20130415

「複」業という選択肢

「副」業の誤変換ではなくて、「複」業です。

最近、「なにしてる人?」ときかれても、「あれと、これと…、それから、 あれもやってて、あ、あとこんなこともしてて、それと…」のように、ひと言では表せない人が増えているように感じています。

身近でも複数の活動を生業(なりわい)にしているおもしろい人によく出会います。みんなどの活動も楽しんでいて、どれもやりたいことで、しかも、どれもだれかに喜ばれていて、感謝されていて、働いている時間も楽しんでいるように見えます。

カフェやレストランやバーも、少し前なら、飲食だけの場所だったように思いますが、最近では、お祭りの会場になってみたり、マルシェが開かれたり、はたまたライブハウスに変身したり、ワークショップがいっぱいある学校になってみたり、雑貨屋さんがいつもあったり、ヨガスタジオになってみたり、、、とひと言ではとても言い表せないお店を多く見かけるようになりました。

やりたいことはぜんぶやる!
それが「複」業を楽しんでいる人たちに感じられる気概です。
私もそんなふうになりたいなーと憧れています。

生業にする、と言っても、お金をもらう仕事には限りません。生きていくために必要なものを得ることにつながる活動もあります。

農家のお手伝いをしてお金の代わりに収穫の一部をもらったり、自給する術を身につけたり。手仕事のお手伝いをして夕飯をごちそうになる、というお話もきいたことがあります。

体験をセンスの糧にしたり、技術を身につけたり、縁を育んだり。こうしたことも生きていくために必要なことだと思います。

田中優さんが著書などでおっしゃっていた「生活の百姓になれ」という言葉が大きなヒントをくれました。これは、生活のなかで百の(=たくさんの)活動をして、お金に頼らない部分を増やしましょう、という提案です。

さきほどはお金以外の「収入」を得る例を挙げましたが、自分で自給できる範囲を増やすことは支出を減らすことにつながります。支出が減れば、手元に残るお金は増えます。そうすれば、お金で得なければならない収入は減らせます。

たとえば、ちょっとせせこましい計算になりますが、平日の昼と夜を外食で済ませていて、一食あたり1000円くらい使うとしたら、1000円✕2✕20日=40000円。

知り合いの農家さんから直接送ってもらっているお米と野菜で自炊する場合、うちの場合は一食あたりがだいたい300円なので、300円✕2✕20日=12000円。40000-12000=28000円稼いだのと同じになります。(と、考えてくると「主夫」や「主婦」と呼ばれる人々、めちゃめちゃ稼いでますね。洗濯とか掃除とか、全部他人任せにしたらいくらかかるんでしょう。。)

もしも、米と野菜の自給率が100%だとしたら、40000円稼いだのと同じになります。

私は週2回、会社に行くときはお弁当を詰めていきます。朝30分だけ早起きして、お弁当屋さんになります。外で食べたら1000円くらいかかるので、経費を引いて、700円分働いたぞー!と考えると、早起きもいいものです。(そしてなにより、自分でつくったほうが楽しいですし、妥協抜きで好きなものが食べられます。)

火がおこせて、薪もつくれたら、あるいは、生ゴミをバイオガスとして利用できれば、ガス代だってなくていい。電気も自給できたら、電気代もいらない(料理の薪を利用する小型火力発電ってできないんだろうか?)。

省エネで削減した分の電力を発電したものとみなす「ネガワット発電」と同じ発想で、節約した分のお金を稼いだものとみなせば、それも立派な生業(なりわい)ではないでしょうか。

また、食べられなくなるリスクを分散できることも「複業」のいいところだと思います。

*ちなみにこの「複業」という言葉、たぶん私のオリジナルではないと思います。何かで読んで記憶に残っていたのだと思うのですが、すみません、思い出せません。。。

■参考になる書籍
半農半Xの種を播く
地宝論 -地球を救う地域の知恵
減速して自由に生きる ──ダウンシフターズ (ちくま文庫)

20130413

Anja Lightさんトーク&ライブに行ってきました

Anja Lightさんのトーク&ライブに行ってきました。

Anjaさんは、シンガーソングライターで環境活動家。環境NGOナマケモノ倶楽部の共同代表も務めています。現在、家族で世界一周の旅に出ていて、日本には2ヶ月滞在し、各地をまわるそうです。

*ツアーの予定はこちら↓
久々の親子来日!~アンニャ、パチャ、ヤニの「世界と私を変える旅」ツアー

その夜は来日ツアーのオープニングナイト。心にまっすぐ届く歌にとても感動しました。お子さんのパチャさんとヤニさんもすてきな歌声をきかせてくれました。

歌のインスピレーションは、自然、そして人との出会いから生まれるそう。最初は環境・平和活動でメッセージを伝えるために曲を書いていましたが、だんだんと心から湧き上がる祈りが曲になるようになったそうです。

歌うことは祈ること。

歌でも、絵でも、文でも、表現をすることは祈りを届けること。そういう人に私もなりたいと思いました。

トークでは、Anjaさんのお金に依存しない暮らしかたやマレーシアでAnjaさんたちが出会ったペナン族の人々のお金に依存しない生きかたなどについて、スライドを見せてもらいながら、お話を伺いました。

Anjaさん一家はオーストラリアで、地球一個分の暮らしができる家をセルフビルド。廃材も利用しました。ピカピカのシステムキッチンなどまだまだ使えるのに捨てられているものもあったそうです。

Anjaさんの哲学、生きかたについては、著書の『しんしんと、ディープ・エコロジー―アンニャと森の物語』にも詳しく書かれているそうなので、読んでみたいと思っています。

バリバリの環境活動家からスローライフの実践者に主軸を移したというお話が特に印象に残っています。直接訴えることも効果があるものの、自分の暮らしを変えれば世界も変わる、と考えるようになったそう。環境に負荷をかけない暮らしを次々と実現しています。

環境活動家をやめたわけではなく、今でもデモに行き、直接声を届ける活動も続けているそうです。翌日も官邸前脱原発デモに家族で参加し、日本の未来にエールを送ってくださいました。

私たちの多くはすぐにはAnjaさんのような暮らしに入ることはできないけれども、明日からできることがあったら、教えてほしいという質問に、「いつもエコロジカル・マインドを頭のなかに入れておくこと」を答えの一つとして話してくださいました。

これはすごく大事だなぁと思いました。私も環境のこと、それから社会のことを考えるようになってから、

「環境を破壊することに加担していないか?」
「できるところから捨てるところまで環境を汚すことはないか?」
「安全に自然に還るか?」
「つくる人を苦しめていないか? 搾取していないか?」
「これを買うことで環境破壊や戦争をする人にお金が流れることにならないか?」

こうした問いがいつでも浮かんでくるようになりました。これらの問いに対して、満足に選ぶことのできる暮らしはいまの社会ではとてもむずかしくなっています。外でご飯を食べようと思っても、めったに入れるお店はないし、買えるものもなかなか見つからない。

それでも、「今日のところはしかたない、いつかはいい選択がしたい」と考えると、これからの選択に少しずつ、変化が出てくると思います。

これまでは目に入らなかったものが目に入るようになったり、いい選択のできるお店も見つかるようになったり。自分で工夫をして、できるように変えていくことも、とてもワクワクすることです。

そして、忘れてはいけないな、と思ったのは、自分の考えを持ちながらも、異なる考えの人に対して判断をくださないということ。

Anjaさんの考え方をまわりは理解しているといいます。もちろんみんながそれに共感しているわけではなく、異なる考えの人々はいて、「君の今の生きかたは10年先だよ」と言われることもあるそうですが、そういった人とでも仲良く調和して暮らしているとおっしゃっていました。秘訣は、他人に対して判断をくださないことなのだそうです。

ただ、判断をくださないと言っても、考え方が異なる場合に、自分の考え方を述べることは、相手を非難することになる、だから言わないほうがいい、というスタンスは違うんだな、と思いました。

Anjaさんのお話を聞いて、お互いに理解することが大切なのに、自分の考えを言わないというのは理解につながらないんだと気づきました。自分がどう思っているのか、正直に話さない限り、相手も本音では話してくれないと思います。言い方に精一杯気をつけて、それでも「押し付けられた」「非難された」と思われるのだったら、それはもう仕方がないかな、と思いました。

歌っていただいた曲のなかで、Kurikindiの歌がとても心に残っています。「ハチドリのひとしずく」という民話から生まれた曲です。私も大好きなおはなしです。Kurikindiの歌詞を心に焼き付けて、毎日を大切に暮らしたいと思います。

わたしは わたしにできること
あなたも あなたにできること
火を消すための ひとしずく
命のための ひとしずく

脱原発を願うようになった経緯

「なんでそんなに脱原発を叫ぶようになったの?」
と聞かれることがあります。

それは不思議になると思います。
私は3月11日に震災が起こるまで、
原発のことはよくわからなくて、
何の主張もなかったからです。

なので、少し長くなりますが、書いてみたいと思います。

私は、東北の出身でありながら、
福島にあんなにたくさん原発があることさえ知りませんでした。
事故の映像を見て、初めて場所を知りました。

爆発の後どうなってしまうのかが知りたくて、
映画を見たり、本を読んだり、インターネットで情報を探したり。

調べれば調べるほど、
原発は絶対にあってはいけないものだ、
と強く思うようになりました。
ドキュメンタリー映画が伝える真実は
映像であるがゆえに、生の声であるがゆえに、
とてつもなく大きな衝撃を受けました。
(読んだ本や見た映画などは後述します。)

なんで、知らなかかったんだろう、と情けなくなりました。
私が生まれる前から、
反対運動をしてきた人たちがたくさんいて、
どうしてこの人たちの話を
ちゃんと聞いてこなかったんだろう、と思いました。

身近で初めて、原発に反対している人に出会ったのは、
働きはじめてからでした。年の近い人です。

「なぜ?」ともなんだか聞きにくくて、
なぜだめなのか調べてみようと思ってはいたものの、
毎日の慌ただしさに流されて、後回しになっていました。
怖がらないで聞いてみたらよかったのに、
と今となっては悔やまれます。

その人に会うまでは、
原発のことは、もしかすると
考えたこともなかったかもしれません。

テレビや新聞で見る原発に反対する人々のことは、
フツウの人と違うと思っていたように思います。
もしかすると、非現実的で過激な人たち、
とまで思っていたかもしれません。

よく調べもせずに、
「便利な世の中を保つために、
原発はしかたないんじゃないのかな?」
と思っていたように記憶しています。

どうして、よく考えもせずに、よく知りもせずに、
勝手に思い込んで、決めつけて、と本当にばかだったと思います。

その無関心、無頓着があの災いを引き起こしたのでした。
私は原発に賛成したことはありません。
でも、無関心、無頓着であったことが、
原発を推進する大きな力になっていたことは確かです。

反対運動をずっと続けてきた人たちでさえ、
「自分たちの努力が足りなかったから
こんな大惨事を防げなかった」と、
「自分は罪人だ」とまで言う人もいます。
それを読んで、私なんかもっと罪が重いと思いました。

だから、こう思うようになったのです。

隠されている事実を知ること。
現場の声をちゃんときくこと。
現状をきちんと見ること。

知ったことをきちんと伝えていくこと。
できる応援を続けること。

原発の犠牲になっている人たちが
その呪いから解放されることと、
原発のない世界を祈り続けること。
そしてそれを行動にしていくこと。

それが今の私にできる、
せめてもの罪滅ぼしだと思うようになりました。

具体的な根拠は、また別の機会に書きたいと思います。
これまでに見た映画や読んだ本などの一部を以下に挙げます。
少しでも見てみてもらえたら、うれしいです。
そして、自分なりの考えを持ってもらえたら、すごくうれしいです。

■映画
イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘
第4の革命―エネルギー・デモクラシー
シェーナウの想い~自然エネルギー社会を 子どもたちに~
ミツバチの羽音と地球の回転
内部被ばくを生き抜く

■本
『原発・放射能 子どもが危ない』
『新聞記者が本音で答える「原発事故とメディアへの疑問」』
『鎌仲監督 vs. 福島大学1年生: 3.11を学ぶ若者たちへ』
『今こそ、エネルギーシフト――原発と自然エネルギーと私達の暮らし』
『内部被曝』
『チェルノブイリから学んだお母さんのための放射能対策BOOK』
『地宝論 ──地球を救う地域の知恵』
『テクテクテクノロジー革命』
『原発がなくても電力は足りる!検証! 電力不足キャンペーン5つのウソ』

■市民メディア(雑誌)

■情報サイト

20130412

私は言いたい

知られていない事実。
知ってしまった事実。

健康を損なうリスクのあるもの。
地球に住めなくなるリスクのあるもの。
一生懸命働いて得たお金を、
人を苦しめることに使われるリスクのあるもの。

もともと小心者の私です。
言わないほうが、それは楽です。

自分だけ気を付けていれば、
それでいいのかもしれない。

自分だけ、どこかにこもって、
自分がいいと思う暮らしをしていたら、
それでいいのかもしれない。

それでだれも不快にならないのかもしれない。
それでいいのかもしれません。

でも―。

リスクを知った上で、それでも便利だからと選択する。
リスクを知らずに、便利だからと選択している。

そこには大きな差があると思うのです。

身近な人が、大事な人が、
これから出会うかもしれないすてきな人が。

それで命を落とすかもしれない。
命はなくさないで済んでも、長く苦しむかもしれない。

自然と共にある暮らし。その恵み。心にくれる潤い。
それがどんどん失われつつある今、
もう二度と、得られなくなるかもしれない。
自然はいつだっておおらかに、私たちを抱いているというのに。

そうなるくらいなら、
不快にしても、仲たがいしても、嫌われてしまっても。
私は言いたい。伝えたい。

死んでしまうほうが、苦しまれるほうが、
もうもとには戻せなくなるほうが、私にはつらい。

だから、私は声をあげ続けたいのです。