【旧暦長月七日 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり)】
最近なぜか頻繁に目にし、耳にする言葉がある。
life purpose。人生の目的。この世に生まれてきた使命。
あまりに何度も目にするので、最近、私のそれはなんだろうと考え込んでいた。
友人は先日、「自分がやりたかったのは絵だったんだ、絵を描きたかったんだ!と気づいた」と話していて、それ以来、仕事もうまくいっているようで、イキイキしていて、充実しているように見えて、うれしく思っていた。
うーん、私のそれはなんだろう?
歌も好きだし、絵も好きだし、ちくちくも好きだし、料理も好き。書くことも好きだし、翻訳をして日本語と英語の飛躍の往来をするもの楽しい。ハーブにも興味があるし、編み物もできるようになりたいし、織物もしてみたいし、植物染めもやってみたいし、金継ぎもやってみたい。
どれもこれもやっていたら、"ものにならない"ような気がする。どれをやったらいいんだろう。
考えすぎてよくわからなくなってきて、何か見つかるかも、と本屋にふらりと寄った。
マクロビ系のお菓子づくりの本、ハーブや漢方の本、自然農の本、社会系の本、ソトコト、いろんな新書、英語学習系の本、編み物の本、片付けの本、絵本…。どれもおもしろいんだけど、どれか一つにしようと思ったら、どれも違うような気がしてきた。
だめだ、もう帰ろう。
そう思ったそのとき、ターシャ・テューダーさんのムックが目に飛び込んできた。
ターシャさんのことは前から大好きで、生き方を尊敬していた。ターシャさんは絵も描かれるし、ガーデニングもされたし、編み物や縫い物、料理もされ、素敵な言葉もたくさん残っている。
あ、そうか!これだった!と思い出した。一つに決めようとするからいけないんだ。やりたいことはなんでもやればいいし、一つに決める必要はない。
一つに決めないといけない気がしていたのは、一つに決めないと"ものにならない"ような気がしていたからだ。"ものになる"とはどういう状態? 何かお金に換える仕事として成り立つこと? できるだけたくさんのお金に? あるいは、世間一般に広く知られるような作品を送り出すこと?
生き方そのものを創ることを目的にしたら、売るために何かを書いたり、描いたり、作ったりしなくたって、全部含めて生き方そのものが自分にしかできない藝術作品で、自分にしか創れない世界で、それを創ることがlife purposeと言えるのではないか。過去に「だれもが芸術家」だと気がついたのに、こうもたやすく忘れてしまう。
ゴッホさんやピカソさんの絵のように、広く知られている藝術作品の良さもあるけれど、一部の人にしか知られていない藝術作品の良さもある。姪が私にだけ描いてくれた絵や、友人が作ってくれた絵本など私だけが知っている美しいものもたくさんある。
それと同じで、多くの人に絶賛される生き方の良さもあるが、関わった人たちの心に深く残る生き方もある。どちらが優れているということは決められるものではない。
自分がいいと思えること、自分が楽しいと思えることに夢中になろう。金銭的な成功も名声も、人生の歓びに必ず要るものではない。それをすでに持っている人たちも、全員が全員、楽しそうなわけでも、幸せそうなわけでもない。そういう固定的な価値観に影響されるのはやめようと思ったのに、また振り回されている自分に気がついた。気がついたからこそ、また一つ、縛りを外すことができたのだと思えば、それもいい。
ムックをパラパラ眺めていて、目に飛び込んできたターシャさんの言葉にトドメを刺された。
「何があっても「生きていることを楽しもう」という気持ちを忘れないで。」
夕闇のなか、晴れ晴れした気持ちで書店を後にした。