーキングマザー」「働くママ」にという言葉に感じる違和感

【旧暦霜月十八日 冬至 麋角解(さわしかのつのおつる)

翻訳をしていてworking motherという表現が出てきました。日本語でも「ワーキングマザー」「働くママ」と翻訳されています。

改めて、すごーく変な言葉だと思いました。

家族の健康のために食事をつくったり、きれいにおうちを整えたり、子どもの成長を支えたり、母はマザーであるだけですごく働いていると思います。それなのに、生活に必要な営みをしている母親のことを「働いていないママ」「ノンワーキングマザー」とでも言わんばかりでとても失礼だと思います。

文脈的にも会社勤めをしている女性限定だったので、私は「会社勤めをしている母親」「会社で働く母親」と訳しました。たぶん、「“ワーキングマザー”って言うのよ、知らないの?」って思うチェッカーさんもいるんでしょうけれど、こういう深い思考の伴わない訳語が、「女性は基本的には家事をするもの」「家事は働いているとは言えない瑣末な雑事」という暗示を広げます。

文化を創造する翻訳者の端くれとして、訳語が社会に与える影響には常に敏感でありたいと思っています。

「ワーキングマザー」という言葉は、大半の文脈において、フリーランスで働いている女性すら含まれていません。

「働く」の定義が、「企業に勤めて金を取ってくること」っていう狭い意味でしか使われていないということの表れであって、こういう思考だから、フリーランスで働く女性や女性の起業家が働きにくい状況に置かれているし、変わっていかない。

思考の切り替えが重要だと思います。

またworking motherという言葉に出会ったら、こりずに「会社で働く母親」と訳します。

working father=「ワーキングファザー」「働くパパ」という言葉が使われないのと同じように、working motherという言葉自体、見ることがなくなる世の中を願っています。

ついでに、「イクメン」って言葉もイラッと来ます。「はあ!?父親も親とちゃうんかい!?」って言いたくなる。すでに長くなりましたので、これについてはまた後日改めて・・・(→追伸:書きました「20160910 「イクメン」「ペアメン」という言葉に感じる違和感」)。

20151227

牡鹿半島のお母さんたちの手作りアクセサリー―OCICA

【旧暦霜月十七日 冬至 麋角解(さわしかのつのおつる)】

今日から七十二候は、冬至の次候「麋角解(さわしかのつのおつる)」になりました。
(七十二候をまとめた記事はコチラ

麋(さわしか)は雄の鹿のこと。鹿の角はこの時期になると生え変わりのために自然に落ちるのだそうです。ちなみに雌の鹿には角がありません。この自然に落ちた鹿の角でできたペンダントがあります。

鹿の角に、漁師さんの編の補修糸を巻き付けたドリームキャッチャー。名前は "DEERHORN DREAM CATCHER"。私が持っているのは写真左のオレンジ色。

20151225

「反貧困の学校」と「反貧困の学校2」を読んで〈その3〉―ジェンダーと労働問題

【旧暦霜月十五日 冬至 乃東生(だいとうしょうず[=なつかれくさがはえる])

主に第2巻のほうの「反貧困の学校2」を読んで思ったこと。

男が一家の大黒柱として、女と子どもを養い、女は子どもと高齢者の面倒を見る。男は一家を養うだけの給料を、会社で稼いでくるもの。男が主、女は従、という、この古くさい役割分担=ジェンダー意識が、労働問題のかなりの部分に悪影響を与えていると思いました。

実際にそう指摘もされていて、「ご主人が・・」と発言した人に、別の発言者が「主人って言わないで」とたしなめるシーンもありました。

女は「お嫁さん」になって、男に養ってもらえるから、女の労働は補助的なものという考えから、簡単に首が切れる、賃金は安くていい、という派遣労働や臨時雇用という形態が生まれています。

儲けを増やすには、材料費を削るか、賃金を削るか。賃金のほうが削りがいがある。ということで、男性にも、この、簡単に首が切れて、賃金が安い労働がスライドしてきてしまった。

20151224

「反貧困の学校」と「反貧困の学校2」を読んで〈その2〉―貧困は自己責任に非ず。セーフティネットはどんな状態?編

【旧暦霜月十四日 冬至 乃東生(だいとうしょうず[=なつかれくさがはえる])

昨日のつづきで、日本社会のセーフティネットがどんな状態かを書きたいと思います。

当事者の生の声を聞いてみると、大企業で務めていた人も、公共機関の人もいて、正社員で困ったことになった人もいたし、だれだって一寸先は闇、という雇用のあり方に、今の日本はなっています。残念ながら。

せめてセーフティネットだけでも機能していればまだよいのですが、セーフティネットがもともと脆弱で、安倍政権になってからは、派遣法が改悪されたり、さらにネットが1本切られ、2本切られ…と、ますます穴だらけの状態。

憲法でも定められている「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する義務を国が果たしていないため、消費者金融(いわゆるサラ金)、ゼロゼロ物件駅手配といった、貧困ビジネスが蔓延っているという現状がよくわかりました。

これは、第1巻「反貧困の学校―貧困をどう伝えるか、どう学ぶか―」のほうに出てきた、「カフカの階段」の説明図です。

カフカの階段の説明図(生田さんのウェブサイトより)
拡大用のPDF

20151223

「反貧困の学校」と「反貧困の学校2」を読んで〈その1〉―情けは人のためならず(本来の意味で)

【旧暦霜月十三日 冬至 乃東生(だいとうしょうず[=なつかれくさがはえる])

「♪東京なのに、宇都宮、弁護士だけど、けんじ」
と陽気で優しそうで強そうなおばちゃんが、一枚のビラをくれた。それが宇都宮健児さんのことを知った瞬間でした。

最初「?」と思ったけど、受け取ったビラの写真は見るからにいい人オーラがにじみでまくっていたので、ネットでよく検索してみました。

知れば知るほど好きになりました。都知事選のときには動画を見まくり、行けるときには生で演説を聞きに行きました。それまで、環境のことにしか興味がなかった私に、貧困のことを知らせてくれたのが宇都宮さんの存在でした。

20151222

冬至の訪れと、夏至への出発

【旧暦霜月十二日 冬至 乃東生(だいとうしょうず[=なつかれくさがはえる])

今日から七十二候は乃東生(だいとうしょうず)。
乃東は夏枯草という植物のこと。またの名をうつぼ草。
漢方にも使われる東洋のハーブ(薬草)です。


アップにするとこんなの。

photo by Jesse Taylor on Wikipedeacommons
「乃東生」は、この乃東という植物が生えるころ、という意味です。
冬至を迎え、一陽来復。
夏に枯れる草がこんなに寒いときから生え始めるんですね。

漢方では利尿消炎作用、結石消散作用で腎臓のお薬として用いられるそうですが、
抗アレルギー作用、抗酸化作用、エイズウイルスの増殖抑制効果、
抗腫瘍効果などもあるようです。(参照元


夏至のころに今度は「乃東枯」(夏枯草が枯れる)の候が巡ってきます。
冬至の初候に生え、夏至の初候に一生を終える乃東という植物。
季節を知らせてくれるメッセンジャーのような存在なのかもしれません。
見たことあったかなー?かつてはかなりなじみのある植物だったのだろうなぁ。

【和暦関連書など】

にほんのいきもの暦

Lunaworks 和暦日々是好日
) 関連記事

20151220

伊方原発再稼働をめぐり―高知の市町村議会約82%反対、愛媛でも住民投票求める署名に賛同1万人超

【旧暦霜月十日 大雪 鱖魚群(さけのうおむらがる)

小さき声のカノンに登場する福島県二本松市のお母さん佐々木るりさん(*)。
福島に住む方の生の声を聞きたくて、東京に住んでいたころ、るりさんの講演会を池袋の立教大学に聞きに行きました。
*佐々木るりさんのインタビューはコチラ

20151217

クリスマスの起源

【旧暦霜月七日 大雪 鱖魚群(さけのうおむらがる)】

昨日、クリスマスがあんまり好きじゃない話を書きました
だって、そもそも、クリスマスはイエス・キリストの生誕を祝う行事でしょ?

……と書こうとしたのですが、「はて、待てよ?果たして本当にそうか?」と思い、調べてみました。(注:筆者はクリスチャンではありません)

調べてみると・・・実は違ったのですね。キリストの誕生日がいつであるかには諸説あるそうで、聖書にも記述がないそうです。

20151216

商業的なクリスマスをどう思う?

【旧暦霜月六日 大雪 鱖魚群(さけのうおむらがる)】

日本の商業的で、メロドラマ的なクリスマスは好きではありません。ハロウィンの後に一気にやってくるクリスマスムードには違和感を感じるほうです。

先日、友だちともそんな話になりました。
1カ月に1つは何かしらのイベントが作られていて

1月―お正月
2月―バレンタイン
3月―ホワイトデー
4月―イースター
5月―母の日、ゴールデンウィーク
6月―父の日、ジューンブライド
7月―七夕
8月―お盆
9月―シルバーウィーク、敬老の日
10月―ハロウィン
11月―サンクスギビング、ボジョレー解禁
12月―クリスマス

これって完全にお金使わせる作戦よね~、日本人って踊らされちゃってるよねぇ。って話になりました。

20151213

自分中心もわるくない

【旧暦霜月三日 大雪 熊蟄穴(くまあなにこもる)】

まわりの人にいろいろと助けてもらうなかで、「やりたい!」「やりたくない!」という素直な気持ちを優先することはわるいことじゃないなーと思えるようになってきました。

自分のうれしいことの実現を助けてくれた人が自分の喜びをうれしがってくれて、好きなことでお礼をしたら、お礼も喜んでくれて、喜んでくれたのが自分もうれしくて、「うれしい!」のキャッチボール。また私が誰かに恩送りをして、相手がまた喜んでくれて…と、うれしいが広がっていきます。

自分の「やりたい!」「やりたくない!」という素直な気持ちを優先して行動すると、「ジコチュー」、「わがまま」と非難されたり、なんかわるいことをしているような気がしてきたりするものですが、自己犠牲よりも自分中心のほうが、楽しいことが広がるんじゃないかなぁと思うようになりました。

「私さえガマンすれば」と自己犠牲を払っても、いい人たちは我慢を強いられ、本当に自分の利益しか考えていない人たちは横暴を広げることも多いと思います。いい人たちが搾取されてしまう雰囲気を作ることになるし、横暴な人も精神が成長しない。自立を妨げることはやさしさではないのでは。

だれかに助けてもらうときは、助けてくれる人が、助けてくれることを「やりたい!」と本当に思ってくれているのか、それとも「本当はやりたくないけど、しかたなく」という自己犠牲的な気持ちでいるのかどうかを見極めることが重要だと思っています。下心にも注意が必要です。

自分中心という言葉に、思い描くものは人それぞれだと思いますが、深いところからうれしさが湧いてくるような「自分中心」の想いのパスのしあいで、いろんなことを実現していけたら、楽しいこと、うれしいこと、すてきなことが広がっていくと思います。

20151212

ベーシックインカムってどうなの?

【旧暦霜月二日 大雪 熊蟄穴(くまあなにこもる)】

ベーシックインカムという言葉を聞くようになったのは、おととしくらい。貧困のことに関心を持つようになってからでした。

ベーシックインカムとは…
"ベーシック・インカムとは、就労や資産の有無にかかわらず、すべての個人に対して生活に最低限必要な所得を無条件に給付するという社会政策。1960年代に、イギリスの経済学者ミルトン・フリードマンが著書『資本主義と自由』のなかで提唱した。" (Huffington Post「フィンランド、全国民に毎月11万円支給? 導入を検討する「ベーシックインカム」とは」より) 
最近になって、フィンランドが導入を検討していて(*1)、オランダのユトレヒトという都市では2016年1月から試験的に導入する(*2)というニュースを見て、再び、むむーどうなんだろうー?と考えるようになりました。

20151210

国立大授業料2031年度54万→93万に?すでに世界一かもなのに。

【旧暦神在月廿九日 大雪 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)】

先日、奨学金の問題について書きましたが、マルチリンガル通訳&翻訳者さんのブログに、表とともにわかりやすく各国の状況が比較されていました。感謝です。やっぱり、複数の言語で情報を収集できると、洗脳されにくいですね。


ダントツです・・・。

このときでさえダントツだったのに、さらに・・・(赤字は筆者)

20151209

あべこべな日本語

【旧暦神在月廿八日 大雪 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)】

この国、日本は不思議な国だ。

真実を語ることを「批判」と呼び
真実を求めて追求することを「疑い深い」と軽蔑する。

政府や経済界の言うことを鵜呑みにし
横流しするマスコミの情報のことを
「真実」と呼んでいる。

政府や経済界に都合のいいことだけを
伝える報道を「ジャーナリズム」と呼び、
都合のわるいことでも納税者に知らせるべきことを
伝える報道を「偏向報道」だと攻撃する。

不完全な科学を「科学的」だと盲信し、
心ある真の科学者の警告を「エセ科学だ」と揶揄する。

戦争をしたい人たちのことを「保守」と呼び、
平和を守りたい人のことを「過激派」と呼ぶ。

憲法を壊す人のことを「保守」と呼び、
憲法を守ろうよという人たちを「過激派」と呼ぶ。

原発で自然を壊す人たちのことを「保守」と呼び、
環境を守りたい人のことを「過激派」と呼ぶ。

放射能汚染をなきものにして
人の健康を壊す人たちのことを「保守」と呼び、
汚染から命を守ろうとする人たちのことを「放射脳」とばかにする。

遺伝子組み換えを持ち込んで
生態系を脅かす人たちのことを「保守」と呼び、
これに反対して種の多様性を守ろうとする人のことを「過激派」と呼ぶ。

公約違反でTPPに参加して
国民皆保険制度の壊滅をはじめ、
人々の生活を破壊する人たちのことを「保守」と呼び、
TPPを阻止しようと声をあげる人たちを「過激派」と呼ぶ。

どうでもいいと無関心でいる人たちが「普通」とされ、
関心の高い人たちは「意識高い系」とバカにされる。

人と違うことを「過激」と呼び、
みんなが黒だと言うときには
白を見ても「黒」と言うことが是とされる。

「過激」と呼ばれても、白を見たら白と言う。
真実を求めて追求する。
そういう仲間が日本中に、世界中に増えている。
隠れている善良な人たちも実は結構たくさんいる。
早く仲間に入りませんか。
命を大切にする人たちが「普通」になる日はまだですか。

>関連記事:20120902 埃

20151208

『小さき声のカノン』―感想ふたたび

【旧暦神在月廿七日 大雪 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)】

先日、『小さき声のカノン―選択する人々』を観て

「日本とベラルーシではなんでこんなに国の対応が違うんだろう?」
「日本でもベラルーシみたいな対応が国としてできないのはなぜなんだろう?」
「ベラルーシみたいなきちんとした対応をするために、私たちに足りないものってなんなんだろう?」

そんな疑問がいっぱい湧いてきました。

20151206

ドキュメンタリー映画『小さき声のカノン―選択する人々』、ものすごく良かったです

【旧暦神在月廿五日 小雪 橘始黄(たちばなはじめてきばむ)】

先週、ずっと見たかった映画、『小さき声のカノン―選択する人々』をようやく見ることができました。

子どもたちを放射能への被曝から守りたいと願い、できることをなんでもやろうと努力しているお母さんたち(一人だけお父さんも出てきた)の姿がありのままに捉えられていました。

20151203

庭の「ワカメ」の正体―除草剤と遺伝子組み換えのこと

【旧暦神在月廿二日 小雪 橘始黄(たちばなはじめてきばむ)】

地方に移住して、通路や庭にこんなワカメみたいなものがうようよあって


なんだろう?と不思議に思っていました。晴れが続くと、乾燥ワカメ、雨が降るとワカメです。

20151201

ビジョンで描いたもの以上のことが現実になることもある

【旧暦神在月廿日 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)】

このまえ、日本の奨学金制度が変だよね、という話を書いたときに、私もよく大学に行けたもんだなぁと、中学生のころを思い出しました。不思議なめぐり合わせで今があります。

ビジョンを描いて強くイメージするとその通りになると、よく言われますが、ときにビジョン以上のものが実現することがあるもんだと思いました。

私の人生を大きく変えた先生が2人います。

20151127

大学に行く以外のオルタナティブな身の立て方を考える

【旧暦神在月十六日 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)】

このまえ、日本の奨学金制度って国際基準で考えるとどうなのだろうか、という話を書きました。

政治を通じて、学費を無料にする、給付型の奨学金を充実させるというのも大事だと思いますが、もう一つ別な方向も考えました。

ナリワイをつくる、稼ぐ力をつける、生きていく力をつけるのに必要なのは、大学教育だけではないと思います。

20151126

お猿さんを虐待していないことがはっきりしているココナッツオイルは?

この記事、衝撃的でした・・・
ココナッツオイルに隠された猿の悲しい現実(ベジワールド)
*ちょっと衝撃的な写真もあるので、心の準備をしてから見てください。

巷でブームになったココナッツオイル。ココナッツシュガーやココナッツウォーターもはやっています。

でも、そのなかには、お猿さんを虐待して、ココナッツの実を取ってこさせているものもあるそうです。お猿さんが赤ちゃんのときにお母さんから無理やり引き離されて、お母さん猿が赤ちゃんを守ろうとすると人間に撃ち殺されるそうです。

幸せな人が増え、視野が広ってより高いレベルの幸せを考えられる人が増えると、世界は良くなるという仮説

【旧暦神在月十五日 小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)】

尊敬する活動家の田中優さんがよく運動のタテ・ヨコ・ナナメの話をされます。タテは政治、ヨコは市民に広げる活動、ナナメはそれ以外。

私はナナメを考えるのが好きです。

ナナメの方向の一つとして、最近相方と話していて、どっちか(定かではない)が閃いたことがあります。それは、幸せで満ち足りた人を増やすこと。これなら小心者の私でもできると思いました。

「社会問題とかってあんま興味ないんだよね~」ってかっこつける人(私から見るとかっこよくないが)、スピリチュアルボケしちゃっている人、「どうせわかんないしー」って愚かなフリをする人の共通点は、自分の心が満たされていないことです。

自分がハッピーじゃない。思考が自由じゃない。だから、自分のこと、自分の周りの狭い範囲のことで頭と気持ちがいっぱいいっぱいになって、地球の環境や社会のことに目を向ける余裕がないのです。視野が狭すぎる。でも、それでいっぱいいっぱいなのもわかる。自分もかつてはそうでした。こういう人たちは、まずは自分が幸せになる必要があります。

反対に、社会の問題にまっすぐ目を向けて行動をしている人たちは、自分は恵まれているという感覚があるみたいです。自分が幸せでたまたま恵まれた境遇にあるから、たまたま不運な状況にある人たちを少しでも早く楽にするためにできることをしたいと思っているように見えます。

そして、世のため、人のための活動をすることでまた、心の中に活力が生まれる。腹の底から力が湧いてくる。すっごくいきいきしていいオーラが放たれている感じがします。東京時代、宇都宮けんじさんfacebooktwitter)を生で見たことがありますが、まさにそんな感じがしました。

自分が幸せで満ち足りている人は、自分に降り掛かってくる問題に対処する時間が、そうでない人たちよりも少なくて済み、もっと大きな視野で世界の動きと自分のつながりを俯瞰して、考え、行動に移すことができます。環境問題、戦争、政治の状況、低い投票率、貧困、労働問題、ジェンダーの問題、不自然な食べもの―こうした問題は、実際、他人事ではないのです。巡り巡って、自分の生活の不安要素になってしまうからです(これについては環境の面でですが、過去に「エコ=エゴ?」という記事を書いています)。

だから、幸せで満ち足りた人を増やすことができたら、その人たちはきっと、頭と心に余裕ができて、もっと高いレベルでの幸せ、世界全体の幸せを考えるようになって、行動に移せる人も増えていくと思います。

幸せで満ち足りた人を増やすこと。方法はいろいろあると思います。だれかの悩みを聞く、(とくに当たり前のように扱われている人に)感謝をする、ほめる、笑いをおすそ分けする、本来の自分の望みに気づく手助けをする、いいところに気づいて本当の自信をつけてもらう手助けをする、今ある豊かさ、幸せに気づくきっかけをつくる、などなど。孤児院で奉仕活動をしているうちに、自分がすでに持っている幸せに気づけるようになったという人の話も聞きました。そういう機会をつくるのも一つの方法かもしれません。そこから、自分と広い世界との関連を考えられる人たちが増えていったら、世の中はもっともっとよくなる。これもナナメの方向の一つかなと思います。

20151125

科学技術は嫌いではありません。それがあらゆる人に自由と幸福を与えるものであれば。

【旧暦神在月十四日 小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)】

冷蔵庫なし、洗濯機なし、炊飯器なし、電子レンジなし、などなど、非電化生活をしていて、添加物などの化学物質はなるべく身体に取り入れないというお話をすると、たまに、科学技術を否定していると誤解されます。

そんなことはなくて、科学技術は好きです。ただし、本物であれば…。

20151124

日本の奨学金制度について考えてみた。うーん、デンマークがうらやましい。

リテラにこんな記事が出ていました。
これでも奨学金は自己責任なのか? サラ金より過酷な取り立て、巨額延滞料、それでも借りるしかない現実!(リテラ 2015.11.24)

こんな本が紹介されていました。読んでみたいと思っています。

日本の奨学金はこれでいいのか! ―奨学金という名の貧困ビジネス


日本でもようやく少しずつ話題にされるようになってきた日本の教育支援体制の問題点。そもそも、日本の公的な奨学金は貸与型なので「奨学ローン」と呼ぶのが正しいようです。
"利子がつくか否かにかかわらず、返済しなければならない「奨学金」のことを、外国では「教育ローン」と呼ぶそうだ。日本の奨学金の概念は、国際標準からズレているらしい。"
夢をかなえようと借りた奨学金を返すために、夢をあきらめる不条理(マガジン9 2011.2.2)より
以下のグラフはOECDが2013年に発表した「図表で見る教育」からのデータです。縦軸が大学の学費の額(上に行くほど高く、下にいくほど安い)、横軸が公的な奨学ローンまたは奨学金(給付型)の恩恵を受ける学生の割合(右へ行くほど多く、左へいくほど少ない)です。

OECD「図表で見る教育」日本カントリーノートより
日本は、ポツンと左上のゾーンにあります。つまり、学費が高くて、奨学金などの教育支援が少ない唯一の国だということです。Huffington postの記事「教育への公的支出日本は最下位 奨学金制度が鍵=OECD報告書」に簡単にまとまっていますので、ご覧になってみてください。

教育評論家の尾木直樹さんは、NHKの番組で次のように語っています。
"国際人権規約で定められている「高校・大学の学費無償化条項」という項目があるのですが、この条項の批准を拒否しているのは、国連加盟国の中で日本とマダガスカルの二カ国だけなのです。国連からも、改めるよう勧告を受けています。"
【出演者感想】尾木直樹さん「日本の奨学金制度は国際標準とは呼べない」(NHK『シリーズ・貧困社会』2013.05.20より)
日本の公的な教育支援体制が他国と比較したときに、大いに改善が求められるということを、私も数年前までは知りませんでした。

「貧乏だもの、借りられるだけありがたい」と思って借りました。大学を出ればいい企業に入って一生安泰だから、らくらく返せると思っていた高校生のころ。でも、実際には、終身雇用の一生安泰な会社勤めの時代なんて、とっくの昔に終わっていた。私が高校生の頃にはすでに「過労死」という言葉が流行っていたし、今では「ブラック企業」「ブラックバイト」「社畜」なんて言葉が日常的に使われるくらい、働いて人間らしい暮らしを送るのが難しい時代になってしまっています。

いざ卒業してみると、返済のきついこときついこと・・。全部で400万円以上の借金をかかえて卒業しました。税金の控除があるとありがたいのですが、そんな制度は今のところありません。それでも、好きなことを仕事にして、返済できるだけ、恵まれています。

奨学金によるメリットは、学生に限定されるものではありません。前述のマガジン9の記事に、びしっとこう書かれています。
"「奨学金は林業だ」と岡村さんは語っていた。貸与の効果は世代を超えて還元される、息の長い営みである。そして、その最大の受益者は社会だ。NHKの番組で学者が指摘していたが、人材を育てることが経済成長につながり、結果として国の競争力を高めると見れば、目先の「成果」だけにとらわれず国を挙げて支援すべきことは自明の理だろう。"
国が教育を支援することは、貧乏人へのお情けではないのです。国全体の発展と幸福のために必要な投資です。

先ほどのグラフで、右下のゾーン、つまり学費が安くて奨学金が充実している国の一つ、デンマークの状況がひっじょーーーにうらやましいので駐日デンマーク大使館のツイートを引用します。本当の「先進国」ってこれなわけですよ。

ほんでもって、会社を出たあともこうです。

いやはや。。はい、デンマークで仕事を探したいですね。やはり教育は投資。繁栄しています。

なぜ、デンマークはこんなに羨ましい状況なのか? それは政治への意識の高さにあるようです。
望む未来をつくることは、国民一人一人の意識と行動しだいです。日本がこんな状況なのは、政府のせいでも、おっさんたちのせいでもなく、自分たちの無頓着、無関心、無気力、無力感にある。デンマークを見習って、政治を通じても声を届ける努力をしていきたいです。


20151119

「テロ」のこと

【旧暦神在月八日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせんのこと}がさく)】

この前あるグループワークに参加しました。どんな生き方、働き方がしたいか、どんな生き方、働き方はしたくないかをシェアするというものでした。

そのときに、20代の方が「優しくありたい。優しくあるには、自分に余裕がないとできない。自分がまずは満たされている必要がある」とおっしゃいました。

また別な若い方が、「わるいことをする人というのは、よくよく事情を聞いてみると、それをしてしまうのがわかる事情や考え方がある」とおっしゃいました。

こういう感覚は、社会のいろいろなことを考えるうえで、すごく大事な見方だと思いました。こうした感覚があれば、なにか残忍なことが起こったときに、単純に犯人を見つけてやっつけるのではなくて、その根本の原因を探って、解決に向かうために行動を起こすことができるからです。

パリで残忍な同時多発テロ事件があり、とても悲しい気持ちでいます。欧米と日本のメディアを見ていると、「ISISのせいだ、あいつらを許すな、やっつけろ!」という論調が多く見られますが、ほかの多くの社会的な問題がそうであるように、この事件の原因にはさまざまなことが関係していて、ISISを絶やせば世界が平和になるというほど、単純な問題ではありません。本当の原因を見極めて、根本治癒を目指さないかぎり、ISISがいなくなっても、また同じ苦しみが繰り返されると思います。

私の意見は以下に挙げる2つの論説に近いです。
東京新聞 週のはじめに考える 9・11からパリ・テロへ

根本の原因は、志葉玲さんが記事で指摘されていることだと思います。
"何故、テロが起きるのか。IS的な過激思想に走る人間が出てくるのか。その根源には、「自由と民主主義」への絶望、そして憤りがある。空爆された市場で、猛烈な爆撃で地面ごとえぐり取られた民家跡で、血と膿と消毒薬の匂いただよう病院の中で、悲しみ、憤る中東の人々の、心が千切れるような絶叫を、私は何度も聞いた。”

日本を含めた欧米諸国は、自分たちがしていることを直視しようとしていません。以下の記事が象徴的です。
欧米からは完全に無視…“もうひとりのマララ”の悲惨な境遇(日刊ゲンダイ)
ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その1) 無人機が奪った未来(毎日新聞)

中東の過激派に襲われたマララさんは世界の注目を浴び、救済されているのに対し、アメリカの無人偵察機に爆撃された罪なきナビラさんは無視され、家族みんなで苦しい生活をしている。ナビラさんのような人がほかにもたくさんいるのだと思います。なぜ、中東の過激派が犯した蛮行には注目が集まるのに、アメリカが犯している残虐な攻撃は許されるのでしょうか。アメリカ側は対「テロ」戦争といいますが、アメリカ側がしていることも「テロ」と全く同じに私には見えます。

中東の人々は、欧米が過去にした戦争、そして今もテロ撲滅を掲げての欧米諸国からの空爆で、ずっと悲惨で苦しい生活を強いられています。希望を持つことができません。彼らへしているひどいことを素直に謝って、お詫びをし、彼らが希望を持って暮らしていけるようにすることが、根本的な治癒だと私は思います。

「自分に余裕がないと優しくなれない」「わるいことをする人にも事情がある」―人生に絶望した人、心が壊れてしまった人たちが殺し屋になってしまう。私はテロをする人たちの心境、事情を想像すると―想像を絶するほどの苦しみと悲しみ―、その人たちのこともかわいそうでかわいそうで心が痛くなります。暴力はもちろん許されることではないけれど、欧米諸国も暴力をしている。復讐に復讐しても、もっとひどい復讐を生む悪循環になるだけです。

解決に向かうためには、真実と向き合うことが不可欠です。ロシアのプーチン大統領はISISの存在を支えているものについて、以下のように語っています。

・ISISの多くは雇われた傭兵で、賃金の高いところで殺し屋をやる
・その賃金の資金源は石油の販売による収益
と言われています。
(YouTubeに動画があったのですが、削除されてしまったので、文字起こしのリンクを付けておきます→

石油がISISの資金源であることはguardianにも過去に書かれています。
*Inside Islamic State’s oil empire: how captured oilfields fuel Isis insurgency

資金源を断つ、つまり、ISISから石油を買っている人たちが、石油を買うことをやめれば、もっと言えば、ISISから石油を買っている人たちから石油を買わないようにすれば、ISISの活動を大きく縮小することができるはずです。

では、ISISから石油を買っている人たちは誰なのか? プーチン大統領は、最近、ISISから石油を買っている国がG20を含む40カ国であることを突き止め、欧米諸国の首脳たちに知らせています。
*Putin: ISIS financed from 40 countries, including G20 members

別の記事で、プーチン大統領の側近が"ISIS is a byproduct of US policies in the Middle East.”ISISは中東におけるアメリカの政策の副産物だ)と述べていました

これは、ノーム・チョムスキー氏に関する映画で見たこととも共通しています。田中優さんの本「戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方」で読んだこととも共通するものがありました。

日本がすべきことは、アメリカと一緒に戦争をすることではなくて、まずは石油への依存をやめることだと思います(だから私はガソリン車を持ちたくないし、プラスチックや鉱物由来成分を含め、石油製品を使いたくない。有効活用されていない自前のエネルギー源を使うほうを選ぶ)。石油の魅力がなくなれば、資金源として役立たなくなるからです。そして、さらに言えば、中東を含め、世界で紛争や代理戦争の舞台となっている国や地域は、石油がたくさん出るところです。石油への依存をなくし、石油の魅力をなくしてしまえば、戦争をする理由がなくなる。これも真の平和へ向けた1つの非暴力的アプローチだと思います。

そして、国際社会は協力して、中東を無差別に爆撃するのではなく、苦しみのさなかにいる人たちの暮らしを一刻も早く楽にするよう協調し、憎悪の連鎖を率先して断つべきだと思います。その意味でも、日本は暴力を放棄し、暴力によって問題を解決しないという憲法を持っているのに、それを反故にすることは、憎悪の連鎖に加わることとなり、本当の平和からは退行するアプローチです。時間はかかることで、人権意識や支配的なシステムなどといった自分たちの未熟な部分と向き合って乗り越えていく苦しい毒出しもきっとあるでしょう。しかし、それは本当の平和と安全で快適な暮らしを実現するために必要な毒出しです。平和とは、与えられるものではなく、苦しくても、一人一人の在り方で創りあげていくものだと思います。

20151118

ノマドか、エグゼクティブか

【旧暦神在月七日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせん}がさく)】

ノマド的な働き方とか、二地域居住とか、個人の自由を謳歌する働き方にも憧れる一方で、大企業や大きな組織で何かを大きく動かして社会に大きく貢献するような働き方にも憧れる。その辺、どうなんだろう?というような感じの質問をされたことがあります。

結論から言うと、どっちもやってみたらいいと思う。それで、合うほうを選んだらいい。こればっかりはやってみないことにはわからない・・・と言ってしまうと、ちょっと突き放しすぎな気がするので、今まで見聞きした範囲から私が考えていることを書きたいと思います。

私自身は、個人の自由を謳歌する働き方が働き始めてからのほとんどを占めていますが、大きな組織を垣間見る機会もありました。「社会貢献」をしたい、と思ったときに、どっちにも、やりやすいこととやりにくいことがあると思っています。やりやすいことを最大限発揮できて、やりにくいことはやりやすく変えていけるほうを選んだらいいと思います。

たとえば、大きな組織になると、個人として感じていることと、組織の一員としてしなければならないこととの間に大きな隔たりがあることもあるようです。私が2カ月だけいた中規模の会社でもそうでした。

そのジレンマを、組織の下層にいる間は我慢して、上層に上がってから変えていこうと思って耐えているうちに、だんだん個人の感覚が麻痺してきたり、上に上がるときにいろんなしがらみができたり、どんどんものが言えなくなって、結局、丸くなって終わる、という体験談も聞きました。

他方で、内側から変えていく勇気と粘り強さ、交渉力、推進力を持って、諦めることなく、組織のなかでいいことを広げている人の話も聞いたことがあります。組織と一口にいってもいろいろあって、自分にとってそういうことがしやすい組織だったら、組織で内側からいいことを広げていくのもやりがいのあることだと思います。

個人の自由を謳歌する働き方で、「社会貢献」に関して、だいぶやりやすいなと思うことは、
・やってはいけないことをしなくていい
・やってはいけないことに加担しなくていい
・やったほうがいいことをすぐに実行できる
・時間に余裕があるから、環境と社会のことをよく調べて考える時間がある
・よく調べて考えて買い物をしたり、意見を伝えたりすることで外側から働きかけができる時間がある
・いいことをしている人たちと網の目のようにつながって一緒に何かを始めることができる
あたりでしょうか。個人の決定権が大きいというのが一番の決め手だと思います。

たとえば、コピー用紙ひとつをとっても、パートタイムで行っていた会社では住民を焼き討ちにして追い出してまで熱帯雨林を破壊して作られた紙を使っていて、それを変えることは私にはできませんでしたが、個人で使う紙だったらすぐに変更することができます。家で使う紙は、びわ湖の森の間伐材と再生紙を使った「びわ湖の森の木になる紙」か、FSC森林認証紙にしていて、会社よりはわずかかもしれないけれど、少しでも、熱帯雨林の破壊を少なくできて、日本の森を再生するお手伝いができています。

やりにくいことは、やっぱり大金が必要なプロジェクトとかでしょうか。でも、そこの部分は長期的な目で見て、少しずつコツコツ幅広くいいことを積み重ねていって、じわじわと社会にいいことを広げていくやり方で補えるんじゃないかなぁとも思っています。

そして、そもそも、「社会貢献」ってなんなんだろうか?という、自分なりの定義や条件をしっかり持っておく必要があると思います。その定義や条件は、つねにアンテナを高くして、つねにアップデートしていかなければならないものです。そうしないと、「社会貢献をしている!」と思っていたのに、実際には、戦争に加担していたり、環境汚染や環境破壊につながっていたり、自由を妨げていたり、不公正や貧困を助長していたり、格差や差別を広げていたり、ということが往々にしてあるからです。

わかりやすい例として、原発はクリーンな未来のエネルギーだと言われていました。温室効果ガスの排出がないからというのが根拠です。これを鵜呑みにしている人にとっては、原発産業の推進は彼らにとっての「社会貢献」になります。

でも、稼働中も放射能を出し続け、ウランを掘る労働者には採掘中に大量の放射線を被ばくさせ、現場でも被曝労働者の犠牲なしに稼働することができず、周辺の海域の海水温を上げて生態系に悪影響を与え大量に出る使用済み核燃料を安全に処理する技術がないために十万年以上も管理し続けなければならず、核爆弾をいつでも作れる状態をつくっている。これを知っている人たちにとっては、原発産業の推進は、「社会貢献」どころか、環境破壊と人権侵害以外のなにものでもありません。(原発のことを勉強するようになったころのことはこちらに書いています→「20130413脱原発を願うようになった経緯」)

こうしたケースが、さまざまな分野において見受けられます。だから、「社会貢献」をするうえでは、何をもって社会貢献とするのかを判断する、たしかな目と、自分なりの定義が不可欠です。

ノマド的な人たちはもしかしたら、世捨て人的な感じに思われるのかもしれません。でも私の知っているノマドワーカーたちは、ものすごく優秀で、その能力を十分に活かして社会貢献をしています。私自身も、暮らしが豊かだから、仕事もいい仕事ができているように思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、私の仕事は感性と思考力の両方が求められるので、心身の健康によって仕事にも多少なりとも変化が出ます。

自然系の人たちのなかには、世捨て人のような暮らしをしている人もいますが、二刀流の人もいて、私は後者です。世間に背を向けているわけではなくて、世間の支配的な動きに振り回されないように、徐々にシステム依存を減らして自分の自由度を高めている一方で、それがまだできない大多数の人たちが困らないように、見識を磨いたり、意見を発表したり、署名をしたり、お金や時間の使い方で意思表明をしたり、できないをできるに変えられるように情報や知恵を共有したりと、できる限りのことをするように努めていて、まわりでもそういう人が多いように感じています。

まずは、そもそも社会貢献ってなんだろう?ということをよく調べて考えてみて、そのうえで、自分は世の中に何ができるだろう?、何はしたくないんだろう?と考えてみるのはどうでしょうか。そうして、それらを実現するために、ぴったりのスタイルをいろいろ試してみて見つけていったら、いいんじゃないかなぁと思います。

20151101

寿命なんて思い込みかもの巻

【旧暦長月廿日 霜降 霎時施(こさめときどきふる)】

昨日の記事で、年齢に対する強い思い込みを外せば人間は150歳くらいまで生きられるんじゃないか、という話を書きました。

実際にそういう話をしている人がいました。95歳のトルコのヨガ師範カジムさんです。

毎日のヨガが健康の秘訣?見た目も中身も若すぎる95才のトルコ人男性が話題に

うーん、写真を拝見しても、とても95歳には見えない。40歳でヨガと健康的な食生活を始めて、体力は30代のころと変わらないそうです。「心をそこに向けさえすれば、人は誰でも130才まで生きられる」と語っています。

私が150歳とか200歳とかまで生きられるやろーと思うようになったのは、一番最初のきっかけは、友人のススメで「神との対話」を読み、神さまが人間の身体を500年くらいは保つように作っているのに、人間は変なもの(化学物質とか)を身体に詰め込みまくるから、100年未満しかもたないと話していて衝撃を受けたからでした。その後読んだ、「引き寄せの法則―エイブラハムとの対話」にも強い思い込みが寿命を作っているというような話が出てきます。

心の持ちようはやっぱり大切。

20151031

ひとそれぞれの人生を選ぶ自由

【旧暦長月十九日 霜降 霎時施(こさめときどきふる)】

結婚も、出産も、そうしたいと思える人はしたらいいし、思わなければしなくていい。時期もみんな人それぞれ、そうしたいと思えるときにしたらいいと思う。人生におけるそんなに大切なことを、他人の目を基準に決めて、どんないいことがあるんだろうか。

世間の固定観念に合わせて、自分が本当に望むことに背を向けて、その結果生じた結婚や出産は、本当に幸せと言えるのだろうか。一緒に生きていきたいと心から願う相手がいるならともかく、「適齢期で子どもがほしいから」という理由で結婚を急ぐ人もいると聞く。一人でも幸せな人はそれで幸せなんだし、自分が変化するのに応じてパートナーが変わって幸せならそれで幸せなんだし、「こうあるべき」というものに縛られて、自分は不幸だと思う必要もなければ、固定観念に縛られた人になんだかんだ言われても気にする必要もない。そもそも、固定観念に縛られて人のことをとやかく言うこと自体どうかと思う。

もし自分が生まれてくる子どもの立場だったら、「子どもがいるから離婚できなくて、人生を棒にふった」、「子どもがいるからしたくない仕事をがんばらないといけない」、あるいは逆に「子どもができてしまったから仕方なく仕事をやめた」などといったことを親に思われたり、言われたりするのなら、「生まれてこなければよかった」と思うだろう。

私はまだ、自分の心が本当に望む生き方をつくりあげている途中だ。本当に望むことを探っている途中だ。適齢期で子どもを持たないのは無責任な生き方だろうか。むしろ、子どもを持って自分が犠牲になった、あるいは自分の人生を犠牲にしたという気になるほうが、無責任な生き方に私は思える。子どもを持つために、自分の心が望むことを探究するのを頓挫して、「こうすべき」という世間の価値観に合わせて生きても、自分は不満だらけになるだろうし、そんな状態で子どもを持つことのほうが、私は自分が無責任に思える。そんな状態で子どもを産んで、子どもにもいい影響を与えられる親でいられるだろうか。子どもが私の姿を見て、心から望むことをして幸せに生きる手本にしてくれるような自分になれたら、子どもを持ちたい。

無責任と言ってくる人たちは、経済発展や社会の年齢構造のことを根拠にしているんだろう。出生率増加に貢献する気は毛頭ない。自動的になんでも買わされる消費者であったり、産業を支える労働力であったり、そういった経済の道具としての人間を増やせという意見になんの魅力も感じない。そのような目的でつくられた子どもには私だったらなりたくない。人間は自分の心の声に従って、自分が本当に輝けること、魂が喜ぶことを楽しむために生まれてくるのであって、そのような社会のコマとして生まれてくるのではない。

そもそも、子どもを持ちたいのはなぜか。子どもがいると人生が豊かになるから? 子どもを育てることで自分が成長できるから? 親や祖父母を喜ばせたいから? 自分の遺伝子を残したいから? 世間から「幸せ」と思われたいから? これらの理由は私には子どもを持つのに十分な理由には思えない。これらは生まれてくる子どもの魂が望むことだろうか。本当に自分の心が望むことだろうか。

自分自身が「この世界はなんて素晴らしいんだろう。人生とはなんて素晴らしいんだろう」と心から思えて、「この喜びを別の人間にも味わってもらえたら」と思えたときに、私は子どもを持ちたいと思う。もし、私が生きている間に、そう思えるときが来なければ、私は別のことに創造のエネルギーをつかっていきたい。

出産には適齢期があって、過ぎてしまった後から子どもがほしいと思っても遅い、という意見もあるが、私はこれには疑問を持っている。適齢期なんていうものは、本当はないのではないだろうか。思考が現実をつくるという。それが事実であるなら、多くの人が一定の年齢をタイムリミットだと考えているから、その年齢がリミットになっているのであって、産もうと思えばいつだって産めるのではないかという仮説を私は持っている。世間一般から離れて暮らしている仙人のような人たちのなかには、実年齢が150歳は遥かに超えていると推定されるのに、元気そのもので外見からは60歳くらいにしか見えない人たちがいるという。衰えもまた思考が生んでいるものだとすれば、私たちを創ったなにか偉大な力は、人間が自らタイムリミットを設定しない限り、いつだって産めるように人間の体を創っていると思う。

不完全な科学の研究結果や世間一般の価値観に振りまわされることなく、自分の心の声に誠実に生きていきたい。産みたいと思っているならばともかく、それらに囚われて「産まなければならない」と思っている人たちのことは、その囚われから早く解放されてほしいと願っている。

20151019

人生の目的?

【旧暦長月七日 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)】

最近なぜか頻繁に目にし、耳にする言葉がある。

life purpose。人生の目的。この世に生まれてきた使命。

あまりに何度も目にするので、最近、私のそれはなんだろうと考え込んでいた。

友人は先日、「自分がやりたかったのは絵だったんだ、絵を描きたかったんだ!と気づいた」と話していて、それ以来、仕事もうまくいっているようで、イキイキしていて、充実しているように見えて、うれしく思っていた。

うーん、私のそれはなんだろう?

歌も好きだし、絵も好きだし、ちくちくも好きだし、料理も好き。書くことも好きだし、翻訳をして日本語と英語の飛躍の往来をするもの楽しい。ハーブにも興味があるし、編み物もできるようになりたいし、織物もしてみたいし、植物染めもやってみたいし、金継ぎもやってみたい。

どれもこれもやっていたら、"ものにならない"ような気がする。どれをやったらいいんだろう。

考えすぎてよくわからなくなってきて、何か見つかるかも、と本屋にふらりと寄った。

マクロビ系のお菓子づくりの本、ハーブや漢方の本、自然農の本、社会系の本、ソトコト、いろんな新書、英語学習系の本、編み物の本、片付けの本、絵本…。どれもおもしろいんだけど、どれか一つにしようと思ったら、どれも違うような気がしてきた。

だめだ、もう帰ろう。

そう思ったそのとき、ターシャ・テューダーさんのムックが目に飛び込んできた。

ターシャさんのことは前から大好きで、生き方を尊敬していた。ターシャさんは絵も描かれるし、ガーデニングもされたし、編み物や縫い物、料理もされ、素敵な言葉もたくさん残っている。

あ、そうか!これだった!と思い出した。一つに決めようとするからいけないんだ。やりたいことはなんでもやればいいし、一つに決める必要はない。

一つに決めないといけない気がしていたのは、一つに決めないと"ものにならない"ような気がしていたからだ。"ものになる"とはどういう状態? 何かお金に換える仕事として成り立つこと? できるだけたくさんのお金に? あるいは、世間一般に広く知られるような作品を送り出すこと? 

生き方そのものを創ることを目的にしたら、売るために何かを書いたり、描いたり、作ったりしなくたって、全部含めて生き方そのものが自分にしかできない藝術作品で、自分にしか創れない世界で、それを創ることがlife purposeと言えるのではないか。過去に「だれもが芸術家」だと気がついたのに、こうもたやすく忘れてしまう。

ゴッホさんやピカソさんの絵のように、広く知られている藝術作品の良さもあるけれど、一部の人にしか知られていない藝術作品の良さもある。姪が私にだけ描いてくれた絵や、友人が作ってくれた絵本など私だけが知っている美しいものもたくさんある。

それと同じで、多くの人に絶賛される生き方の良さもあるが、関わった人たちの心に深く残る生き方もある。どちらが優れているということは決められるものではない。

自分がいいと思えること、自分が楽しいと思えることに夢中になろう。金銭的な成功も名声も、人生の歓びに必ず要るものではない。それをすでに持っている人たちも、全員が全員、楽しそうなわけでも、幸せそうなわけでもない。そういう固定的な価値観に影響されるのはやめようと思ったのに、また振り回されている自分に気がついた。気がついたからこそ、また一つ、縛りを外すことができたのだと思えば、それもいい。

ムックをパラパラ眺めていて、目に飛び込んできたターシャさんの言葉にトドメを刺された。
「何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。」

夕闇のなか、晴れ晴れした気持ちで書店を後にした。

20151014

マイナンバーあれこれ

マイナンバーが始まりますね…。ちょっと情報を調べたので共有します。

「個人番号カード」の作成は任意であって、強制ではありません。「通知カード」が届いたら、役所などで必要なときまでなくさないように保管するだけでOK。個人情報のかたまりなので、しっかり隠しておこうと思います。

●マイナンバーご注意!! カード作成 急がず考えて
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201510/CK2015101102000122.html

市民団体「共通番号いらないネット」発行のリーフレット(※)によると、年金の手続きや税金の申告などでも、従来どおりの本人確認で可能なので、番号の記入は義務ではないそうです。

※市民団体「共通番号いらないネット」発行のリーフレット
http://www.bango-iranai.net/library/pdf/201510CampaignBillNo2Mono.pdf
(4ページ目のQ&Aを参照しました。情報がよくまとまっているので、他のページもぜひ読んでみてください)

個人番号が導入されているアメリカの実例を書かれたパックン・ハーランさんのコラムもとても参考になりました。

●マイナンバー歴44年の僕から一言
http://www.newsweekjapan.jp/pakkun/2015/10/44_1.php

アメリカではidentity theft(身元窃盗=成り済まし詐欺)が蔓延しているそうです。日本は、こうした情報漏えいや詐欺への備えが十分ではありません。

ちなみにコラムの3ページめの
「そもそも「スーパーのレジに提出する」という話が出た時点で、マイナンバーの恐ろしさを理解していないと感じる。」
の部分は、おそらく、先の共通番号いらないネットさんの資料にある
「国会で一度も議論もされず、突然出てきたのが2017年4月からの消費税率10%引き上げに合わせて、お酒を除く飲食料品購入のうち2%分、上限4,000円を銀行口座に振り 込み還付する案です。個人番号カードを買物の時には持ち歩き、お店の端末機で チェックするしくみですが、そもそもカードの取得は任意なのに、麻生財務大臣は「カードを持っていきたくなければそれでいい、その代わり減税はない」とまで言っています。」
のことを言っているものと思われます。

すでにトラブルも起きています。茨城県の取手市では住民票の自動発行機で、誤ってマイナンバーが記載されたものが発行され、住民票を受け取った人のなかにはマイナンバーに気が付かずにすでに銀行などに提出してしまった人も出てしまいました。

●マイナンバーで初のトラブル、取手市が69世帯の住民票に個人番号を誤記載
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/101303364/

こういうことが今後、起こりかねないので、誤記載がないかなど、注意して見る必要がありそうです。また、すでに詐欺などのニュースも多く報じられています。

そしてやっぱり、、、
●マイナンバーで癒着 厚労省室長補佐を逮捕 100万円収賄容疑
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201510/CK2015101402000124.html
●さらに数百万円受領か マイナンバー収賄容疑の厚労省職員
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201510/CK2015101402000248.html
●マイナンバー絡み収賄容疑―お手盛り利権の温床 制度の検証必要
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-10-14/2015101415_02_1.html
(”導入費用だけで3000億円、ランニングコストに年300億円”とあります)
●マイナンバー発送開始直後 揺らぐ信頼 情報政策の第一人者
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201510/CK2015101402000123.html

そもそも人間に番号を振るなんて、人間の尊厳を軽視していると思う。名前でなく番号で呼ばれる拘置所みたい。受けとりたくないけど、通知カードを持っていなくても番号が振られていることには変わりないので、番号そのものは受け取らないといけません。国民にメリットはほとんどないこんな問題だらけのもの、イギリスみたいに廃止の方向に持っていけるといいですね。

20151010

日本のオーガニック給食の都市

【旧暦葉月廿八日 寒露 鴻雁来(こうがんきたる)】

私立幼稚園へのアンケートをもとに、無農薬の食材を使っている幼稚園のリストと、充実した情報をまとめた「ハッピーランチガイド」。グリーンピース・ジャパンが発行しています。


(幼稚園のリストが載っている完全版は、コチラから無料でダウンロードできますが、メールアドレスなどの入力が必要です。)

学校給食でも、子どもたちに安全な食べ物を食べてもらいたいという想いで、オーガニック給食を推進してきた自治体があります。

高知県の四万十市では15年以上も前から、学校給食に有機栽培の食材を取り入れてきたそうです。
(1) 一番大切なのは、市民が思いを伝えること。高知県・四万十市の食育
http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/blog/53548/
小学校の給食で、米の100%(完全米飯)と野菜の約30%が市内産の無農薬、減農薬農産物になっているとのこと。

将来、子育てするときのことを考えると、子どもの健康を本当に大事に思ってくれている都市は、定住を考える場所としてとても魅力的です。

愛媛県の今治市でも、地元の有機農産物を給食に取り入れる取り組みを始めているそうです。
(2)愛媛県今治市を訪ねて~その(1)有機の給食はこうして始まった
http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/1/blog/50300/
保護者の方々が粘り強く行政に働きかけを続けた結果、行政が動くことになったようです。成功事例として、行政担当者さんのお話が参考になりました。

鹿児島県の志布志市でも、平成25年4月から地元の有機農産物に切り替え始めているとのこと。
(3) 志布志市産有機野菜を学校給食へ
http://www.city.shibushi.lg.jp/docs/2013101000136/
農家の方がいらして、野菜についてお話しされるのもすてきだなーと思いました。少しずつ、広がっていくといいですね~。

(1)の記事で紹介されていた、この↓映画の予告編もとても考えさせられるものでした。



冒頭で紹介されている「今の子どもたちは親の世代に比べて健康的に劣るかもしれません」という科学者の指摘は、確かにそうかもしれません。私も食べ物を変えて、すごく健康になったので、気づいたときから変えても絶対遅いことはないとは思いますが、子どもたちにはなるべく、いいものを食べさせたいもの。そういう動きを応援したいなーと思います。

20151007

銀行の社会性を格付けした日本初のサイト "Fair Finance Guide Japan"

【旧暦葉月廿五日 秋分 水始涸(みずはじめてかるる)】

昨日、預金で世界を変えるにはどこに預けたらいいんだろうか?という話を書きました。そのなかで紹介したA Seed Japanのウェブサイトを見ていたら、こんな取り組みも始められていました。

銀行の社会性をまるっと格付け! Fair Finance Guide Japan
http://fairfinance.jp/

こんな感じで、点数が一覧になっています。



メガバンクだけでなくて、地方銀行やネット銀行にも評価が広がるとなおありがたいですね。

20151006

預金でも。望む世界をつくる選択

【旧暦葉月廿四日 秋分 水始涸(みずはじめてかるる)】

この記事を読んで↓

●「きれいな海を守りたい!」その一心で、米大手銀行から42億円を引き出したあるサーファーのすごい実話!

田中優さんの本『おカネで世界を変える30の方法』で読んだことを思い出しました。

銀行に預けたお金が、環境破壊や戦争に使われることがある。だから、どんなことに融資しているか、吟味して、よく考えて、預金をする銀行を考えないといけないよ、という話。

本をすぐに読めない方は、以下の記事が参考になります。

●私たちのお金を戦争に使わないで!NGOの提言にメガバンクが動き始めた!

●日本人の預金・税金が米軍の爆弾に変わっている!?
http://nikkan-spa.jp/699939
(日刊スパ!の記事です。グラビア写真とかあるので、リンクを開くときは注意してください。私は記事一つ一つ、記者さんの心意気の一つ一つを重視しているので、雑誌そのもののあんまりイメージは気にしていません)

グリーンなお金の使い方
(ブログ記事ですが、本の情報を基によくまとめてくださっています)

預金が国債購入に充てられて、戦争に行ってしまう可能性の高いゆうちょ銀行は、お金の送受信用だけにしています。原発産業に融資していて、クラスター爆弾に投資している可能性が否めない(回答を避けているので)メガバンクもお金の送受信用だけに使っています。

A SEED JAPANの情報箱にある、公開質問状への回答や、公開アンケートへの回答状況など、ものすごく参考になりました。

例えば2012年のがこれです↓
(未回答のところにはそもそも預ける気にならないですね)

東京に住んでいたら迷わず城南信用金庫にするところですが。メインバンクはどこにしたらいいのかな~。じっくり考えようと思います~。

20151003

前進あるのみ

【旧暦葉月廿一日 秋分 水始涸(みずはじめてかるる)】

ようやく心の整理がついたので、書きたいと思います。集団的自衛権の行使を容認した安保法案が、民主主義を無視して押し通されました。

詳しくはIWJの特集が充実していました。
●安保法制 緊急特集 〜対米「属国」戦争法案の正体

多すぎて読めないよ~って方はこれだけでも読んでもらえたら。
●マガジン9:戦争法案可決。あの日、傍聴席から見えたすべて。の巻

アメリカと違って、党の意見と個人としての意見が違う場合に個人としての意見を優先する議員が、日本はほとんどいないので、数に物を言わせてこうなるだろうということは予想できていました(でも、ここまでひどいとは思っていなかった!)。選挙に行く人も少ないし(行かない人が悪いんじゃなくて、選挙に行く意味がわからない状況になっているのが問題で、選挙権の重みがわかっている人たちは、選挙の意味を伝えていくことが大事だと思う)、主権者の国民が、権利と責任を放棄して、おまかせにしすぎてきた結果。おまかせする人が智慧にあふれた人徳者であればいいんだろうけど、実際はそうじゃない。残念ではあるけど、転んでもぱぱっとすぐに起き上がって、前を向いて、できることをやっていくだけだよね、と気持ちを新たにしました。

いい動きはいろんなところで起こってきているし、

●やべ~勢いですげー盛り上がるデモクラシー
http://oshidori-makoken.com/?p=1700
(スピーチ、めっちゃめちゃ感動しました。)

●自由と民主主義 読み学ぶ シールズが「選書プロジェクト」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015092702000128.html
(ここには上がってないけど、「社会の真実の見つけ方」もおすすめです。あと、今読みたいのはコスタリカの本。コスタリカは軍力を持っていないんだって)

●ママたちはもう信用しません!「国民の命を危険にさらす法案を米国の利益のために無理やり通した」安倍総理――「安保関連法に反対するママの会」廃案と賛成議員の落選運動に向け決意表明
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/266905
(ママたちの言葉とアクションが熱いです。うーん、母は強し。かっこいいなぁ)

●反戦 願い集めて 絵本「戦争のつくりかた」短編アニメに
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015100302000250.html

●<第13回>共産党の頭の切り替えと素早い行動を他の野党も見習うべき
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/164441

●【声明】安保法制の廃止を!安倍政権と自公勢力に打ち勝つ大きな動きを!http://greens.gr.jp/seimei/15760/

●安保法 違憲訴訟準備続々 慶大・小林氏や松阪市長ら
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015092002000118.html

命よりも金のために日本を戦争ができる国にしたい人たちは、平和と調和を求める人たちよりもずっと昔から、しぶとく行動してきたし、注いできたお金とか労力とか、エネルギーも彼らのほうがだいぶ前からかなり強かった。それに打ち勝つだけの平和と調和を求めるエネルギーが、日本にはまだ足りなかったんだと思います。

だけど、上にあげたような動きを見ても、声を上げる人は着実に増えてきているし、社会のことに目を向けて、主権を行使することが大事だっていうことに気付いた人が、またこの衝撃的な出来事で増えたと思います。60年代のアメリカの市民くらいに、ようやく日本の民主主義も追いついたんじゃないかな、そんな風に思いました。デモがカッコいい、自分のことだけじゃなくて社会のことに関心を持って声を上げることがカッコいいっていうふうに、意識が変化したような感じがしています。

歴史を振り返ると、日本人は民主主義、国民主権を、自ら抗って勝ち取ったわけではありません。欧米の人たちは、革命などを通じて、王権を明け渡させた(暴力手段をいいとは思わないけど)。力づくで民主主義を勝ち取ってきた。それに対して、日本の国民は、大政奉還の後の政府や、戦勝国のアメリカから、つまり上から与えられた民主主義だったから、民主主義の意味を本当には理解してこなかったんじゃないかと思います。

でも、民主主義を理解していない首相と、その首相を操っている勢力によって、民主主義が危機にさらされている今、何かから与えられたものだとしても、民主主義をいいと思うのならば、主権者としての責務を果たし、権利を十分に享受して、世の中をよくしていくことに、自分たちの望む世界を作るために、できることをやっていくしかないと思います。というか、できることがあるっていうのは希望だと思います。そういう人が増えていけば、世の中は絶対によくなるし、民主主義は絵に描いた餅から現実になっていくと思います。あきらめずにできることを地道にやっていきます。前進あるのみ。


20150917

Organic September

【旧暦葉月六日 白露 鶺鴒鳴(せきれいなく)】

9月はオーガニック月間なんだそうです。フェアトレードのピープルツリーさんのメールマガジンで知りました。

「オーガニック・セプテンバー」〜9月は、オーガニックを“食べる、飲む、使う、選ぶ”月間に(People Tree Fairtrade Style)
なぜオーガニックを選ぶのか?についてもわかりやすく書かれています。

9月は少し意識して、日常のなかでオーガニックのものを選ぶ割合を増やしてみませんか?という提案。イギリスでは、小売業者や農家の人々がオーガニックなものの良さを知ってもらうためのイベントを行うそうです。日本でもあると楽しそう。

オーガニックなものを1カ月試してみる、期間が決まっているとちょっとやってみようかな、という気持ちになりやすいような。身近なところから気楽に始めて見ると、気分や体の調子がよかったり、いい変化が訪れるかもしれません。そして同時に、つくる人や環境や社会にもいい影響を与えていくことにもなるというのは素敵なことですね〜。


20150911

最近気づいたこと

【旧暦文月廿九日 白露 草露白(くさのつゆしろし)】

生きているといろんな人に会うし、心の痛む事件や世の中の動きなど、心を乱されそうになることはいろいろあります。でも、わるいことをする人は、根っからわるい人なんじゃなくて、どこか癒されていない部分がある人なんだと、ふっと気づくことがありました。そうしたら、なんだか心が楽になりました。

「あんなやつは許せない!」とずーっと怒っていたり、憎んだりするんじゃなくて、「あの人もすっかり癒されますように。本来の自分が望むことを見つけて輝けますように」と、その人の問題を手放せるようになったからかもしれません。

だからといって、わるいことをする人たちの思うがままにされるということではありません。そのままにしていたら、私はずっと怒りにとらわれることになるし、相手のためにもならないことがあるからです。可能であれば、自分の希望をよーく話して変えてもらうこともあります。私の働きかけによって相手が変わることがまずないと思ったら、あるいは、働きかけをしたいと思えなかったら、離れることにしています。

「許す」というのは、ずっとよくわからなかったのですが、わるいことをなんでもしたい放題にさせるという意味ではなくて、自分のなかから手放すということかもしれません。allow to doではなくて、let goなのかも、と思いました。そのわるいことを手放す、解放することで、自分が解放されて自由になるということなのかもしれません。

怒りや悲しみ、憤りなどのいわゆる「ネガティブ」と形容される感情のことを、私はわるいものだとは思っていません。ずっとその感情に支配されて抜け出せずになるのは、しんどいし、不健康だとは思いますが、出てきた感情を素直に感じて、なんでそう感じるのかを考えてみることで、自分が本当に望んでいることがわかるようになる、「わかる」に近づけるようになるのだと思います。だから、大切に味わって、私は本当はこうしたいんだ、こういう人間になりたいんだ、こういう世界を望んでいるんだ、とわかることに近づけたら、そういう感情に感謝して次に進んで行きたいと思っています。

20150908

脳内変換

【旧暦文月廿六日 白露 草露白(くさのつゆしろし)】

「引き寄せの法則」の原典となっている本『引き寄せの法則 エイブラハムとの対話』の原書シリーズ(*)を読み始めた相方。「これはすごい法則や!」とやや興奮気味に読んだ内容を話して教えてくれます。自分が出した波動に合う波動のものが引き寄せられて現実になるという法則があるようです。

そういえば、私は「奥さん」と呼ばれることが移住するまではなかったので、名前も訊かれず「奥さん」で済まされるたびに「どうして一人の人間として扱ってくれないんだろう」「女は奥にひっこんどくもんってか…」みたいに、ものすごーく反発を感じていました。その頃は、本当に失礼なことを聞く人が現れたり、女だからとバカにされたり、「もう田舎なんかやだー!!」と思うようなことがよく起こっていました。

でもだんだん「奥さん」と呼ばれるのにも慣れてきて、「相手はそれ以外に呼ぶ言葉を持っていないんだからしょうがないかー」と、「奥さん」を「相方さん/お連れさん/パートナー」に脳内変換して聞くようになったら、気持ちが少し楽になってきました。そうしたら、不思議と、私を「お連れさん」「相方さん」と呼んでくれる人に会うことも出てきました。

「奥さんと呼ばれる」という思考に強いネガティブな感情を抱いていた頃は、その思考がたびたび現実となっていて、その後、「奥さんと呼ばれる」という思考には無感情になって、脳内変換で「相方さん、お連れさん」などと変換して晴れやか気分になっていたら、そっちが現実になるようになっていったという、これも引き寄せの法則にばっちし当てはまっているかもと思いました。

よく、怒りや心配、悲しみなどのネガティブな感情は良くないから出さないほうがいいみたいな論調がありますが、感情を押し殺しても、潜在的に残っているようでは、結局表出させているのと同じ結果を招くし、押し殺していることで増幅するようだともっと大きな力を持ってしまうようです。感情は自分が本当は何を求めているのかを知るためのセンサーとして役立てて、しっかりと向き合い、本当に求めていることがわかったら、そちらを選びとる思考をして、わくわく、うきうき、心地よい気分でいたらよい、ということで、なるほどー、奥が深いなーと思いました。

言われて嫌だな、と思っていることがあったら、こう言われたいな、と思うことに脳内変換してみることは、「引き寄せ」的には結構いいのかもしれません。

*原書シリーズは以下の通りです(日本語訳よりも原語のほうがダイレクトに伝わる感じがするので、英語が読める方には原書を読まれることをおすすめします)

The Law of Attraction: The Basics of the Teachings of Abraham

The Vortex: Where the Law of Attraction Assembles All Cooperative Relationships


Money and the Law of Attraction: Learning to Attract Wealth, Health and Happiness

20150825

豆乳を飲み過ぎるとあせもが出る?

【旧暦文月十二日 処暑 綿柎開(わたのはなしべひらく)】

今年の夏は、相方のあせもがひどかったです。珈琲とアルコール類、スパイス類をとると、てきめんにあせもがひどくなったので、やめました。それでも出るので、去年は落ち着いていたのになんでだろう?と、去年と違うことを挙げてみていたら、豆乳ヨーグルトを始めたので、豆乳を大量にとっていることが思い当たりました。豆乳ヨーグルトはいったんやめて、豆乳もやめてみると、2〜3週間くらいで症状が落ち着いてきました。

大豆は身体を冷やすとよく言うので、夏はとってもいいんじゃないの?と思っていたのですが、どうもアイスを食べたときと同じ身体の反応が起こるみたいです。ある日のこと、私はあせもがないので、あまっていた豆乳を水がわりにがぶがぶ飲んでいたら、汗が大量に出て、暑くて苦しくなりました。今日はそんなに暑いのか?!と相方に聞いてみると、「え〜今日はそうでもないで〜」という返事。気温が下がった夜も、私だけ汗をかき続けていました。

アイスなどの冷たいものをとると、内蔵が冷えるので、身体は身体を温めようとして、食べる前よりも暑く感じるようになるそうです。若杉ばあちゃんの本によると「大豆はその性、寒なり」と江戸時代の文献にあるそう。豆乳を大量に飲んだ私の身体の中がかなり冷えたので、温めなければ!と身体が反応して、ものすごく暑くなったみたいです。身体の熱がたまるとあせもが出るらしく、私みたいに汗をばーっとかける人はあせもにはならないけど、汗が出にくい人はあせもが出てしまうのかもしれません。

一個人の人体実験の結果なので、あくまでもご参考まで。豆乳ヨーグルトだったら大丈夫なのかどうかはまだ試していないのですが、発酵しているので、豆乳そのものよりは身体を冷やさないのではないかと思います。でも、まだよくわからないので、あせもがひどくなると恐いし、ということで、しばらく控えようと思っています。お豆腐はお味噌汁にして温めてから食べたら大丈夫でした。納豆も大丈夫そうです。

20150821

deep remorse

英語学習用の週刊の英字新聞の訳を作成するお仕事をさせてもらっています。今週のトップが、戦没者式典での明仁天皇のお言葉でした。記事では、「深い反省」(deep remorse)というお言葉がrare (まれだ)としか書かれておらず、「戦争をしない国 明仁天皇メッセージ」という本で、天皇のこれまでのご発言を読んだばかりだったので、「えー?これまでも何度もおっしゃっていたじゃないの」と内心ツッコミつつ、訳を書いていました。

調べてみたら、ほとんどの日本語の新聞でも初めてだ、としか書かれていませんでしたが、東京新聞の以下の記事ではきちんと、過去にも天皇が「深い反省」とおっしゃられたことに触れているだけでなく、ほかにも注目すべき部分も書かれていて、さすがは東京新聞!と思いました。

「大戦 深い反省」 天皇陛下 踏み込んだ「お言葉」(東京新聞 2015/8/16)

声なき人の心に寄り添うというお気持ちが貫かれていて、かっこいいなぁととても心を打たれました。

『政治のしくみがわかる本』(山口二郎・著)と『聞かないマスコミ 答えない政治家』(池上彰・著)を読んで

【旧暦文月八日 立秋 蒙霧升降(ふかききりまとう)】

最近読んでよかった本を紹介します。

●山口二郎さんの『政治のしくみがわかる本 (岩波ジュニア新書)

政治のしくみがわかる本 (岩波ジュニア新書)

政治の目的、民主主義とは何か、戦後の日本の政治の流れがわかりやすく書かれています。著者の静かな熱が感じられるところが、よくある解説本と違うと思いました。

20150818

『里海資本論』を読んで

【旧暦文月五日 立秋 蒙霧升降(ふかききりまとう)】

里海資本論』を読みました。

里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く (角川新書)

移住して身近になった瀬戸内海の取り組みが多く出てきたので、特に興味を引かれて購入したのですが、事例の紹介がとにかくおもしろい、わくわくするものばかりで、帯の推薦文の通り、希望がわいてきました。里山資本主義の焼き直しでは全くなくて、新しい内容が盛りだくさんでした。

20150815

戦後70年の日本で―中学生の会話と書店員さんの心意氣

【旧暦文月二日 立秋 寒蝉鳴(ひぐらしなく)】

最寄りの駅で電車を待っていたら、横に座っていた女の子が、お友だちの女の子と、こんな話をしているのが聞こえてきました。

「安倍晋三ってすごくね? だってさ、戦争しようとしてんだよ」
「◯◯くん(たぶん同級生の男の子)、俺も戦争行かなきゃいけないなんて、やだーって言ってた」
「私、これだけは女に生まれてよかったよ」
「えー、女は強制労働かもよ。『働け!働け!このメス豚どもが!』ってさ」
「命奪われるよりましじゃん」

20150812

堤未果さんの「社会の真実の見つけ方」(岩波ジュニア文庫)を読んで

【旧暦水無月廿八日 立秋 涼風至(すずかぜいたる)】

昼間は暑さで動けず、読書三昧の日々です。最近読んでよかった本を紹介します。
社会の真実の見つけかた(堤未果著・岩波ジュニア新書)

メディアに流されるとどうなるのかが9.11のアメリカを実例に克明に描かれた後、生の声と実体験をもとに社会の真実の見つけ方、そしてその活かし方が書かれています。希望が持てる本でした。

20150706

『チョムスキー 9.11』を観て

【旧暦皐月廿一日 夏至 半夏生(はんげしょうず)】

2003年に製作されていた『チョムスキー 9.11』というドキュメンタリー映画。

安倍政権が強引に集団的自衛権の行使容認について審議が進められるなか、6月16日から21日まで無料でYouTube上で限定公開されていたので、視聴しました。一緒に戦争をする可能性の高いアメリカが、どんなふうにして戦争を作ってきたのかを、知っておく貴重な機会になりました。

特に印象に残ったところを備忘録として残しておきたいと思います。あくまでも私の記憶なので、少し変わってしまっているところ、ニュアンスの異なってしまっているところがあるかもしれませんが、何もないよりは、何か考えるきっかけ、調べるきっかけ、行動するきっかけにつながったりもするかなーと思ったので、公開します。( )は私の感想・コメントです。

・知識人は事実を知りながら言わないようにしつけられている、このことは西欧や日本でも顕著。

・アメリカは石油に関心があるから戦争をしかける。(→『おカネで世界を変える30の方法』などでも読んで、よく指摘されることだけど、アメリカでもこう指摘する人がいるのかーと)

・国民を服従させるには恐怖を利用するのが最も簡単。ブッシュのスピーチライターが「悪の枢軸」(axis of evil)という言葉を作ったのは、国民の恐怖心を利用するため。(身近なところからも、あらゆる恐怖心を克服していくことが、ぶれずに平和を貫く第一歩かも)

・「悪の枢軸国」という言葉で、アメリカ人が思い浮かべるのは、第二次世界大戦中の日独伊の三国。三国あるとよりイメージが合致するので、イラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸国に仕立てあげた。北朝鮮との敵対関係を作ると、韓国と日本は困るが、アメリカが知ったことではない。

・「対テロ戦争」なんてものはない。アメリカが最大のテロ国家である。

・9.11の攻撃は、大変な惨事ではあるが、歴史上、新しいことではない。アメリカも同じようなことを他国でやっている。規模ではなく、どこで起こったかが、取り上げられ方を左右。

・世界の残忍で抑圧的な権力が、9.11の事件をいいように利用するだろうということは十分に予測できていた。(日本は平和憲法の改訂に向かうかもしれないとも指摘されていた)

・我々はみな、なんらかの形で戦争に加担している。自分たちの払った税金で、人殺しが行なわれている。

・中東の緊張緩和策として、国際機関の観察官(モニターと言っていた)を派遣し、卑劣な行動を監視する案を、国連にEUが提案。これは効果的な策だったが、アメリカが拒否権を発動してこれを阻止。(アメリカはやっぱり戦争したいのか)

・ブッシュの大好きな聖書にも「偽善者は、他人に適用する基準を自分に適用しない人だ」と書かれている。他国への攻撃はよくて、自分が攻撃されるのはだめ、と言うアメリカ。鏡に写った自分を見つめるのは難しいことだが、自分をしっかりと見ないといけない。

・それでも、過去よりも着実に、アメリカは良くなってきている。市民運動が大きく成長し、かつてほどの政府の蛮行が許されなくなってきている。
※この映画が作られた当時、南ベトナムにアメリカが戦争をしかけてからちょうど40年だった。30~40年でアメリカの市民運動が成長。当時は、女性と子どもが歩くだけの反戦抗議デモですら、缶やトマトが投げつけられた。抗議集会や講演などは開くことすらできなかった。反戦運動ができたのも60年代、環境運動ができたのも70年代。今では市民運動が政府の蛮行を許さないくらいに成長。これは大きな変化。(日本も、3.11をきっかけにようやく市民運動が芽生えたように思うので、30~40年でどう大きくしていけるだろうか)

・身近なことから変えていける。投獄されたり、暗殺されたりする心配もないアメリカで、可能性は無限大。何かを維持しよう、あるいは、何かを変えよう、とする行動は、それがモラルに基づくものであれば、人間の本質的な性質を引き出し、拡大し、表現する可能性を与える。

・アフガニスタンをアメリカとロシアが破壊した。攻撃するのではなく、賠償をすべき。

・メディアを政府がコントロールするのではない(アメリカの話)。メディアの決断。
※わかりやすい具体例:パレスチナの住民がイスラエルへの抗議として投石(インティファーダと呼ばれる)を始めた2日後、イスラエルはアメリカのヘリコプターでパレスチナ住民の制圧を開始。クリントンはもっと多くの軍用ヘリを送り、何十人もの住民を殺した。これを報じたのは、小さな町の新聞にあてた投書だけだった。政府に言うなと命令されたわけではなく、報じないことを決めたのは、メディアの編集者。(→情報の受け手が何を求めているか、どんなことを報じれば視聴率が上がるか、ということを意識している、ということなのかな?と)

・資本主義が完全に実現すれば、経済を破壊する。このことを資本家は知っていて、資本主義の完全な実現を求めてはいない。(→リーマン・ショックやサブプライム危機などが起こる前にすでにこの指摘がされていた)

内容が多岐にわたって、なかなか難しく、歴史が教えていることや、今の政治的指導者と、過去の政治的指導者とで、蛮行を正当化するのに利用する言葉の類似点など、具体的な事実までは覚えきれなかったのですが、歴史は確実に繰り返していて、まだまだ学んでいないことが多いんだなぁ、と思いました。時代は確実に良くなってきているし、私たちが社会を良くするためにできることは無限大だという、前向きに考えられるメッセージで、未来を明るく思い描けました。なにもかも、自分たち次第なんだと。

こんなに歴史的背景も含め、幅広い知識を整理して、いま起こっていることの背景を分析し、明快に説明できる人はなかなかいないと思います。日本の改憲の動きや、資本主義のことなど、予測がずばり的中しているものもありました。何をしていくべきなのかを知るために、何が起こっているのか、その原因やメカニズムは何なのかを知っておく必要がありますが、そうするためのかなり貴重な情報と洞察を提示してくれていると思いました。もっと勉強させてもらいたいです。素晴らしい学者さんだと思いました。

ノーム・チョムスキーの名を初めて知ったのは、大学で生成文法を習ったときでした。難しすぎてちんぷんかんぷんでしたが・・・。なので、チョムスキー氏=言語学者とインプットされていたので、社会のことについて鋭い批判をしているのを知ったときは意外でした。映画の最後で、なぜ言語学を研究しているのかを聞かれて、人間の高度な能力に興味があり、人間の能力を凝縮した領域の1つが言語だったと答えているのを聞いて、なるほどー、とぐっときました。ある哲学者(名前を忘れました)もモラルの根底にあるものは今でいう「生成文法」であると言っている、ある一定の制限のなかで自由に表現し、創造していく、と語られているのを聞いて、言葉を学んでいる者の一人として、うれしく思いました。言葉の奥深さがますます好きになりました。

映画の構成についてですが、ある程度知識レベルの高いアメリカ人にとっては常識なのだろうけれど、日本人にはぴんと来ない歴史的出来事や、他国との関係などが次々出てきていて、再生を一旦停止しながら、ネットで検索しつつ、視聴しました。欲を言えば、日本人向けに、背景の解説がコンパクトにわかりやすく適宜入っていると、すんなり理解できていいのだけどなー、と思いました。やや消化不良な感じなので、時間を見つけて、ほかの映像や本などでも勉強したいと思っています。

20150621

我の拡張

【旧暦皐月六日 芒種 梅子黄(うめのこきばむ)】

ああしろ、こうしろ、と、相手の考えや状況、背景、事情を聞かずに、指図をする人がいる。私はそれをしてほしくないと言っているのに、「私が○○してやる」としつこく親切の押し売りをしてくる人がいる。

こういう人に困っている話をすると、それは私への「愛」だと、だから「感謝しろ」とよく言われる。言われるたび、「そうかなぁ?」と違和感を感じてしまう。

「愛」とは違う感じがして、どちらかと言うと「征服欲」に似ている気がするが、「愛」ではないと言い切れなくて、ずーっとモヤモヤしていたら、しばらく経ったある日、ふと「我(ガ=ego/self)の拡張」という文字が頭の中に浮かんできて、「ああ、そうか!」とすっきりした。

「我の拡張」と「愛」とは明確に区別しなければならない。

「愛」が何なのか、まだすべてがわかったわけではないが、少なくとも「愛」ならば、相手の自由を侵すものではない。相手の思考の自由と行動の自由を押さえつけたり、妨害したり、萎縮させたりするものではない。そうでなければ「我の拡張」である。

「我の拡張」とは何か。自分が自分の意志によって好きにできる領域を「我」と定義するならば、その領域を他者の「我」の範囲にまで拡張することを、私は「我の拡張」と考える。自分の「我」を大切にしたいのと同様に、相手にも「我」がある。自分の「我」、すなわち領域を大切にされたいのと同様に、相手も相手の領域を大切にしてもらいたいと考えている。これを侵す過度の親切、助言、忠言、命令は「我の拡張」でしかない。

具体例を一つ挙げると、私に法律上の結婚をして相方の苗字に変えろと言ってきた人があった。彼は初対面の人間で失礼極まりない話なのだが、私は自分の苗字が好きであるし、戸籍の名前と仕事の名前が異なるのは仕事上ややこしいし、現状の法律婚という制度には満足がいかないし、どちらの両親もそれで納得しているし、変えるつもりはないと言った。すると、彼は相方に矛先を変え、それなら相方が私の苗字に変えろと言った。私が自分の苗字が好きで変えたくないのと同様に、相方も自分の苗字が好きであるから、自分がしたくないことを相方にさせる道理はない。私は彼にそう言ったのだが、入籍時に新しい苗字を作った知人の例を引き合いに出して、同一の苗字にすべきだと言い張り、そう思う根拠を述べなかった。

私の名前というのは、私の「我」の領域に属するものなので、わかりやすい例だと思う。彼は「夫婦が同じ苗字を名乗ること」をよいものと思っている。根拠はあるのかないのかわからない。彼がよいものと考えるものは彼の「我」の領域に属するものである。これを私の領域に拡張して、私の名前を変えさせようとしたのである。これは「我の拡張」にほかならない。

これがもし、「愛」に基づいた助言であれば、例えば、事実婚にしていて困ったことが起こった人の事例など、私が持っていないかもしれない判断材料を与え、判断は私に任せるはずである。我の領域を明確に認識し、言い換えれば、あくまでも決める権限があるのは「私」であるという認識があり、私を納得させるような、私が行動を変える気になるような、根拠や理由、それを支える事例や事実を提示するのが、「愛」に基づいた助言である。

助言に当っては、領域を明確に認識しておかなければならない。私はこう考える、あなたはこう考える、違っていてもそれでよい。一つに統一する必要はない。どちらかが正しいと決める必要もない。同じ行動をとらなければならない場合など、例外もあるだろうが、基本的には、お互いの違いを認め合うことができればそれでよいのだと思う。(余談だが、Mr. Childrenの「掌」にもこのことが歌われている部分があり、辛いときはこの曲を聞く)

我の拡張は、同族意識にも見受けられることがある。自分が属している集団、自分が親しみを持つ人間、自分がよしとするもの、これらを他人に認めさせようとしたり、これらと異なる考え方や意見を悪いものと決めつけて合わせさせようとしたり、といったことである。

先日、おもしろいことをしている知人の話をある人に紹介する機会があった。彼女は似たようなことをしていると、彼女の友人の話をした。私はその素晴らしさを認めた上で、彼女の友人の今後の参考になればという気持ちもあり、知人の具体的な取り組みを紹介した。すると彼女は、私の知人の良い点には全く興味を示さず、自分の友人のほうが、私の知人よりもいかに優れているかを滔々と話し始めた。終いには「絶対に私の友だちのほうがおもしろい、なんでそう思わないの?」と言うのだった。

これは、彼女の「我」の領域を、彼女の友人にまで拡張した事例である。自分が同族意識を感じている人物を、私に認めさせたいというその気持ちは、自分が認められたいと思うのと同程度になっていて、自分と友人の領域が統合されている感じがした。問題なのは、彼女がその友人の領域に自分の「我」の境界線を重ねていても、その友人が彼女と領域を同じようには感じていない可能性があることだ。そんなふうにされたら、その友人自身は迷惑を感じる場合もあるだろう。なかには「自分はこんなに友人のことを賞賛しているのに、彼女は私のことを私ほどは賞賛してくれない!」と怒る人もいて、二者間での我の領域のズレやひずみがこうした形で生じるのだと思う。

彼女の場合は、自分がひいきにしている店や、続けている習慣、食べ物の好みなどにも、我を拡張しているようで、彼女が好きそうな店を紹介しても、関心のありそうな健康や食事の話題を提示しても、先の知人に対してと同じように、いかに自分の知っているもののほうが優れているかを語るので興味深かった。彼女の好きなものを「知ってる?」と聞かれて、私が「知らない」と答えると、「なんで知らないの!信じられない!」と怒られたのにも仰天した。

自分が親しみを感じる人やものを他人にも同じように認めさせたいという欲求を、その人が親しみを感じている人やものに対する「愛」であると主張する人もいる。しかし、これは全く別のものである。所有欲求や征服欲求に近いものであって、「愛」ではなく、「我の拡張」である。あるいは、自分がいいと思うものを相手にも知ってもらいたいという相手への「愛」であると主張する人もいる。だが、もしこれが「愛」であれば、自分が良いと思っていること、大切に思っていることを知らせるのみで、相手に認めさせる、相手の行動を変えるように指図することまではしないはずだ。

我の拡張をしてくる相手が、自分の領域を侵すのを許してはならない。「愛」と勘違いをして受け入れると、どんどんアイデンティティを蝕まれる。自分を通すことが、信念を通すことができなくなってくる。自分がどんどんわからなくなっていく。エネルギーを吸い取られて、しぼんでいってしまう。「自己」もしくは「個」を失う恐れがある。もちろん、逆も然りで、助言や手助けをするときには、自分も他人の領域にまで我を拡張してはならない。

「我の拡張」と「愛」は、明確に区別されなければならない。

20150615

お医者さんが書いた『医者いらずの食』という本

【旧暦卯月廿九日 芒種 腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)】

ビレッジバンガード系列のNew Styleというお店に、ベジタリアンだったり、マクロビだったり、オルタナティブ系な暮らしの本と品物の特集コーナーができていました。イオンの中にあるお店で、こんなにコアな本が並んでいるとは、とちょっとびっくり。ひときわびっくりだったのがこの本で、連れて帰ってきました。

医者いらずの食 (veggy Books)


20150516

沖縄の枯葉剤のこと

先日翻訳した記事で、沖縄の枯葉剤のことを知りました。その記事は、ジョン・ミッチェルさんというフリージャーナリストの方についての記事で、沖縄も残っているとされる有毒な枯葉剤「エージェント・オレンジ」についてと、米軍基地をめぐる問題について長年報道をしてきたことで、報道の自由推進賞を受賞されたそうです。

20150212

海外では「イスラム国」とは呼ばない

ちょっとドタバタしていて、更新が滞っていてすみません。。。すぐにお伝えしたいニュースが飛び込んできたので、引用とともにお知らせします。「イスラム国」という呼び名についてです。

人と人が国境、宗教、考え方の違いを受け入れて、お互いを尊重し、調和を築いていくことを願い、その願いのもとに行動し、命を落としてしまった志ある方々の死に、心を痛めています。しかしながら、「イスラム国」という名前、新聞等で見かけるたびに、どうにかならないんだろうか、イスラム教を信じる他のまっとうな人々が迷惑するだろうに、と思っていたのですが、海外の報道では「イスラム国」とは呼ばれておらず、この過激派組織が名乗る省略名称の「ダーイッシュ」と呼んでいるそうです。

以下に引用します↓
この過激派組織はアラビア語で「الدولة الاسلامية في العراق والشام‎= ダウラ・アルイスラーミヤー・フィー・アルイラーク・ワッシャーム」であり、その省略形は「 داعش=ダーイシュ」です。
アメリカ軍は昨年の暮れに、この過激派組織を「ダーイシュ」と呼ぶよう公式に発表しました。
フランス政府も昨年9月、「ダーイシュ」の名称使用を決定しています。
海外では、上記アラビア語の英語訳「Islamic State of Iraq and Syria」の省略形である「ISIS=アイシス」や「Islamic State of Iraq and Levant」の省略形である「ISIL=アイシル」を用いるメディアもまだ多いようですが、日本のように「イスラム」を連呼することはありません。
日本においても自民党や外務省が「イスラム国」という名称をやめ、「ISIL」の呼称に統一したことに基づき、各報道機関においても名称の変更がされるべきであると考えます。
日本の皆さま、どうか「イスラム国」という名称の使用中止をお願いいたします。
引用元:Change.org 「イスラム国」という呼称の使用を中止するよう求めます!

すでに、モスクやイスラム教の信者の方々に日本人からの嫌がらせも発生しているそうです。恥ずかしいことですが、この「イスラム国」という配慮のない表現の垂れ流しもまた、こういう短絡的思考の人間の暴力を増長させているということもあると思います。

イスラムの教えを信じるまっとうな人々が、一部の過激な人たちのせいで偏見にさらされることは、平和からは遠いことだと思います。それに、自分の信じている宗教が過激派の名前として連呼されるのは、信じている人の立場になったら、きっとつらいことだと思います。私もこの呼び名はやめてもらいたいなぁと思いました。

20150131

人+良=食

【旧暦師走十ニ日 月齢 10.6 大寒 鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)】

中国の山奥で仙人のような暮らしをしている人だったか、自然とともに暮らしている先住民だったか、どちらか忘れてしまったのですが、そうした人々は身体の微妙な変化に敏感で、現代人であれば気づきもしないような不調の段階で身体を治してしまうという話を聞きました。そういう人たちにとって、風邪なんていうのは大病で、現代人のほとんどが病人に見える、と聞いて、とても興味深く思いました。

20150130

『里山資本主義』を読んで

【旧暦師走十一日 月齢 9.6 大寒 鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)】

相方が先に読んで、内容を聞かせてくれて、読んだ気になっていた里山資本主義をようやくきちんと読みました。とてもいい本でした。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)
「遅れている」と思われている田舎に、「進んでいる」と思われている環境先進国から視察が押し寄せている様子など、なんもない、と思われている田舎に、明るい未来のヒントとなる取り組みがすでにあちこちで芽吹き、着実に大きく広がろうとしていることが描かれていて、希望が湧いてくる内容でした。

想定される(もしくはすでに上がった)反論にもデータや証拠を持ってきちんと反駁していて、多様な考え方の人たちとの意見交換にも役立ちそうだと思いました。マネー資本主義のなかで忘れてしまった、自然とのつながり、地域とのつながり、人とのつながりをもう一度取り戻すことで、安心して暮らすことができるのだということが、実例と共に論理的に書かれています。

個人レベルでは、なにも戦前の暮らしに戻せというのではなく、手間と時間をかける暮らし、自然の恵みを大切に使わせてもらう暮らし、人とのつながりを大切にする選択を少し取り入れるだけでも、セーフティネットとなり、安心感がぜんぜん違う、といったことが述べられていますが、私もそういう暮らしをしはじめて、確かにそう思います。

庭の手入れをして出た枝や、葉っぱを燃やして、煮炊きしたり、焚き火をしながら火消し壺で炭を作り、火鉢で使って暖房と調理に使っています。でも、100%ではありません。急ぐときはガスも使います。野菜や米を育てて食べていますが、自給率は100%ではありません。買ってくるほうがまだ多いくらいです。

でも、少し薪を使っているだけでも、いざ、ガスも電気も使えなくなったときに、どうしたらいいかがわかり、安心感が全然違います。薪と鍋と水があればお米をおいしく炊くことができるようになったからです。野菜も米の自給も、いざとなれば2人で食べていくくらいはなんとかなるでしょう。種さえまけば、土は無尽蔵に栄養を与えてくれます。種をまかなくても、食べられる野草とその食べ方を知っているので、お金を出しても食べ物が買えなくなったとしても、栄養を得ることができます。その安心感は、あるのとないのでは全然違います。東京で震災を経験し、お金を出しても電気が使えない、物流がストップしてお金を出しても食べ物が手に入らない、という状況を味わったこともあり、なおさらそう実感しています。

これまで、環境意識の高い人がこういった本を書くことは多かったと思いますが、経済を専門に仕事をして来られた方がこうした本を書かれるというのは、時代も変わってきているのかも、と思いました。自然と調和して暮らす、ということが、立派な心がけ、はたまた、ストイックな人のやる過激なこと、というふうに思われる時代はもう終わりつつあり、そういう暮らしをすることは自分たちの暮らしを存続していくために必要不可欠なこと、経済を良くしていく鍵となること、人生を豊かにしてくれること、という自分のためのこと、自分たちのためのこと、と見なされてきているのかな、と思いました。また、こうした本が、大手出版社から出され、広く社会に受け入れられ、長い間よく売れているということにも希望を感じます。
) 関連記事
20150818『里海資本論』を読んで

20150125

天ぷら油で車が走る

【旧暦師走六日 月齢 4.6 大寒 水沢腹堅(さわみずこおりつめる)】

ディーゼル車の燃料に近所から集めた天ぷら油を精製したものを使っている人を身近でも5人知っていて、天ぷら油で車を走らせることが可能なことは知っていました。

日本でもあちこちでディーゼル車を天ぷら油で走れるように仕様変更するワークショップが開かれています(例:「天ぷら油」でクルマが走る!)。

燃料のためだけに作物を栽培するバイオ燃料は、投機対象になって穀物価格が高騰し、飢餓につながったことがあったので、両手を上げて賛成はできないのですが、そのまま捨てるとゴミになったり、水を汚したりする使用済みの天ぷら油を、精製して利用することはいいことだなぁ、広まるといいなぁ、と思っていました。

個人としてやる人はいても、企業としてやるのは難しいのかなぁ、と思っていたら、熊本県に、天ぷら油を軽油並みの品質に精製している会社があることを知りました。

◆自然と未来株式会社
http://the-earth.org/

自然と未来社のことは、こちらの記事で知りました。

●廃油を洗う「第二のくまモン」
http://www.lg-ppp.jp/?p=8140

状態を見ながら丁寧に丁寧に精製していき、品質は世界一とも言われているそうです。熊本県内のゴミ収集車や私立大学のバス、重機などに利用されています。同業者からせっかく精製した油を抜き取られるなど、とんでもない苦労もたくさん乗り越えて、地道に賛同者を増やしていく姿にとても感動しました。

この↓部分にもはっとさせられ、
環境問題が世間で騒がれるたびに、気にかかっていた。「でも、自分が何かできるとは思っていなかった。経済の中心にいる人たちが何とかしてくれる、と」。しかし、いつまで経っても、良くなる兆しはない。
自分にできることをハチドリのひとしずくのようにコツコツやっていきたいな、と思いました。

20150124

生活保護のこと

【旧暦師走五日 月齢 3.6 大寒 欸冬華(ふきのはなさく)】

昔、生活保護をもらう人のことは、働く能力がないなんて自分が悪い、生活保護をもらうなんて恥、みたいな、弱肉強食的な考え方を持っていた。今思えば、全然実情がわかっていなかったのだと恥ずかしい。

昔、まだテレビを見ていた頃、生活保護の不正受給の話をよくニュースかなにかで見たせいかもしれない。実際には、不正受給は1%にも満たない(日弁連:「今ニッポンの生活保護制度はどうなっているの?」)。本来、救済されるべき人が責められ、救済されなければならない人を救済するのが職務のはずのケースワーカーまでが嫌がらせをするとも聞く(ダイアモンド・オンライン:不正受給問題であたかも犯罪者扱い!?生活保護受給者が脅える凄惨な仕打ちと悲惨な日常)。

相方がビッグイシューのインタビューで読んだ話を教えてくれたことがある。そのインタビューを受けていた人は、青山の路上でビッグイシューを売っていて、お会いしたことがある。とても素敵な人だった。まっすぐで真摯な印象を受けて、どうしてこんないい人がハウスレスになってしまったのだろう、と不思議に思うほどだった。

その人は、お店を開こうと資金を貯めていたのだが、一緒にお店をしようとしていた友人が、いざお店を開く段階になって、資金を全部持って消えてしまったのだそうだ。警察に訴えるなりして、友人を捕まえて、資金を取り返せば、その人はハウスレスにならずに済んだだろうが、そうはしなかった。友人を犯罪者にすることができなかったのかもしれない。私ももしそういうことになったら、訴えることができるかどうかはわからない。

去年12月の衆議院選のときに、こんな記事も読んだ。
東京新聞:千円ぜいたくも我慢 衆院選 生活保護、最大の削減幅
ガンになり、治療費のためにした借金を返せなくて自己破産。今もガンに苦しみ、働くことはできない。病気に絶対にならないなんて、誰が言えるだろう?

努力次第で何でもできるなんていうのは、傲慢な考え方なのかもしれない。日本の社会は失敗が許されないような、一度失敗すると戻ってくるのが難しいような、そんな窮屈な世の中のように思う。だから不運にもブラック企業に勤めてしまい、自殺を考えるほどでも、会社を辞めるという選択肢を取れない人が多いのかもしれない。一回コースを外れてしまうともう社会生活が営めないような恐怖があるのかもしれない。自分が満足に生活できているのはたまたま運がいいだけで、不運にも病気になったり、事故にあったり、だれかに騙されたり、勤務先が突然倒産になったり、危ないことがあるかもしれない。それを自己責任で片付けるように手懐けられて言われるがままにしていては、自分がいざ躓いたときに、自分の首を締めることになる。

保険会社に保険料を払う。病気になったり、事故にあったら、保険会社から保障を受ける。それは当然のことだと思われている。国に税金を払う。会社が倒産した、事故にあった、病気になった、などで、生活が危うくなったら、国から保障を受ける、これはどうして当然のことではないのだろう?

この話を、昨年2月の東京都知事選のときに見た対談のインターネット中継で聞いて、確かにそうだなぁ、と思った。こういうことを学校では教えてくれない。生活保護は、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を保障するための制度同じ対談での、生活保護の申請の仕方を学校で教えるべきという意見に本当にその通りだ思った。

20150122

Facebookについて

【旧暦師走三日 月齢 1.6 大寒 欸冬華(ふきのはなさく)】

Facebookのプライバシーポリシーが1月1日から改訂になり、OSやら、端末内のファイル名やら、なんでそんなものまで?と思うものの情報収集をするというので(コチラのページの「ディバイス情報」を参照。ユーザーの同意に基づき、とあるものの、何をもって同意したと見なすのかは謎で)、フェイスブックになんだかモヤモヤ思うことも多々あったので、100%好きなわけでないし、退会してもいいかなぁ、そのほうがすっきりするかなぁ、と先月から考えていました。

話す機会があった方にはFacebookやめようか検討していて、と話していたのですが、今のところ、Facebookしか連絡先がわからない方もいるので、アカウントを残すことにしました。気になることはいろいろあるものの、メリットのほうが少し多いかなとも思ったので。ただ、これまで通り、ニュースのシェアや、社会活動にしか使わないことにしています。「知人がフェイスブックで放射能関連の情報を流していて、食べ物に気をつけるようになって」などといった声を聞くことがあり、だれからも反応がない状態でも(気にしていませんが)、役に立っていることがあるらしいことを知りました。

近況などは、これまで通り、ブログに書いていきます(ブログをメインにした経緯)。理由として、フェイスブックをしていない友人が多いこともあります。フェイスブックにリンクを載せることはしません。フェイスブックだと、私の書いたものが見たくないタイミングで目に入ることもあるでしょうし、載せるとなんとなく「いいね」を期待してしまう自分に嫌気がさします。そういえば、あいつどうしてるかな?と思ってブログを訪ねてもらうくらいのほうが、より自然なコミュニケーションのような気がします。フェイスブックは、ソーシャルな活動には使いやすいのですが、パーソナルなコミュニケーションの場として使うには、ダイアローグとモノローグの間を彷徨っているような、あてどのなさを感じます。

連絡手段としては、Facebookしか連絡先がわからない方には連絡用に使わせていただこうと思いますが、メールアドレスや住所のわかる方にはそちらで連絡させていただきます。Facebookでメッセージをいただいた場合は、あまりログインしていないので、お返事が遅くなることがあります。できれば、メールでご連絡いただけたほうがありがたいです。

フェイスブックをやめたいなーと思っている人も結構多いようで、90日間ログインしないとどうなるか、という社会実験みたいなものも見かけました。私自身は、1月に入ってから、ニュースサイトなどのシェア機能でシェアやリコメンドをすることはあっても、フェイスブックのページ自体はほとんど開けていません。そうしたら、自分がやるべきことに集中できている状態で、人の目が気になってモヤモヤすることもなく、だれか1人の人に集中して手紙やメールを書いたりする時間もでき、取り残されている感でさみしくなるかと思いきや、かなり快適です。どうしてるかなぁ?と思う人の投稿が見られないのはちょっとさみしいですが。連絡したい気持ちが強くなるので、それもよいかもしれません。

辞めたくなった方は、こちらに辞め方が書かれていますので、ご参考までにどうぞ。退会の方法は結構わかりにくいみたいです。

●フェイスブックの退会方法
http://nanapi.jp/25829/

20150113

中洞牧場の山地酪農

【旧暦霜月廿三日 月齢 22.1 小寒 水泉動(しみずあたたかをふくむ)】

幸せな牛からおいしい牛乳」を読んで以来、なるべく、幸せな牛の牛乳を買うようになりました。

山地酪農は牛たちもいきいきと暮らすことができ、日本の風土に合ったすばらしい酪農方法です。それを取り上げたNHK BSの番組がYou Tubeで見られるようになっていたので、ご紹介します。35分の映像です。



普通の牛乳は驚くほど安い。安いのにはやっぱり理由があって、牛の健康や飲む人の健康や味よりも、いかに効率よくお金に換えるかが追及されているからです。牛がせまくて汚いところに閉じ込められて、本当は好きな草を食べさせてもらえずに、遺伝子組み換えの穀物を食べさせられているかわいそうな牛でないことがわからない牛乳は避けるようになりました。

お金を払うということは、その商品を、その取り組みを「支持します」というメッセージだと思うので、毎日が投票行動だと考えて、なるべく支持できるものだけにお金を払うようにしています。少しでも、毎日の買い物で意思表示をして、世の中を良くしていけることは希望だと感じます。まずは知ることが第一歩だと思うので、少しずつ勉強を重ねていきたいと思っています。