20141022

何者でもない

【旧暦長月廿九日 月齢 27.9 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり

環境問題や人権問題、社会問題、平和のことについて、情報発信などをしていると、活動家だと見られることもある。

だけど、私はただの人。何者でもない。

見て見ぬふりができない。自分がこんな状況に置かれたら―。そういうものに出会ったとき、ただの人は何も言ってはいけないのだろうか。何もしてはいけないのだろうか。

自分はどうやら、団体行動は好きではないらしい。考え方をある程度合わせないといけないピア・プレッシャーには耐えられないようだ。かといって、先頭に立つような性格でもない。だから活動家は合っていないと思う。お金を必要以上に儲けることには興味がないから、起業家も向いていない。

しいて名前をつけるなら、実践者だろうか。日々粛々とできることをやっていく。だれにも認められなくても、だれかに疎んじられても、できることを楽しめる範囲でやっていく。

たとえそれがどんな小さなことでも、少しでも良い変化を生めるのなら。だれも目に止めないような、小さな小さな変化でも。それが重なって、大きな良い変化につながっていくのだと思うから。

想い描いていることが全部できているわけではない。だけど、まだ改善の余地があると思えば、それもポジティブに捉えられる。

でかいことをしたいわけじゃない。何かをしているからって、何かを知っているからって、すごいと思われたいわけじゃない。結果としてそうなるならうれしいかもしれないが、それは目標ではない。

でも、どうやら、潜在意識にはそういうプライドが残っているようだ。見下してくる人に触れると、悔しくなったりしてしまう。ただ、すごいことをしている人に対するライバル心みたいなものは起こらなくなったから、それは進歩かもしれない。それに、たとえば、私より後に始めて、私を追い越してもっといいことをしている人に対して、悪い感情は起こらないし、むしろいろいろ教えてほしい、自分を高めるのを手伝ってほしいと思うようになった。

少しずつ、実践を重ねていくなかで、ニンゲンのレベルも上げていけたらいいなと思う。

だって、私はただの人。何者でもない。

20141019

難民高校生

【旧暦長月廿六日 月齢 24.9 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり

フェイスブックで流れてきたテレホンカードの寄付の募集。虐待や性的搾取を受けている女子高生たちが、携帯電話を奪われて、公衆電話から電話をかけてくることが多く、家に眠っているテレホンカードがあったら送ってほしいという内容だった。

リンク先に飛んでみると、「難民高校生」の文字に目を疑った。家にも学校にもどこにも居場所がなく、他に信頼できる人もいない。そんな絶望的な状況に置かれている高校生のことをそう呼んでいるそうだ。

リンク先の団体である、女子高校生サポートセンター/一般社団法人Colaboの代表の仁藤夢乃さんの設立趣意書を以下に転載する。

水商売や売春、変なビデオや本に出てくる女性に偏見を持ったこともあったが、悲しい事情から巻き込まれてしまう人も多いことを知った。

世の男性のみなさんにも、そういうものを見たり買ったり、そういう店を利用したりすることで、こういう状況に加担するのはやめてほしいと節に願う。

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設立趣意書
 高校時代、私は渋谷で月25日を過ごす“難民高校生”でした。

 家族との仲は悪く、先生も嫌いで学校にはろくに行かず家にも帰らない生活を送っていた私は当時、自分にはどこにも「居場所がない」と思っていました。そして、街には同じように「居場所がない」と集まっている友人がたくさんいました。

 私は、かつての私のように家庭や学校、他のどこにも居場所がないと感じている高校生のことを“難民高校生”と呼んでいます。当時の私や友人たちは、家庭にも学校にも居場所を失くした“難民”でした。

 家庭と学校の往復を生活の軸にしている高校生は、限られた人間関係性しか持っておらず、家庭や学校での関係性が何らかのきっかけで崩れるとすぐに居場所がなくなってしまいます。“難民高校生”には、誰でも、すぐになる可能性があるのです。

 そうして“難民”となった彼らが、彼らを見守る大人のいない状態で生活するようになると、そこには危ない誘惑がたくさん待っています。若さや体を売りにした仕事や危険な仕事、未成年の少女たちの水商売や売春への斡旋の現場や、暴力、望まない妊娠や中絶など、目をつぶりたくなるような現実を、私はたくさん目にしてきました。

 ただでさえ、家庭や学校に居場所を失くして精神的に傷ついている“難民高校生”たちは、そういう世界で生活を続けるうちに「これからどうなっていくのだろう」と不安になり、「自分は何をしているのだろう」と自信を失くし、「夢や希望を持てない社会」に絶望してしまいます。

 このままの生活を続ける以外にどんな選択肢があるのかすらわからないまま、そうした生活を続けるうちに、彼らはそういう世界で生きる人たちとの人間関係しか持たなくなり、ますます“難民生活”から抜け出せなくなってしまいます。

 そして、彼らがその生活から抜け出せないまま大人になり親になると、彼らを取り巻く問題は、次の世代まで連鎖する可能性があります。

 “難民高校生”の存在は一時的なものではなく、「次の世代につながる問題」なのです。
問題の背景には、「関係性の貧困」があります。“難民高校生”の問題は、貧困問題なのです。

  “難民高校生”や予備軍のために必要なのは、家庭や学校の「外の社会」との日常的な関わりです。居場所や社会的なつながりを持っていない高校生は、「外の社会」との関わりの機会や「外の大人」との関係性を持っていません。

 居場所がない高校生を取り巻く問題は、「若者だけの問題」や単なる「個人の問題」ではなく、背景には私たち一人ひとりがつくっている「社会」があります。

 一人ひとりが、“難民高校生”や予備軍の存在や彼らの抱える問題を知り、目を向けなければこの現状は変わりません。

 しかし“難民高校生”や“難民高校生予備軍”の存在や、彼らを取り巻く問題の認知度は低く、 学校での学習に困難を抱えている人の「リスタートの機会」や、青少年と地域社会の関わりの場も少ないのが現状です。

 そのため、私たちは“難民高校生”の問題を社会に発信し、それらの認知度を上げるとともに、“難民化”する高校生を減らすため、若者の視野を広げ、「若者が夢や希望を持てる社会」を目ざして『若者と社会をつなぐきっかけの場づくり』を行います。

20141018

Intangible--目に見えないもの・形のないもの

【旧暦長月廿五日 月齢 23.9 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり

Intangible value(無形価値)は、サステナビリティ(持続可能であること)に強く興味を持つようになるきっかけとなった翻訳の仕事で出会った言葉。社会的責任投資(SRI)ファンドによる大手企業数社が生んでいる無形価値についての評価報告書に載っていた。

簡単に言うと、売上や収益などにすぐには、そして直接は表れにくい、社会や環境にどんないいことをしているかを評価した報告書だった。具体的な形として見えにくいので、目に見える売上など(tangible)に対して、目に見えないもの、形のないものという意味でintangible。わかりやすい例を挙げると、動物実験をしている化粧品会社の無形価値は低く評価されていた。

企業の取り組みについて、見えない良い影響を評価していこうという動きがあるのを知って、うれしく思ったのを覚えている。それは、巡り巡って会社の売上につながったり、将来の競争力や技術力、売上などといった長期的な価値創出になるという考え方から、企業の戦略にも関わってくると考えられるようになってきているらしい。

個人の働きについても、数量化しにくい価値、目に見えない価値を評価したらいいのになぁ、と思う。

どんなでかい会社にいたかとか、どんなでかいプロジェクトを動かしてきたかとか、そんな経験や、どんなすごい資格を持っているか、、いくつ肩書を持っているか、どれだけお金をとってきたかという業績などで、人を比べて、劣等感に押し込めたり、優越感を持たせたり、そういうのはもう、これからの時代のやり方には思えない。そんな評価は、商品タグみたいなもので、相対的な評価でしかない(これについて昔書いた記事)。

幸いなことに、私の生んだ無形価値を評価してくれる人は、これまでにたくさんいた。売上を増やしただとか、そういうtangible value(だれにでもわかりやすく目に見える価値)は直接的には一度も出したことがない。

でも、組織の雰囲気を良くしたり、みんなが協力して動きやすいようにアイデアを出したり、必要とされている情報を提供したり、好きでやってきたことの結果を良い影響として評価して、わかりやすい形で報酬をくれた人も何人かいる。学生時代、運転免許をとらせてくれたオーナー。会社にかけあってくださり、「これ以上は無理だった、ごめんなさい」と時給を200円あげてくれた部長。気持ちがとてもうれしかった。目に見えないものも理解できる人たちに囲まれて働けたことを、今でも幸せに思っている。

数字や商品タグみたいなものにばかり目を奪われていたら、人の本当にいいところには気づけない。気づけなければ、伸ばせないどころか、踏み潰して折ってしまうことだってある。

私がここに書いている文章を、いつも読んでるよ、元気をもらったよ、あれ、よかったね、と励ましてくれる人たちがいる。そういう人たちの励ましのおかげで、私はこうして書き続けることができるのだが、そうした励ましは、私が書かない限り、顕在化はしない。

私がここに書き続けられるのにはエネルギーがいる。その物理的な源になっているのは、お米や野菜で、お米や野菜を作ってくれた会ったこともない農家の人、私が買ったお店で働いている人たち、お店まで運んできてくれた人たち、見えないところで私のことを支えてくれている人たちがたくさんたくさんいる。そういう人たちの営みも、私が書かない限り、顕在化はしない。

顕在化はしないが、その目に見えない価値は存在し、共鳴し、増幅し、私にすごく大きな力を与えてくれている。

私の文章というこの小さな例から気がついたことは、多くの偉業も無数の人々のintangible valueに支えられて成し遂げられてきたものだということ。世間では、なにかの賞をとった人だけがもてはやされるが、そのかげにたくさんの人のintangible valueが隠れている。自分1人でとれた賞ではないと語る人もいる。

だれもが素晴らしい働きをしている。それが巡り巡って、どんな大きな良い結果につながっているかわからない。目に見える結果の大小で、認証ラベルみたいなもんだけで、おれはすげえ、おれはまだまだだめだ、あいつはすげえ、あいつはしょぼい、なんて言うのは、もうやめにしないか。