20160930

URLを変更しました。

ブログのURLを以下に変更しました。
https://cacho-soushi.blogspot.jp/

もともとこのブログは、友人や知人向けに書き始めたものだったのですが、フェイスブックが広まってからは、友人・知人で訪れてくれる方は、深い話に関心を持ってくれる人だけになり、あとは検索などで訪れてくださった全く知らない方がほとんどになりました。

アクセス数が増えてきたのもあり、小心者の私は実名を引き下げて、ペンネームを付けることにしました。思うことをそのまま書けるということもあります。URLにはまだ実名の断片が残っていたので、完全に削除して、ブログ名の読みをURLとしました。

今までのリンクなどもぼちぼちと変更していきますが、「存在しません」が表示されてしまうことも多いかと思います…。しばらくはご不便をおかけしてしまい、申し訳ありませんが、よろしくお願いします…。

20160917

怒りの矛先を間違えない

うちはほぼ玄米菜食で、私は野菜さえあれば満足なのですが、相方がときどき、スーパーなどで魚を見ると食べたがります。香川では、漁港直送の新鮮な珍しい魚が近所のスーパーでも並んでいておいしいので、無理もありません。

しかし、海にも放射性物質は垂れ流されつづげているし、空気中に飛散し続けている放射性物質も雨になって降り注ぎ、川をつたって入り込むものもあります。魚は生き物なので、捕獲されたのが他県でも、泳いできた場所によっては放射性物質を取り込んでいる可能性もある。検査もきちんとは実施されていないので、相方は魚を食べたいけど、放射能汚染を心配しています。私は魚を食べなくても平気なので、放射能汚染の心配をしてまで魚は食べなくてもいいのですが…。

相方は、スーパーに行くと、魚コーナーに必ず寄り、いい魚ないかな~と物色します。私はそんなに食べられないのですが(少しで満足してしまう)、放射能汚染の心配のたぶん少なそうな日本海側や瀬戸内のお魚を一緒に探して、よさそうなのを見つけると相方に教えます。

tom-tom:これ、おいしそうだよ~
相方:うーん…
tom-tom:こっちは?
相方:うーん……
tom-tom:私別に食べなくてもいいんだけど…
相方:うーん、おいしそうなんやけどね、この魚、泳ぎまくるんかな?

放射能汚染が心配で、どこを泳いできた魚なのかが知りたいということです。

私は魚を食べなくても平気なので、魚を見に行く必要は全くないのですが、相方が食べたいと言うから一緒に探しているのに、毎回このやりとりになるのは、たまにいらっとすることもあります。「あんたが食べたいって言うから見に来てるのに毎回その質問。そんなん言うんやったら魚らてもう食べんかったらええやろ。魚博士になってから食べたらええわ」とブチ切れてしまうこともたまに…。

でも、わるいのは相方じゃないんですよね。相方が放射能汚染を撒き散らしているわけではないのですから、相方に怒りを向けるのは矛先が間違っています。

相方の心配はおおげさではありません。海外では日本の海産物を輸入禁止にしていたり、輸入する場合は放射能検査を要請または自国で放射能検査を実施している国もあるほどです。秋田で放射能検査を個人で実施して情報公開をしてくださっている「べぐれでねが」さんの調査では、静岡県の沼津で水揚げされ、外食産業などの業者向けに普通に販売されていたアオザメから放射性物質が707ベクレル(ちなみに日本の現在の基準は100ベクレル)検出されたということです。

目に見えない放射能をばらまいているのは東京電力と、一緒になって原発を推進してきた政府。そしてその政府をつくった原因の一つには有権者が無関心を続けてきたことがあります(もちろん、国民が関心を持たないように仕向けてきたというのもありますが)。怒りを向けるべきは、そっちなのです。

放射能汚染のない食べ物を安心して食べられるようになりたい、世界から原発をなくしたい。その願いを持っているのなら、むしろ、相方はその仲間。その相方にブチ切れるのは、怒りの矛先を間違えています。

こういうことが、一般にも広く見受けられます。同じ願いを共有して活動している仲間なのに、努力が足りないとなじったり、足を引っ張ったり、けなしたり、意見や考え方がちょっと違うだけで誹謗中傷を浴びせたり…。自分が望む現実をつくっていくためには、理想を共有する仲間に、短絡的な怒りをぶつけるのではなく、同じ方向を向いて協力できるように努めることが大切だと思います。

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20160916

沖縄・高江のドキュメンタリー映画『標的の村』(三上智恵監督作品)を観て

沖縄の高江に国が強行的に建設を進めようとしているアメリカ軍のオスプレイパッドの問題を克明に描いたドキュメンタリー映画『標的の村』を観てきました。

◎解説はこちら:http://www.hyoteki.com/introduction/

オスプレイパッドに反対している人たちは、過激な人たちでは決してありません。私たちと全く同じように、ただ平穏に、普通の暮らしがしたいだけ。映画に登場するUAさんの歌にも「オスプレイはいらない 静かに寝たい」という歌詞が出てきます。

また、高江は自然が豊かな森です。映画には珍しい亀が姿を見せていましたが、命の溢れる森です。ここで、子どもたちは自然と遊び、大人たちは農業を営んだり、カフェを開いたり、木工職人をしたり、自然とともにある暮らしを営んでいる心の穏やかな人々が、自然と人間らしい暮らしを守るために、座り込みをせざるを得ない。

オスプレイは事故が多く、アメリカでは国民の反対で飛行訓練ができません。ハワイではコウモリの生態に悪影響を与えるということで、オスプレイ演習が禁止されていますが、沖縄では低空を米軍機が飛び回っています(*)。沖縄だけでなく、日本全国の上空にはアメリカ軍は自由に飛び回ることができるゾーンがあり、愛媛の伊方原発のすぐそばに米軍機が墜落するというぞっとするような事故も過去に起きています(原発を標的にした攻撃訓練をしていた可能性が高いそう)。アメリカ軍が日本の上空を飛び回れることは『日本はなぜ、基地と原発を止められないのか?』にわかりやすく書かれています。
*参照:高江ゲート前に1600人が集結!参院選で当選した伊波洋一議員も駆けつけ怒り!「ハワイではコウモリのためにオスプレイの演習が禁止されている。沖縄県民はコウモリ以下なのか!」 (IWJ 2016.7.21)
説明会を開いてくれと求めても応じず、建設に反対する申し入れをしても無視され、選挙で民意をこれでもかと言うほど示しても全然ダメ。座り込みをして身体を張って止めるしかないのです。痛いし、怖いし、仕事や日常生活にも支障が出るし、本当はこんなこと、だれだってしたくない。映画に登場する市民はみんな、やりたくないけど、やるしかないから、こんなことしなくちゃいけない、と言っていました。本当に悲しいことです。

非暴力で沖縄を守ろうと身体を張っている市民を、沖縄の人たちを守るのが本来の仕事のはずの、沖縄県民の税金で雇われている警察官や、国民を守るのが本来の仕事のはずの機動隊が、暴力的に排除する。それを見て、アメリカ軍の兵士はおもしろそうに笑っている。「なんなの、これ? これが日本なの? どうなってるの?」と本当にやるせなかったです。

座り込みをして建設に反対していた市民が、国から「通行妨害だ」として訴えられます。本当に汚い。このように、政府などの権力者が市民に自主規制をさせるために訴訟を起こすことはSLAPP(スラップ)訴訟(*)と呼ばれ、司法が国民をだまらせるのに悪用されるという理由から、アメリカでは禁止されている州もあるそうです(以下によると50州中25州→SLAPP訴訟被害者連絡会)。

*SLAPP=strategic lawsuit against public participation[直訳:市民参加を排除するための戦略的な訴訟]の頭文字を取ったもの

映画に出てきた国によるSLAPP訴訟では、現場には一度も行ったことのない7歳の少女までもが被告にされていました。その子の両親は反対運動に参加していましたが、彼女は1回も現場に行ったことがありません。「国に歯向かうとこうなるんだぞ」という見せしめのためにこんな小さな子まで訴えるなんて正気でしょうか? こんな恐ろしい脅迫、まともな人間のやることとは到底考えられません。「私も牢屋に入るの?」とその子はとても不安そうでした。

このSLAPP訴訟を、アメリカのように禁止にすることは、どうしたらできるのだろうか、本当に知りたいと思いました。選挙で民意を示してもダメ、非暴力の抵抗も国による暴力で排除され、裁判でひきずりまわされる、本当にどうしたらいいんだろう。何ができるんだろう。根本的な原因はどこにあるのだろう。私はどうしたらいいんだろう。

この映画は2012年に公開されたときに、知人が見て「3年分くらい泣いた」と言っていて、ものすごく見たかったのですが、東京では結構いつでも見れてしまうため、そのうち、そのうち、と思っているうちにチャンスを逃してしまっていました。今月、高松市の市民の方が、自主上映会を開いてくださり、ようやく念願が叶って見ることができました。

念願ではあったのですが、受け止めきれるだろうか、という不安もありました。これを見て、私、立ち直れるんだろうか、という不安があったのもあって、東京時代はズルズルと後のばしになってしまったというのもあります。

すでに沖縄の状況はフリージャーナリストの方々や、現場の方々のSNS投稿などで追っていたので、覚悟はできていましたが、やっぱり、しばらく、ずーん・・・と心が痛くて、痛くて。

この映画で起こっていることは2012年の状況でしたが、それから4年経っている2016年の今になっても、状況は変わらないところかますますひどくなっています。私は、映画の間だけで、90分間だけ、このつらい現実が目の前からは見えなくなって、楽しいことにうつつを抜かしたりできるけれど、沖縄の人たちはまだ続いていて、先の見えない戦いを強いられている。こんなにつらい現実のなかで、まだ幼い子どもたちも、希望を捨てずに、「オスプレイがこれ以上こないようにがんばる」「お父さんとお母さんが疲れちゃったら代わってあげられるようになりたい」と、やんばるの森を守る気持ちをしっかり持っているのを見て、本当に文字通り、涙が出ました。私はほとんどなにもできなくて本当にごめんなさい、どうしたらいいんだろう、何ができるんだろう、そんな想いがうずまいていました。

受け止めるにはつらすぎる現実ではありますが、これが日本で起こっている現実なんだ、と、国民の一人として、絶対に知っておかなければいけないし、沖縄で起こっていることは、今の政治の状況では、日本のどこでだって起こりうることなのだから、知っておくことができてよかったと思いました。

沖縄の高江で起こっていることについては、監督のコラムが充実していますので、ぜひ、読んでみてください。映画もぜひ多くの方々に見ていただきたいです。
三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記
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20160915

『愛国と信仰の構造』を読んで―〈番外編〉

この3日間、『愛国と信仰の構造』を読んで考えたことを書いてきました。
  1. 愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
  3. 愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉
今日は番外編です。中島さんほど強い動機に突き動かされて学者になった人に出会った(本でだけど)は、初めてかもしれないと思いました。

中島さんにとって、愛国と信仰は人生を賭けた大きな研究テーマだそうです。

中島さんは、20歳のときに阪神大震災で被災。見慣れた風景が一変し、茫然自失の状態になったといいます。震災の状況を報じるテレビに釘付けになっていると、がれきの中を必死の形相で何かを探す女性が目に入ります。リポーターの「何を探しているのですか?」という質問に、何を当然のことを聞くのかというような雰囲気できっぱりと「位牌です」と答えるのを見て、「地震の揺れ以上の精神的な揺れ」が起こったそうです。自分が真っ先に握りしめたのは財布、この女性は位牌を必死で探している。この対象的な様子を目の当たりにしたことをきっかけに、自身の内面の「弱さ」に直面することになったと語られていました。
バブルが崩壊し、戦後日本の「成長」という物語が崩壊する中、二十歳の私は何に依拠して生きていけばいいのか、途方に暮れてしまいました。その茫漠たる不安を、震災は直接的な形で突きつけてきたのです。(p. 12)
中島さんは、精神的な〈弱さ〉の源である自分の中の「空白」、すなわち、宗教に向きあおうと考え、イスラム教、キリスト教、神道、仏教、ヒンドゥー教(五十音順)など、さまざまな宗教書を特定の宗教や宗派にこだわらずに読み漁るようになりました。

そのような状況下で、また一つの衝撃的な事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こります。マスメディアは「宗教は危ない」の大合唱になり、世間も「宗教は危険」一色になりました。自己の「空白」と向きあおうと、宗教を勉強しているさなかに、こんなことが起こるなんて本当に衝撃だったと思います。

宗教を十把一絡げにして危険視する論調に違和感を持ちながら、「図書館の本の森に籠もるようになって」いき、「なんとか自分が納得できる宗教へのアプローチを手にしたいともがいていた」といいます。

1995年はさらにもう一つ大きな出来事がありました。戦後50年にあたり、「村上談話」が発表されます。“右派”論壇からは「自虐史観からの脱却」「東京裁判史観の破棄」というスローガンが叫ばれ、歴史修正論的な議論が大手を振って論じられるように」なっていたそうです。それから20年余りが過ぎましたが、今ではその傾向がさらに強まり、その歴史修正論的な見方によって、日本は国際社会で孤立するようになっていると思います。

中島さんは、こうした一連の衝撃的な出来事を経験したことにより、「愛国と信仰」という問題が、「戦後の臨界点において暴力的に表出してきている」ことと、「その荒波が私の人生に押し寄せてきている」ことを実感なさったそうです。

こうして、「愛国と信仰」という問題は、中島さんの大きな研究テーマになりました。
私はこの問題に正面から向き合ってみようと思いました。「愛国と信仰」という問題を脇に置いたままでは、私の人生は片づかないと考えました。これが研究者という道を歩みだしたスタート地点でした。(p. 14)
私がこれまでに知っていた学者さんというのは、経済的な安定や地位や名誉が第一の目的で、身近でも、研究より飲み会とか旅行とか遊ぶほうが好きだけど、教授に気に入られたりとかして、「まあ、なれそうなんだったらなっとくか」みたいな人とか、研究で安定してお金をもらいながら続けられるならほかの仕事よりはましかな、くらいの人とか、名誉が欲しいから何かつぶしが聞きそうな研究テーマを探して研究者になっている人とか、そんな感じの人が多かった気がします。研究を続けるためだけになんかしょうもないような細かいことを研究して言い争っているなぁ、という印象も持っていました。保身のために優秀な研究を発表したゼミ生をいじめる教授とかもいたし…。昔はほんまもんの研究者もいたんだろうけど、今は希少なんだろうなぁというイメージでした。

なので、研究は大学にいなくたってできるけど、収入や地位や名誉のために大学に残る、あるいは、職務経験や特殊な経験を売りにして入り込むような世界なんじゃないのかな、と思っていました。もちろん、そういう人ばかりではないと思いますが。

人生をかけた課題にしっかりと向き合うために研究者になる、という人もいるんだなぁと、中島さんが学究の道に進んだ経緯を知れて、うれしくなりました。こういう真剣な学者さんが増えてもらいたいし、心からの要求に沿った生き方をする人が多くなるといいなぁと思いました。

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20160914

愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉

この記事は一昨日からの続きです:
  1. 一昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で書き残しています。

*****************************
この本の中で、親鸞の思想と日蓮の思想が全体主義につながっていったプロセスを知って、とても驚いた。ただ、昨日も書いたように、困難な時代背景を考えると、どんな思想だろうが芸術だろうが、過激思想につながる可能性はあったのかもしれない。親鸞と日蓮が特別に危険だったわけではなく。

世界を見渡せば、キリスト教の思想も十字軍という侵略戦争につながったし、イスラム教の思想も過激派武装グループを生んでしまっているし、この本にはほかにも、本居宣長の国学や、日本の儒教(元祖中国の儒教とは少し違うらしい)、若杉ばあちゃんも褒めていた大本教なども全体主義につながっていたことが書かれている。

だれかの言うことをただひたすらに信奉して、実感の伴わないもの、実体のつかめないものを、頭のなかだけでこねくりまわせば、どんなものでも危険なものに変わってしまう可能性はあるのだと思う。親鸞の思想がとりわけ危険だということでは全くないのだが、今のさまざまなスピリチュアルの思想にも通じるものがあると思ったため、親鸞の思想について本の中から取り上げて考えてみたいと思った。

親鸞の思想は、大辞林
「法然の思想をさらに徹底させ,絶対他力による極楽往生を説き,悪人正機を唱えた」
とある。

「絶対他力」とは、人は修行などの自らの努力によって救われるのではなく、絶対的な仏の慈悲によって救われるのだという考え方。阿弥陀仏如来(仏様)が立てた一切衆生の救済(=全人類を救済する)という誓願(=本願)がすなわち「他力(=本願力)」であり、この「他力」によって人は皆救われるのだという(参照:コトバンク)。後半の「悪人正機」というのは、阿弥陀仏如来の本願力=他力で救われるのは、善人だけではなく、悪人もであって、むしろ悪人こそが救われる対象なのだ、という考えのこと(参照:大辞泉)。

親鸞の思想に傾倒していた三井甲之と、その弟子の蓑田胸喜は、超国家主義者で、歴史の教科書にも載るような言論弾圧事件を連発。美濃部達吉氏を追放に追い込んだ「天皇機関説事件」にも関与している。彼らもまた「煩悶青年」だった。

中島さんは本の中で、
その蓑田胸喜の師匠である三井甲之が『親鸞研究』という本を書いている。一体なぜ親鸞を愛読している人物が、最も危うい国家主義者となったのか。私の中で衝撃とともに、非常に大きく重い問題として伸し掛かってきたわけです。(p. 48)
三井甲之らの行動の原理は、親鸞の思想から導き出された「自力の否定」でした。激しい言論弾圧を行ったのも、ごく簡単に言ってしまえば、自力はけしからん、ということからです。
 帝国大学の教授たちは、自力によって世界や日本を作り上げようとしている賢しらな輩(やから)だ。ゆえに、徹底的に弾圧しなければならない。そんなふうに彼らは考えた。右派とはいえ、大川周明の設計主義的な思想も許すことができなかった。これが三井甲之たちにとっての「絶対他力」という思想でした。(p. 50)
と解説している。

なぜ、親鸞の思想がこのような超国家主義につながってしまったのか? 

三井は、親鸞に傾倒する前は、俳人の正岡子規の写実主義に夢中だった。正岡子規が亡くなり、心のよりどころをなくした三井は、近角常観の求道学舎に通うようになり、親鸞の思想に傾倒していく。

三井のなかで写実の「ありのまま」=「自然」という概念が、親鸞の「自然法爾」(読み:じねんほうに=「自力」を捨てて、阿弥陀如来の本願力、すなわち「他力」の中に生きること)という思想と結びつく。その結果、「自力」はけしからん!、「個人の賢しらな計らい」は捨てないといけないと考えるようになる。

ここまでを整理すると、

正岡子規の写実「ありのまま」=親鸞の「自然法爾」
 ↓
「絶対他力」に導かれて生きること
「自力」はすべて捨てるべき

という感じ。

親鸞の思想は、写実と結びついた後、どのようにして、ナショナリズムに変化していったのか?

「絶対他力」に導かれて一体になるべき「自然」とは、具体的には何か?と考えたときに、それが「祖国日本」である、というふうにつながったのだ。古来から続いてきた天皇の下にある日本こそが「自然」であると捉えられるようになった。こうして親鸞の思想が「一君万民ナショナリズム」(それまでの士農工商のような身分制度ではなく、神である天皇を君主としてその下にいる国民はすべて平等であるという思想)と一体化する。

そして、帰依すべき「総体意志」こそが天皇の大御心であり、阿弥陀仏の本願の働きのそのものだと考えた三井は、日本人は現実をあるがままに任せ、「ただ日本は滅びず」と念じ、「祖国日本」と唱えて、祖国を礼拝すれば、永遠の幸福を得ることができると訴えた。

正岡子規の写実「ありのまま」
 ||
親鸞の「自然法爾」
 ||
「自力」を完全に捨て去り、「絶対他力」に導かれて生きるべき
 ↓
「絶対他力」に導かれて一体となるべき「自然」=祖国日本
 ↓
祖国日本=天皇の下にある日本
 ↓
帰依すべき総体意志=阿弥陀仏の本願力=天皇の御身心
 ↓
現実を「自力」で変えようとせず、現実をあるがままに任せるべき
「祖国日本」と唱え、「ただ日本は滅びず」と念じれば永遠の幸福が得られる

なんでそうなるの??という感じだけど…、これを思想の基盤として弾圧事件まで起こるほど、本気でそう信じこんだエリート青年が数多く存在したということだ。

親鸞の教えでは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ=阿弥陀仏にすべてお任せします、帰依しますの意)」と唱えれば救われると言われているが、このように、なにか唱えれば幸せになれるという思想は、現代のスピリチュアルでブームになっているようなものにも多数見受けられる。

現代においても、スピリチュアル系の人たちの中には、ネガティブな情報はネガティブなものを引き寄せるから良くないと言って、地球人みんなが解決に向けて取り組むべき問題を提起し、行動している人たちを抑えこもうとするような人も散見する。ただ何か唱えていればいいのだと。神や仏にお任せすればいいのだと。心の痛む問題を多くの人に見せるのは、その問題を増幅することにつながるから害悪だと。

私が社会の問題について語ると、ホ・オポノポノを信じている人は、「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」とさえ唱えれば悪いものは全部クリーニングされるからもう心配するのはやめようと言う。放射能も、添加物などの化学物質の毒も、社会の不正も、戦争も、環境破壊もみんな、「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」と唱えさえすれば、なくなるとでも言うのか? 

はたまた、「引き寄せの法則」を信じている人は、ネガティブな思想はネガティブな現実を引き寄せるからそういうことは「しゃべるな」と、感謝がいいことを引き寄せるからひたすら「ありがとう」と唱えればいいと言い、引き寄せを信じている人がさらに進むと波動を信じるようになるらしいが、何か特別な周波数の音を流せば浄化される、エネルギーの高いマントラ(般若心経など)を唱えるだけでいいと言う。決まって、ネガティブな現実に目を向けるな、と言うのだ。注意を向けるということは、それに力を与えることになるのだからと。

思考が現実になるとか、なにか波動の高いものを唱えれば浄化されるとか、そういうこともあるかもしれないとは思っている。しかし、それは仮説でしかない。それが真実だと考えて、ただ唱えて、念じて、祈ってさえいればいいと思うのは勝手だし、それで本当にうまくいくと思っているのなら、そうして世界をいい方向に導いてくれればいいのだが、異なる考えを持っている人に、無理やり同じように考えさせようとするのはよくないと思う。「自力」を大事に生きている人たちにまで、「自力」を捨てるように迫る。前述の三井甲之たちのグループは、暴力的な手段にも及んだ。

私からすれば、自分の直感や信念に従って「自力」を大切にして生きている人たちにまで、「自力」を無理やり捨てさせるように暴力的な手段を行使する、それこそが「自力」だと思う。「ありのまま」を良しと思い、「祖国日本」と唱えれば世界が良くなると思うのだったら、他者を攻撃することなく、ただひたすらに「祖国日本」と唱え、「ただ日本は滅びず」と念じていているべきではないか。他者の行動や考え方を力ずくで変えようとすることこそ、「自力」の行いではないのか? 現代の多種多様なスピリチュアルを信じている人たちの一部もまた、「自力」をひたすらに否定するようなことを言ってくるが、考えること、知ること、解決のために行動を起こす人たちの邪魔立てをすることだって、「自力」ではないのか?

なにか唱えるだけですべて救われるのだったら、そんなに簡単なことなんだったら、とっくの昔にこの地球は楽園になっているはずだ。だが、現実はそうではない。まずは問題を知らなければ、この問題を解決したいという願いも生まれない。もっと現実的には、解決に向かう世論も生じ得ないし、世論が高まらないことには政治は変わらない。そういうニーズが大きくなれば、企業も変わっていくし、日常における選択もどんどん変わっていく。

「他力」や、そのほか、波動や法則や神や宇宙など、なにか偉大な力に帰依して生きようとしている人たちも、結局は自力の域を出ることはないのだ。自力の域を越えてなにか偉大な力と一体になることは、悟った人間にはわかる境地かもしれないが、まだ悟っていない人間には、「ごっこ」程度でしか実践はできない。ごっこ遊びをする子どもは「ごっこ」だと理解しているからいいのだが、悟った人間「ごっこ」をしているスピリチュアル系の大人は「ごっこ」だとわかっていないから怖い。まだ悟っていないほとんどの人間は、個人の自由を取り戻し、人間を含めたすべての生き物に幸福と安寧をもたらすことに貢献するなど、なるべくよいことに「自力」を使っていくしかないのではないだろうか。

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20160913

愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉

この記事は昨日からの続きです→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉

政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で投稿しています。

昨日は、社会的紐帯が希薄になった社会で砂粒化した人々が自己の実存の基盤を求めて宗教やナショナリズム、全体主義に傾倒していく、というメカニズムなどについて書きました。今日は当時の人々がどのようにしてナショナリズムに傾倒していったのかを、時代背景とともに、もう少し具体的に書きたいと思います。

*****
「煩悶青年」と呼ばれる戦前の若者たちのことが語られている。

彼らはエリートコースを歩む10代、20代の若者たち。「末は博士か大臣か」と持ち上げられ、立身出世を志、勉学に励んできたが、国家の成長がピークに達した後、気づいてしまった。

「立身出世をしたところで何になるのか?」

日清・日露戦争の戦間期にあたる1903年頃、1880年代生まれの青年たちのなかから、こうした「個人の内面の葛藤に苦しむ教養青年たち」が大量に出現した。

「煩悶青年」が社会現象化するきっかけとなったのは、藤村操さんという16歳の学生の自殺だった。彼は日光の華厳の滝に飛び込んで亡くなった。その死の直前に樹の幹に書き込んだ文章に「煩悶」という言葉があり、以降、「煩悶青年」という言葉が、彼のように生き方や人生に煩悶する青年を表すようになった。

藤村操さんは、北海道の銀行の頭取の息子で、「天下のエリートとして」旧制一高(現在の東京大学教養学部および千葉大学医学部と薬学部の前身となった旧制高等学校)に入学したものの、「立身出世」という価値観についていけなかった。次第に、他者や自然と調和できないことを悩み苦しむようになっていく。

親鸞の教えに近代的な解釈を加えた近角常観(浄土真宗大谷派の僧侶)が旧制一高の近くに開いていた「求道学舎」(孫の近角真一氏によってリノベーションされて現存している)に通うなど、宗教にも答えを求めたが、満たされることはなく、自然賛美のワーズワースの詩の世界に傾倒していくうちに、最終的に、本当に自然と一体になるには、「華厳の滝に飛び込まないといけない」と考え、飛び込んでしまったという。

明治前半の日本は、幕末から続く不平等条約や、諸外国からの二流国家扱いなどの屈辱を味わい、「欧米列強と肩を並べたい」「近代国家として認められたい」という、単純な目標で国が一つになれたという(それも息苦しい話だが…)。

個人の人生の目標は、立身出世をして、近代国家建設に邁進する、すなわち、富国強兵と殖産興業に貢献すること、国家全体の目標は、欧米列強と肩を並べることであり、両者が一致しやすかった。

しかし、日清戦争と日露戦争での勝利によって、いざ欧米列強の仲間入りを果たすと、個人は目標を見失ってしまった。思い描いていたような理想はそこにはなかったのだ。国家の物語と、個人のサクセス・ストーリーとが、一致させられなくなってしまった。がんばって登ってきてみたけれど、望んでいたものとは何かが違う。そういう空虚感にさいなまれる若者が溢れたらしい。

エリート青年たちは、「立身出世をしたところで何になるのか?」と煩悶するようになる。こうした煩悶青年たちが通い詰めるようになった私塾が、前述の藤村操さんが通っていた「求道学舎」と、親鸞の「絶対他力」という教えに、近代的な表現を加えた清沢満之の「浩々洞」だった(「求道学舎」を開いた近角常観は清沢満之の弟子)。

合理主義者や国家改造論者を糾弾し、「全体主義の地ならしをした」という原理日本社を創始した三井甲之もこの「求道学舎」に通い、親鸞の教えに傾倒していた。親鸞の思想が言論封殺につながったというのは驚きだった(どのようにしてつながっていったかは後日)。原理日本社が絡む最も言論封殺事件には、国会議員で「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉氏を辞職に追い込んだ天皇機関説事件がある。

ここまでの流れを読んで、欧米列強並みの近代国家をつくろうと、坂の上まで一心不乱に登ってみたけれど、てっぺんまで登ってみたら、思い描いていたような現実はなく、雲の中に突入したかのように、どっちを向いたらいいかわからなくなってしまった(これを司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』がタイトルごと核心をついているという)というのは、今の日本社会とよく似ていると思った。

学校の勉強をがんばって、「いい大学」に入って、「いい会社」に入れば一生安泰だと言われて、幼少期から努力してはきたけれど、いざ「いい大学」を出たところで、一生安泰な仕事なんてない。

とりあえず食いっぱぐれのなさそうな仕事を見つけ、どうにか一生平穏に暮らせるかと思いきや、原発が爆発して仕事を辞めて避難移住を余儀なくされたり、ブラック企業で病気になってしまったり。政府による雇用破壊が進み、解雇もしやすくなっているし、賃金も下げやすいし、リスクが多様化し、一寸先は闇のような状況になっている。今の政府は放射性物質を含むがれきを日本全国に撒き散らす政策も進めているので、原発周辺地域にかかわらず、どこで急激に汚染が高まるかもわからない(全国で焼却もしている:静岡市の震災がれき試験焼却で明らかになった広域処理での放射能拡散増加の可能性)。

学校の勉強をがんばって、「いい大学」に入って、「いい会社」に入れば一生安泰というひと昔もふた昔も前の幻想を教えこむ教師や親たちの時代とは全く違う。「どうなってんだよ、この国は!」と叫びたくもなるような今の日本で、目標を見失い、人生の意味や生き方に思い悩む人たちは増えている。玉石混交なスピリチュアルブームと、ナショナリズムの台頭は、これとは無関係には思えない。先月、相模原市で起こった優生学的思想に基づくヘイトクライムなど、異常なほど狂信的になってしまう人も目につくようになっている。

作家の雨宮処凛さんも『「右翼」と「左翼」はどう違う?』の中で、それなりに努力して、それなりにいい大学に入ったつもりだけど、大学を出る頃には就職氷河期まっただ中。自分に誇りを持てなくなり、「日本人」という不動の指標をよりどころにする「右翼」の思想に傾倒していった経緯を語られていた。小林よしのり氏(「右翼」に傾倒する人たちがよく読んでいて、「右翼」に傾くきっかけになっていることも多い「ゴーマニズム宣言」などを書いている漫画家)の本に影響を受けて、アジテーションを含むスピーチや反米右翼のライブ・コンサートを行うほどのバリバリの右翼だったという。

いい大学には入ったけど、もはや「いい会社」に入っても一生安泰など期待できないということに、就職活動のあたりにはもう薄々勘づいてしまっていた私だが(そういう時代だったので、同年代の友人たちは公務員や官僚、おそらくなくならないであろうインフラ系の企業を目指す人が多かった)、昨日書いたように「なんで生きているんだろう?」と自分の存在意義を疑問に思うことも、たまにあるにしても、ナショナリズムに染まることもないし、宗教やスピリチュアルにどっぷりはまることもなく済んでいる。

それは、自然とのつながりを感じられる暮らしをしていることが大きいと思う。たくさん採れた自然の恵みを分け合えるし、自給自足に近い暮らしでは、稼ぎが少なくても生きてはいけるので、時間に余裕ができて、できることで手助けしあうこともでき、人とのつながり、縁のありがたさも強く実感できる。地方の人は、生活費が都会よりもかからないので、そういう人が多いように思う。よくいろんな人が助けてくれる。

それに、毎日手や足を動かしてやることが山のようにあるので、暇している暇がない。身体を動かさずに頭ばかり使う暇があると、頭でっかちにいろんな思想をこねくり回しておかしな方向に行きがちだと思う。ナショナリズムも宗教も、頭の中だけでこねくり回しているから、おかしな方向に行ってしまうのではないだろうか。

日蓮思想から発生し、テロリストも輩出した「国柱会」という団体に、宮沢賢治も入会していたそうだが、彼が危険思想には至らなかったのは、農の実践があったからだと思う。

私は日本が好きだ。そういう意味では、愛国主義者だと思う。でも、その「国」というのは、この大地と水と空気であり、私を活かしてくれている生き物たちの営みであり、この国に生きている人々であり、例えば旧暦や発酵食、自然農法など、先人が残してくれた知恵や文化であり、腹に落ちて感じ取れるものだ。「国体」などという雲をつかむような概念ではない。「国体」の反映のために日本の大地を汚し、戦場にして破壊し、この國に生きる人々を苦しめることは、私にとってはむしろ愛國心に反する許しがたい行為だ。

神や精霊も、頭の中だけで概念をこちゃこちゃひねくりまわすからおかしなことになる。自然とともに生きていれば、不思議な事はいっぱいある。驚くこと、sense of wonder が働くようになる。私を生かす力、すべてのものを成長させ、成熟させる力が至るところにある。それを感じとれば、人殺しや搾取、環境破壊に結びつく宗教になることはないはずだ。金をまきあげたり、勧誘して信者を増やせば功徳が高まったり、そんなのはおかしいとわかるはずだ。

藤村操さんの事件の経緯を知って、芸術作品までもが人を死に至せる要因となりうるとは衝撃だった。困難な時代には、何であれ危険につながるものにいつ変化するかわからないのかもしれない。人と人とのつながりが希薄なさみしい時代、だれかを蹴落とさないと生き残れないと思い込まされるような時代、希望の見えない不安定な時代、どんなひどい時代でも、自然とのつながりを感じ、自然とともに在る生き方をしていれば、自然が無尽蔵に与えてくれる恵みを人と分かち合うこと、喜びを分かち合うこともでき、生き抜く強さを与えてくれるのではないかと思った。自分にはできることがたくさんあると感じることもできて、自尊心だって自然に高まってくる。少なくとも私はそうだし、そういう生き方をしている友人たちも、とてもいい顔をして過ごしている。

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20160912

『愛国と信仰の構造』を読んで 〈1〉

『愛国と信仰の構造』は、政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書。

明治から大正、昭和にかけて、日本を戦争へと向かわせた戦前のナショナリズムと全体主義がどのようにして起こっていったのかを検証している。

今の日本も、ヘイトスピーチがネット上でもリアルでも横行するようになるなど、ナショナリズム、排外主義が一定の支持を集めるようになっている。書店でもいわゆる「右翼」の本の広がりが多く目につくようになった。

安倍政権の主要閣僚のほとんどが所属している「日本会議」と「神道政治連盟」も、皇室を中心とした日本社会を理想とし、個人ではなく国体を重視するナショナリズムと全体主義の極めて強い団体だ。

その影響が色濃い自民党の憲法改正草案は、基本的人権、国民主権、平和主義、立憲主義が否定されている。現行憲法の「個人」の「個」が消え(日本国民のことを犬、猫、豚、牛、猿ではないとは認める、人としては認めるけど、違いや個性は認めませんということ)(1)、基本的人権の条項はごっそり削除されている(2)など、全体主義そのものとも言える草案だ(*)。国連人権理事会も、自民党の改憲草案を見て「これは何世紀前の憲法か?」と驚き、呆れているそうだ。

*以下の記事がよくまとまっている:
(1) 憲法学の「神様」がIWJに降臨!前代未聞!樋口陽一・東京大学名誉教授が岩上安身のインタビューで自民党改憲草案の狙いを丸裸に!(2016.2.17)
(2) ジャーナリスト・志葉玲さんの有料メルマガより:【転載・転送歓迎】酷すぎる自民党「壊憲」案のツッコミどころ
(検索すると対象をわかりやすく解説したページもたくさん出てくるので調べてみていただいて、ぴったりのものを選んでいただければ幸いです)

このように、市民レベルでも、国政のレベルでも、ナショナリズムが強くなっているなかで、戦前のナショナリズムの構造を分析し、しっかりと検証することが、戦争という同じ過ちを繰り返さないようにするために、非常に重要なのではないかと思い、本書を手に取った。

中島さんも本書の中で、次のような問題意識を語っている。
ナショナリズムと宗教。あるいは、愛国と信仰。このふたつが暴走するのは、とても危険なことです。第二次世界大戦前の日本でも、現代と同じように個人が砂粒化していた。そして、その後、起こったことは、バラバラの個人が国家とダイレクトに結びつき、全体主義の時代になだれ込み、戦争に突入していったという歴史です。
 戦後、七〇年あまりたった現代においても、同じことが繰り返されるのではないか。こうした危機感を、今、多くの人が直感し、それを共有するようになりつつあります。
 しかしながら、そこに至るまでの道筋や因果関係の分析というのが、実はまだまだ甘い。(p.18-p.19)
島薗さんも、この問題意識を共有している。
戦前の日本が抱えたナショナリズムと宗教の問題が、いまだに片付いていないという中島さんの認識は、まったくその通りだと思います。私の専門分野の宗教学の世界でも、戦前のナショナリズムを支えた国家神道という装置をどう考えるのか、という議論ですら、まだまだとても不十分な状態です。(p.19)
ナショナリズムと宗教、愛国と信仰が強い結びつきを持つに至るまでには、どのような背景、メカニズムがあるのか? 

両氏は、
極度の競争社会と社会の流動化により、社会的紐帯(地縁、血縁、利害関係など、人と人とを結びつけている条件)が希薄化すると、個人の砂粒化(岩が風や水などで削られてバラバラの砂粒になり、漂流する様子に、他者との結びつきを徐々に失って漂流するようになった個人を重ねあわせている言葉)が起こる。その結果、承認欲求を満たすリソースが不足し、自分の存在意義をナショナリズムや宗教に求める人が増える。(筆者要約)
と、分析している。

学校の勉強という単一のものさしで、幼少期からひたすら競争にさらされ、イス取りゲームのような受験が続き、学校を卒業したと思ったら、まともな仕事は十分になくて、また仕事を奪い合うイス取りゲーム。職に就けたとしてもまた誰かを蹴落としている(関連記事:「反貧困の学校」と「反貧困の学校2」を読んで〈その2〉―貧困は自己責任に非ず。セーフティネットはどんな状態?編)。

仕事を見つけられなかった人や、低所得の仕事しか見つからなかった人は、自分に能力がないせいだと自分を責め、他人からそういう目で見られることもある。運良く、それなりにまともな仕事のある人たちは、貧しい人を能力がないせいだ、努力が足りないからだと、自己責任論で片付け、優越感にひたる。原因は政治の失敗にあるにもかかわらず。しかも、その失敗をつくっているのは、民主政治に真剣に参画しない国民にほかならない。

私もときどき、「なんで生きているんだろう?」と思うことがある。この本で語られている「底が抜けてしまった個人の実存」とまでは行かないにしても、自分の存在理由を疑問に想うことはある。

今のところ、食べていくには問題ないのだが、「この年収の人にこんなに税金とったら食っていけんやろ!」と思うほど高い税金の請求が来る。「税金が払い続けられるだろうか?税金が払えたとしても他の固定費(“奨学金”という名を借りた学生ローンの返済に家賃、ネット代、携帯電話料金、光熱費など)が払い続けられるのか?」と綱渡りのような感覚がするときもある。

こうした税金は、前年の収入を元に税額が決定するが、翌年も同じだけの収入があるかどうかはわからない。「貯めときゃいいじゃん」と言われたこともあるが、住民税が年収の10%、国民健康保険税も年収の10%近く、それに加えて所得税、全部で25%前後持っていかれるなかで、毎月かつかつでやっている人がどうやって貯めておくことができよう?(それを私に言った人は、年収600万円はあると思われる、月々の固定収入のある人で、貯金にまわすお金が余裕であるので、恐らく、年収100~300万円ほどの人の状況は想像できないのだと思う)

そうなると、生きていくためにはお金が必要だから、何かほかにバイトでもするか?と思うのだが、やっていいと思えるような地球と人権に配慮した仕事はほとんど見当たらない。お金が必要だからやりたくないこともやらなきゃいけないではないか、生きていくためにはお金を稼がないといけない。

でも、好きなことだけしていてもゴハンはゆっくり食べていけるくらいのお金はあるのに、税金のためにやりたくもない仕事をするのか? 生きていくためには税金を払わないといけないんだから仕方ないではないか。やりたくない仕事をやらないで、生きていくためには、やりたい仕事をどうやってつくるか考えないといけない。

営業は大の苦手だし、友だちからお金を取るのも嫌だ。中途半端な知識でワークショップなどを開くのも(そんな人もかなりいるけど)、何年もかけて確かな知識と技術を身につけた上でワークショップを仕事にしている友人・知人にも、お客様にも失礼な気がする。仕事をつくるのって難しい…。生きるためにはそういうことも仕方がないのかもしれない。だって、生きるためにはお金を稼がないといけないから。働かないといけない。でもなんで生きているんだろう? 税金を払うために生きているのか?

こんなふうにぐるぐる考えた結果、私なんていてもいなくても世界にはそれほど大きな違いはないんじゃないの? なんで存在しているんだろう? なんて生きているんだろう? わからなくなってきたなぁ・・・と思うことはときどきある。

幸い、翻訳やリサーチなどのフリーでの仕事はおもしろいし、意義を感じられる仕事がほとんどで、「tom-tomがおらんかったら困る!」と言ってくれる家族や友人にも恵まれているので、社会的紐帯は大丈夫で、もんもんと考えることはない。お金を使わずに楽しく豊かに生きる知恵や技術もついてきた。

しかし、社会では、つらい仕事を安い賃金でさせられている人も多くなっていて、お金のかかる生活以外知らない人がほとんどではないか。「お前のかわりなんかいくらでもいるんだよ」とか言われたら、本当に傷ついて、個人の実存の底が抜けてしまうのもわかる。

高給取りならいいかといえばそういうわけでもなくて、高給取りでも仕事一色の暮らしでは、人生を楽しむ余裕もなく、土日は体力と気力の回復で精一杯で、生きている意味がわからなくなる人もいるかもしれない(関連記事:「モノに使われるな」)。ポジションと高い給料を稼ぐことなんて、個人の尊厳を支えるには危うすぎる。

そんなふうに「底が抜けてしまった個人の実存」を抱えながら、それでも生きていかないといけないとき、宗教や「生まれ」という不動の指標によって自己を意味付けしてくれるナショナリズムを拠り所にしたくなるという気持ちはなんとなく理解できる。そういう人たちがすごく増えてきていると思う。多種多様なスピリチュアルものに没入している人も多い。玉石混交で見極めが難しい。

希望が見えない今の日本社会で、「底が抜けてしまった個人の実存」をどう解決していけばよいのか。それを考えるうえで、重要な事実や見解がたくさん書かれている本だった。(つづく)
***
この本についてはほかにも書きたいことがたくさんあり、もうだいぶ長くなってしまったので、また明日以降の投稿にします。

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20160911

「陰口」ってなんだ? 

打ち明け話をされた後で「ごめんね、こんな陰口言って」と謝られたり、明らかに理不尽な目に遭っていそうなのにいいことしか言わなかったり、「なんでそうなるの?」と腑に落ちないことがあります。

「陰口」ってなんだ? 

いわゆる「陰口」=本人の前では直接言えないこと、には2種類あると思いました。

1つは、本当の「陰口」や「悪口」と言われるもの。卑怯さから起こるもので、本人を前にして言えば、ぴしゃりと言い返されてしまうような嘘やつじつまの合わない批評などです。事実無根の悪評や、発言の一部を取り出して尾ひれはひれをつけた話などもそうだと思います。

本人を前にして言えば、負けるのがわかっているので、本人にはとても言えないから、本人の前では言わない。陰で何もわからない人に吹聴すれば、その人のイメージを下げることができると考えて、本人のわからないところで言いふらすこともあります。悪意に基づいた行為です。

もう1つは、真実ではあるけれど、物事を円滑に運ぶための知恵や相手への配慮から言わないもの。本人に直接言うと、なんらかの危険が伴うために言えない、という類いのものです。

本人に直接言うと、命の危険があったり、そこまで行かなくても、人間関係がぎくしゃくするのが嫌だとか、お金を払ってもらえなくなるかもしれないとか、あるいは、傷つけそうだから言わないでおくほうが賢明だとか、そういう理由で、真実でも言わないでおくのですが、やっぱり、モヤモヤが残るので、気心の知れた人に打ち明け話をする。

前者と後者が入り混じっている場合もあって、きれいに分かれるとは限りませんが…。後者は私は「陰口」とは言えないと思うのですが、これも「陰口」に含まれると考えている人も多いようです。

後者の場合、真実であるならば、私はなるべく本人に伝えるようにはしています。そのほうが本人のためになるし、私の思い違いであれば、相手からの反論によって、誤解に気づくことができるからです。言葉を慎重に選びながらになるので、かなり心に負担がかかります。

それでも最近は、なんでもかんでも真実なら言えばいいというものでもなく、これは言わないでおいたほうが円滑に行く、ここは相手がプライドを感じている部分だからいくらいいことでも言わないほうがプライドを傷つけないで済む、重要な部分はずばっと言ったから、細かなところまで指摘したら受け止めきれないだろう、など、いろいろな配慮が働いて、言わないこともあります。そのときはなんとなく流してしまったけど、後から考えたら変じゃないか?と気づくことも。

言いたいけど言えなくて引っ込めた言葉は、なくなるわけではなくて、出さないと身体にわるい感じがするし、いつまでもそのことを引きずってしまう感じがあります。

八つ当たりみたいにその出し方を間違ったらいけないけど、きちんと整理して、何が嫌だったのか、なぜ嫌だったのか、本当はどうしたかったのか、次はどうすれば嫌だったことを防げるのか、防げないのであればどうやって乗り越えていくのか、などを考えることは、大事な学びになると思います。

一人で解決できることもありますが、他の人の意見を聞きたいときもあります。そういうときは、何があったのか、自分はどう考えているのかを話します。もし、同じような嫌な目に遭う人がいるかもしれない場合には、本人には言わなかったことでも、実際に起こったことを伝えて、未然に被害を防ぐことも大事だと思っています。

私も他者から打ち明け話をされることがありますが、それは真実であれば、自分の学びにもなります。同じようなことが起こった場合にどうするのかを考えたり、あるいは、問題の人物が自分ともつながりのある人であれば、対処方法を考えたり。

本人を前にせずに語られることが、だれかに対する悪意に基づいたものであれば、それは悪口や陰口ですが、真実に基づいた全うな批評であれば、それは悪口や陰口ではないと思います。

円滑に物事を進めるための知恵や相手に対する配慮から引っ込めた本音は、悪口と混同しないほうが健全ではないでしょうか。この2つを混同してしまって、つらいことを一人で抱え込んで悶々としたり、現実から目をそむけたりしていても、前に進んでいかないと思います。自分が嫌だと感じたことについて、きちんと整理しておくことや、第三者の意見を聞いてみること、被害の及びそうな人に予防のために伝えるということは、自分だけではなく、他人のためにもなることかもしれません。

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20160910

「イクメン」「ペアメン」という言葉に感じる違和感

以前、「ワーキングマザー」「働くママ」という言葉に違和感を感じるという話を書いたときに、「イクメン」という言葉についてもまた追々書きます、と書いたのに、すっかり忘れていました…。すみません。今日こそは書きます。

収入を得るような仕事をする母親、特に会社で働く母親は特殊だと言わんばかりに、「ワーキングマザー」というような特別な名称が使われるようになっているのと同様、「イクメン」=育児をする男性というのも特殊だと言わんばかりの言葉です。

最近、よく聞くようになりましたが、男性が育児をするってそんなに特殊なことなんでしょうか。もう21世紀、2016年ですよね?? 育児をする女性を指す言葉はありません。育児は当然女性がするものだと思われているからですか? 「イクメン」も「イクボス」も「ペアメン」も、軽々しくて不愉快を感じる言葉です。

私が男で父親で、「イクメン(育児をするMEN[=男性])」とか「ペアメン(parenting menの略で親の務めをする男性)」とか言われたとしたら、「親なんだから当たり前やろが!特別視してんじゃねえ!」とイラッとすると思います。「えらいでしょー!でへへっ」とかなる人いるのか?

ジェンダー問題についてよく書かれている香川のブロガーのyossenseさんも、このことについて何か書かれているかな?と思って検索してみたら、やっぱり、イラッとするそうです。
2014年12月5日 「イクメンですね!」と言われるとイラっとするという話
ヨスさんの記事を読んで、現代の会社の働き方では、男性が育児休暇を取りにくかったり、男性が育児に関わることが制度的に難しいという視点が、私の忘れがちな視点だったなと思いました。うちの父は会社員ではなく、自営業でいつも家にいましたが、育児は母がするもので、威張るのが父の役目だと思っている節のある人でした(立派な名言も聞かせてくれたし、生活に必要なお金をつくってくれたし、感謝をしている面も多いのですが、そういう男女差別の考えは嫌でした)。

なので、会社員のお父さんというのは、直に経験をしたことがないので、どんな感じなのか、想像が薄いのです。確かに、関わりたくても関われないという父親も多いだろうなぁと思いました。「イクメン」など、育児をする男性を特別視して持ち上げるような言葉を流行らせて、根本的な解決をせずに、個人の努力でどうにかさせようとしているのではないだろうかとも思いました。

スピリチュアルな観点でどうこうというのはよくわからないですが、親が二人いるというのにもきっとわけがあると思います。女だけがやるものでは本来ないはずです。父親が死んじゃったとか、失踪したとか、そういう特殊な緊急事態に備えて、女だけでも育てられるようにできていると思いますが、それはあくまでも特殊事態であって、二人でいるなら普通は二人で育てるものだと思います。

育児は母親だけがするのが当然で、父親がするのはめちゃくちゃ特殊なことなんていう状況だと、父親から子どもが得るものってお金とDNAくらいのものですよね? そんなの悲しすぎるではないですか。

二人の異なる人間が子育てに関わることで、子どもに何らかの良い影響があるのだと思います(一人親に育てられた子どもが不十分だと言っているわけではありません。人間はさまざまなものからインスピレーションを受けて育っていくものだと思うので)。それだけではなく、子どもを育てることで、親にも人として成長するのに重要な経験が与えられるのだと思います。よく、「子育て」は「共育ち」というような言い方もされますが。

ちなみに相方は、子どもにもニックネームで呼んでもらうと言っています。対等に人間として付き合いたいからだそうです。「お父さん」など関係性の名称にしてしまうと、上下関係が生じるからだということです。母が姪に、私のことを「おばちゃん」とは絶対に呼ばせないと言って、ニックネームで呼ぶように教えこんでくれたのですが、確かに、「お年玉ちょーだいっ」みたいな関係ではなく、対等な友だち感覚で、保育園や学校で起こったこと、考えていることなどを、いろいろと話して聞かせてくれます。相方いわく、「これからは個人の時代よ」と言っていました。こういう相方と話していると、「イクメン」なんて言葉が何世紀も前の言葉のように感じます。

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20160909

宇都宮けんじさん、小池・東京都知事への10の提言に2項目を追加し、都議会各会派へ要請

先日、宇都宮健児さんが東京都の小池百合子知事に10の提言書を提出したことについて、メールニュースを転載しましたが、続報です。

新たに2項目を加えた12の提言を都議会各会派へ提出したとのこと。具体的には、定時制高校の存続と、ヘイトデモ規制のための調査の2つが追加されています。

・○・「うつけんニュース」vol.101より転載***************

私たちは、8月30日に小池百合子都知事に提出した都政に関する「今すぐ取り組んでほしい10の政策提言」に、新たに寄せられた2項目を追加した12の要請書を、9月6日、都議会各会派へ提出いたしました。「選挙は運動の底上げをする大きなチャンスだが、大事なのは選挙の無いときにコツコツと運動を継続させていくこと。選挙を一時的なお祭りで終わらせてはいけない」。今後も私たちは継続的に都政にアプローチしていきます。


─────・○・CONTENTS・○・─────

1. 都議会各会派へ「今すぐ取り組んでほしい10の政策提言」+2項目を要請
2. 宇都宮けんじの出演予定


──────────────────────
1. 都議会各会派へ「今すぐ取り組んでほしい10の政策提言」+2項目を要請
──────────────────────

都議の方によっては、意見の異なる政策項目ももちろんあり、激論を交わす場面もありましたが、あえて正面から議論できる機会が持てたことはたいへん貴重でした。お時間を割いてくださった都議のみなさんには心より感謝します。

こうした丁寧な話し合いを積み重ねることは、民主主義に欠かせないことではないでしょうか。「政治スタンスが違う人とも、都民のため、という視点では一致できる政策は必ずある」という宇都宮けんじの持論を目の前で見るような思いでした。

会談させていただいた都議の方々など、詳しくはこちらをご覧ください
宇都宮けんじブログ
http://utsunomiyakenji.com/1201

・8月30日に小池都知事へ提出した「今すぐ取り組んでほしい10の政策提言」
  1.都民への情報公開の徹底
  2.築地市場
  3.地下鉄の安全
  4.福島原発事故避難者の住宅
  5.待機児童ゼロを目指すうえでの基準確保
  6.子どもの貧困
  7.羽田空港増便による低空飛行問題
  8.米軍横田基地のCV22オスプレイ配備問題
  9.都市計画道路
  10.放射性物質による汚染基準の厳格化

・今回新たに追加した2項目
  1.東京都教育委員会による「都立高校改革推進計画・新実施計画」の中の都立高校定時制4校(小山台、立川、江北、雪谷)の廃止決定について、生徒や関係者の声を聞き、本計画を凍結、同4校の存続を求める。
  2.「ヘイトスピーチ解消法」が成立したにもかかわらず、いまだ都内でも多く行われているヘイトデモについて実態調査を行ない、差別の解消に向けた基本方針と具体的施策を定める都条例などを整備すること。

*あわせてこちらもご覧ください*

塩村都議、小池知事に向けた政策提言を宇都宮氏に?
(日刊スポーツ 2016年9月6日配信)
http://www.nikkansports.com/general/news/nikkan/1706006.html

宇都宮氏が都議と意見交換 築地市場問題にもハッパ
(日刊スポーツ 2016年9月6日配信)
http://www.nikkansports.com/general/news/nikkan/1706064.html

【築地市場移転延期】宇都宮健児が小池百合子の“決断”を分析
(〈週刊朝日〉dot. 9月7日(水)7時0分配信)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160906-00000200-sasahi-pol&p=1

**************************
[転載はここまで]

選挙のときだけではなく、日頃から本気で取り組んでいる姿勢が素晴らしいと思いました。こういう本物のstatemanに増えてもらいたいし、私もそのためにできることを探してコツコツやっていきたいです。

ちきりんさんのブログのスタンスに共感した話。

ちきりんさんという有名なブロガーさんがいます。以前にも、ツイッターとフェイスブックの世界の違いについて書いたときに、ちきりんさんのツイートのまとめをご紹介しました。社会で起こっているさまざまなことについて、考えられたことを書かれています。

相方がブログで収入を得ることを考え始めたころ、参考になりそうだなあと思ったので、ちきりんさんのブログのスタンスを書かれた本『「Chikirinの日記」の育て方』と『「自分メディア」はこう作る! 』を読みました。


アクセスアップを狙っていなかったというところなど、ブロガーの本ではかなり異色でおもしろかったです。中身へのこだわりにも共感するところが多かったです。

特に印象に残ったのは、自分の頭で考えてもらいたいというスタンス。ちきりんさんのブログは、あくまでもちきりんさんが考えたことを書いたものであって、正解を示しているわけではない、自分で考えてみて欲しい、というスタンスが素敵だと思いました。

肩書や経歴、卒業大学などが明らかだと、記事の中身ではなく、そういうレッテルで正しいかどうかを考えようとする人がいるため、それは避けたいということで、経歴などは伏せたまま、どこのだれかもわからない匿名でブログを書かれています。

ブログ記事を書く際にイメージされているのは、
「飲み会で、友だちに伝えたいことを一生懸命に話している私の声を書き起こした文章」(『「Chikirinの日記」の育て方』)
なので、論文のように資料を当たったり、論理性を研ぎ澄ませて書いているわけではなく、ときどき、ニュースで流れたけど誤報だったと後からわかったものがそのまま残っていたり、「え、その結論でいいの?」と(私は)思ってしまう記事もたまーにあります。

でも、それがまたいいのだろうと思いました。完全に頼れるソースになってしまうと、読んだ人がちきりんさんの頭脳を当てにして考えなくなってしまう。ゆるい感じで考えたことを書かれているために、読み手はそのまま鵜呑みにすることなく、本当かどうかを、論理的または倫理的に正しいと言えるかどうかを、自分の頭で考えて判断しなければならないのが、読み手の甘えを防ぐ上でとてもよいのだと思います。

私も、ブログにいろいろ考えたことを書いていますが、以前にも書いたように、アクセスアップとかはあんまり考えていなくて、思ったことを自由に書けるところがほしいというのと、自分の意見を持つということ、声をあげるということが普通になってほしいという願いがあって、それをこの世に実現する一人として書いていきたいというのが、ブログを続けている理由です。

私がブログに書いていることも、あくまでも、「私が」考えたことを記しているだけで、正解を提示しているのではありません。一つに定まる解などないのではないでしょうか。いろいろな情報を考えあわせて、真剣に考えた上で、私が正しいと思うことを書いていますが、誰もにそれを正しいと考えてもらいたいとは考えていません。みんなにそれぞれ自分の頭で考えて意見を持ってもらいたいと思っています。真剣に考えた結果、異なる意見になる場合があることは当然だと思うし、違う意見があるからこそ、議論は発展していくものだと思います。

私が書いていることは、間違いもあるかもしれません。人間ですから、誰しもそうだと思います。だから、みんなでそれぞれ責任を持って考える。異なる意見を交わして、事実の誤認や思い違い、見落としていた重要な事実などに気づき、よりよい解決策へと発展させていく、それが一番大事なことではないでしょうか。議論は勝ち負けではないのですから。

私が書いていることが、読んでいただいた方がご自身で考える契機となったり、あるいは、考える材料にしていただけたり、そういう面で役に立てていたらうれしいです。

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20160908

うちの相方はおもしろい

先日、うちの相方がおもしろいという話をちらっと書きましたが、本当にテレビもゲームもいらないくらいおもしろいです。外では澄ましていますが、とにかく笑かしてくれます。

先日は、ようやく涼しくなってきて、夕方田んぼの草刈りに行き、私は家でおやつにわらび餅を作って待っていました。帰ってくると相方は息を切らしながら、今日の報告をしてくれました。

相方: 水分補給にトマト食べたら
tom-tom: うん
相方: 馬力出て
tom-tom: うん
相方: 田んぼの草刈りほとんど終わった!
tom-tom: ほうー。すごいやん!

…と普通に流してしまいそうになりましたが、ふと考えてみると、

tom-tom: ん? これ、全部つなげるとちょっとすごい文章でない?
『水分補給にトマト食べたら馬力出て、田んぼの草刈りほとんど終わった!』だよ? 
こんな文章すらすらと口から出てくる人そんなにいないよね? さすがブロガーや。

と二人で爆笑。きなこを喉につまらせそうになりました。

同じ日、夕飯に使う青じそをとりに庭に出たら、ミニトマトが赤くなっていたので摘んできました。その日は二人でベジ餃子を包んでいたのですが、「これに包む?」とすでに具が余りそうなくらいあるのに、相方はミニトマトを餃子の中に入れようとしました。

tom-tom: いや、具余りそうやで
相方: じゃあ空いてるとこで炒める?
tom-tom: なんで? せっかく生でもおいしいのに?

それ以上何も言わないので、生で出したところ、相方は手をつけようとせず、「もういっぱい食べたから、tom-tom全部どうぞ!」と、毒でも入っているのかと思うほど遠慮します。不審に思い、「何個くらい食べたの?」と聞くと…。

「50個くらい。いや、50個できかんか。7、80個は食べた!」

それは、もうトマトが食べたくないわけだ、と納得しました。水分補給にってそんなに食べたのか! そりゃあ馬力出るわぁ~と思いました。

このトマトは、種をまいていないのに、生ゴミを堆肥化している途中の場所から自然に生えたミニトマトで、大木になっていて、7、80個くらい食べても次々実をつけてくれます。こんなに食いしん坊で、しかも、生命力のある食べ物となると、やっぱり自給自足でなければ追いつきません…。

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20160907

家事や育児について考えていること(誤解されると困るので…)

ジェンダーについてちょいちょい書いていると、お金を取ってくる仕事を女性がするのがいいことだと私が思っていると誤解されるかも…と思ったので、それについても書いておきたいと思います。

これについては過去にも書いていますが(「ワーキングマザー」「働くママ」にという言葉に感じる違和感)、金銭的な収入にならない仕事、たとえば、家事や子育てなどを、低く見る風潮にも「それってどうよ?」と思っています。

家事や育児しかできない女は低能だとか思っているおかしな人もいますけど、そういうのとは全く違う考えで、私が問題だと思っているのは、社会の固定観念のせいで、本当にしたいことができない、あるいはやりにくいことなのです。

いわゆる「男らしい」と言われている仕事(例:管理職やエンジニア系の仕事など)を女性がやりたいと思った場合に、女性だからという理由で排除されたり、変な目で見られたりすること、また、いわゆる「女らしい」と言われている仕事(例:家事や子育てのほか、看護師、保育士)を男性がやりたいと思った場合に、男だからという理由で、変な目で見られる(排除されることはあんまりないのでは)のはおかしいと思うのです。

いわゆる「主婦業」も、名前からしていかにも女のものって感じですけど、男女どちらでもやりたいほうがやればいいと思うのです。家事は、やりたいほうがって言ったらどっちもやんないかもしれないけど、もし夫婦のどちらも働いているのなら、女の仕事だという感じで押し付けないで、平等に分担するべきだと思います。家事は女の仕事ではありません。一人暮らしで生きていれば男でも女でもどっちでもやるものなのですから。女は男の身の回りの世話をするために存在しているわけではありません。

女性がパートナーの男性の活動を支えたいという気持ちで、家庭の運営を担当するのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。もちろん、逆も然りです(でも、逆の場合は、風当たりが厳しいみたいで、これっておかしいでしょって思う)。

私の場合は、今は翻訳やリサーチなどの仕事が楽しいし、お金が必要なのでいろいろやっていますが、もし、相方に何かものすごく成し遂げたい偉業があって、それで生計が立つのであれば、私は金銭的収入を得る仕事を一旦休止して、家事に専念するのもアリだと思っています。今のところは、どちらも仕事が楽しいし、家事ができる余裕がどちらにもあるので、分担しながら楽しくやっています(過去記事:我が家の家事分担について。家事は分担よりも共同作業が楽しい。

料理をつくることは、家族の健康をつくる、お医者さんのような仕事だと思います。おいしいという喜びをつくる仕事でもあります。これが、例えば、シェフやパティシエ、料理研究家、パン職人、うどん職人のような、なにかお金になる仕事でしている人であれば、なんか「すごい!」みたいに見られる風潮がありますけど、家で料理をつくる人は、毎日、家族のために、ありとあらゆる職人になるのですから、本当にすごいと思います。家事をする人は料理のいろんな職人だけではなくて、掃除や洗濯の職人にもなります。

それにどの仕事をとっても、直接的な現金収入にはなっていないかもしれないけど、出て行くお金をかなり減らしています。

料理を外部に全部任せていたら、お弁当なら500円くらい、レストランなら1000円くらいでしょうか。毎食それで過ごしたら、月に45,000~90,000円ほどの出費になります。飲み物を家で作らずにペットボトル頼りでいたら、安売りで80円くらい、小売価格では150円ほどですから、それだけでも1万円前後の出費になります(地球上に人間が快適に生存できる期間も縮めるし)。掃除や洗濯のサービスを誰かに頼んだらどのくらいかかるでしょうか? 

食事についてはそれだけではなく、食事が外食だけだったら、お金がかかるうえに、病気がちになって、医療費もかさむでしょう。肌もボロボロになって化粧品代もかなりかかるようになるかもしれません。気持ちがすさんで、憂さ晴らしに大金が飛んで行くことになるかもしれません。身体によい食べ物を選んで手で作られた食事は、どんな薬にも勝る薬だと思います。古代中国では、薬物で治療する医者が「下医」と呼ばれて最も位が低く、食べ物だけで治す「食医」が最も位が高かったそうです。家族のなかで、健康な身体をつくる食べ物をつくる人は、この「食医」にあたると思います。そのくらい、尊い仕事だと私は思っています。

私は繕い物が好きで、相方の靴下やズボンを直したりしていますが、それでもかなり出費が押さえられています。繕い物は、使えるものが一から作るより早くできるので達成感を味わえるのが早いのと、「捨てられるの?ぼく、もう捨てられちゃうの?」と思っていそうな物たちが、別な顔になってまた活躍してくれるのがうれしいのです。

先日、仕事がしばらく空いて、縫い物ばかりしていたときに、

tom-tom: 「あー、今日はなんもお金になることせんかったー」
相方:(手縫いで作ったズボンを指して)「それ、作ったやん」
tom-tom: 「たしかに、これ、買ったら1万円近くするよね。リネン100%だし」
相方:「1万できかんで! 3万円はするでー。手縫いやで。オーガニックコットンの縫い糸やし。あの展示会(早川ユミさんの展示会のこと)でも手縫いやったら5万ほどしたやろ」

…という話になりました。5万ほどしたかどうかは定かではなく、作家として長年経験を積まれている早川ユミさんと同じ値段では失礼にあたると思いますが、手で縫って1着作ろうと思ったら、時給換算すると3万円というのは確かに、妥当かもしれません。

現金収入を持ってくる人がエライと言うのなら、出て行くお金を抑えることで富を増やしている人も同じくらいエライと思います。

お金だけではなくて、一緒にいて支えてくれたり、いつも安心して帰ることのできる空間をつくってくれていたり、おいしいという喜びを創造してくれたり、こどもが素晴らしい人間に育つのを助けたり、…ほかにもたくさんありますが、こういうことは、お金でははかることのできない価値を生む仕事だと思います。だから、私は家事や育児を低く見ているなんていうことは決してありません。

ただ、それが女性だけに押し付けられていて、男性がそれをするのは特別とみなされ、女性がするのが当然と思われていて、女性は社会のことを全く考えなくてもいい、女性はおバカでかわいらしくいてくれ、みたいな古くさい風潮がまだ残っているのが嫌だなぁと思っているだけです。

それに、家事をどっちがするかとか、どのくらい分担するかとか、ライフステージで入れ替わったっていいと思うんです。例えば、男性が会社務めをしていて、女性が家事を切り盛りしてきた家庭で、男性が「少し、世間から離れて自分を見つめ直したい」と思ったとしたら、女性が働きに出て、男性が家事をするようになっても、全然普通のこととみなされるような社会になってほしいと思うのです。

今はそれが許されないような圧力があって、男性もたいへんだと思います。男性は自分のことを深く何も考えずに、立身出世のレースに臨むためのレールに乗って、大人になってからはずっと会社人間でやってきて、金と地位と名声ばっかり追い求めて、自分の人間性を見失ったり、そういう人もいると思います。男女平等が本当に普通になったら、変な男のプライドもいらなくなります。男性だって生きやすくなるんじゃないでしょうか。

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20160906

ナショナリズムの台頭と市民派の躍進(いわゆる二極化)について考えたこと

日本で、いわゆる「右傾化」(右翼と左翼という日本語はあいまいなのでなるべく使用を避けています)が危惧されるようになって10年ほどになるでしょうか。

最近では、ますますナショナリズムが過激になってきていて、政治の中枢にいるのも超が付くほどのナショナリスト(なのに対米追従)ばかり。日本の政治の状況は、ドナルド・トランプ氏(共和党の大統領候補で極右とみなされている)が大統領になって3回も選挙で勝たせてしまっているような状況と、映画監督の想田和弘さんが例えられていました(↓)が、確かにそうだと思います。
ヘイトスピーチも社会問題になっていますし、ネット上では「ネトウヨ」と呼ばれる人々が幅を利かせ、ナショナリズムや全体主義を煽るような雑誌や書籍が書店にもたくさん並び、嫌でもナショナリズムの台頭を感じざるを得ません。

一方で、オルタナティブな価値観を追求する人たちも増えてきています。自然栽培に取り組む人や、ダウンシフターを目指す人、自然と共に生きる暮らしを模索する人、シェアする暮らしを広げる人、そういう人たちも増えています。

よく、二極化などと言われているようですが、世界を見渡してみると、似たような状況が見られます。

イギリスでは国民投票でEU離脱が選択されましたが、その一方で、昨年末にバリバリの庶民の味方ジェレミー・コービン氏が労働党の党首に選ばれているし、首都ロンドンでは初めてイスラム教徒の市長サディク・カーン氏(労働党でprogressive)が選ばれています。

アメリカでも前述のドナルド・トランプ氏を熱狂的に応援する人もいるようですが、真に国民一人ひとりのことを考えた政策を進め、「社会民主主義者」を自称するほどprogressiveな市民派のバーニー・サンダース氏も民主党の代表選びでいいところまで行きました。カナダではリベラル派のジャスティン・トルドー氏が首相に選ばれているし、スペインでもポデモス(「俺たちはできる」という意味)という市民派の政党が第三勢力にまで成長しています。

経済学者でも、今までは弱者を保護するような経済学者ってあまり有名でなかったと思うんだけど、経済的不平等に警鐘を鳴らしたトマ・ピケティ氏が一躍有名人になっていたりもしますね。

世界中で、とりわけ、工業先進国において、ナショナリズムが急に成長している一方、オルタナティブな価値観も勢力を伸ばしている。なぜ、こういう流れが見られるのでしょう? その原因は何なのでしょうか?

まだ仮説でしかありませんが、今ある知識を合わせて考えると、こういうことなのかな、と思いました。

1%の超富裕層が「今だけ・カネだけ・自分だけ」よければそれでいいと、富の独り占めをして(*)、労働の搾取を続けてきた(というか悪化させてきた)結果、生きるのがたいへんな人が多くなっています。

貧困問題に取り組む国際協力団体オックスファムの格差に関する報告書「最も豊かな1%のための経済」によると、世界の最富裕層1%が所有する富は2016年、残りの99%の富を上回ったそうです。
世界の上位1%が残り99%より多くの富を所有することが明らかになりました。オックスファムの発表した最新の報告書では、世界で最も裕福な62人が世界の貧しい半分の36億人の総資産に匹敵する資産を所有するに至ったことを指摘しています。この62人という数字がわずか5年前には388人、2年前には85人だったということが事態の深刻さを示しています。
生きるのが大変な人たちの中には、「自分に能力がないからだ」「自分の努力が足りないせいだ」「この程度のお金しか手にすることのできない自分は価値が低い」などと思い込まされている、もしくは、思うようになってしまった人たちもいる。そういう人たちが、自分の存在意義を何かに見出したくて、生まれという不動の条件にすがりつく。「◯◯人」であるということにプライドを持つことで、どうにか自尊心を保とうとする。

生きるのが大変な人たちは、いらだちやストレスも多いと思います。雇用主に嫌なことを言われても、生活費を得るためにガマンしないといけないかもしれない。夜中に働かされたり、寝ずに働かされたり、まともな勤務時間ではないかもしれない。低賃金で長時間労働をさせられているかもしれない。食事もままならないかもしれない。身体の調子がわるいとイライラは募りやすいものです。生活への不満も大きいでしょう。

そういういらだちやストレスのはけ口を常に求めているのではないでしょうか。その矛先が、自分よりも弱い立場にいる人、マイノリティや障がい者、女性や子ども、お年寄りなどに向かってしまう。人種差別に向けられてしまう。

自分がこんなに大変なのは、得しているヤツらがいるからだ、と誤った推論をして、憲法で保障されている当然の権利を受けているだけの人に対して、怒りの矛先を向ける(在日特権[そんなものはそもそも存在しない]とか、生活保護バッシングなんかもそうです)。

自分がバカにしたい人たちを対象にして、権力者がいじめっこの親玉のような発言をすると、快感を覚えるのでしょうか。「閣下は自分の代わりにヤツらをぶちのめしてくれる」みたいに思って、熱狂的に応援するようになるのかもしれません。

他方、生きるのが大変なら、「大変じゃない方法はなんだろう?」と考えて、システムに依存しない暮らしを始めたり、奪い合う競争社会からシェアしあう共創社会へのシフトを模索したり、自給自足的な暮らしに移ったりという人たちもいます。お金をかけなくても豊かに暮らす知恵を身につけたおもしろい人たちが世界中で増えています。

生きるのが大変ではないけれど、生きるのが大変な人たちの存在を知って、心を痛め、どうしたらこの人たちが楽に暮らせるようになるだろうか?と、行動をしている人たちもいます。その代表がバーニー・サンダースさんや、宇都宮健児さん、山本太郎さん、広河隆一さんなどだと思います。

私は、いろいろあってフリーで生きることにしたのですが、なかなか生きていくのが大変で、大変じゃない方法を模索した結果、自然とともにある暮らしにたどり着きました。自然とともにある暮らしについて、いろいろと知っていくうちに、世界中の環境破壊の問題に行きつき、そこから人権侵害の問題、資源をめぐる戦争などにもぶち当たりました。ほかにも、さまざまな問題にぶち当たり、東電と政府が引き起こした原発事故で東京から逃げてきた結果、「日本はなぜ、原発と基地を止められないのか?」という問題にもぶち当たり、さまざまな問題が、根底では一つにつながっていると実感するようになりました。

自分一人がシステムに依存しないナチュラルライフスタイルで、自由気ままな暮らしを手に入れられたとしても、政治に無関係でいられるわけはなく、それはつかの間に終わってしまうかもしれないとも思うようになりました。税金が上がり続けているし、憲法が改悪されれば、住むところを追われたり、不当に拘束されたり(秘密保護法なんかもあるし)、頭の上に米軍のオスプレイが落ちてきてもなんの補償もしてもらえないかもしれないし(このあたりは「日本はなぜ、原発と基地を止められないのか?」が詳しい)、原発がまた爆発したり、戦争になったり、戦争に友だちが行かされたり、そういう危険があるかもしれません。

だから、政治のことを真剣に考えて取り組んでいかないといけない…というよりも、政治のことを真剣に考えて取り組んでいけば、日本に楽園をつくることができるのだと、そっちのほうが、何にもしないで逃げ惑うよりも断然いいし、おもしろいと、思うようになりました。まずは日本に楽園をつくって、世界に楽園を広げたいです。

ナショナリズムに傾いて同胞を敵視している人たちにも、本当の敵は、富を独り占めしつづけようとしている人たちだと、金で政治を操っている人たちと金に魂を売り渡した政治家だと、気がついてもらうのは難しいんでしょうか。実際、敵扱いしている人たちが、庶民の暮らしを良くしようと、格差を是正しようと努力していて、親玉だと思って応援している政治家たちが、庶民の首を締めるような、ないところから税金を絞りとるような、庶民に文字通り血を流させるような政策を推し進めているのに、そういう人たちを応援しても、自爆行為だと思うのですが。

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20160905

ここ数カ月間で読んだ記事

しばらく間が空いてしまいましたが、最近読んだ記事を紹介します(この形式を始めた理由→

*原発関連
1. 原発擁護の産経新聞に国連特別報告者の言葉を送るージャーナリズムとは何のためにあるのか?(志葉玲) -  Yahoo!ニュース
(こんなふうにしっかりとした目を持って監視していくのが大事。監視するだけでなく、表明してくれているのもありがたい)
2. チェルノブイリ原発事故:国が健康調査公表せず - 毎日新聞
(なに隠しとんねんって話ですよ。私たち国民の税金を5000万円もかけて調査したんだから、私たちにも見せるのが筋ってもの)
3. 東京新聞:「手を挙げ原発反対を」 福島の高校生らドイツ研修旅行の成果報告
((この部分に特に心を打たれた:"ドイツでは、意見の違いで戦争は起き、意見の違う人を殺そうとしたのがヒトラーだと学んだ。" "「日本では、放射能への意見の違いで、心の戦争が起きている」と実感した")

*現政権関連
1. 「日本会議は中身空っぽ」 異色の著述家・菅野完氏が解明 | 日刊ゲンダイDIGITAL
2. やっぱり…「報ステ」に自民党が“圧力文書” その後に異例人事 | 日刊ゲンダイDIGITAL

*沖縄の米軍基地関連
1. 辺野古「変更できる」 米議員、比国の例挙げ知事に言及 - 琉球新報
2. 普天間移設先「沖縄と言っていない」 モンデール元駐日大使、日本が決定と強調 - 琉球新報
(アメリカのなかにも、沖縄で起こっているひどい人権侵害はおかしいと思っている人がいる。日本はなんで沖縄に絶対に基地を押し付けないといけないと思っているのだろう。もういい加減にやめてほしい)

*その他
1. 東京新聞:ポケモンGO初の死亡事故、徳島 運転中にゲーム、39歳男逮捕
(コンセプトそのものが、歩きスマホや移動しながらのゲーム操作になるのはわかりきっているのだから、こういうのは利用者だけの責任ではなくて、作った会社、配信している会社にも責任があると思う。ある一定の速度以上で移動しているときには作動しないような仕組みをつくるとか、何か工夫ができるはず)
2. 電気代タダ!東京・団地での「オフグリッド」生活のぞき見 (女性自身) - Yahoo!ニュース
(東京でオフグリッドってすごい。憧れの女性。うちの消費電力量だったら、おそらく数十万円ほどでできるはず。うちも早くこんな風にしたい)

結婚式について思うこと―その2

昨日は、結婚式について思うことをつらつらと書きましたが、香川のブロガーのyossenseさんがこんな記事を書かれていました。
結婚式したくない派だった私が「して良かったな」と思えた1つの理由(初出2015年4月9日/更新2016年7月19日)
男女平等を大切に考えられているヨスさんは、男女差別のしみついたしきたりを採用することなく、新しいスタイルで結婚式をなさったそうです。たとえば…
新婦の父親の手から新郎の手へ新婦が手渡される演出ってありますよね? あれ、女性の人身売買みたいに見えるのでやめました。女性は物かよ!ってマジで思いますよ。私の場合は、2人が揃って教会に同時に入って行きました。
男性でこんな感覚を持たれている方がいるというのは、本当に希望を感じます。ほかにもものすごく共感するところが多かったです。

父親が娘とバージンロードを一緒に歩いて夫に引き渡す、私も、女性の人身取引の現場みたいで、実は見るのも苦々しい気持ちがしていました。バージンロードって日本語に訳したら生々しいからカタカナでごまかしているのでしょうけど、「処女道」ですよ…。バージン=処女であることにそんなに価値を見出すのも男の征服欲だろうし、娘の処女を破ってもよい相手に父親が娘を引き渡すとか、一緒に生きていく相手を決めるという女の大事な決断を、男だけで決めた風に演出しているようで気持ち悪いです。

だいたい、子どもを生むのも生まないのも個人の自由です。過去にお呼ばれした結婚式で、司会の人が「新婦は保母さん、子育ても安心ですね❤」みたいなことを言っていてどん引きしたことがありました。なにそのプレッシャー。子どもを持たないという選択をして、幸せに生きていくことも、子どもを持つという選択と同等に当たり前のこととみなされるべきです。しかも、子育てって女だけがするもんじゃないでしょう。

真っ白なウェディングドレスも、真っ白な和服も着たくありません。真っ白は女だけが着せられる。男は白は着ない。ご存じの通り、女だけが白を着るのは、男の色に染まることが期待されることを暗示しています。私はだれかの色になんか染まりたくないし、相方も私が私らしさを失うことは望んでいません。

この話をすると、相方が白を着ればいいんじゃないのと言う人がいますが、そういう問題ではありません。私は誰にも染まりたくないだけでなく、誰も染めたくない。個人の自由意志に従ってそれぞれ幸せに生きていってもらいたいのです。女だけに白を着せることで、女が男の色に染まること、男の言いなりになることを暗によしとして押し付ける、形式だけでもこんな演出、絶対にやりたくないです。

それに、化粧をしないといけないのも嫌です。化粧品には石油由来の成分がたくさん入っているし、落とすときにも強烈な化学物質を使わないといけません。化粧をすることで私は水と土を汚す。生態系を破壊する。自分の肌の健康も害する。そんなことはやりたくありません。

最近では、天然成分だけのもあるので、それだったらたまには化粧をしてもいいかなぁと思ったりもするのですが、そもそも、男は化粧をしなくていいのに、女は化粧をしないと失礼っていうのもおかしくないでしょうか。女はすっぴんだと失礼だって言う人が大半だと思います。ありのままの顔を見せたら失礼だって言う方がよっぽど失礼です。なんで男はありのままの顔でいいのに、女はありのままでいたらいけないんでしょうか。

席順もエライ順があからさまにわかって辟易とします。世間一般の常識では、勤務先の人が一番いい席で、親類が末席になっていますが、未だに日本は封建時代なんですねって感じがします。給料を与えてくれる会社の人が一番いい席というのは、お金が第一という価値観が透けて見えるような気がします。大事なのはお金だけじゃないよね、と気づき始めた人たちも増えてきている現代に、こういう席順というのはかなり時代遅れだと思います。

友人のほうが親類よりもいい席というのも、私なんかほとんど大したことをしていないのに、親や家族よりも前の席に座らせてもらうなんて、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。最近は立食式の披露宴もありますが、立ち食いもあまり落ち着かないですし、料理が足りないとゲストに申し訳なく、余ると食べ物を粗末にして地球さんに申し訳ない。また、だれを呼んでだれを呼ばないかもかなり難しい複雑な問題です。

余興にも閉口します。最近では、男が女の制服を来てぶりっ子の踊りをするのが定番のようですが、どうしてそのような下品なものが定番になっているのでしょうか。映像作品を作ったり、楽器の演奏をしたり、踊りでももう少しまともなダンスなど、もっと立派な芸を隠し持っているのではないかと思うのですが、そういう、下品な笑いを誘うようなものでないと、ウケが悪いのでしょうか。

両親のスピーチも「お涙ちょうだい」が期待されているのが嫌です。うちの親をそんな好奇の目にさらしたくはありません。無論、「花嫁の手紙」(「嫁」って言葉も大嫌い)なんてありえません。結婚したって親子関係に変わりはありませんし、パートナー関係にも変わりはありません。なんで、「これからもお父さんとお母さんの子でいさせてください」なんて落涙しなきゃいけないんですか。あたりまえやろがって話です。

こうやって考えてみると、日本の結婚式には男尊女卑の要素がてんこ盛りで、品性にも乏しいんですよね…。「親戚が喜ぶし、人生の節目だから、結婚式はやったほうがいいよ」というアドバイスも理解できるのですが、たぶん、うちの親戚はそういうので喜ぶようなタイプじゃないし、相方のほうは結婚式が好きそうな孫たちがいっぱいいるから私たちがやらなくても喜ぶ機会はいっぱいあるし…。人生の節目というのも、私と相方の関係は連続して深化していっているものであって何か節目で始まったり終わったりするものでもない。たぶん、よほどのことが起こらない限り、結婚式はやらないと思います。

相方に、「結婚式やりたい?」と聞いてみたら、「樹木葬がいいな」とお葬式の話をされました。「畑に埋めてくれたらトマトいっぱいなるかも!トウモロコシ葬とかもいいかもな。食べるたび思い出してもらえるで。墓なんてのは、思い出すのが目的やろ?」こんなぶっとんでいる相方といる毎日はおもしろすぎます。末永く続いていくことでしょう。

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20160904

結婚式について思うこと

最近訳した記事で、マルタ共和国の結婚式の話が出てきました。

マルタ共和国は地中海の真ん中に浮かぶ島国。国民のほとんどがカトリック信者で、カトリックの影響が強い国です。法律にもカトリックの教義が影響を与えていて、望まない妊娠を中絶することは非合法。離婚が合法化されたのはつい最近の2011年なんだそうです。

そんなマルタ共和国で結婚をするには、夫婦がどちらもカトリックのバックグラウンドを有していることをいろんな証明書を出して証明しなければいけなかったり、結婚式の前に講義に通って結婚に関する聖書の節を勉強しないといけなかったり、宗教的な手続きがとても大変そうでした。結婚の証人の役目を務める人も、カトリックのバックグラウンドを持っていることを証明する証明書を出さないといけないんだそうです。

この記事を読んでいて、大変だなぁ、カトリックじゃなくてよかったなぁ、と思ったのですが(聖書にはいいことも書いているし、カトリックを信じている人のことをどうこう思っているわけではない)、カトリックじゃなくても、やっぱり、結婚式はしたくないなぁ、と改めて思いました。

キリスト教の教会で挙式する人が多いですが、普段から信仰しているわけでもない神様に結婚を誓うとか、私にはできません。神やsomething greatなどと呼ばれるなにか偉大な力があるというのはなんとなく感じるので信じていますが、その形式が神道や仏教となるとしっくりこないのです。だから、何か一つの神様に誓うっていうのは違う気がする。

そもそも、この人と一緒に生きていくってだれかに誓わないといけないものなのか? 相方とは仲良しで何でも話せるし、ここまで人間ってわかりあえるのか、というくらいわかりあえているんだけど、それを権威のある何かや大勢の人に宣誓しなきゃいけないって、変な気がする。別に宣誓しなくたって仲良しでわかりあえているんだからよいのではないでしょうか。だから、人前式も違う気がしています。

指輪もいらないよなぁと思っています。お金がないからとかではありません。学生の頃はおそろいの指輪に憧れたものですが、そういう形式的なものでお互いを縛り合うのが、「なんか、犬の首輪みたい」とはたと思ってしまったことがあり、それ以来、指輪もいらないと思うようになりました。うちの両親は一応指輪は作っていましたが、水仕事のときに邪魔だ、窮屈だと言ってつけていませんでした。形式的におそろいの指輪を同じ指につけているから夫婦だと感じるのではなく、私と相方はお互いの自由意志に基づいて一緒にいることを選んでいる、と、何もなくても感じられる中身のあるパートナー関係があるほうが心地よいです。

何か偉大なものや大勢の人の前で誓っても、お揃いの指輪で物質的に証明していても、別れるときは別れるのです。合わないのに無理をして一緒にいることはお互いにマイナスなので、合わなかったらさっさと離れたほうがいいと思います。誓っちゃったから離れるのは、なんてブレーキがかかって、無理して一緒にいて憎しみが増大するくらいなら、さっさと離れたほうがいい。こういうパートナーシップって、神様とか大勢の人とかに誓ってできるものでも、紙の上にサインして判を押して役所に契約書を届け出ることでできるものでもなくて、長年一緒に培っていくもの、気づくとできているものだと思います。

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20160903

言葉のレッスン

他人からの心ない評価など気にしない、と思っても、やっぱり言われると気になるもので、ここのところ、文章術の本がやけに気になっている自分がいます。

文章術、美しい日本語、悪文、名文など、そういう文章についての本を読んで勉強しようかと思い、大きめの書店に行ってパラパラといくつか見てみました。いくつか眺めてみたのですが、買って読み進めるきにならない。

なんでかというと、やっぱり、伝えたい中身がないからなんですよね。文章は、いくら美辞麗句が並んていたところで、伝えたい中身と、伝えたい想いがなかったら、それはきらびやかな外箱でしかない。

文章術や言葉についての本に興味が持てなかったことで、私が書きたいのは、きっと、文章として「うまい!」とか、文章として「すごい!」とか言われる文章ではないということがはっきりしました。

私が心を惹かれる文章は、多少まどろっこしくたって、多少間違っていたって、伝えたい想いがあって、伝えたい中身があって、その中身が素晴らしい文章なのです。それから、自分を大きく見せようというのでも、卑下するのでもない、ありのままの自分を肯定している人が書いた文章です。ただし、ありのままが下品な人の文章は好きではなく、人間としての向上心がある人でなければなりません。

プロの文章でもげんなりするようなものもあるし、一般の人の投書や友人からの手紙にも心が動かされるような文もあります。だから、こういう、文筆家や言葉の専門家が集めた美文の本を読んでも、私の言葉のレッスンにはあまり役立たないと思いました。

それでも、文章を磨くことは何かやっていきたいな、と思っていて、思いついたのが、この文章が好きだなあと思った文章を、ノートに書き留めていくことです。好きな文がたくさん詰まったノートができるのは、考えるだけでもわくわくします。楽しい方法で、文章を磨いていきたいと思います。

ちなみに、私が文章を学ぶうえでとても参考になった本が一冊だけあります。『日本語の作文技術(本多勝一・著)』という本です。句読点の打ち方から、形容詞の並べる順番まで、わかりやすく読みやすい文章を書くルールがまとまっています。

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20160902

「言葉狩り」?…そう言われましても、それが仕事なものですから。

「言葉狩り」という言葉をご存じでしょうか?

私が初めてこの言葉に出会ったのは、ツイッターでのことでした。政治のことを真剣に考えて発信を続けている活動家の方がツイッターで、「馬鹿」と書いたときに、「馬と鹿に失礼です。カタカナでバカと書くべきです」というリプライがあったらしく、この活動家の方が、「どんっだけ言葉狩りなんだよ!」と激怒しているツイートを見ました。それが初めての出会いでした。

そのツイートは、動物愛護には全く無関係な話でした。短文を瞬時に配信するというのがツイッターだと思いますが、そのプラットフォームの性格上、何度も推敲はせずに、政治的に重要な話を速報として流した投稿だったので、そこで「馬と鹿に失礼」というのは揚げ足取りというものです。確かに、これは「言葉狩り」だと怒るのも理解できると思いました。

こんなふうに、メッセージの最も重要な部分にはほとんど影響のない部分で、言葉の細かな部分に難癖をつけることを「言葉狩り」というようです。

私も先日、他者から初めて「言葉狩り」と言われました。翻訳の仕事でのことです。

翻訳は翻訳者だけでするのではなくて、翻訳者が翻訳を一通りした後、チェッカーさんや編集者さんなど、複数の人と議論をして最終的な表現が決まることもよくあります。新聞記事や検定試験向けの語学書などでは、もう編集者さんにバトンタッチしてお任せ、というパターンもありますが、訳者の名前が明記される場合には、相談してもらえることが多いです。

原文の意味やニュアンス、持ち味や雰囲気から離れていないかどうか、日本語として適切かどうか、どうしても伝わりにくい場合にはどの程度まで英語から離れることを許すのかどうか、などを、細かく複合的に考えながら、訳語を決めていきます。

提案されている日本語が、口語としては使われていても書き言葉としては正式ではなかったり、コロケーションが不適切であったり、男女差別が根底にある言葉であったり、品性に欠けていたり、といった場合には、一つ一つ言葉を挙げながら、これはこういう感じがするのでこっちに変えましょう、みたいな議論をします(聞く耳を持っていて理解力のある相手だと、どんどんいい表現に進化していって楽しい作業なのですが、そうでないことも多い)。

こんな感じで先日、赤字が入った原稿に対して、この言葉は正式な日本語ではない、とか、二義に取れるのでこっちにしたい、とか、これは男女差別だからこっちに戻したい、とか、この形容詞はこういう言葉にはくっつかないとか、原文とかけ離れすぎている、などといった意見を伝えていたら(これらはかなり端的に箇条書きにしたもので、実際にはもっと丁寧に伝えています)、それが「言葉狩り」だと言われたのです。

ちょっとうるさすぎたかな(よく読んでいただいている方はお察しかと思いますが、私は言葉に敏感すぎて日常生活に不便があるくらいなので)とも思ったのですが、冷静になってよく考えてみると、「………ってか、言葉狩りが仕事やないかっ!」と思いました。

校正では、漢字で書くか、平仮名で書くか、送り仮名をどうするか、表記の統一ができているかどうか、そういう細かいところのミスを見つけて正していくのも仕事であり、まさに「言葉狩り」をひたすらしていきます。ただ、それで意地悪な揚げ足取りをしたりはせず、淡々と揃えていくだけなので、もちろん、「言葉狩り」というのは不適切です。でも、私が表現について議論していることを「言葉狩り」というのなら、普通に校正することだって「言葉狩り」です。

翻訳者にしても、編集者にしても、校正者にしても、ライターにしても、コラムニストにしても、小説家にしても、言葉による表現を扱う仕事をしている人間は、言葉の細かなニュアンスやコロケーション、使われる文脈、語源、背景、音が与える印象などに、敏感である必要があるのではないでしょうか。敏感になった上で、少しでも違和感のある表現はブラッシュアップしていくのが仕事です。ある意味、「言葉狩り」が仕事なわけです。それを「言葉狩りすんな」って言われたら、「まともに仕事すんな」って言われてるのと一緒です。

よくネット上で攻撃されているブロガーさんが、「言葉狩り」のようなレッテル語を、「頭を一ミリも使わないdisりワード」(disる[読み:でぃする]=攻撃する、こきおろす)と言っていましたが、まさにそうだと思います。こういった言葉は使わないのが一番ですし、もし言われた場合にも、その批判は的を得ているのかどうかを考えてみて、的外れであれば気にしないのが一番(気になるものですが)。そもそも、こういう頭を全く使わない蔑称をつけて喜んでいる人というのは、それほどよく考えて言葉を使っているわけではないので、的を得ていることはほとんどありませんが…。

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宇都宮けんじさん、「困ったが希望に変わる東京」に向け、小池百合子都知事に都政の課題10項目を手渡す

宇都宮健児さんの後援団体「宇都宮けんじ・希望のまち東京をつくる会」のメールニュースより転載します。

外側からだとできることは限られているし、なかなか聞き入れてもらえなかったり、どんでん返しをされたり、難しいとは思いますが、それでも、外にいるからと言って何もしないよりも、できることを地道にやっていくという姿勢が大事だと思います。宇都宮さん、また、宇都宮さんと一緒に活動をされているみなさんの行動に、改めてそのことを感じました。

──以下「うつけんニュース」vol.99より

8月30日、宇都宮けんじは小池都知事あてに「今すぐに取り組むべき」都政の課題10項目を手渡してきました。

都庁第一本庁舎7階で行なわれた会談では、宇都宮から、「わたしたちのもとに寄せられた"困った"の声を届けにきた」として、とくに10項目の中から、築地移転問題、原発避難者の住宅問題についてコメントし、ソウル市の改革で市立大学の学費や奨学金問題などで、子どもや若い層の貧困の問題の解決に向けて改革が行なわれたことなども紹介されました。

小池都知事からは、「宇都宮先生の政策は参考にさせてもらいました」というコメントなどがありました。都議会傍聴のことなども話題になり、「今後もオンブズマンとして都政を監視してください」と、逆に小池知事から「お願い」もありました。宇都宮からは「次の議会にも傍聴に行きますよ」と応答しました。

会談には副代表の内田聖子、海渡雄一が立ち会いました。会場には100人を超えるメディア関係者が押し寄せ、生中継がおこなわれるなど、大きな注目を集めました。

会談終了後のメディア取材では、小池都知事の築地問題での取り組みや、情報公開など、都民にとって歓迎できる問題については支持し、カジノなど賛成できないことにはきっちりと反対の声を上げていく、とメディア関係者の質問にこたえました。

今後、私たちは、同様の要請を都議会各派に行なうなど、「困ったが希望に変わる東京」に向けた取り組みを進めていきます。ご注目とご協力をお願いします!


◆「今すぐに取り組むべき」都政の課題10項目◆

 1.都民への情報公開の徹底
 2.築地市場
 3.地下鉄の安全
 4.福島原発事故避難者の住宅
 5.待機児童ゼロを目指すうえでの基準確保
 6.子どもの貧困
 7.羽田空港増便による低空飛行問題
 8.米軍横田基地のCV22オスプレイ配備問題
 9.都市計画道路
 10.放射性物質による汚染基準の厳格化

詳しくはこちらをご覧ください。
http://utsunomiyakenji.com/1135

また、それに先だって、約280名のみなさんにお集まりいただいた都庁前要請アクション「困ったが希望に変わる東京へ」。リポートもぜひご覧ください。
http://utsunomiyakenji.com/1151

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「敵」のなかに味方を増やす

「◯◯(大手小売業)のオーガニックなんか信用できん」という意見を聞くことも多くなって、少し思うことを書きたいと思います。

『オーガニックラベルの裏側』という本も出ていて、オーガニックと謳っていても、実際のところは怪しいという話は、うん、そういうこともあるだろうなぁ、と思っています。

できれば、顔の見える関係で、この人なら信頼できるという人から、何でも必要なものを取り揃えたいところですが、なかなか、そうもいきません。我が家はそれでも、自給率が昔よりもだいぶ上がって、無農薬、無化学肥料、固定種が好きで、畑もしている友人たちが多いので、友産友消と自給自足の割合が増えていますが、世間一般となるともっと難しいのではないかと思います。

「◯◯(大手小売業)のオーガニックなんか信用できん」のほかにも、「◯◯でなんかあなたも当然買い物しないでしょ?」とか、「□□(コーヒー豆の倫理的調達の割合99%を達成した大手グローバルカフェチェーン)のコーヒーなんてぜんっぜんおいしくない」とか、大手企業への不信を抱いている人たちの気持ちもよくわかります。これまでにしてきたことを考えると、信用ならない面もあるからです。

しかし、そういうふうにして敵対しているだけでは、仲間は増えていかないとも思います。

大手企業の中にも、まごころのある人はきっといます。そういう人たちが、内部で孤軍奮闘しているかもしれないのです。利用者の健康や、生産に関わる人たちの幸せ、自然環境への配慮が足りなくても、「とにかく安く仕入れて、たくさん売り、利潤を多くするのが勝つということだ(ギラッ)」みたいな、古い考えにカチンコチンの人たちの中で、なんとか新しい風を起こそうともがいている人たちもいるかもしれません。異論を唱えることにかなりの勇気と努力が必要な場合も多いかもしれません。そういう中で奮闘している人を応援できるのは、消費者の私たちだと思います。

内部で奮闘するところまでは至っていないものの、話を聞けば、「それは大変だ!」と動いてくれる人もいるかもしれません。「お前らなんか信用してねえよ」という態度では、そういう人たちに話を聞いてもらうこともできないと思うのです。話せばわかると信じて、対話を重ねていくことで、相手が知らなかった事実を伝えることができれば、もしかすると、対応してくれるかもしれないし、「お客様が理解してくださらない」という思い込みが溶けていくかもしれません。

大多数の人々が大手企業の物やサービスを利用しているなかでは、大手が変わってくれると、影響力はかなり大きいのではないでしょうか。環境や倫理的調達、人権などへの意識の高い人たちが、幾多の不便を乗り越えて工夫をして、「お金で投票」をすることも尊いことで、インパクトもあると思います。それよりもやはり、大手が変わることのインパクトのほうが大きい。

近所のイオンでは、今年の春頃できたオーガニック化粧品コーナーに、フィリピンの人たちとフェアトレードで製品づくりに取り組むココウェルのリップクリームや、三宅商店でも扱っている北海道のミントのスプレー、「みんなでみらいを」の米ぬかとふすまだけでできた何でも洗える洗浄料、ナイアードのヘナなど、コアーな商品が並ぶようになったり、イオンの内部にも、私たちと感性の似たマニアックな人がいるようなのです。

そういう方々のことは応援して、これからも環境と社会に良い商品を増やして欲しいと思うので、お客様カードで「ありがとう!」を伝えたりもしています。「ありがとう!!」と合わせて、要望を伝えることもありますが、敬意を忘れずに丁寧に提案すると、前向きなお返事がもらえることも多いです。

たとえば、何度か無農薬・無化学肥料の野菜コーナーを作ってもらいたいという要望を出していたのですが、最近、ついにオーガニック農場のコーナーが野菜売り場にできました(農家さんの名前付き)。おそらく、イオン全体での取り組みだと思いますが、お客様カードはイオン全体で共有しているようなので、いろいろな他の人たちの声や団体の取り組みとの相乗効果で実現したのではないかと思います。小さな行動でも、少しでも貢献できたと思うとうれしいです。

それから、イオンの中のパン屋さんではコーヒーマシンでセルフコーヒーが飲めるのですが、イオンはオーガニックという言葉すら認知度が低かった時代からフェアトレードコーヒーに取り組んできたので、お客様カードで、そのことを感謝するとともに、フェアトレードのコーヒーが多少高くてもいいので選べるようにしてもらいたいとお願いを書いたら、全国会議で提案してみますというお返事をもらいました。すぐには難しいかもしれませんが、実現したらいいなぁ・・。

ほかにも、非遺伝子組換え飼料の低温殺菌牛乳を一種類でもいいので置いてもらえないかと、私が知っているメーカーさんを具体的に複数上げて選べるようにしてお願いしたところ、そのうちの1つをすぐに入れてくれていてびっくりしました。ほかの方がお客様カードで、子どもがアレルギーを持っているので、アレルギー対応コーナーを作って欲しいと丁寧にお願いをしていて、その数日後にはアレルギー対応コーナーの棚ができていて驚きました。

頼み方というのは大事だなぁとつくづく実感しました。いくら正しいことを言っていても、上から目線だったり、どうせお前なんかろくでなしだろう、みたいな態度だったりしたら、聞き入れてもらいにくいと思うので…。

正直なところ、イオンで買えるものが増えてきて、かなり楽になりました。これまでは、通販や遠くまで電車で買いに行ったりしていたのですが、「あ、あれがない!」と思ったときにぱっと自転車で買いにいけるのは、本当にありがたいです。イオンで見かけたから試してみようかな、と環境や社会によりよい選択をしてくれる人も増えるかもしれません。私の場合は、イオンで買えるようになったからといって、これまでお世話になっていた通販のお店や遠くのお店で買い物をしなくなったわけでもありません。

敵だと思っている相手の中に、どうやって味方を増やしていくのか。これからはそういうことも考えていかないといけないな、と思っています。それには、感謝とリスペクトが最も力になると思います。

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