20151031

ひとそれぞれの人生を選ぶ自由

【旧暦長月十九日 霜降 霎時施(こさめときどきふる)】

結婚も、出産も、そうしたいと思える人はしたらいいし、思わなければしなくていい。時期もみんな人それぞれ、そうしたいと思えるときにしたらいいと思う。人生におけるそんなに大切なことを、他人の目を基準に決めて、どんないいことがあるんだろうか。

世間の固定観念に合わせて、自分が本当に望むことに背を向けて、その結果生じた結婚や出産は、本当に幸せと言えるのだろうか。一緒に生きていきたいと心から願う相手がいるならともかく、「適齢期で子どもがほしいから」という理由で結婚を急ぐ人もいると聞く。一人でも幸せな人はそれで幸せなんだし、自分が変化するのに応じてパートナーが変わって幸せならそれで幸せなんだし、「こうあるべき」というものに縛られて、自分は不幸だと思う必要もなければ、固定観念に縛られた人になんだかんだ言われても気にする必要もない。そもそも、固定観念に縛られて人のことをとやかく言うこと自体どうかと思う。

もし自分が生まれてくる子どもの立場だったら、「子どもがいるから離婚できなくて、人生を棒にふった」、「子どもがいるからしたくない仕事をがんばらないといけない」、あるいは逆に「子どもができてしまったから仕方なく仕事をやめた」などといったことを親に思われたり、言われたりするのなら、「生まれてこなければよかった」と思うだろう。

私はまだ、自分の心が本当に望む生き方をつくりあげている途中だ。本当に望むことを探っている途中だ。適齢期で子どもを持たないのは無責任な生き方だろうか。むしろ、子どもを持って自分が犠牲になった、あるいは自分の人生を犠牲にしたという気になるほうが、無責任な生き方に私は思える。子どもを持つために、自分の心が望むことを探究するのを頓挫して、「こうすべき」という世間の価値観に合わせて生きても、自分は不満だらけになるだろうし、そんな状態で子どもを持つことのほうが、私は自分が無責任に思える。そんな状態で子どもを産んで、子どもにもいい影響を与えられる親でいられるだろうか。子どもが私の姿を見て、心から望むことをして幸せに生きる手本にしてくれるような自分になれたら、子どもを持ちたい。

無責任と言ってくる人たちは、経済発展や社会の年齢構造のことを根拠にしているんだろう。出生率増加に貢献する気は毛頭ない。自動的になんでも買わされる消費者であったり、産業を支える労働力であったり、そういった経済の道具としての人間を増やせという意見になんの魅力も感じない。そのような目的でつくられた子どもには私だったらなりたくない。人間は自分の心の声に従って、自分が本当に輝けること、魂が喜ぶことを楽しむために生まれてくるのであって、そのような社会のコマとして生まれてくるのではない。

そもそも、子どもを持ちたいのはなぜか。子どもがいると人生が豊かになるから? 子どもを育てることで自分が成長できるから? 親や祖父母を喜ばせたいから? 自分の遺伝子を残したいから? 世間から「幸せ」と思われたいから? これらの理由は私には子どもを持つのに十分な理由には思えない。これらは生まれてくる子どもの魂が望むことだろうか。本当に自分の心が望むことだろうか。

自分自身が「この世界はなんて素晴らしいんだろう。人生とはなんて素晴らしいんだろう」と心から思えて、「この喜びを別の人間にも味わってもらえたら」と思えたときに、私は子どもを持ちたいと思う。もし、私が生きている間に、そう思えるときが来なければ、私は別のことに創造のエネルギーをつかっていきたい。

出産には適齢期があって、過ぎてしまった後から子どもがほしいと思っても遅い、という意見もあるが、私はこれには疑問を持っている。適齢期なんていうものは、本当はないのではないだろうか。思考が現実をつくるという。それが事実であるなら、多くの人が一定の年齢をタイムリミットだと考えているから、その年齢がリミットになっているのであって、産もうと思えばいつだって産めるのではないかという仮説を私は持っている。世間一般から離れて暮らしている仙人のような人たちのなかには、実年齢が150歳は遥かに超えていると推定されるのに、元気そのもので外見からは60歳くらいにしか見えない人たちがいるという。衰えもまた思考が生んでいるものだとすれば、私たちを創ったなにか偉大な力は、人間が自らタイムリミットを設定しない限り、いつだって産めるように人間の体を創っていると思う。

不完全な科学の研究結果や世間一般の価値観に振りまわされることなく、自分の心の声に誠実に生きていきたい。産みたいと思っているならばともかく、それらに囚われて「産まなければならない」と思っている人たちのことは、その囚われから早く解放されてほしいと願っている。