20160917

怒りの矛先を間違えない

うちはほぼ玄米菜食で、私は野菜さえあれば満足なのですが、相方がときどき、スーパーなどで魚を見ると食べたがります。漁港直送の新鮮な珍しい魚が近所のスーパーでも並んでいておいしいので、無理もありません。

しかし、海にも放射性物質は垂れ流されつづげているし、空気中に飛散し続けている放射性物質も雨になって降り注ぎ、川をつたって入り込むものもあります。魚は生き物なので、捕獲されたのが他県でも、泳いできた場所によっては放射性物質を取り込んでいる可能性もある。検査もきちんとは実施されていないので、相方は魚を食べたいけど、放射能汚染を心配しています。私は魚を食べなくても平気なので、放射能汚染の心配をしてまで魚は食べなくてもいいのですが…。

相方は、スーパーに行くと、魚コーナーに必ず寄り、いい魚ないかな~と物色します。私はそんなに食べられないのですが(少しで満足してしまう)、放射能汚染の心配のたぶん少なそうな日本海側や南のほうのお魚を一緒に探して、よさそうなのを見つけると相方に教えます。

tom-tom:これ、おいしそうだよ~
相方:うーん…
tom-tom:こっちは?
相方:うーん……
tom-tom:私別に食べなくてもいいんだけど…
相方:うーん、おいしそうなんやけどね、この魚、泳ぎまくるんかな?

放射能汚染が心配で、どこを泳いできた魚なのかが知りたいということです。

私は魚を食べなくても平気なので、魚を見に行く必要は全くないのですが、相方が食べたいと言うから一緒に探しているのに、毎回このやりとりになるのは、たまにイラっとすることもあります。「あんたが食べたいって言うから見に来てるのに毎回その質問。そんなん言うんやったら魚らてもう食べんかったらええやろ。魚博士になってから食べたらええわ」とブチ切れてしまうこともたまに…。

でも、わるいのは相方じゃないんですよね…。相方が放射能汚染を撒き散らしているわけではないのですから、相方に怒りを向けるのは矛先が間違っています。

相方の心配はおおげさではありません。海外では日本の海産物を輸入禁止にしていたり、輸入する場合は放射能検査を要請または自国で放射能検査を実施している国もあるほどです。秋田で放射能検査を個人で実施して情報公開をしてくださっている「べぐれでねが」さんの調査では、静岡県の沼津で水揚げされ、外食産業などの業者向けに普通に販売されていたアオザメから放射性物質が707ベクレル(ちなみに日本の現在の基準は100ベクレル)検出されたということです。

目に見えない放射能をばらまいているのは東京電力と、一緒になって原発を推進してきた政府。そしてその政府をつくった原因の一つには有権者が無関心を続けてきたことがあります(もちろん、国民が関心を持たないように仕向けてきたというのもありますが)。怒りを向けるべきは、そっちなのです。

放射能汚染のない食べ物を安心して食べられるようになりたい、世界から原発をなくしたい。その願いを持っているのなら、むしろ、相方はその仲間。その相方にブチ切れるのは、怒りの矛先を間違えています。

こういうことが、一般にも広く見受けられます。同じ願いを共有して活動している仲間なのに、努力が足りないとなじったり、足を引っ張ったり、けなしたり、意見や考え方がちょっと違うだけで誹謗中傷を浴びせたり…。自分が望む現実をつくっていくためには、理想を共有する仲間に、短絡的な怒りをぶつけるのではなく、同じ方向を向いて協力できるように努めることが大切だと思います。

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20160916

沖縄・高江のドキュメンタリー映画『標的の村』(三上智恵監督作品)を観て

沖縄の高江に国が強行的に建設を進めようとしているアメリカ軍のオスプレイパッドの問題を克明に描いたドキュメンタリー映画『標的の村』を観てきました。

◎解説はこちら:http://www.hyoteki.com/introduction/

オスプレイパッドに反対している人たちは、過激な人たちでは決してありません。私たちと全く同じように、ただ平穏に、普通の暮らしがしたいだけ。映画に登場するUAさんの歌にも「オスプレイはいらない 静かに寝たい」という歌詞が出てきます。

また、高江は自然が豊かな森です。映画には珍しい亀が姿を見せていましたが、命の溢れる森です。ここで、子どもたちは自然と遊び、大人たちは農業を営んだり、カフェを開いたり、木工職人をしたり、自然とともにある暮らしを営んでいる心の穏やかな人々が、自然と人間らしい暮らしを守るために、座り込みをせざるを得ない。

オスプレイは事故が多く、アメリカでは国民の反対で飛行訓練ができません。ハワイではコウモリの生態に悪影響を与えるということで、オスプレイ演習が禁止されていますが、沖縄では低空を米軍機が飛び回っています(*)。沖縄だけでなく、日本全国の上空にはアメリカ軍は自由に飛び回ることができるゾーンがあり、愛媛の伊方原発のすぐそばに米軍機が墜落するというぞっとするような事故も過去に起きています(原発を標的にした攻撃訓練をしていた可能性が高いそう)。アメリカ軍が日本の上空を飛び回れることは『日本はなぜ、基地と原発を止められないのか?』にわかりやすく書かれています。
*参照:高江ゲート前に1600人が集結!参院選で当選した伊波洋一議員も駆けつけ怒り!「ハワイではコウモリのためにオスプレイの演習が禁止されている。沖縄県民はコウモリ以下なのか!」 (IWJ 2016.7.21)
説明会を開いてくれと求めても応じず、建設に反対する申し入れをしても無視され、選挙で民意をこれでもかと言うほど示しても全然ダメ。座り込みをして身体を張って止めるしかないのです。痛いし、怖いし、仕事や日常生活にも支障が出るし、本当はこんなこと、だれだってしたくない。映画に登場する市民はみんな、やりたくないけど、やるしかないから、こんなことしなくちゃいけない、と言っていました。本当に悲しいことです。

非暴力で沖縄を守ろうと身体を張っている市民を、沖縄の人たちを守るのが本来の仕事のはずの、沖縄県民の税金で雇われている警察官や、国民を守るのが本来の仕事のはずの機動隊が、暴力的に排除する。それを見て、アメリカ軍の兵士はおもしろそうに笑っている。「なんなの、これ? これが日本なの? どうなってるの?」と本当にやるせなかったです。

座り込みをして建設に反対していた市民が、国から「通行妨害だ」として訴えられます。本当に汚い。このように、政府などの権力者が市民に自主規制をさせるために訴訟を起こすことはSLAPP(スラップ)訴訟(*)と呼ばれ、司法が国民をだまらせるのに悪用されるという理由から、アメリカでは禁止されている州もあるそうです(以下によると50州中25州→SLAPP訴訟被害者連絡会)。

*SLAPP=strategic lawsuit against public participation[直訳:市民参加を排除するための戦略的な訴訟]の頭文字を取ったもの

映画に出てきた国によるSLAPP訴訟では、現場には一度も行ったことのない7歳の少女までもが被告にされていました。その子の両親は反対運動に参加していましたが、彼女は1回も現場に行ったことがありません。「国に歯向かうとこうなるんだぞ」という見せしめのためにこんな小さな子まで訴えるなんて正気でしょうか? こんな恐ろしい脅迫、まともな人間のやることとは到底考えられません。「私も牢屋に入るの?」とその子はとても不安そうでした。

このSLAPP訴訟を、アメリカのように禁止にすることは、どうしたらできるのだろうか、本当に知りたいと思いました。選挙で民意を示してもダメ、非暴力の抵抗も国による暴力で排除され、裁判でひきずりまわされる、本当にどうしたらいいんだろう。何ができるんだろう。根本的な原因はどこにあるのだろう。私はどうしたらいいんだろう。

この映画は2012年に公開されたときに、知人が見て「3年分くらい泣いた」と言っていて、ものすごく見たかったのですが、東京では結構いつでも見れてしまうため、そのうち、そのうち、と思っているうちにチャンスを逃してしまっていました。今月、近くの市民の方が、自主上映会を開いてくださり、ようやく念願が叶って見ることができました。

念願ではあったのですが、受け止めきれるだろうか、という不安もありました。これを見て、私、立ち直れるんだろうか、という不安があったのもあって、東京時代はズルズルと後のばしになってしまったというのもあります。

すでに沖縄の状況はフリージャーナリストの方々や、現場の方々のSNS投稿などで追っていたので、覚悟はできていましたが、やっぱり、しばらく、ずーん・・・と心が痛くて、痛くて。

この映画で起こっていることは2012年の状況でしたが、それから4年経っている2016年の今になっても、状況は変わらないところかますますひどくなっています。私は、映画の間だけで、90分間だけ、このつらい現実が目の前からは見えなくなって、楽しいことにうつつを抜かしたりできるけれど、沖縄の人たちはまだ続いていて、先の見えない戦いを強いられている。こんなにつらい現実のなかで、まだ幼い子どもたちも、希望を捨てずに、「オスプレイがこれ以上こないようにがんばる」「お父さんとお母さんが疲れちゃったら代わってあげられるようになりたい」と、やんばるの森を守る気持ちをしっかり持っているのを見て、本当に文字通り、涙が出ました。私はほとんどなにもできなくて本当にごめんなさい、どうしたらいいんだろう、何ができるんだろう、そんな想いがうずまいていました。

受け止めるにはつらすぎる現実ではありますが、これが日本で起こっている現実なんだ、と、国民の一人として、絶対に知っておかなければいけないし、沖縄で起こっていることは、今の政治の状況では、日本のどこでだって起こりうることなのだから、知っておくことができてよかったと思いました。

沖縄の高江で起こっていることについては、監督のコラムが充実していますので、ぜひ、読んでみてください。映画もぜひ多くの方々に見ていただきたいです。
三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記
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20160915

『愛国と信仰の構造』を読んで―〈番外編〉

この3日間、『愛国と信仰の構造』を読んで考えたことを書いてきました。
  1. 愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
  3. 愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉
今日は番外編です。中島さんほど強い動機に突き動かされて学者になった人に出会った(本でだけど)は、初めてかもしれないと思いました。

中島さんにとって、愛国と信仰は人生を賭けた大きな研究テーマだそうです。

中島さんは、20歳のときに阪神大震災で被災。見慣れた風景が一変し、茫然自失の状態になったといいます。震災の状況を報じるテレビに釘付けになっていると、がれきの中を必死の形相で何かを探す女性が目に入ります。リポーターの「何を探しているのですか?」という質問に、何を当然のことを聞くのかというような雰囲気できっぱりと「位牌です」と答えるのを見て、「地震の揺れ以上の精神的な揺れ」が起こったそうです。自分が真っ先に握りしめたのは財布、この女性は位牌を必死で探している。この対象的な様子を目の当たりにしたことをきっかけに、自身の内面の「弱さ」に直面することになったと語られていました。
バブルが崩壊し、戦後日本の「成長」という物語が崩壊する中、二十歳の私は何に依拠して生きていけばいいのか、途方に暮れてしまいました。その茫漠たる不安を、震災は直接的な形で突きつけてきたのです。(p. 12)
中島さんは、精神的な〈弱さ〉の源である自分の中の「空白」、すなわち、宗教に向きあおうと考え、イスラム教、キリスト教、神道、仏教、ヒンドゥー教(五十音順)など、さまざまな宗教書を特定の宗教や宗派にこだわらずに読み漁るようになりました。

そのような状況下で、また一つの衝撃的な事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こります。マスメディアは「宗教は危ない」の大合唱になり、世間も「宗教は危険」一色になりました。自己の「空白」と向きあおうと、宗教を勉強しているさなかに、こんなことが起こるなんて本当に衝撃だったと思います。

宗教を十把一絡げにして危険視する論調に違和感を持ちながら、「図書館の本の森に籠もるようになって」いき、「なんとか自分が納得できる宗教へのアプローチを手にしたいともがいていた」といいます。

1995年はさらにもう一つ大きな出来事がありました。戦後50年にあたり、「村上談話」が発表されます。“右派”論壇からは「自虐史観からの脱却」「東京裁判史観の破棄」というスローガンが叫ばれ、歴史修正論的な議論が大手を振って論じられるように」なっていたそうです。それから20年余りが過ぎましたが、今ではその傾向がさらに強まり、その歴史修正論的な見方によって、日本は国際社会で孤立するようになっていると思います。

中島さんは、こうした一連の衝撃的な出来事を経験したことにより、「愛国と信仰」という問題が、「戦後の臨界点において暴力的に表出してきている」ことと、「その荒波が私の人生に押し寄せてきている」ことを実感なさったそうです。

こうして、「愛国と信仰」という問題は、中島さんの大きな研究テーマになりました。
私はこの問題に正面から向き合ってみようと思いました。「愛国と信仰」という問題を脇に置いたままでは、私の人生は片づかないと考えました。これが研究者という道を歩みだしたスタート地点でした。(p. 14)
私がこれまでに知っていた学者さんというのは、経済的な安定や地位や名誉が第一の目的で、身近でも、研究より飲み会とか旅行とか遊ぶほうが好きだけど、教授に気に入られたりとかして、「まあ、なれそうなんだったらなっとくか」みたいな人とか、研究で安定してお金をもらいながら続けられるならほかの仕事よりはましかな、くらいの人とか、名誉が欲しいから何かつぶしが聞きそうな研究テーマを探して研究者になっている人とか、そんな感じの人が多かった気がします。研究を続けるためだけになんかしょうもないような細かいことを研究して言い争っているなぁ、という印象も持っていました。保身のために優秀な研究を発表したゼミ生をいじめる教授とかもいたし…。昔はほんまもんの研究者もいたんだろうけど、今は希少なんだろうなぁというイメージでした。

なので、研究は大学にいなくたってできるけど、収入や地位や名誉のために大学に残る、あるいは、職務経験や特殊な経験を売りにして入り込むような世界なんじゃないのかな、と思っていました。もちろん、そういう人ばかりではないと思いますが。

人生をかけた課題にしっかりと向き合うために研究者になる、という人もいるんだなぁと、中島さんが学究の道に進んだ経緯を知れて、うれしくなりました。こういう真剣な学者さんが増えてもらいたいし、心からの要求に沿った生き方をする人が多くなるといいなぁと思いました。

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20160914

愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉

この記事は一昨日からの続きです:
  1. 一昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で書き残しています。

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20160913

愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉

この記事は昨日からの続きです→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉

政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で投稿しています。

昨日は、社会的紐帯が希薄になった社会で砂粒化した人々が自己の実存の基盤を求めて宗教やナショナリズム、全体主義に傾倒していく、というメカニズムなどについて書きました。今日は当時の人々がどのようにしてナショナリズムに傾倒していったのかを、時代背景とともに、もう少し具体的に書きたいと思います。

20160912

『愛国と信仰の構造』を読んで 〈1〉

『愛国と信仰の構造』は、政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書。

『愛国と信仰の構造』

明治から大正、昭和にかけて、日本を戦争へと向かわせた戦前のナショナリズムと全体主義がどのようにして起こっていったのかを検証している。

20160910

「イクメン」「ペアメン」という言葉に感じる違和感

以前、「ワーキングマザー」「働くママ」という言葉に違和感を感じるという話を書いたときに、「イクメン」という言葉についてもまた追々書きます、と書いたのに、すっかり忘れていました…。すみません。今日こそは書きます。

収入を得るような仕事をする母親、特に会社で働く母親は特殊だと言わんばかりに、「ワーキングマザー」というような特別な名称が使われるようになっているのと同様、「イクメン」=育児をする男性というのも特殊だと言わんばかりの言葉です。

最近、よく聞くようになりましたが、男性が育児をするってそんなに特殊なことなんでしょうか。もう21世紀、2016年ですよね?? 育児をする女性を指す言葉はありません。育児は当然女性がするものだと思われているからですか? 「イクメン」も「イクボス」も「ペアメン」も、軽々しくて不愉快を感じる言葉です。

私が男で父親で、「イクメン(育児をするMEN[=男性])」とか「ペアメン(parenting menの略で親の務めをする男性)」とか言われたとしたら、「親なんだから当たり前やろが!特別視してんじゃねえ!」とイラッとすると思います。「えらいでしょー!でへへっ」とかなる人いるのか?

ジェンダー問題についてよく書かれている香川のブロガーのyossenseさんも、このことについて何か書かれているかな?と思って検索してみたら、やっぱり、イラッとするそうです。
2014年12月5日 「イクメンですね!」と言われるとイラっとするという話
ヨスさんの記事を読んで、現代の会社の働き方では、男性が育児休暇を取りにくかったり、男性が育児に関わることが制度的に難しいという視点が、私の忘れがちな視点だったなと思いました。うちの父は会社員ではなく、自営業でいつも家にいましたが、育児は母がするもので、威張るのが父の役目だと思っている節のある人でした(立派な名言も聞かせてくれたし、生活に必要なお金をつくってくれたし、感謝をしている面も多いのですが、そういう男女差別の考えは嫌でした)。

なので、会社員のお父さんというのは、直に経験をしたことがないので、どんな感じなのか、想像が薄いのです。確かに、関わりたくても関われないという父親も多いだろうなぁと思いました。「イクメン」など、育児をする男性を特別視して持ち上げるような言葉を流行らせて、根本的な解決をせずに、個人の努力でどうにかさせようとしているのではないだろうかとも思いました。

スピリチュアルな観点でどうこうというのはよくわからないですが、親が二人いるというのにもきっとわけがあると思います。女だけがやるものでは本来ないはずです。父親が死んじゃったとか、失踪したとか、そういう特殊な緊急事態に備えて、女だけでも育てられるようにできていると思いますが、それはあくまでも特殊事態であって、二人でいるなら普通は二人で育てるものだと思います。

育児は母親だけがするのが当然で、父親がするのはめちゃくちゃ特殊なことなんていう状況だと、父親から子どもが得るものってお金とDNAくらいのものですよね? そんなの悲しすぎるではないですか。

二人の異なる人間が子育てに関わることで、子どもに何らかの良い影響があるのだと思います(一人親に育てられた子どもが不十分だと言っているわけではありません。人間はさまざまなものからインスピレーションを受けて育っていくものだと思うので)。それだけではなく、子どもを育てることで、親にも人として成長するのに重要な経験が与えられるのだと思います。よく、「子育て」は「共育ち」というような言い方もされますが。

ちなみに相方は、子どもにもニックネームで呼んでもらうと言っています。対等に人間として付き合いたいからだそうです。「お父さん」など関係性の名称にしてしまうと、上下関係が生じるからだということです。母が姪に、私のことを「おばちゃん」とは絶対に呼ばせないと言って、ニックネームで呼ぶように教えこんでくれたのですが、確かに、「お年玉ちょーだいっ」みたいな関係ではなく、対等な友だち感覚で、保育園や学校で起こったこと、考えていることなどを、いろいろと話して聞かせてくれます。相方いわく、「これからは個人の時代よ」と言っていました。こういう相方と話していると、「イクメン」なんて言葉が何世紀も前の言葉のように感じます。

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20160907

家事や育児について考えていること(誤解されると困るので…)

ジェンダーについてちょいちょい書いていると、お金を取ってくる仕事を女性がするのがいいことだと私が思っていると誤解されるかも…と思ったので、それについても書いておきたいと思います。

これについては過去にも書いていますが(「ワーキングマザー」「働くママ」にという言葉に感じる違和感)、金銭的な収入にならない仕事、たとえば、家事や子育てなどを、低く見る風潮にも「それってどうよ?」と思っています。

家事や育児しかできない女は低能だとか思っているおかしな人もいますけど、そういうのとは全く違う考えで、私が問題だと思っているのは、社会の固定観念のせいで、本当にしたいことができない、あるいはやりにくいことなのです。

いわゆる「男らしい」と言われている仕事(例:管理職やエンジニア系の仕事など)を女性がやりたいと思った場合に、女性だからという理由で排除されたり、変な目で見られたりすること、また、いわゆる「女らしい」と言われている仕事(例:家事や子育てのほか、看護師、保育士)を男性がやりたいと思った場合に、男だからという理由で、変な目で見られる(排除されることはあんまりないのでは)のはおかしいと思うのです。

いわゆる「主婦業」も、名前からしていかにも女のものって感じですけど、男女どちらでもやりたいほうがやればいいと思うのです。家事は、やりたいほうがって言ったらどっちもやんないかもしれないけど、もし夫婦のどちらも働いているのなら、女の仕事だという感じで押し付けないで、平等に分担するべきだと思います。家事は女の仕事ではありません。一人暮らしで生きていれば男でも女でもどっちでもやるものなのですから。女は男の身の回りの世話をするために存在しているわけではありません。

女性がパートナーの男性の活動を支えたいという気持ちで、家庭の運営を担当するのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。もちろん、逆も然りです(でも、逆の場合は、風当たりが厳しいみたいで、これっておかしいでしょって思う)。

私の場合は、今は翻訳やリサーチなどの仕事が楽しいし、お金が必要なのでいろいろやっていますが、もし、相方に何かものすごく成し遂げたい偉業があって、それで生計が立つのであれば、私は金銭的収入を得る仕事を一旦休止して、家事に専念するのもアリだと思っています。今のところは、どちらも仕事が楽しいし、家事ができる余裕がどちらにもあるので、分担しながら楽しくやっています(過去記事:我が家の家事分担について。家事は分担よりも共同作業が楽しい。

料理をつくることは、家族の健康をつくる、お医者さんのような仕事だと思います。おいしいという喜びをつくる仕事でもあります。これが、例えば、シェフやパティシエ、料理研究家、パン職人、うどん職人のような、なにかお金になる仕事でしている人であれば、なんか「すごい!」みたいに見られる風潮がありますけど、家で料理をつくる人は、毎日、家族のために、ありとあらゆる職人になるのですから、本当にすごいと思います。家事をする人は料理のいろんな職人だけではなくて、掃除や洗濯の職人にもなります。

それにどの仕事をとっても、直接的な現金収入にはなっていないかもしれないけど、出て行くお金をかなり減らしています。

料理を外部に全部任せていたら、お弁当なら500円くらい、レストランなら1000円くらいでしょうか。毎食それで過ごしたら、月に45,000~90,000円ほどの出費になります。飲み物を家で作らずにペットボトル頼りでいたら、安売りで80円くらい、小売価格では150円ほどですから、それだけでも1万円前後の出費になります(地球上に人間が快適に生存できる期間も縮めるし)。掃除や洗濯のサービスを誰かに頼んだらどのくらいかかるでしょうか? 

食事についてはそれだけではなく、食事が外食だけだったら、お金がかかるうえに、病気がちになって、医療費もかさむでしょう。肌もボロボロになって化粧品代もかなりかかるようになるかもしれません。気持ちがすさんで、憂さ晴らしに大金が飛んで行くことになるかもしれません。身体によい食べ物を選んで手で作られた食事は、どんな薬にも勝る薬だと思います。古代中国では、薬物で治療する医者が「下医」と呼ばれて最も位が低く、食べ物だけで治す「食医」が最も位が高かったそうです。家族のなかで、健康な身体をつくる食べ物をつくる人は、この「食医」にあたると思います。そのくらい、尊い仕事だと私は思っています。

私は繕い物が好きで、相方の靴下やズボンを直したりしていますが、それでもかなり出費が押さえられています。繕い物は、使えるものが一から作るより早くできるので達成感を味わえるのが早いのと、「捨てられるの?ぼく、もう捨てられちゃうの?」と思っていそうな物たちが、別な顔になってまた活躍してくれるのがうれしいのです。

先日、仕事がしばらく空いて、縫い物ばかりしていたときに、

tom-tom: 「あー、今日はなんもお金になることせんかったー」
相方:(手縫いで作ったズボンを指して)「それ、作ったやん」
tom-tom: 「たしかに、これ、買ったら1万円近くするよね。リネン100%だし」
相方:「1万できかんで! 3万円はするでー。手縫いやで。オーガニックコットンの縫い糸やし。あの展示会(早川ユミさんの展示会のこと)でも手縫いやったら5万ほどしたやろ」

…という話になりました。5万ほどしたかどうかは定かではなく、作家として長年経験を積まれている早川ユミさんと同じ値段では失礼にあたると思いますが、手で縫って1着作ろうと思ったら、時給換算すると3万円というのは確かに、妥当かもしれません。

現金収入を持ってくる人がエライと言うのなら、出て行くお金を抑えることで富を増やしている人も同じくらいエライと思います。

お金だけではなくて、一緒にいて支えてくれたり、いつも安心して帰ることのできる空間をつくってくれていたり、おいしいという喜びを創造してくれたり、こどもが素晴らしい人間に育つのを助けたり、…ほかにもたくさんありますが、こういうことは、お金でははかることのできない価値を生む仕事だと思います。だから、私は家事や育児を低く見ているなんていうことは決してありません。

ただ、それが女性だけに押し付けられていて、男性がそれをするのは特別とみなされ、女性がするのが当然と思われていて、女性は社会のことを全く考えなくてもいい、女性はおバカでかわいらしくいてくれ、みたいな古くさい風潮がまだ残っているのが嫌だなぁと思っているだけです。

それに、家事をどっちがするかとか、どのくらい分担するかとか、ライフステージで入れ替わったっていいと思うんです。例えば、男性が会社務めをしていて、女性が家事を切り盛りしてきた家庭で、男性が「少し、世間から離れて自分を見つめ直したい」と思ったとしたら、女性が働きに出て、男性が家事をするようになっても、全然普通のこととみなされるような社会になってほしいと思うのです。

今はそれが許されないような圧力があって、男性もたいへんだと思います。男性は自分のことを深く何も考えずに、立身出世のレースに臨むためのレールに乗って、大人になってからはずっと会社人間でやってきて、金と地位と名声ばっかり追い求めて、自分の人間性を見失ったり、そういう人もいると思います。男女平等が本当に普通になったら、変な男のプライドもいらなくなります。男性だって生きやすくなるんじゃないでしょうか。

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20160906

ナショナリズムの台頭と市民派の躍進(いわゆる二極化)について考えたこと

日本で、いわゆる「右傾化」(右翼と左翼という日本語はあいまいなのでなるべく使用を避けています)が危惧されるようになって10年ほどになるでしょうか。

最近では、ますますナショナリズムが過激になってきていて、政治の中枢にいるのも超が付くほどのナショナリスト(なのに対米追従)ばかり。日本の政治の状況は、ドナルド・トランプ氏(共和党の大統領候補で極右とみなされている)が大統領になって3回も選挙で勝たせてしまっているような状況と、映画監督の想田和弘さんが例えられていました(↓)が、確かにそうだと思います。
ヘイトスピーチも社会問題になっていますし、ネット上では「ネトウヨ」と呼ばれる人々が幅を利かせ、ナショナリズムや全体主義を煽るような雑誌や書籍が書店にもたくさん並び、嫌でもナショナリズムの台頭を感じざるを得ません。

一方で、オルタナティブな価値観を追求する人たちも増えてきています。自然栽培に取り組む人や、ダウンシフターを目指す人、自然と共に生きる暮らしを模索する人、シェアする暮らしを広げる人、そういう人たちも増えています。

よく、二極化などと言われているようですが、世界を見渡してみると、似たような状況が見られます。

イギリスでは国民投票でEU離脱が選択されましたが、その一方で、昨年末にバリバリの庶民の味方ジェレミー・コービン氏が労働党の党首に選ばれているし、首都ロンドンでは初めてイスラム教徒の市長サディク・カーン氏(労働党でprogressive)が選ばれています。

アメリカでも前述のドナルド・トランプ氏を熱狂的に応援する人もいるようですが、真に国民一人ひとりのことを考えた政策を進め、「社会民主主義者」を自称するほどprogressiveな市民派のバーニー・サンダース氏も民主党の代表選びでいいところまで行きました。カナダではリベラル派のジャスティン・トルドー氏が首相に選ばれているし、スペインでもポデモス(「俺たちはできる」という意味)という市民派の政党が第三勢力にまで成長しています。

経済学者でも、今までは弱者を保護するような経済学者ってあまり有名でなかったと思うんだけど、経済的不平等に警鐘を鳴らしたトマ・ピケティ氏が一躍有名人になっていたりもしますね。

世界中で、とりわけ、工業先進国において、ナショナリズムが急に成長している一方、オルタナティブな価値観も勢力を伸ばしている。なぜ、こういう流れが見られるのでしょう? その原因は何なのでしょうか?

まだ仮説でしかありませんが、今ある知識を合わせて考えると、こういうことなのかな、と思いました。

1%の超富裕層が「今だけ・カネだけ・自分だけ」よければそれでいいと、富の独り占めをして(*)、労働の搾取を続けてきた(というか悪化させてきた)結果、生きるのがたいへんな人が多くなっています。

貧困問題に取り組む国際協力団体オックスファムの格差に関する報告書「最も豊かな1%のための経済」によると、世界の最富裕層1%が所有する富は2016年、残りの99%の富を上回ったそうです。
世界の上位1%が残り99%より多くの富を所有することが明らかになりました。オックスファムの発表した最新の報告書では、世界で最も裕福な62人が世界の貧しい半分の36億人の総資産に匹敵する資産を所有するに至ったことを指摘しています。この62人という数字がわずか5年前には388人、2年前には85人だったということが事態の深刻さを示しています。
生きるのが大変な人たちの中には、「自分に能力がないからだ」「自分の努力が足りないせいだ」「この程度のお金しか手にすることのできない自分は価値が低い」などと思い込まされている、もしくは、思うようになってしまった人たちもいる。そういう人たちが、自分の存在意義を何かに見出したくて、生まれという不動の条件にすがりつく。「◯◯人」であるということにプライドを持つことで、どうにか自尊心を保とうとする。

生きるのが大変な人たちは、いらだちやストレスも多いと思います。雇用主に嫌なことを言われても、生活費を得るためにガマンしないといけないかもしれない。夜中に働かされたり、寝ずに働かされたり、まともな勤務時間ではないかもしれない。低賃金で長時間労働をさせられているかもしれない。食事もままならないかもしれない。身体の調子がわるいとイライラは募りやすいものです。生活への不満も大きいでしょう。

そういういらだちやストレスのはけ口を常に求めているのではないでしょうか。その矛先が、自分よりも弱い立場にいる人、マイノリティや障がい者、女性や子ども、お年寄りなどに向かってしまう。人種差別に向けられてしまう。

自分がこんなに大変なのは、得しているヤツらがいるからだ、と誤った推論をして、憲法で保障されている当然の権利を受けているだけの人に対して、怒りの矛先を向ける(在日特権[そんなものはそもそも存在しない]とか、生活保護バッシングなんかもそうです)。

自分がバカにしたい人たちを対象にして、権力者がいじめっこの親玉のような発言をすると、快感を覚えるのでしょうか。「閣下は自分の代わりにヤツらをぶちのめしてくれる」みたいに思って、熱狂的に応援するようになるのかもしれません。

他方、生きるのが大変なら、「大変じゃない方法はなんだろう?」と考えて、システムに依存しない暮らしを始めたり、奪い合う競争社会からシェアしあう共創社会へのシフトを模索したり、自給自足的な暮らしに移ったりという人たちもいます。お金をかけなくても豊かに暮らす知恵を身につけたおもしろい人たちが世界中で増えています。

生きるのが大変ではないけれど、生きるのが大変な人たちの存在を知って、心を痛め、どうしたらこの人たちが楽に暮らせるようになるだろうか?と、行動をしている人たちもいます。その代表がバーニー・サンダースさんや、宇都宮健児さん、山本太郎さん、広河隆一さんなどだと思います。

私は、いろいろあってフリーで生きることにしたのですが、なかなか生きていくのが大変で、大変じゃない方法を模索した結果、自然とともにある暮らしにたどり着きました。自然とともにある暮らしについて、いろいろと知っていくうちに、世界中の環境破壊の問題に行きつき、そこから人権侵害の問題、資源をめぐる戦争などにもぶち当たりました。ほかにも、さまざまな問題にぶち当たり、東電と政府が引き起こした原発事故で東京から逃げてきた結果、「日本はなぜ、原発と基地を止められないのか?」という問題にもぶち当たり、さまざまな問題が、根底では一つにつながっていると実感するようになりました。

自分一人がシステムに依存しないナチュラルライフスタイルで、自由気ままな暮らしを手に入れられたとしても、政治に無関係でいられるわけはなく、それはつかの間に終わってしまうかもしれないとも思うようになりました。税金が上がり続けているし、憲法が改悪されれば、住むところを追われたり、不当に拘束されたり(秘密保護法なんかもあるし)、頭の上に米軍のオスプレイが落ちてきてもなんの補償もしてもらえないかもしれないし(このあたりは「日本はなぜ、原発と基地を止められないのか?」が詳しい)、原発がまた爆発したり、戦争になったり、戦争に友だちが行かされたり、そういう危険があるかもしれません。

だから、政治のことを真剣に考えて取り組んでいかないといけない…というよりも、政治のことを真剣に考えて取り組んでいけば、日本に楽園をつくることができるのだと、そっちのほうが、何にもしないで逃げ惑うよりも断然いいし、おもしろいと、思うようになりました。まずは日本に楽園をつくって、世界に楽園を広げたいです。

ナショナリズムに傾いて同胞を敵視している人たちにも、本当の敵は、富を独り占めしつづけようとしている人たちだと、金で政治を操っている人たちと金に魂を売り渡した政治家だと、気がついてもらうのは難しいんでしょうか。実際、敵扱いしている人たちが、庶民の暮らしを良くしようと、格差を是正しようと努力していて、親玉だと思って応援している政治家たちが、庶民の首を締めるような、ないところから税金を絞りとるような、庶民に文字通り血を流させるような政策を推し進めているのに、そういう人たちを応援しても、自爆行為だと思うのですが。

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20160905

結婚式について思うこと―その2

昨日は、結婚式について思うことをつらつらと書きましたが、香川のブロガーのyossenseさんがこんな記事を書かれていました。
結婚式したくない派だった私が「して良かったな」と思えた1つの理由(初出2015年4月9日/更新2016年7月19日)
男女平等を大切に考えられているヨスさんは、男女差別のしみついたしきたりを採用することなく、新しいスタイルで結婚式をなさったそうです。たとえば…
新婦の父親の手から新郎の手へ新婦が手渡される演出ってありますよね? あれ、女性の人身売買みたいに見えるのでやめました。女性は物かよ!ってマジで思いますよ。私の場合は、2人が揃って教会に同時に入って行きました。
男性でこんな感覚を持たれている方がいるというのは、本当に希望を感じます。ほかにもものすごく共感するところが多かったです。

父親が娘とバージンロードを一緒に歩いて夫に引き渡す、私も、女性の人身取引の現場みたいで、実は見るのも苦々しい気持ちがしていました。バージンロードって日本語に訳したら生々しいからカタカナでごまかしているのでしょうけど、「処女道」ですよ…。バージン=処女であることにそんなに価値を見出すのも男の征服欲だろうし、娘の処女を破ってもよい相手に父親が娘を引き渡すとか、一緒に生きていく相手を決めるという女の大事な決断を、男だけで決めた風に演出しているようで気持ち悪いです。

だいたい、子どもを生むのも生まないのも個人の自由です。過去にお呼ばれした結婚式で、司会の人が「新婦は保母さん、子育ても安心ですね❤」みたいなことを言っていてどん引きしたことがありました。なにそのプレッシャー。子どもを持たないという選択をして、幸せに生きていくことも、子どもを持つという選択と同等に当たり前のこととみなされるべきです。しかも、子育てって女だけがするもんじゃないでしょう。

真っ白なウェディングドレスも、真っ白な和服も着たくありません。真っ白は女だけが着せられる。男は白は着ない。ご存じの通り、女だけが白を着るのは、男の色に染まることが期待されることを暗示しています。私はだれかの色になんか染まりたくないし、相方も私が私らしさを失うことは望んでいません。

この話をすると、相方が白を着ればいいんじゃないのと言う人がいますが、そういう問題ではありません。私は誰にも染まりたくないだけでなく、誰も染めたくない。個人の自由意志に従ってそれぞれ幸せに生きていってもらいたいのです。女だけに白を着せることで、女が男の色に染まること、男の言いなりになることを暗によしとして押し付ける、形式だけでもこんな演出、絶対にやりたくないです。

それに、化粧をしないといけないのも嫌です。化粧品には石油由来の成分がたくさん入っているし、落とすときにも強烈な化学物質を使わないといけません。化粧をすることで私は水と土を汚す。生態系を破壊する。自分の肌の健康も害する。そんなことはやりたくありません。

最近では、天然成分だけのもあるので、それだったらたまには化粧をしてもいいかなぁと思ったりもするのですが、そもそも、男は化粧をしなくていいのに、女は化粧をしないと失礼っていうのもおかしくないでしょうか。女はすっぴんだと失礼だって言う人が大半だと思います。ありのままの顔を見せたら失礼だって言う方がよっぽど失礼です。なんで男はありのままの顔でいいのに、女はありのままでいたらいけないんでしょうか。

席順もエライ順があからさまにわかって辟易とします。世間一般の常識では、勤務先の人が一番いい席で、親類が末席になっていますが、未だに日本は封建時代なんですねって感じがします。給料を与えてくれる会社の人が一番いい席というのは、お金が第一という価値観が透けて見えるような気がします。大事なのはお金だけじゃないよね、と気づき始めた人たちも増えてきている現代に、こういう席順というのはかなり時代遅れだと思います。

友人のほうが親類よりもいい席というのも、私なんかほとんど大したことをしていないのに、親や家族よりも前の席に座らせてもらうなんて、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。最近は立食式の披露宴もありますが、立ち食いもあまり落ち着かないですし、料理が足りないとゲストに申し訳なく、余ると食べ物を粗末にして地球さんに申し訳ない。また、だれを呼んでだれを呼ばないかもかなり難しい複雑な問題です。

余興にも閉口します。最近では、男が女の制服を来てぶりっ子の踊りをするのが定番のようですが、どうしてそのような下品なものが定番になっているのでしょうか。映像作品を作ったり、楽器の演奏をしたり、踊りでももう少しまともなダンスなど、もっと立派な芸を隠し持っているのではないかと思うのですが、そういう、下品な笑いを誘うようなものでないと、ウケが悪いのでしょうか。

両親のスピーチも「お涙ちょうだい」が期待されているのが嫌です。うちの親をそんな好奇の目にさらしたくはありません。無論、「花嫁の手紙」(「嫁」って言葉も大嫌い)なんてありえません。結婚したって親子関係に変わりはありませんし、パートナー関係にも変わりはありません。なんで、「これからもお父さんとお母さんの子でいさせてください」なんて落涙しなきゃいけないんですか。あたりまえやろがって話です。

こうやって考えてみると、日本の結婚式には男尊女卑の要素がてんこ盛りで、品性にも乏しいんですよね…。「親戚が喜ぶし、人生の節目だから、結婚式はやったほうがいいよ」というアドバイスも理解できるのですが、たぶん、うちの親戚はそういうので喜ぶようなタイプじゃないし、相方のほうは結婚式が好きそうな孫たちがいっぱいいるから私たちがやらなくても喜ぶ機会はいっぱいあるし…。人生の節目というのも、私と相方の関係は連続して深化していっているものであって何か節目で始まったり終わったりするものでもない。たぶん、よほどのことが起こらない限り、結婚式はやらないと思います。

相方に、「結婚式やりたい?」と聞いてみたら、「樹木葬がいいな」とお葬式の話をされました。「畑に埋めてくれたらトマトいっぱいなるかも!トウモロコシ葬とかもいいかもな。食べるたび思い出してもらえるで。墓なんてのは、思い出すのが目的やろ?」こんなぶっとんでいる相方といる毎日はおもしろすぎます。末永く続いていくことでしょう。

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20160904

結婚式について思うこと

最近訳した記事で、マルタ共和国の結婚式の話が出てきました。

マルタ共和国は地中海の真ん中に浮かぶ島国。国民のほとんどがカトリック信者で、カトリックの影響が強い国です。法律にもカトリックの教義が影響を与えていて、望まない妊娠を中絶することは非合法。離婚が合法化されたのはつい最近の2011年なんだそうです。

そんなマルタ共和国で結婚をするには、夫婦がどちらもカトリックのバックグラウンドを有していることをいろんな証明書を出して証明しなければいけなかったり、結婚式の前に講義に通って結婚に関する聖書の節を勉強しないといけなかったり、宗教的な手続きがとても大変そうでした。結婚の証人の役目を務める人も、カトリックのバックグラウンドを持っていることを証明する証明書を出さないといけないんだそうです。

この記事を読んでいて、大変だなぁ、カトリックじゃなくてよかったなぁ、と思ったのですが(聖書にはいいことも書いているし、カトリックを信じている人のことをどうこう思っているわけではない)、カトリックじゃなくても、やっぱり、結婚式はしたくないなぁ、と改めて思いました。

キリスト教の教会で挙式する人が多いですが、普段から信仰しているわけでもない神様に結婚を誓うとか、私にはできません。神やsomething greatなどと呼ばれるなにか偉大な力があるというのはなんとなく感じるので信じていますが、その形式が神道や仏教となるとしっくりこないのです。だから、何か一つの神様に誓うっていうのは違う気がする。

そもそも、この人と一緒に生きていくってだれかに誓わないといけないものなのか? 相方とは仲良しで何でも話せるし、ここまで人間ってわかりあえるのか、というくらいわかりあえているんだけど、それを権威のある何かや大勢の人に宣誓しなきゃいけないって、変な気がする。別に宣誓しなくたって仲良しでわかりあえているんだからよいのではないでしょうか。だから、人前式も違う気がしています。

指輪もいらないよなぁと思っています。お金がないからとかではありません。学生の頃はおそろいの指輪に憧れたものですが、そういう形式的なものでお互いを縛り合うのが、「なんか、犬の首輪みたい」とはたと思ってしまったことがあり、それ以来、指輪もいらないと思うようになりました。うちの両親は一応指輪は作っていましたが、水仕事のときに邪魔だ、窮屈だと言ってつけていませんでした。形式的におそろいの指輪を同じ指につけているから夫婦だと感じるのではなく、私と相方はお互いの自由意志に基づいて一緒にいることを選んでいる、と、何もなくても感じられる中身のあるパートナー関係があるほうが心地よいです。

何か偉大なものや大勢の人の前で誓っても、お揃いの指輪で物質的に証明していても、別れるときは別れるのです。合わないのに無理をして一緒にいることはお互いにマイナスなので、合わなかったらさっさと離れたほうがいいと思います。誓っちゃったから離れるのは、なんてブレーキがかかって、無理して一緒にいて憎しみが増大するくらいなら、さっさと離れたほうがいい。こういうパートナーシップって、神様とか大勢の人とかに誓ってできるものでも、紙の上にサインして判を押して役所に契約書を届け出ることでできるものでもなくて、長年一緒に培っていくもの、気づくとできているものだと思います。

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20160903

言葉のレッスン

他人からの心ない評価など気にしない、と思っても、やっぱり言われると気になるもので、ここのところ、文章術の本がやけに気になっている自分がいます。

文章術、美しい日本語、悪文、名文など、そういう文章についての本を読んで勉強しようかと思い、大きめの書店に行ってパラパラといくつか見てみました。いくつか眺めてみたのですが、買って読み進めるきにならない。

なんでかというと、やっぱり、伝えたい中身がないからなんですよね。文章は、いくら美辞麗句が並んていたところで、伝えたい中身と、伝えたい想いがなかったら、それはきらびやかな外箱でしかない。

文章術や言葉についての本に興味が持てなかったことで、私が書きたいのは、きっと、文章として「うまい!」とか、文章として「すごい!」とか言われる文章ではないということがはっきりしました。

私が心を惹かれる文章は、多少まどろっこしくたって、多少間違っていたって、伝えたい想いがあって、伝えたい中身があって、その中身が素晴らしい文章なのです。それから、自分を大きく見せようというのでも、卑下するのでもない、ありのままの自分を肯定している人が書いた文章です。ただし、ありのままが下品な人の文章は好きではなく、人間としての向上心がある人でなければなりません。

プロの文章でもげんなりするようなものもあるし、一般の人の投書や友人からの手紙にも心が動かされるような文もあります。だから、こういう、文筆家や言葉の専門家が集めた美文の本を読んでも、私の言葉のレッスンにはあまり役立たないと思いました。

それでも、文章を磨くことは何かやっていきたいな、と思っていて、思いついたのが、この文章が好きだなあと思った文章を、ノートに書き留めていくことです。好きな文がたくさん詰まったノートができるのは、考えるだけでもわくわくします。楽しい方法で、文章を磨いていきたいと思います。

ちなみに、私が文章を学ぶうえでとても参考になった本が一冊だけあります。『日本語の作文技術(本多勝一・著)』という本です。句読点の打ち方から、形容詞の並べる順番まで、わかりやすく読みやすい文章を書くルールがまとまっています。

20160901

「敵」のなかに味方を増やす

「◯◯(大手小売業)のオーガニックなんか信用できん」という意見を聞くことも多くなって、少し思うことを書きたいと思います。

オーガニックラベルの裏側』という本も出ていて、オーガニックと謳っていても、実際のところは怪しいという話は、うん、そういうこともあるだろうなぁ、と思っています。

できれば、顔の見える関係で、この人なら信頼できるという人から、何でも必要なものを取り揃えたいところですが、なかなか、そうもいきません。我が家はそれでも、自給率が昔よりもだいぶ上がって、無農薬、無化学肥料、固定種が好きで、畑もしている友人たちが多いので、友産友消と自給自足の割合が増えていますが、世間一般となるともっと難しいのではないかと思います。

「◯◯(大手小売業)のオーガニックなんか信用できん」のほかにも、「◯◯でなんかあなたも当然買い物しないでしょ?」とか、「□□(コーヒー豆の倫理的調達の割合99%を達成した大手グローバルカフェチェーン)のコーヒーなんてぜんっぜんおいしくない」とか、大手企業への不信を抱いている人たちの気持ちもよくわかります。これまでにしてきたことを考えると、信用ならない面もあるからです。

しかし、そういうふうにして敵対しているだけでは、仲間は増えていかないとも思います。

大手企業の中にも、まごころのある人はきっといます。そういう人たちが、内部で孤軍奮闘しているかもしれないのです。利用者の健康や、生産に関わる人たちの幸せ、自然環境への配慮が足りなくても、「とにかく安く仕入れて、たくさん売り、利潤を多くするのが勝つということだ(ギラッ)」みたいな、古い考えにカチンコチンの人たちの中で、なんとか新しい風を起こそうともがいている人たちもいるかもしれません。異論を唱えることにかなりの勇気と努力が必要な場合も多いかもしれません。そういう中で奮闘している人を応援できるのは、消費者の私たちだと思います。

内部で奮闘するところまでは至っていないものの、話を聞けば、「それは大変だ!」と動いてくれる人もいるかもしれません。「お前らなんか信用してねえよ」という態度では、そういう人たちに話を聞いてもらうこともできないと思うのです。話せばわかると信じて、対話を重ねていくことで、相手が知らなかった事実を伝えることができれば、もしかすると、対応してくれるかもしれないし、「お客様が理解してくださらない」という思い込みが溶けていくかもしれません。

大多数の人々が大手企業の物やサービスを利用しているなかでは、大手が変わってくれると、影響力はかなり大きいのではないでしょうか。環境や倫理的調達、人権などへの意識の高い人たちが、幾多の不便を乗り越えて工夫をして、「お金で投票」をすることも尊いことで、インパクトもあると思います。それよりもやはり、大手が変わることのインパクトのほうが大きい。

近所のイオンでは、今年の春頃できたオーガニック化粧品コーナーに、フィリピンの人たちとフェアトレードで製品づくりに取り組むココウェルのリップクリームや、三宅商店でも扱っている北海道のミントのスプレー「みんなでみらいを」の米ぬかとふすまだけでできた何でも洗える洗浄料ナイアードのヘナなど、コアーな商品が並ぶようになったり、イオンの内部にも、私たちと感性の似たマニアックな人がいるようなのです。

そういう方々のことは応援して、これからも環境と社会に良い商品を増やして欲しいと思うので、お客様カードで「ありがとう!」を伝えたりもしています。「ありがとう!!」と合わせて、要望を伝えることもありますが、敬意を忘れずに丁寧に提案すると、前向きなお返事がもらえることも多いです。

たとえば、何度か無農薬・無化学肥料の野菜コーナーを作ってもらいたいという要望を出していたのですが、最近、ついにオーガニック農場のコーナーが野菜売り場にできました(農家さんの名前付き)。おそらく、イオン全体での取り組みだと思いますが、お客様カードはイオン全体で共有しているようなので、いろいろな他の人たちの声や団体の取り組みとの相乗効果で実現したのではないかと思います。小さな行動でも、少しでも貢献できたと思うとうれしいです。

それから、イオンの中のパン屋さんではコーヒーマシンでセルフコーヒーが飲めるのですが、イオンはオーガニックという言葉すら認知度が低かった時代からフェアトレードコーヒーに取り組んできたので、お客様カードで、そのことを感謝するとともに、フェアトレードのコーヒーが多少高くてもいいので選べるようにしてもらいたいとお願いを書いたら、全国会議で提案してみますというお返事をもらいました。すぐには難しいかもしれませんが、実現したらいいなぁ・・。

ほかにも、非遺伝子組換え飼料の低温殺菌牛乳を一種類でもいいので置いてもらえないかと、私が知っているメーカーさんを具体的に複数上げて選べるようにしてお願いしたところ、そのうちの1つをすぐに入れてくれていてびっくりしました。ほかの方がお客様カードで、子どもがアレルギーを持っているので、アレルギー対応コーナーを作って欲しいと丁寧にお願いをしていて、その数日後にはアレルギー対応コーナーの棚ができていて驚きました。

頼み方というのは大事だなぁとつくづく実感しました。いくら正しいことを言っていても、上から目線だったり、どうせお前なんかろくでなしだろう、みたいな態度だったりしたら、聞き入れてもらいにくいと思うので…。

正直なところ、イオンで買えるものが増えてきて、かなり楽になりました。これまでは、通販や遠くまで電車で買いに行ったりしていたのですが、「あ、あれがない!」と思ったときにぱっと自転車で買いにいけるのは、本当にありがたいです。イオンで見かけたから試してみようかな、と環境や社会によりよい選択をしてくれる人も増えるかもしれません。私の場合は、イオンで買えるようになったからといって、これまでお世話になっていた通販のお店や遠くのお店で買い物をしなくなったわけでもありません。

敵だと思っている相手の中に、どうやって味方を増やしていくのか。これからはそういうことも考えていかないといけないな、と思っています。それには、感謝とリスペクトが最も力になると思います。

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