20161014

blogの更新を2016年末までお休みします

いつもご覧いただいているみなさまへ、

ご訪問いただき、ありがとうございます。
先日お知らせいたしました通り、URLを変更いたしまして
現在移行作業を行なっております。

もともと、このブログは友人・知人向けに書いていたのですが、
ありがたいことにアクセス数が伸びてきたため(友だちが増えたわけではなく・・)、
こちらを匿名のブログとして(小心者でして…)、
表向きの近況や最近の仕事などを書くブログを新たに作り、
内容を精査して、どちらのブログに掲載するかを考えたり、
加筆修正したりしています。

リンクのURLを全部新しいものに直す必要もあり、
思った以上に作業が多くて、年末までは移行作業に専念したいと思います。
また、こちらのブログにどんなものを書いていくのかについても、
この機会に落ち着いて考えてみたいと思っています。

もし楽しみにしてくださっている方がいたら、申し訳ありません。
少し成長して戻ってこられるように努力したいと思います。
いつもありがとうございます。

20161009

しゃべりは諦める

久しぶりにいろんな人たちと話をする機会があって、自分のしゃべりの下手さ加減に辟易とした。話を振られても、相手の関心が続く形で話すことが難しく、複数の人がいる場合は特に、「これはこの人は嫌いだろうなぁ」とかいろいろ考えすぎて上手に話せず(気をつけないと簡単に地雷を踏んでしまうので…)、自分のしゃべり下手がほとほと嫌になった。かたや、自分の話を上手にして、自分の空気というかペースをつくっていくのが上手な人もいて、社交が楽しそうだなぁとうらやましかった。

20161008

わがままを許すことが優しさではない

断るに断れず、相手のわがまま放題を許したことについて、優しいとほめられ、感謝されたのだが、これが本当の優しさなのだろうかと苦々しい気持ちになった。

自分の時間や場所、費用、労力などといったリソースを投じて、相手のわがままを通すことを助けたことに、「あなたって本当に優しいのね、ありがとう」というようなことを言われても、ちっともうれしくなかった。

20161006

片付けについて

9月は暇さえあれば片付けに精を出していて、片付けの進んだ一ヶ月だった。まだまだ、片付けるものがいっぱいだが…。

片付けというのは、やってみると奥が深い。人生で何をしたいか、優先して何をするのか、それらの活動をどう循環させていくのか、ということを考えることにもつながっている。それに、生活を彩り、快適にしてくれるモノたちの居心地がよさそうになり、活躍の出番も増えてうれしそうだ。

これまで、収納は少ないスペースに物をどれだけたくさん詰め込めるかだと思っていたが、これは大きな誤解だったと気がついた。

よくおしゃれな雑誌などに載っているような、引き出しに木のスプーンが取り出しやすい間隔で並んでいる写真なんかを見ると、「えー、場所がもったいない!」などと思っていたものだが、使いやすく、取り出しやすく、戻しやすくするというのが大事で、そのためには空間的な余裕が必要だということを学んだ。

それから、入るところがないものは、まだ始めるタイミングではないということだとも思った。やろうやろうと思って、本だけ買ってあるものがいくつもある。金継ぎの本もその一つ。

引っ越しのときにお気に入りの食器を何枚も割ってしまい、金継ぎが始めたくてしかたないのだが、片付けをしてみると、道具を置いておくスペースがまだないということが判明。

道具を置くスペースがない物事というのは、たいてい、時間的な余裕もなく、買ってきてもずっとやらないまま放置することになりがちだ。

家の中を見回してみると、片付いていないものがいっぱいある。

紙小物をつくろうと取ってある和紙の切れ端、消しゴムはんこ用の道具の買い置き、編み物用に買った草木染めの毛糸、リメイク用に買った古い着物、種取りがまだの豆やら麦やらがあちこちに・・・。

草木染めも本を買ってあり、布も無漂白の布を東京時代に買ったのだが、東京の狭い家ではそもそも無理で、移住してからは、ほかにやることがありすぎて、まだそこまで手が回らない。

本当にやりたいものしか残ってなかったのが、昔よりは成長したかなと思った。昔だったら、この検定は取っておいたほうがいいかも、みたいにテキストを買い込んで、いつか勉強するはずと積んであったり、「これくらい取っておかなければヤバイのでは・・・」みたいな恐怖に基づいて残してあった検定書もある。

今はやりたいものが収まる場所を待っているという状態。やりたいことを気持ちよくやれる余裕を生むために、片付けをしながら、空間的にも時間的にも整理を進めていけたらと思う。そう考えると、片付けが上手になると、楽しめることが増えるということだから、ますます片付けが好きになれそうだ。

あれだけ苦手だった片付け。こんまりさん(近藤麻理恵さん)の『人生がときめく片付けの魔法』を読んでも、3日も続かなかった。しかし、今回はどうやら、新月の願い事が効いたよう。

新月の願い事は、新月から8時間以内(48時間以内でもまだ効力は強いらしい)に、「私は」を主語にして、願い事を完了形(~しました)や進行形(~しています)で肯定文で10個書くと願い事が叶いやすいというもの。半信半疑で始めたものの、これまで、旅行が当たったり、ぴったりの家が見つかったりと、結構叶うので続けている(その後、lunalogy創始者のKeikoさんの提唱するパワーウィッシュになり、さらに叶うようになった気がする)。

9月の乙女座の新月のときに、「私は片付けが上手になりました」と書いてみたところ、あれだけ面倒でやりたくなかった片付けに燃えるようになり、やる気が結構続いている。乙女座は几帳面な星座なのもあって、片付けができるようになるという願い事と相性がよかったのかも。

片付けが苦手な方、乙女座の新月のときにパワーウィッシュをやってみるともしかしたら効くかもしれません。

20161005

善行について

ボランティアに行きだした人が、急に尊大な態度を取るようになったり…。慈善活動の寄付集めを手伝うようになった人が、「そんなものの頼み方なくない?」って感じの頼み方で、お金を要求してきたり…。

「善行」をしているからと、礼儀や思いやりを免れると勘違いしているのか、ものの頼み方や提案の仕方がめちゃくちゃだったり、道理をわきまえず、筋を通さないやり方を押し通す人も結構いる。まわりの人に不快感や迷惑をかけるような、そんな慈善活動なんかむしろ、やらないほうがいいんじゃないの?って思ってしまう。

いいことをしている人はいい人だと思っていたのだが、実はそんなこともないと、最近気づいてしまった。

なんで、そうなるんだろう?と考えながら、いろいろな人たちを観察していて、ある共通点があるのではないかと思い至った。「善行」を施す場以外では無礼な態度を取る人間は、その「善行」によってもたらされるよい結果が、実は自分の望みにはなっていない。

そういう人たちが善行をしたいのは、善行をすることが、こんな立派なことをしている、という経歴を身につけることになるから。言い換えれば、善行をしたという経歴が自分に自信をつけるためのアイテムとして捉えてられている。そのため、こういう立派なことをしている自分は、していない人たちよりも偉いという態度になる。そのアイテム数を増やすことが目的化してしまっている。アイテム数を増やす、経験値を増やすことによって、他者からの評価を高めることが目的であり、だれかや何かを助けること、自然環境を回復させることなどではない。…ない、とまでは行かないのかもしれないが、動機としては二番目以下の要素だろう。

自然を壊さず、なるべく自然が喜ぶような暮らしを心がける、また、消費や預金で戦争に加担せず、なるべく作る人も売る人も喜ぶような選択を心がける、そういう暮らし方をひけらかす人も多いが、黙々と地道にそういう日々を創っている人たちもいる。

黙々と、誰に自慢するでもなく、地道にそういう暮らしを創っている人たちを何人か知っている。そういう人たちは、何か有名な団体に所属して活動しているとか、何人の人を助けたとか、そういう箔のようなものは何もつかないが、醸し出す雰囲気というか、威厳のようなものが揺るぎない感じがする。そして、そういう暮らしを創ること自体が喜びになっていて、だれかに認められなくても、幸せそうだし、そういう暮らしに協力的な人たちに感謝をし、そうでない人たちにも阻害しないでくれることに感謝して、丁寧に対応をしている人しか見たことがない。

善行をしている人たちも、本当に誰かや何かを助けることが自分の目的になっている人は、ひけらかしもしなければ、自慢もせず、ただただ「助ける」という目的に集中していて、協力を広げるためにも誰に対しても礼節をわきまえている。まだ問題に気がついていない人たちや、全く協力しない人たちに対しても、見下すような素振りは全くない。そういう人は本当に立派だと思うし、数人でもそういう人を知ることができたことは本当に幸運だと思う。

善行によってもたらされる良い結果そのものが自分の喜びでない場合、自分の自信を高めたり、他者からの評価を高めたりするために、善行をした経験数を増やすことが目的化してしまう。そういう善行というのは、むしろ、その人の人間性に害を与えるのではないだろうか。善行をする中で、本当に立派な人間に出会い、自分の浅はかさに気づくきっかけになることもあるのかもしれないが。

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20161002

世間一般の固定観念通りの考えなら、人付き合いは楽かもしれないが

たまに他者と話すと、さまざまな発見がある。

世間一般の固定観念に考えが符合している人はさぞかし生きるのが楽だろうなぁと思うことがあった。結婚や出産の話題などのゴシップが好きで、男は男らしく、女は女らしくといったジェンダー観は世間一般の固定観念の通り。地位や名声などのラベリングによって他者を評価する。そういう人たちは友人も多く、SNSも楽しんでいるし、人の集まるところにでかけていくのも楽しそうだ。かたや、私は個人の自由を阻害する固定観念が大嫌いで、大勢といても孤独を感じ、たいていの人間と過ごすのは苦しい。

ゴシップやジェンダー差別、地位や名声などによる評価など、そういう固定観念に染まった話を聞いていると、私は次々に疑問が浮かび、その疑問を投げかけたい気持ちを抑えるのだが、相手は私が不快に思っていることに全く気がついていない。他者がどう感じているか、どう考えているかを察知するセンサーが鈍い人のほうが世の中には多く、そういう人たちも生きるのが楽そうに見える。私はただひたすら我慢して聞き、相手は気持ちよく滔々と話し続ける。

反論せずに我慢して聞くのは、相手の反応が先々までだいたい予想がつくからだ。反論したところで理解されない可能性が高い。理解されずに激怒されて終わるだけだ。相手が固定観念に気がつくまでには恐らく、長い時間がかかる。死ぬまで知らずに過ごすかもしれない。そのほうがその人にとってはもしかすると幸せなのかもしれない。それに、私が何か言ったところで、気づくきっかけを与えられるどころか、むしろ余計に凝り固まる可能性のほうが高い。だから私は黙ってただひたすらやり過ごす(わかりそうな相手で、相手のためになるかもしれない場合には少し意見を言ったりもするのだが)。

こうやってやり過ごすのはしんどい。しかし、そういう人たちと自分をもう少し広い視野で見てみると、自分のほうが自由度が高く、幸せな気分でいる時間が多いということに気がつく。

そういう人たちは、結婚や出産、地位や名声のある仕事など、世間的な幸せにとらわれている。それを手にしている場合でもそんなに幸せそうには見えない。手にしていない場合は、手にしなければ不幸だという気持ちでいる。餓鬼のように渇望して苦しんでいる人もいる。

自分らしさや自分のしたいことという点でも、自分は男だからといわゆる女らしいと言われている性質を押さえ込んだり、自分は女だからといわゆる男の仕事とされているものには最初からできないと決めつけていたり(逆も然り)していて、非常にもったいないと思う。他者から得る気づきも、世間一般の固定観念という色眼鏡を通して見ているために、まっさらな目で見ているよりも大幅に少なく、しかも歪んでいることが多い。

世間一般と一緒に過ごす時間という短いタイムスパンでは、そういう人たちのほうが楽かもしれないが、人生全体の時間で幸せな割合を比べてみると、恐らく、固定観念を捨て去ったほうが幸せな時間が多くなると思う。自分はこれからも、孤独を恐れず、自分の自由意志を大事に世の中を見て学び、自分の人生を楽しんでいきたいと思った。

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20160917

怒りの矛先を間違えない

うちはほぼ玄米菜食で、私は野菜さえあれば満足なのですが、相方がときどき、スーパーなどで魚を見ると食べたがります。漁港直送の新鮮な珍しい魚が近所のスーパーでも並んでいておいしいので、無理もありません。

しかし、海にも放射性物質は垂れ流されつづげているし、空気中に飛散し続けている放射性物質も雨になって降り注ぎ、川をつたって入り込むものもあります。魚は生き物なので、捕獲されたのが他県でも、泳いできた場所によっては放射性物質を取り込んでいる可能性もある。検査もきちんとは実施されていないので、相方は魚を食べたいけど、放射能汚染を心配しています。私は魚を食べなくても平気なので、放射能汚染の心配をしてまで魚は食べなくてもいいのですが…。

相方は、スーパーに行くと、魚コーナーに必ず寄り、いい魚ないかな~と物色します。私はそんなに食べられないのですが(少しで満足してしまう)、放射能汚染の心配のたぶん少なそうな日本海側や南のほうのお魚を一緒に探して、よさそうなのを見つけると相方に教えます。

tom-tom:これ、おいしそうだよ~
相方:うーん…
tom-tom:こっちは?
相方:うーん……
tom-tom:私別に食べなくてもいいんだけど…
相方:うーん、おいしそうなんやけどね、この魚、泳ぎまくるんかな?

放射能汚染が心配で、どこを泳いできた魚なのかが知りたいということです。

私は魚を食べなくても平気なので、魚を見に行く必要は全くないのですが、相方が食べたいと言うから一緒に探しているのに、毎回このやりとりになるのは、たまにイラっとすることもあります。「あんたが食べたいって言うから見に来てるのに毎回その質問。そんなん言うんやったら魚らてもう食べんかったらええやろ。魚博士になってから食べたらええわ」とブチ切れてしまうこともたまに…。

でも、わるいのは相方じゃないんですよね…。相方が放射能汚染を撒き散らしているわけではないのですから、相方に怒りを向けるのは矛先が間違っています。

相方の心配はおおげさではありません。海外では日本の海産物を輸入禁止にしていたり、輸入する場合は放射能検査を要請または自国で放射能検査を実施している国もあるほどです。秋田で放射能検査を個人で実施して情報公開をしてくださっている「べぐれでねが」さんの調査では、静岡県の沼津で水揚げされ、外食産業などの業者向けに普通に販売されていたアオザメから放射性物質が707ベクレル(ちなみに日本の現在の基準は100ベクレル)検出されたということです。

目に見えない放射能をばらまいているのは東京電力と、一緒になって原発を推進してきた政府。そしてその政府をつくった原因の一つには有権者が無関心を続けてきたことがあります(もちろん、国民が関心を持たないように仕向けてきたというのもありますが)。怒りを向けるべきは、そっちなのです。

放射能汚染のない食べ物を安心して食べられるようになりたい、世界から原発をなくしたい。その願いを持っているのなら、むしろ、相方はその仲間。その相方にブチ切れるのは、怒りの矛先を間違えています。

こういうことが、一般にも広く見受けられます。同じ願いを共有して活動している仲間なのに、努力が足りないとなじったり、足を引っ張ったり、けなしたり、意見や考え方がちょっと違うだけで誹謗中傷を浴びせたり…。自分が望む現実をつくっていくためには、理想を共有する仲間に、短絡的な怒りをぶつけるのではなく、同じ方向を向いて協力できるように努めることが大切だと思います。

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20160916

沖縄・高江のドキュメンタリー映画『標的の村』(三上智恵監督作品)を観て

沖縄の高江に国が強行的に建設を進めようとしているアメリカ軍のオスプレイパッドの問題を克明に描いたドキュメンタリー映画『標的の村』を観てきました。

◎解説はこちら:http://www.hyoteki.com/introduction/

オスプレイパッドに反対している人たちは、過激な人たちでは決してありません。私たちと全く同じように、ただ平穏に、普通の暮らしがしたいだけ。映画に登場するUAさんの歌にも「オスプレイはいらない 静かに寝たい」という歌詞が出てきます。

また、高江は自然が豊かな森です。映画には珍しい亀が姿を見せていましたが、命の溢れる森です。ここで、子どもたちは自然と遊び、大人たちは農業を営んだり、カフェを開いたり、木工職人をしたり、自然とともにある暮らしを営んでいる心の穏やかな人々が、自然と人間らしい暮らしを守るために、座り込みをせざるを得ない。

オスプレイは事故が多く、アメリカでは国民の反対で飛行訓練ができません。ハワイではコウモリの生態に悪影響を与えるということで、オスプレイ演習が禁止されていますが、沖縄では低空を米軍機が飛び回っています(*)。沖縄だけでなく、日本全国の上空にはアメリカ軍は自由に飛び回ることができるゾーンがあり、愛媛の伊方原発のすぐそばに米軍機が墜落するというぞっとするような事故も過去に起きています(原発を標的にした攻撃訓練をしていた可能性が高いそう)。アメリカ軍が日本の上空を飛び回れることは『日本はなぜ、基地と原発を止められないのか?』にわかりやすく書かれています。
*参照:高江ゲート前に1600人が集結!参院選で当選した伊波洋一議員も駆けつけ怒り!「ハワイではコウモリのためにオスプレイの演習が禁止されている。沖縄県民はコウモリ以下なのか!」 (IWJ 2016.7.21)
説明会を開いてくれと求めても応じず、建設に反対する申し入れをしても無視され、選挙で民意をこれでもかと言うほど示しても全然ダメ。座り込みをして身体を張って止めるしかないのです。痛いし、怖いし、仕事や日常生活にも支障が出るし、本当はこんなこと、だれだってしたくない。映画に登場する市民はみんな、やりたくないけど、やるしかないから、こんなことしなくちゃいけない、と言っていました。本当に悲しいことです。

非暴力で沖縄を守ろうと身体を張っている市民を、沖縄の人たちを守るのが本来の仕事のはずの、沖縄県民の税金で雇われている警察官や、国民を守るのが本来の仕事のはずの機動隊が、暴力的に排除する。それを見て、アメリカ軍の兵士はおもしろそうに笑っている。「なんなの、これ? これが日本なの? どうなってるの?」と本当にやるせなかったです。

座り込みをして建設に反対していた市民が、国から「通行妨害だ」として訴えられます。本当に汚い。このように、政府などの権力者が市民に自主規制をさせるために訴訟を起こすことはSLAPP(スラップ)訴訟(*)と呼ばれ、司法が国民をだまらせるのに悪用されるという理由から、アメリカでは禁止されている州もあるそうです(以下によると50州中25州→SLAPP訴訟被害者連絡会)。

*SLAPP=strategic lawsuit against public participation[直訳:市民参加を排除するための戦略的な訴訟]の頭文字を取ったもの

映画に出てきた国によるSLAPP訴訟では、現場には一度も行ったことのない7歳の少女までもが被告にされていました。その子の両親は反対運動に参加していましたが、彼女は1回も現場に行ったことがありません。「国に歯向かうとこうなるんだぞ」という見せしめのためにこんな小さな子まで訴えるなんて正気でしょうか? こんな恐ろしい脅迫、まともな人間のやることとは到底考えられません。「私も牢屋に入るの?」とその子はとても不安そうでした。

このSLAPP訴訟を、アメリカのように禁止にすることは、どうしたらできるのだろうか、本当に知りたいと思いました。選挙で民意を示してもダメ、非暴力の抵抗も国による暴力で排除され、裁判でひきずりまわされる、本当にどうしたらいいんだろう。何ができるんだろう。根本的な原因はどこにあるのだろう。私はどうしたらいいんだろう。

この映画は2012年に公開されたときに、知人が見て「3年分くらい泣いた」と言っていて、ものすごく見たかったのですが、東京では結構いつでも見れてしまうため、そのうち、そのうち、と思っているうちにチャンスを逃してしまっていました。今月、近くの市民の方が、自主上映会を開いてくださり、ようやく念願が叶って見ることができました。

念願ではあったのですが、受け止めきれるだろうか、という不安もありました。これを見て、私、立ち直れるんだろうか、という不安があったのもあって、東京時代はズルズルと後のばしになってしまったというのもあります。

すでに沖縄の状況はフリージャーナリストの方々や、現場の方々のSNS投稿などで追っていたので、覚悟はできていましたが、やっぱり、しばらく、ずーん・・・と心が痛くて、痛くて。

この映画で起こっていることは2012年の状況でしたが、それから4年経っている2016年の今になっても、状況は変わらないところかますますひどくなっています。私は、映画の間だけで、90分間だけ、このつらい現実が目の前からは見えなくなって、楽しいことにうつつを抜かしたりできるけれど、沖縄の人たちはまだ続いていて、先の見えない戦いを強いられている。こんなにつらい現実のなかで、まだ幼い子どもたちも、希望を捨てずに、「オスプレイがこれ以上こないようにがんばる」「お父さんとお母さんが疲れちゃったら代わってあげられるようになりたい」と、やんばるの森を守る気持ちをしっかり持っているのを見て、本当に文字通り、涙が出ました。私はほとんどなにもできなくて本当にごめんなさい、どうしたらいいんだろう、何ができるんだろう、そんな想いがうずまいていました。

受け止めるにはつらすぎる現実ではありますが、これが日本で起こっている現実なんだ、と、国民の一人として、絶対に知っておかなければいけないし、沖縄で起こっていることは、今の政治の状況では、日本のどこでだって起こりうることなのだから、知っておくことができてよかったと思いました。

沖縄の高江で起こっていることについては、監督のコラムが充実していますので、ぜひ、読んでみてください。映画もぜひ多くの方々に見ていただきたいです。
三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記
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20160331 「戦場ぬ止み」を観てきました。取り急ぎのご紹介。
20160717 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読んで
20160724 『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』を読んで
20160824 原爆投下の真実―オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史〈1〉を読んで
20160815 71年目の終戦記念日に思う
20150815 太平洋戦争終戦から70年

20160915

『愛国と信仰の構造』を読んで―〈番外編〉

この3日間、『愛国と信仰の構造』を読んで考えたことを書いてきました。
  1. 愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
  3. 愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉
今日は番外編です。中島さんほど強い動機に突き動かされて学者になった人に出会った(本でだけど)は、初めてかもしれないと思いました。

中島さんにとって、愛国と信仰は人生を賭けた大きな研究テーマだそうです。

中島さんは、20歳のときに阪神大震災で被災。見慣れた風景が一変し、茫然自失の状態になったといいます。震災の状況を報じるテレビに釘付けになっていると、がれきの中を必死の形相で何かを探す女性が目に入ります。リポーターの「何を探しているのですか?」という質問に、何を当然のことを聞くのかというような雰囲気できっぱりと「位牌です」と答えるのを見て、「地震の揺れ以上の精神的な揺れ」が起こったそうです。自分が真っ先に握りしめたのは財布、この女性は位牌を必死で探している。この対象的な様子を目の当たりにしたことをきっかけに、自身の内面の「弱さ」に直面することになったと語られていました。
バブルが崩壊し、戦後日本の「成長」という物語が崩壊する中、二十歳の私は何に依拠して生きていけばいいのか、途方に暮れてしまいました。その茫漠たる不安を、震災は直接的な形で突きつけてきたのです。(p. 12)
中島さんは、精神的な〈弱さ〉の源である自分の中の「空白」、すなわち、宗教に向きあおうと考え、イスラム教、キリスト教、神道、仏教、ヒンドゥー教(五十音順)など、さまざまな宗教書を特定の宗教や宗派にこだわらずに読み漁るようになりました。

そのような状況下で、また一つの衝撃的な事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こります。マスメディアは「宗教は危ない」の大合唱になり、世間も「宗教は危険」一色になりました。自己の「空白」と向きあおうと、宗教を勉強しているさなかに、こんなことが起こるなんて本当に衝撃だったと思います。

宗教を十把一絡げにして危険視する論調に違和感を持ちながら、「図書館の本の森に籠もるようになって」いき、「なんとか自分が納得できる宗教へのアプローチを手にしたいともがいていた」といいます。

1995年はさらにもう一つ大きな出来事がありました。戦後50年にあたり、「村上談話」が発表されます。“右派”論壇からは「自虐史観からの脱却」「東京裁判史観の破棄」というスローガンが叫ばれ、歴史修正論的な議論が大手を振って論じられるように」なっていたそうです。それから20年余りが過ぎましたが、今ではその傾向がさらに強まり、その歴史修正論的な見方によって、日本は国際社会で孤立するようになっていると思います。

中島さんは、こうした一連の衝撃的な出来事を経験したことにより、「愛国と信仰」という問題が、「戦後の臨界点において暴力的に表出してきている」ことと、「その荒波が私の人生に押し寄せてきている」ことを実感なさったそうです。

こうして、「愛国と信仰」という問題は、中島さんの大きな研究テーマになりました。
私はこの問題に正面から向き合ってみようと思いました。「愛国と信仰」という問題を脇に置いたままでは、私の人生は片づかないと考えました。これが研究者という道を歩みだしたスタート地点でした。(p. 14)
私がこれまでに知っていた学者さんというのは、経済的な安定や地位や名誉が第一の目的で、身近でも、研究より飲み会とか旅行とか遊ぶほうが好きだけど、教授に気に入られたりとかして、「まあ、なれそうなんだったらなっとくか」みたいな人とか、研究で安定してお金をもらいながら続けられるならほかの仕事よりはましかな、くらいの人とか、名誉が欲しいから何かつぶしが聞きそうな研究テーマを探して研究者になっている人とか、そんな感じの人が多かった気がします。研究を続けるためだけになんかしょうもないような細かいことを研究して言い争っているなぁ、という印象も持っていました。保身のために優秀な研究を発表したゼミ生をいじめる教授とかもいたし…。昔はほんまもんの研究者もいたんだろうけど、今は希少なんだろうなぁというイメージでした。

なので、研究は大学にいなくたってできるけど、収入や地位や名誉のために大学に残る、あるいは、職務経験や特殊な経験を売りにして入り込むような世界なんじゃないのかな、と思っていました。もちろん、そういう人ばかりではないと思いますが。

人生をかけた課題にしっかりと向き合うために研究者になる、という人もいるんだなぁと、中島さんが学究の道に進んだ経緯を知れて、うれしくなりました。こういう真剣な学者さんが増えてもらいたいし、心からの要求に沿った生き方をする人が多くなるといいなぁと思いました。

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20160914

愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉

この記事は一昨日からの続きです:
  1. 一昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で書き残しています。

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20160913

愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉

この記事は昨日からの続きです→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉

政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で投稿しています。

昨日は、社会的紐帯が希薄になった社会で砂粒化した人々が自己の実存の基盤を求めて宗教やナショナリズム、全体主義に傾倒していく、というメカニズムなどについて書きました。今日は当時の人々がどのようにしてナショナリズムに傾倒していったのかを、時代背景とともに、もう少し具体的に書きたいと思います。

20160912

『愛国と信仰の構造』を読んで 〈1〉

『愛国と信仰の構造』は、政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書。

『愛国と信仰の構造』

明治から大正、昭和にかけて、日本を戦争へと向かわせた戦前のナショナリズムと全体主義がどのようにして起こっていったのかを検証している。

20160910

「イクメン」「ペアメン」という言葉に感じる違和感

以前、「ワーキングマザー」「働くママ」という言葉に違和感を感じるという話を書いたときに、「イクメン」という言葉についてもまた追々書きます、と書いたのに、すっかり忘れていました…。すみません。今日こそは書きます。

収入を得るような仕事をする母親、特に会社で働く母親は特殊だと言わんばかりに、「ワーキングマザー」というような特別な名称が使われるようになっているのと同様、「イクメン」=育児をする男性というのも特殊だと言わんばかりの言葉です。

最近、よく聞くようになりましたが、男性が育児をするってそんなに特殊なことなんでしょうか。もう21世紀、2016年ですよね?? 育児をする女性を指す言葉はありません。育児は当然女性がするものだと思われているからですか? 「イクメン」も「イクボス」も「ペアメン」も、軽々しくて不愉快を感じる言葉です。

私が男で父親で、「イクメン(育児をするMEN[=男性])」とか「ペアメン(parenting menの略で親の務めをする男性)」とか言われたとしたら、「親なんだから当たり前やろが!特別視してんじゃねえ!」とイラッとすると思います。「えらいでしょー!でへへっ」とかなる人いるのか?

ジェンダー問題についてよく書かれている香川のブロガーのyossenseさんも、このことについて何か書かれているかな?と思って検索してみたら、やっぱり、イラッとするそうです。
2014年12月5日 「イクメンですね!」と言われるとイラっとするという話
ヨスさんの記事を読んで、現代の会社の働き方では、男性が育児休暇を取りにくかったり、男性が育児に関わることが制度的に難しいという視点が、私の忘れがちな視点だったなと思いました。うちの父は会社員ではなく、自営業でいつも家にいましたが、育児は母がするもので、威張るのが父の役目だと思っている節のある人でした(立派な名言も聞かせてくれたし、生活に必要なお金をつくってくれたし、感謝をしている面も多いのですが、そういう男女差別の考えは嫌でした)。

なので、会社員のお父さんというのは、直に経験をしたことがないので、どんな感じなのか、想像が薄いのです。確かに、関わりたくても関われないという父親も多いだろうなぁと思いました。「イクメン」など、育児をする男性を特別視して持ち上げるような言葉を流行らせて、根本的な解決をせずに、個人の努力でどうにかさせようとしているのではないだろうかとも思いました。

スピリチュアルな観点でどうこうというのはよくわからないですが、親が二人いるというのにもきっとわけがあると思います。女だけがやるものでは本来ないはずです。父親が死んじゃったとか、失踪したとか、そういう特殊な緊急事態に備えて、女だけでも育てられるようにできていると思いますが、それはあくまでも特殊事態であって、二人でいるなら普通は二人で育てるものだと思います。

育児は母親だけがするのが当然で、父親がするのはめちゃくちゃ特殊なことなんていう状況だと、父親から子どもが得るものってお金とDNAくらいのものですよね? そんなの悲しすぎるではないですか。

二人の異なる人間が子育てに関わることで、子どもに何らかの良い影響があるのだと思います(一人親に育てられた子どもが不十分だと言っているわけではありません。人間はさまざまなものからインスピレーションを受けて育っていくものだと思うので)。それだけではなく、子どもを育てることで、親にも人として成長するのに重要な経験が与えられるのだと思います。よく、「子育て」は「共育ち」というような言い方もされますが。

ちなみに相方は、子どもにもニックネームで呼んでもらうと言っています。対等に人間として付き合いたいからだそうです。「お父さん」など関係性の名称にしてしまうと、上下関係が生じるからだということです。母が姪に、私のことを「おばちゃん」とは絶対に呼ばせないと言って、ニックネームで呼ぶように教えこんでくれたのですが、確かに、「お年玉ちょーだいっ」みたいな関係ではなく、対等な友だち感覚で、保育園や学校で起こったこと、考えていることなどを、いろいろと話して聞かせてくれます。相方いわく、「これからは個人の時代よ」と言っていました。こういう相方と話していると、「イクメン」なんて言葉が何世紀も前の言葉のように感じます。

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20160907

家事や育児について考えていること(誤解されると困るので…)

ジェンダーについてちょいちょい書いていると、お金を取ってくる仕事を女性がするのがいいことだと私が思っていると誤解されるかも…と思ったので、それについても書いておきたいと思います。

これについては過去にも書いていますが(「ワーキングマザー」「働くママ」にという言葉に感じる違和感)、金銭的な収入にならない仕事、たとえば、家事や子育てなどを、低く見る風潮にも「それってどうよ?」と思っています。

家事や育児しかできない女は低能だとか思っているおかしな人もいますけど、そういうのとは全く違う考えで、私が問題だと思っているのは、社会の固定観念のせいで、本当にしたいことができない、あるいはやりにくいことなのです。

いわゆる「男らしい」と言われている仕事(例:管理職やエンジニア系の仕事など)を女性がやりたいと思った場合に、女性だからという理由で排除されたり、変な目で見られたりすること、また、いわゆる「女らしい」と言われている仕事(例:家事や子育てのほか、看護師、保育士)を男性がやりたいと思った場合に、男だからという理由で、変な目で見られる(排除されることはあんまりないのでは)のはおかしいと思うのです。

いわゆる「主婦業」も、名前からしていかにも女のものって感じですけど、男女どちらでもやりたいほうがやればいいと思うのです。家事は、やりたいほうがって言ったらどっちもやんないかもしれないけど、もし夫婦のどちらも働いているのなら、女の仕事だという感じで押し付けないで、平等に分担するべきだと思います。家事は女の仕事ではありません。一人暮らしで生きていれば男でも女でもどっちでもやるものなのですから。女は男の身の回りの世話をするために存在しているわけではありません。

女性がパートナーの男性の活動を支えたいという気持ちで、家庭の運営を担当するのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。もちろん、逆も然りです(でも、逆の場合は、風当たりが厳しいみたいで、これっておかしいでしょって思う)。

私の場合は、今は翻訳やリサーチなどの仕事が楽しいし、お金が必要なのでいろいろやっていますが、もし、相方に何かものすごく成し遂げたい偉業があって、それで生計が立つのであれば、私は金銭的収入を得る仕事を一旦休止して、家事に専念するのもアリだと思っています。今のところは、どちらも仕事が楽しいし、家事ができる余裕がどちらにもあるので、分担しながら楽しくやっています(過去記事:我が家の家事分担について。家事は分担よりも共同作業が楽しい。

料理をつくることは、家族の健康をつくる、お医者さんのような仕事だと思います。おいしいという喜びをつくる仕事でもあります。これが、例えば、シェフやパティシエ、料理研究家、パン職人、うどん職人のような、なにかお金になる仕事でしている人であれば、なんか「すごい!」みたいに見られる風潮がありますけど、家で料理をつくる人は、毎日、家族のために、ありとあらゆる職人になるのですから、本当にすごいと思います。家事をする人は料理のいろんな職人だけではなくて、掃除や洗濯の職人にもなります。

それにどの仕事をとっても、直接的な現金収入にはなっていないかもしれないけど、出て行くお金をかなり減らしています。

料理を外部に全部任せていたら、お弁当なら500円くらい、レストランなら1000円くらいでしょうか。毎食それで過ごしたら、月に45,000~90,000円ほどの出費になります。飲み物を家で作らずにペットボトル頼りでいたら、安売りで80円くらい、小売価格では150円ほどですから、それだけでも1万円前後の出費になります(地球上に人間が快適に生存できる期間も縮めるし)。掃除や洗濯のサービスを誰かに頼んだらどのくらいかかるでしょうか? 

食事についてはそれだけではなく、食事が外食だけだったら、お金がかかるうえに、病気がちになって、医療費もかさむでしょう。肌もボロボロになって化粧品代もかなりかかるようになるかもしれません。気持ちがすさんで、憂さ晴らしに大金が飛んで行くことになるかもしれません。身体によい食べ物を選んで手で作られた食事は、どんな薬にも勝る薬だと思います。古代中国では、薬物で治療する医者が「下医」と呼ばれて最も位が低く、食べ物だけで治す「食医」が最も位が高かったそうです。家族のなかで、健康な身体をつくる食べ物をつくる人は、この「食医」にあたると思います。そのくらい、尊い仕事だと私は思っています。

私は繕い物が好きで、相方の靴下やズボンを直したりしていますが、それでもかなり出費が押さえられています。繕い物は、使えるものが一から作るより早くできるので達成感を味わえるのが早いのと、「捨てられるの?ぼく、もう捨てられちゃうの?」と思っていそうな物たちが、別な顔になってまた活躍してくれるのがうれしいのです。

先日、仕事がしばらく空いて、縫い物ばかりしていたときに、

tom-tom: 「あー、今日はなんもお金になることせんかったー」
相方:(手縫いで作ったズボンを指して)「それ、作ったやん」
tom-tom: 「たしかに、これ、買ったら1万円近くするよね。リネン100%だし」
相方:「1万できかんで! 3万円はするでー。手縫いやで。オーガニックコットンの縫い糸やし。あの展示会(早川ユミさんの展示会のこと)でも手縫いやったら5万ほどしたやろ」

…という話になりました。5万ほどしたかどうかは定かではなく、作家として長年経験を積まれている早川ユミさんと同じ値段では失礼にあたると思いますが、手で縫って1着作ろうと思ったら、時給換算すると3万円というのは確かに、妥当かもしれません。

現金収入を持ってくる人がエライと言うのなら、出て行くお金を抑えることで富を増やしている人も同じくらいエライと思います。

お金だけではなくて、一緒にいて支えてくれたり、いつも安心して帰ることのできる空間をつくってくれていたり、おいしいという喜びを創造してくれたり、こどもが素晴らしい人間に育つのを助けたり、…ほかにもたくさんありますが、こういうことは、お金でははかることのできない価値を生む仕事だと思います。だから、私は家事や育児を低く見ているなんていうことは決してありません。

ただ、それが女性だけに押し付けられていて、男性がそれをするのは特別とみなされ、女性がするのが当然と思われていて、女性は社会のことを全く考えなくてもいい、女性はおバカでかわいらしくいてくれ、みたいな古くさい風潮がまだ残っているのが嫌だなぁと思っているだけです。

それに、家事をどっちがするかとか、どのくらい分担するかとか、ライフステージで入れ替わったっていいと思うんです。例えば、男性が会社務めをしていて、女性が家事を切り盛りしてきた家庭で、男性が「少し、世間から離れて自分を見つめ直したい」と思ったとしたら、女性が働きに出て、男性が家事をするようになっても、全然普通のこととみなされるような社会になってほしいと思うのです。

今はそれが許されないような圧力があって、男性もたいへんだと思います。男性は自分のことを深く何も考えずに、立身出世のレースに臨むためのレールに乗って、大人になってからはずっと会社人間でやってきて、金と地位と名声ばっかり追い求めて、自分の人間性を見失ったり、そういう人もいると思います。男女平等が本当に普通になったら、変な男のプライドもいらなくなります。男性だって生きやすくなるんじゃないでしょうか。

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20160906

ナショナリズムの台頭と市民派の躍進(いわゆる二極化)について考えたこと

日本で、いわゆる「右傾化」(右翼と左翼という日本語はあいまいなのでなるべく使用を避けています)が危惧されるようになって10年ほどになるでしょうか。

最近では、ますますナショナリズムが過激になってきていて、政治の中枢にいるのも超が付くほどのナショナリスト(なのに対米追従)ばかり。日本の政治の状況は、ドナルド・トランプ氏(共和党の大統領候補で極右とみなされている)が大統領になって3回も選挙で勝たせてしまっているような状況と、映画監督の想田和弘さんが例えられていました(↓)が、確かにそうだと思います。
ヘイトスピーチも社会問題になっていますし、ネット上では「ネトウヨ」と呼ばれる人々が幅を利かせ、ナショナリズムや全体主義を煽るような雑誌や書籍が書店にもたくさん並び、嫌でもナショナリズムの台頭を感じざるを得ません。

一方で、オルタナティブな価値観を追求する人たちも増えてきています。自然栽培に取り組む人や、ダウンシフターを目指す人、自然と共に生きる暮らしを模索する人、シェアする暮らしを広げる人、そういう人たちも増えています。

よく、二極化などと言われているようですが、世界を見渡してみると、似たような状況が見られます。

イギリスでは国民投票でEU離脱が選択されましたが、その一方で、昨年末にバリバリの庶民の味方ジェレミー・コービン氏が労働党の党首に選ばれているし、首都ロンドンでは初めてイスラム教徒の市長サディク・カーン氏(労働党でprogressive)が選ばれています。

アメリカでも前述のドナルド・トランプ氏を熱狂的に応援する人もいるようですが、真に国民一人ひとりのことを考えた政策を進め、「社会民主主義者」を自称するほどprogressiveな市民派のバーニー・サンダース氏も民主党の代表選びでいいところまで行きました。カナダではリベラル派のジャスティン・トルドー氏が首相に選ばれているし、スペインでもポデモス(「俺たちはできる」という意味)という市民派の政党が第三勢力にまで成長しています。

経済学者でも、今までは弱者を保護するような経済学者ってあまり有名でなかったと思うんだけど、経済的不平等に警鐘を鳴らしたトマ・ピケティ氏が一躍有名人になっていたりもしますね。

世界中で、とりわけ、工業先進国において、ナショナリズムが急に成長している一方、オルタナティブな価値観も勢力を伸ばしている。なぜ、こういう流れが見られるのでしょう? その原因は何なのでしょうか?

まだ仮説でしかありませんが、今ある知識を合わせて考えると、こういうことなのかな、と思いました。

1%の超富裕層が「今だけ・カネだけ・自分だけ」よければそれでいいと、富の独り占めをして(*)、労働の搾取を続けてきた(というか悪化させてきた)結果、生きるのがたいへんな人が多くなっています。

貧困問題に取り組む国際協力団体オックスファムの格差に関する報告書「最も豊かな1%のための経済」によると、世界の最富裕層1%が所有する富は2016年、残りの99%の富を上回ったそうです。
世界の上位1%が残り99%より多くの富を所有することが明らかになりました。オックスファムの発表した最新の報告書では、世界で最も裕福な62人が世界の貧しい半分の36億人の総資産に匹敵する資産を所有するに至ったことを指摘しています。この62人という数字がわずか5年前には388人、2年前には85人だったということが事態の深刻さを示しています。
生きるのが大変な人たちの中には、「自分に能力がないからだ」「自分の努力が足りないせいだ」「この程度のお金しか手にすることのできない自分は価値が低い」などと思い込まされている、もしくは、思うようになってしまった人たちもいる。そういう人たちが、自分の存在意義を何かに見出したくて、生まれという不動の条件にすがりつく。「◯◯人」であるということにプライドを持つことで、どうにか自尊心を保とうとする。

生きるのが大変な人たちは、いらだちやストレスも多いと思います。雇用主に嫌なことを言われても、生活費を得るためにガマンしないといけないかもしれない。夜中に働かされたり、寝ずに働かされたり、まともな勤務時間ではないかもしれない。低賃金で長時間労働をさせられているかもしれない。食事もままならないかもしれない。身体の調子がわるいとイライラは募りやすいものです。生活への不満も大きいでしょう。

そういういらだちやストレスのはけ口を常に求めているのではないでしょうか。その矛先が、自分よりも弱い立場にいる人、マイノリティや障がい者、女性や子ども、お年寄りなどに向かってしまう。人種差別に向けられてしまう。

自分がこんなに大変なのは、得しているヤツらがいるからだ、と誤った推論をして、憲法で保障されている当然の権利を受けているだけの人に対して、怒りの矛先を向ける(在日特権[そんなものはそもそも存在しない]とか、生活保護バッシングなんかもそうです)。

自分がバカにしたい人たちを対象にして、権力者がいじめっこの親玉のような発言をすると、快感を覚えるのでしょうか。「閣下は自分の代わりにヤツらをぶちのめしてくれる」みたいに思って、熱狂的に応援するようになるのかもしれません。

他方、生きるのが大変なら、「大変じゃない方法はなんだろう?」と考えて、システムに依存しない暮らしを始めたり、奪い合う競争社会からシェアしあう共創社会へのシフトを模索したり、自給自足的な暮らしに移ったりという人たちもいます。お金をかけなくても豊かに暮らす知恵を身につけたおもしろい人たちが世界中で増えています。

生きるのが大変ではないけれど、生きるのが大変な人たちの存在を知って、心を痛め、どうしたらこの人たちが楽に暮らせるようになるだろうか?と、行動をしている人たちもいます。その代表がバーニー・サンダースさんや、宇都宮健児さん、山本太郎さん、広河隆一さんなどだと思います。

私は、いろいろあってフリーで生きることにしたのですが、なかなか生きていくのが大変で、大変じゃない方法を模索した結果、自然とともにある暮らしにたどり着きました。自然とともにある暮らしについて、いろいろと知っていくうちに、世界中の環境破壊の問題に行きつき、そこから人権侵害の問題、資源をめぐる戦争などにもぶち当たりました。ほかにも、さまざまな問題にぶち当たり、東電と政府が引き起こした原発事故で東京から逃げてきた結果、「日本はなぜ、原発と基地を止められないのか?」という問題にもぶち当たり、さまざまな問題が、根底では一つにつながっていると実感するようになりました。

自分一人がシステムに依存しないナチュラルライフスタイルで、自由気ままな暮らしを手に入れられたとしても、政治に無関係でいられるわけはなく、それはつかの間に終わってしまうかもしれないとも思うようになりました。税金が上がり続けているし、憲法が改悪されれば、住むところを追われたり、不当に拘束されたり(秘密保護法なんかもあるし)、頭の上に米軍のオスプレイが落ちてきてもなんの補償もしてもらえないかもしれないし(このあたりは「日本はなぜ、原発と基地を止められないのか?」が詳しい)、原発がまた爆発したり、戦争になったり、戦争に友だちが行かされたり、そういう危険があるかもしれません。

だから、政治のことを真剣に考えて取り組んでいかないといけない…というよりも、政治のことを真剣に考えて取り組んでいけば、日本に楽園をつくることができるのだと、そっちのほうが、何にもしないで逃げ惑うよりも断然いいし、おもしろいと、思うようになりました。まずは日本に楽園をつくって、世界に楽園を広げたいです。

ナショナリズムに傾いて同胞を敵視している人たちにも、本当の敵は、富を独り占めしつづけようとしている人たちだと、金で政治を操っている人たちと金に魂を売り渡した政治家だと、気がついてもらうのは難しいんでしょうか。実際、敵扱いしている人たちが、庶民の暮らしを良くしようと、格差を是正しようと努力していて、親玉だと思って応援している政治家たちが、庶民の首を締めるような、ないところから税金を絞りとるような、庶民に文字通り血を流させるような政策を推し進めているのに、そういう人たちを応援しても、自爆行為だと思うのですが。

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20160905

結婚式について思うこと―その2

昨日は、結婚式について思うことをつらつらと書きましたが、香川のブロガーのyossenseさんがこんな記事を書かれていました。
結婚式したくない派だった私が「して良かったな」と思えた1つの理由(初出2015年4月9日/更新2016年7月19日)
男女平等を大切に考えられているヨスさんは、男女差別のしみついたしきたりを採用することなく、新しいスタイルで結婚式をなさったそうです。たとえば…
新婦の父親の手から新郎の手へ新婦が手渡される演出ってありますよね? あれ、女性の人身売買みたいに見えるのでやめました。女性は物かよ!ってマジで思いますよ。私の場合は、2人が揃って教会に同時に入って行きました。
男性でこんな感覚を持たれている方がいるというのは、本当に希望を感じます。ほかにもものすごく共感するところが多かったです。

父親が娘とバージンロードを一緒に歩いて夫に引き渡す、私も、女性の人身取引の現場みたいで、実は見るのも苦々しい気持ちがしていました。バージンロードって日本語に訳したら生々しいからカタカナでごまかしているのでしょうけど、「処女道」ですよ…。バージン=処女であることにそんなに価値を見出すのも男の征服欲だろうし、娘の処女を破ってもよい相手に父親が娘を引き渡すとか、一緒に生きていく相手を決めるという女の大事な決断を、男だけで決めた風に演出しているようで気持ち悪いです。

だいたい、子どもを生むのも生まないのも個人の自由です。過去にお呼ばれした結婚式で、司会の人が「新婦は保母さん、子育ても安心ですね❤」みたいなことを言っていてどん引きしたことがありました。なにそのプレッシャー。子どもを持たないという選択をして、幸せに生きていくことも、子どもを持つという選択と同等に当たり前のこととみなされるべきです。しかも、子育てって女だけがするもんじゃないでしょう。

真っ白なウェディングドレスも、真っ白な和服も着たくありません。真っ白は女だけが着せられる。男は白は着ない。ご存じの通り、女だけが白を着るのは、男の色に染まることが期待されることを暗示しています。私はだれかの色になんか染まりたくないし、相方も私が私らしさを失うことは望んでいません。

この話をすると、相方が白を着ればいいんじゃないのと言う人がいますが、そういう問題ではありません。私は誰にも染まりたくないだけでなく、誰も染めたくない。個人の自由意志に従ってそれぞれ幸せに生きていってもらいたいのです。女だけに白を着せることで、女が男の色に染まること、男の言いなりになることを暗によしとして押し付ける、形式だけでもこんな演出、絶対にやりたくないです。

それに、化粧をしないといけないのも嫌です。化粧品には石油由来の成分がたくさん入っているし、落とすときにも強烈な化学物質を使わないといけません。化粧をすることで私は水と土を汚す。生態系を破壊する。自分の肌の健康も害する。そんなことはやりたくありません。

最近では、天然成分だけのもあるので、それだったらたまには化粧をしてもいいかなぁと思ったりもするのですが、そもそも、男は化粧をしなくていいのに、女は化粧をしないと失礼っていうのもおかしくないでしょうか。女はすっぴんだと失礼だって言う人が大半だと思います。ありのままの顔を見せたら失礼だって言う方がよっぽど失礼です。なんで男はありのままの顔でいいのに、女はありのままでいたらいけないんでしょうか。

席順もエライ順があからさまにわかって辟易とします。世間一般の常識では、勤務先の人が一番いい席で、親類が末席になっていますが、未だに日本は封建時代なんですねって感じがします。給料を与えてくれる会社の人が一番いい席というのは、お金が第一という価値観が透けて見えるような気がします。大事なのはお金だけじゃないよね、と気づき始めた人たちも増えてきている現代に、こういう席順というのはかなり時代遅れだと思います。

友人のほうが親類よりもいい席というのも、私なんかほとんど大したことをしていないのに、親や家族よりも前の席に座らせてもらうなんて、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。最近は立食式の披露宴もありますが、立ち食いもあまり落ち着かないですし、料理が足りないとゲストに申し訳なく、余ると食べ物を粗末にして地球さんに申し訳ない。また、だれを呼んでだれを呼ばないかもかなり難しい複雑な問題です。

余興にも閉口します。最近では、男が女の制服を来てぶりっ子の踊りをするのが定番のようですが、どうしてそのような下品なものが定番になっているのでしょうか。映像作品を作ったり、楽器の演奏をしたり、踊りでももう少しまともなダンスなど、もっと立派な芸を隠し持っているのではないかと思うのですが、そういう、下品な笑いを誘うようなものでないと、ウケが悪いのでしょうか。

両親のスピーチも「お涙ちょうだい」が期待されているのが嫌です。うちの親をそんな好奇の目にさらしたくはありません。無論、「花嫁の手紙」(「嫁」って言葉も大嫌い)なんてありえません。結婚したって親子関係に変わりはありませんし、パートナー関係にも変わりはありません。なんで、「これからもお父さんとお母さんの子でいさせてください」なんて落涙しなきゃいけないんですか。あたりまえやろがって話です。

こうやって考えてみると、日本の結婚式には男尊女卑の要素がてんこ盛りで、品性にも乏しいんですよね…。「親戚が喜ぶし、人生の節目だから、結婚式はやったほうがいいよ」というアドバイスも理解できるのですが、たぶん、うちの親戚はそういうので喜ぶようなタイプじゃないし、相方のほうは結婚式が好きそうな孫たちがいっぱいいるから私たちがやらなくても喜ぶ機会はいっぱいあるし…。人生の節目というのも、私と相方の関係は連続して深化していっているものであって何か節目で始まったり終わったりするものでもない。たぶん、よほどのことが起こらない限り、結婚式はやらないと思います。

相方に、「結婚式やりたい?」と聞いてみたら、「樹木葬がいいな」とお葬式の話をされました。「畑に埋めてくれたらトマトいっぱいなるかも!トウモロコシ葬とかもいいかもな。食べるたび思い出してもらえるで。墓なんてのは、思い出すのが目的やろ?」こんなぶっとんでいる相方といる毎日はおもしろすぎます。末永く続いていくことでしょう。

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20160904

結婚式について思うこと

最近訳した記事で、マルタ共和国の結婚式の話が出てきました。

マルタ共和国は地中海の真ん中に浮かぶ島国。国民のほとんどがカトリック信者で、カトリックの影響が強い国です。法律にもカトリックの教義が影響を与えていて、望まない妊娠を中絶することは非合法。離婚が合法化されたのはつい最近の2011年なんだそうです。

そんなマルタ共和国で結婚をするには、夫婦がどちらもカトリックのバックグラウンドを有していることをいろんな証明書を出して証明しなければいけなかったり、結婚式の前に講義に通って結婚に関する聖書の節を勉強しないといけなかったり、宗教的な手続きがとても大変そうでした。結婚の証人の役目を務める人も、カトリックのバックグラウンドを持っていることを証明する証明書を出さないといけないんだそうです。

この記事を読んでいて、大変だなぁ、カトリックじゃなくてよかったなぁ、と思ったのですが(聖書にはいいことも書いているし、カトリックを信じている人のことをどうこう思っているわけではない)、カトリックじゃなくても、やっぱり、結婚式はしたくないなぁ、と改めて思いました。

キリスト教の教会で挙式する人が多いですが、普段から信仰しているわけでもない神様に結婚を誓うとか、私にはできません。神やsomething greatなどと呼ばれるなにか偉大な力があるというのはなんとなく感じるので信じていますが、その形式が神道や仏教となるとしっくりこないのです。だから、何か一つの神様に誓うっていうのは違う気がする。

そもそも、この人と一緒に生きていくってだれかに誓わないといけないものなのか? 相方とは仲良しで何でも話せるし、ここまで人間ってわかりあえるのか、というくらいわかりあえているんだけど、それを権威のある何かや大勢の人に宣誓しなきゃいけないって、変な気がする。別に宣誓しなくたって仲良しでわかりあえているんだからよいのではないでしょうか。だから、人前式も違う気がしています。

指輪もいらないよなぁと思っています。お金がないからとかではありません。学生の頃はおそろいの指輪に憧れたものですが、そういう形式的なものでお互いを縛り合うのが、「なんか、犬の首輪みたい」とはたと思ってしまったことがあり、それ以来、指輪もいらないと思うようになりました。うちの両親は一応指輪は作っていましたが、水仕事のときに邪魔だ、窮屈だと言ってつけていませんでした。形式的におそろいの指輪を同じ指につけているから夫婦だと感じるのではなく、私と相方はお互いの自由意志に基づいて一緒にいることを選んでいる、と、何もなくても感じられる中身のあるパートナー関係があるほうが心地よいです。

何か偉大なものや大勢の人の前で誓っても、お揃いの指輪で物質的に証明していても、別れるときは別れるのです。合わないのに無理をして一緒にいることはお互いにマイナスなので、合わなかったらさっさと離れたほうがいいと思います。誓っちゃったから離れるのは、なんてブレーキがかかって、無理して一緒にいて憎しみが増大するくらいなら、さっさと離れたほうがいい。こういうパートナーシップって、神様とか大勢の人とかに誓ってできるものでも、紙の上にサインして判を押して役所に契約書を届け出ることでできるものでもなくて、長年一緒に培っていくもの、気づくとできているものだと思います。

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20160903

言葉のレッスン

他人からの心ない評価など気にしない、と思っても、やっぱり言われると気になるもので、ここのところ、文章術の本がやけに気になっている自分がいます。

文章術、美しい日本語、悪文、名文など、そういう文章についての本を読んで勉強しようかと思い、大きめの書店に行ってパラパラといくつか見てみました。いくつか眺めてみたのですが、買って読み進めるきにならない。

なんでかというと、やっぱり、伝えたい中身がないからなんですよね。文章は、いくら美辞麗句が並んていたところで、伝えたい中身と、伝えたい想いがなかったら、それはきらびやかな外箱でしかない。

文章術や言葉についての本に興味が持てなかったことで、私が書きたいのは、きっと、文章として「うまい!」とか、文章として「すごい!」とか言われる文章ではないということがはっきりしました。

私が心を惹かれる文章は、多少まどろっこしくたって、多少間違っていたって、伝えたい想いがあって、伝えたい中身があって、その中身が素晴らしい文章なのです。それから、自分を大きく見せようというのでも、卑下するのでもない、ありのままの自分を肯定している人が書いた文章です。ただし、ありのままが下品な人の文章は好きではなく、人間としての向上心がある人でなければなりません。

プロの文章でもげんなりするようなものもあるし、一般の人の投書や友人からの手紙にも心が動かされるような文もあります。だから、こういう、文筆家や言葉の専門家が集めた美文の本を読んでも、私の言葉のレッスンにはあまり役立たないと思いました。

それでも、文章を磨くことは何かやっていきたいな、と思っていて、思いついたのが、この文章が好きだなあと思った文章を、ノートに書き留めていくことです。好きな文がたくさん詰まったノートができるのは、考えるだけでもわくわくします。楽しい方法で、文章を磨いていきたいと思います。

ちなみに、私が文章を学ぶうえでとても参考になった本が一冊だけあります。『日本語の作文技術(本多勝一・著)』という本です。句読点の打ち方から、形容詞の並べる順番まで、わかりやすく読みやすい文章を書くルールがまとまっています。

20160901

「敵」のなかに味方を増やす

「◯◯(大手小売業)のオーガニックなんか信用できん」という意見を聞くことも多くなって、少し思うことを書きたいと思います。

オーガニックラベルの裏側』という本も出ていて、オーガニックと謳っていても、実際のところは怪しいという話は、うん、そういうこともあるだろうなぁ、と思っています。

できれば、顔の見える関係で、この人なら信頼できるという人から、何でも必要なものを取り揃えたいところですが、なかなか、そうもいきません。我が家はそれでも、自給率が昔よりもだいぶ上がって、無農薬、無化学肥料、固定種が好きで、畑もしている友人たちが多いので、友産友消と自給自足の割合が増えていますが、世間一般となるともっと難しいのではないかと思います。

「◯◯(大手小売業)のオーガニックなんか信用できん」のほかにも、「◯◯でなんかあなたも当然買い物しないでしょ?」とか、「□□(コーヒー豆の倫理的調達の割合99%を達成した大手グローバルカフェチェーン)のコーヒーなんてぜんっぜんおいしくない」とか、大手企業への不信を抱いている人たちの気持ちもよくわかります。これまでにしてきたことを考えると、信用ならない面もあるからです。

しかし、そういうふうにして敵対しているだけでは、仲間は増えていかないとも思います。

大手企業の中にも、まごころのある人はきっといます。そういう人たちが、内部で孤軍奮闘しているかもしれないのです。利用者の健康や、生産に関わる人たちの幸せ、自然環境への配慮が足りなくても、「とにかく安く仕入れて、たくさん売り、利潤を多くするのが勝つということだ(ギラッ)」みたいな、古い考えにカチンコチンの人たちの中で、なんとか新しい風を起こそうともがいている人たちもいるかもしれません。異論を唱えることにかなりの勇気と努力が必要な場合も多いかもしれません。そういう中で奮闘している人を応援できるのは、消費者の私たちだと思います。

内部で奮闘するところまでは至っていないものの、話を聞けば、「それは大変だ!」と動いてくれる人もいるかもしれません。「お前らなんか信用してねえよ」という態度では、そういう人たちに話を聞いてもらうこともできないと思うのです。話せばわかると信じて、対話を重ねていくことで、相手が知らなかった事実を伝えることができれば、もしかすると、対応してくれるかもしれないし、「お客様が理解してくださらない」という思い込みが溶けていくかもしれません。

大多数の人々が大手企業の物やサービスを利用しているなかでは、大手が変わってくれると、影響力はかなり大きいのではないでしょうか。環境や倫理的調達、人権などへの意識の高い人たちが、幾多の不便を乗り越えて工夫をして、「お金で投票」をすることも尊いことで、インパクトもあると思います。それよりもやはり、大手が変わることのインパクトのほうが大きい。

近所のイオンでは、今年の春頃できたオーガニック化粧品コーナーに、フィリピンの人たちとフェアトレードで製品づくりに取り組むココウェルのリップクリームや、三宅商店でも扱っている北海道のミントのスプレー「みんなでみらいを」の米ぬかとふすまだけでできた何でも洗える洗浄料ナイアードのヘナなど、コアーな商品が並ぶようになったり、イオンの内部にも、私たちと感性の似たマニアックな人がいるようなのです。

そういう方々のことは応援して、これからも環境と社会に良い商品を増やして欲しいと思うので、お客様カードで「ありがとう!」を伝えたりもしています。「ありがとう!!」と合わせて、要望を伝えることもありますが、敬意を忘れずに丁寧に提案すると、前向きなお返事がもらえることも多いです。

たとえば、何度か無農薬・無化学肥料の野菜コーナーを作ってもらいたいという要望を出していたのですが、最近、ついにオーガニック農場のコーナーが野菜売り場にできました(農家さんの名前付き)。おそらく、イオン全体での取り組みだと思いますが、お客様カードはイオン全体で共有しているようなので、いろいろな他の人たちの声や団体の取り組みとの相乗効果で実現したのではないかと思います。小さな行動でも、少しでも貢献できたと思うとうれしいです。

それから、イオンの中のパン屋さんではコーヒーマシンでセルフコーヒーが飲めるのですが、イオンはオーガニックという言葉すら認知度が低かった時代からフェアトレードコーヒーに取り組んできたので、お客様カードで、そのことを感謝するとともに、フェアトレードのコーヒーが多少高くてもいいので選べるようにしてもらいたいとお願いを書いたら、全国会議で提案してみますというお返事をもらいました。すぐには難しいかもしれませんが、実現したらいいなぁ・・。

ほかにも、非遺伝子組換え飼料の低温殺菌牛乳を一種類でもいいので置いてもらえないかと、私が知っているメーカーさんを具体的に複数上げて選べるようにしてお願いしたところ、そのうちの1つをすぐに入れてくれていてびっくりしました。ほかの方がお客様カードで、子どもがアレルギーを持っているので、アレルギー対応コーナーを作って欲しいと丁寧にお願いをしていて、その数日後にはアレルギー対応コーナーの棚ができていて驚きました。

頼み方というのは大事だなぁとつくづく実感しました。いくら正しいことを言っていても、上から目線だったり、どうせお前なんかろくでなしだろう、みたいな態度だったりしたら、聞き入れてもらいにくいと思うので…。

正直なところ、イオンで買えるものが増えてきて、かなり楽になりました。これまでは、通販や遠くまで電車で買いに行ったりしていたのですが、「あ、あれがない!」と思ったときにぱっと自転車で買いにいけるのは、本当にありがたいです。イオンで見かけたから試してみようかな、と環境や社会によりよい選択をしてくれる人も増えるかもしれません。私の場合は、イオンで買えるようになったからといって、これまでお世話になっていた通販のお店や遠くのお店で買い物をしなくなったわけでもありません。

敵だと思っている相手の中に、どうやって味方を増やしていくのか。これからはそういうことも考えていかないといけないな、と思っています。それには、感謝とリスペクトが最も力になると思います。

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20160831

慣行栽培の野菜と自分が重なる

物知りな自然派の人が、農薬や化学肥料で育った野菜をまるで毒物のように扱うのを聞くと、なんだかその食べ物がかわいそうになることがあります。自分とその野菜が重なるからかもしれません。

うちの親は、食べ物の裏側の話に触れる機会はなかったし、インターネットもまだ家庭で使うには高すぎる時代だったので自分で調べることもなく、食品添加物や農薬、遺伝子組み換え作物の恐れのある油などの問題は何も知りませんでした。店で売っているし、国が認めているんだからと、リスクなど考えることすらなかったのも無理はないことだと思います。そうやって消費者をだましている大企業や国がわるいので、親がわるいとは思っていません。

仕事で忙しかったので、昼ごはんはささっとカップラーメンやインスタントラーメンで済ませることが多く、おやつはいろんな添加物がたくさん入ったパンやスナック菓子。家で育てていた野菜もF1品種で恐らく雄性不稔性(男性側の不妊症)を利用したようなものもたくさんあったと思います。本物のしょうゆや味噌があるなんていうことは全く知らなくて、添加物のうまみ成分が入った「だし入り」の万能つゆやだし入り味噌のことを醤油と味噌だと思っていたくらいです。塩も砂糖も化学的に精製されたナトリウムオンリーの食塩と、真っ白な白砂糖のことしか知りませんでした。スーパーではできあいのおかずも安かったので、週に1度の100円均一では一人一枚限定のとんかつを買いに並んだり・・・。そんな安売りのとんかつは、お肉も遺伝組み換え飼料を食べさせられ、抗生剤をバシバシ打たれたかわいそうな豚さんだったでしょうし、パン粉もポストハーベスト農薬が使われた外国産小麦の添加物まみれのものだったでしょうし、揚げ油だって遺伝子組み換えナタネだったかもしれません。

よく体調を崩していましたが、具合が悪くなれば親は心配してすぐに医者に連れて行ってくれて、いろんなクスリを飲みました。どうやって作られているのかもわからないサプリメントもたくさん飲みました。疲れが出れば、栄養ドリンクをぐびぐび。

服も化学繊維に化学染料、洗濯洗剤だって今考えれば危なそうな合成洗剤、身体や髪を洗うのも合成洗剤だし、化学物質だらけの化粧品もたくさん使いました。

そういうふうにして育っている私は、慣行栽培の野菜と同じで、化学物質をたくさん取り込んで大きくなりました。農薬や化学肥料で育った野菜や果物やお米などを、汚らわしいもののように切り捨てるような言い方を見聞きするたび、そういう自分と重なって、複雑な心境になります。化学物質まみれで育った自分もまた、出来損ないなんでしょうか。毒のような邪魔者なのでしょうか。他人に害を及ぼすのでしょうか。慣行栽培の作物を汚らわしいもののように切り捨てる人たちも、自分の育ち方を振り返ってみれば、化学物質と全く無縁で育ってきた人は少ないのではないでしょうか。

慣行栽培の野菜だって、好きでそういうふうに育てられたわけではありません。本当は自然の力で育つこともできるのだけど、人間が早く大きく形が揃って育つことを望むので、それに合わせるために、化学肥料も農薬も、甘んじて受け入れています。私の身体と同じで、きっと病気になったり、弱くなったりしながら、苦しみながら持ちこたえて、人間の望みに応えようとしてきたのだと思います。そう考えると、そうやって苦しみながらもどうにか健康に育ったのに、人間が食べるときになって、害悪のように睨まれる様子を見ていると、とてもかわいそうになってきます。育ちが多少わるくたって、一所懸命育った命なのですから、毒でも見るような目で見ないであげてほしいのです。

慣行栽培の作物を食べろと言っているのではありません。食べないことを選ぶときに、「ケッ」というような態度で蔑んだり、毒物みたいに憎むのはどうかと思うのです。私も、なるべく自然栽培や野生で育った生命力のある食べ物をいただくようにしていますが、それでも慣行栽培の作物を憎むことはありません。食べ物に罪はないのですから。慣行栽培の作物を食べるときにも、育ってくれて、私においしさと栄養を与えてくれることに感謝をしていただきます。ときどき苦すぎたり、食べてはいけない味のするときもありますが、そういうときも、ごめんね、という気持ちでさよならをして、土に還ってもらいます。

物知りになったマクロビオティックの愛好者や自然派の人々が、慣行栽培の作物を毒物かなにかのように毛嫌いしたり、出来損ないのように見下げたりする態度を見ていると、ブランド物が本物か偽物かを見分けて得意になっている強欲な人たちと、精神レベルはさほど変わらないのではないかと思ってしまいます。食養の世界や、自然に沿った在り方では特に大切なもの、命や自然への感謝を忘れてしまっているのではないでしょうか。

過去の記事を見返していたら、ワタクシ、3年前は、自然に沿った食事を理解してもらえないことに憤りを感じていたようでした(→20131106 健康第一)。今度は、知識を振りかざして慣行栽培の食べ物をメッタ斬りにする人に憤りを感じているというのは、時代が自然派にそれだけシフトしてきたということなのかもしれません。

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20160829

続・「言葉は文化だ」

先日、尊敬する通訳者が過去に述べた「言葉は文化だ」という言葉から考えたことを書き、brotherとsisterを日本語に訳すときに困るという話を実例として取り上げましたが、少し前に訳した原稿にhalf-brotherという言葉が出てきて困りました。

half-brotherとは、片親が違う兄または弟のことを指します。日本語に訳す場合、一般的に使われる言葉は異父兄(弟)か異母兄(弟)で、年齡が上か下かに加えて、父親と母親のどちらが違うのかが確定しなければ、訳語が定まりません。日本ではそれが普通だというのはわかるのですが、half-brotherという言葉を見て、プライバシーの意識が欧米のほうが高いと感じました。

歴史上わりと有名な人物のhalf-brotherだったので、調べれば当然、母が違うのか、父が違うのかはどこかに出てきます。しかし、英語のプライバシーの意識、そして、著者があえてそれを明示しなかったという意図を考えると、調べ上げて、どちらが違うのかを明らかにする訳にすることは、本来すべきではないと思いました。当人の人物像だけがわかれば十分であって、両親のどちらが別の相手と一緒になったのかを探るのは下世話で野暮なことです。

そこで、片親が違う兄(どちらが年上だったのかは調べました。さすがに「兄(または弟)」とはできず…)と訳したところ、案の定、異父か異母かを明らかにした言葉に校正されて戻ってきました。しかも、一番使いたくない「腹違いの」になっていて、ものすごく悲しかったです。原文はhalf-brotherというさっぱりした表現なのに、わざわざこんな生々しい日本語を当てたくはありませんでした。

私の感覚では、「腹違い」なんていう言葉は生々しいだけでなく、ある政治家がかつて女性を生む機械とだと言って非難を浴びましたが、そういう生命を育むことに対する畏敬の念が感じられないセリフを彷彿とさせ、女性を何だと思っているんだろう?と思うくらい思慮に欠けた言葉だと思います。ちなみに、父親が違う場合はなんと言うかというと、「種違い」というそうです。こなれた訳だとか、うまい日本語だと思う人も多いようですが、私からすれば、本能だけで生きている生物かなにかに使うような言葉で、高度な人間性を軽視した下品な言葉でしかありません。

先方は「腹違いの」が読み物として力のある表現だと思われている感じで、私の表現だと「健全すぎて眠気を催す」ということでしたが(これ以外の表現についても言っているようだったが、これも含まれると思われる発言だった)、それでも、どうしてもこの言葉は使いたくなかった。しかも、訳者として名前が出る原稿だったので、私がこんな言葉を使ったことになってどこかに残るなんていうのは人生の汚点と言えるくらい嫌でした。父母のどっちが違うかなんて、そこまで下世話に勘ぐらなくてもいい文化もあるということを知ってもらいたいという思いもありました。

こういう表現が「うまい表現」と思われるくらい、日本の文化は遅れているということなのでしょうか? 英語では単にhalf-brotherで済むのに、日本語では、父と母のどちらが違うのかまで探らなければいけないのでしょうか。ニュース記事を検索してみたら「片親違いの」という表現が使われるようになっていたので(そういう意識を持った翻訳者さんたちもいるとわかってうれしかった)、「ニュースでも使われているので」とお願いして、「腹違いの」は「片親違いの」に直してもらいました。

他にも、議論になった訳語があり、「◯◯の雄(ゆう)」という表現に変えられていた箇所がありました。「~の雄(ゆう)」は、二つのうち大きくて勢いの良いほう、特に優れていることやその人物という意味で、「◯◯の雄」は、◯◯について優れた人物という意味になりますが、雄(オス)と雌(メス)ではオスのほうが優れているという観念が根底に感じられる言葉です。「地方創生の雄として注目されている」「書きおろし時代小説の雄」など、新聞や雑誌などでも粋な表現として使われるようです。

先方は、ウィキペディアによればこの人物はブイブイ言わせていたみたいだから「雄(ゆう)」のほうがいい、という意見でしたが、原文自体はそのような男女差別のニュアンスのない言葉だったので、わざわざそんな「オスとメスではオスのほうが優れている」というニオイのついた言葉にしなくても…と思い、よりニュートラルな第三案に変えてもらいました。

「言葉狩りだ」と非難されたり、「英雄の雄までダメとでも言うのか?」(英雄の雄は単なる男という意味でしかなく、雄のほうが優れているというニュアンスはないのであてはまらない例だと思う)というようなことも言われたりするくらい、かなりうるさがられはしましたが、呼吸をするように男女差別が行われている日本においては特に、ジェンダー差別や固定観念のある言葉は、私が扱うものからは極力なくしていきたいのです。原文がそういう言葉なら仕方ないのですが、この場合は、原文にはそういう男女差別のニュアンスがなかったわけですから、わざわざないところに男女差別のある日本語を持ち込まなくてもと思います。

しゃれた表現だとか、おおっと思われるような表現だ、とされる日本語は、ジェンダー意識や倫理観に欠けるものも多いのが残念です。戦争で使われていたような言葉が語源になっているものもあります。言葉を扱う者として、その言葉が背景に持つものや彷彿とさせるもの、根底にある観念などには、常に敏感でありたいと思います。

言葉は文化の反映であり、言葉が変わることで、個人の自由意志を妨げたり、人間性を低下させたりするような慣習が解消されていくということもあると思っています。言葉にはそういう力があると思います。どういう世界をつくっていくことを望むのか、それに応じた言葉を意識して使っていきたいです。もちろん、翻訳の場合は、原文から離れてはいけないので、その制約の枠内でということにはなりますが。

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20160828

言葉の背後にあるもの—「奥さん」「ご主人」という呼称

「奥さん」と呼ばれるのにも、相方を「ご主人」と言われるのにも、さすがにもう慣れました。他に使いやすい言葉がないので、まあ、仕方ないかな、と思っています。

(初めて読んでくださっている方へ補足:私と相方は人生のパートナーどうしですが、日本の法律婚という形式では苗字を変えないといけなかったり、不便が多いのもあって、しっくり来ていないために契約書を届け出ていません[過去にくわしく書いた記事:おもっていること]。東京にいたころは両方とも名前で呼ばれるか、「お連れ合い」「いつも一緒にいる方」などと言われることがほとんどだったのに、地方へ移住してからは相方(男)だけが名前を聞かれてあとは「奥さん」「ご主人(または旦那さん)」と呼ばれるのが大半になったのが軽くカルチャーショックでした。今は移住して数年経ったので慣れてきたという状況です)

ありがたいことに、相方さんと呼んでくれる人もいるし、ちゃんと名前で呼んでくれる人もいます。私と相方が、お互いを「相方、相方」と言っていたら、自分のパートナーを呼ぶのに相方を使うようになった人もいます。東京から地方へパートナーと二人で移住した友人は、移住にあたって、「田舎だと籍を入れていないといろいろうるさく言われるかも」と思って、入籍したと言っていました。それを考えたら、いちいち、籍を入れているかどうかと聞いてこないだけ、こっちの人は田舎のわりにはおおらかだと思います。

だんだん慣れてきたら、「奥さん」と呼ばれても、相方を「ご主人」と言われても、音としてしか認識しないで済む人もいるし、私の知性や能力やアイデンティティに敬意を払ってくれているのを感じる人もいます。仲良しで対等な関係の友人夫婦が他の夫婦について「奥さん」「旦那さん」と言うのも嫌な感じは受けません。

「すっかり慣れたのかな」と思っていたのですが、先日、久々に不快感を覚えました。

相手は、地元の人ではなく、関東からの移住者の人で、相方と一緒にいるときに1度会い、2度目は私が一人でいたときに会った方だったのですが、2度目に会ったときに、私を指すのに「奥さん」、相方を指すのに「ご主人」を用いました。その発言に久々に強く反応してしまって、「最近は全然なんともなかったのに、どうしたんだろう?」と思って、後になってよく考えてみると、相方の仕事についてはいろいろきくのに(相方の人間性とか考えとかはどうでもいいみたい)、私には子どもの有無しかきかなかったので(ほぼ初対面で子どもの有無を聞くのも不躾で本当に嫌い)、男が外で働いて、女は奥にひっこんで子どもを産み育て、家事を切り盛りする、といった、よくある古い固定観念がこの人にはあって、その固定観念が言葉に反映されていたために、それに反応したんだと思いました。

「奥さん・ご主人症候群」がまた復活してしまったのだろうか?と不安に思っていたのですが、それからひと月ほど経ってから、相方と付き合いのある地元の年配の男性に、「奥さん」と言われたときは、全く気になりませんでした。

相方に、「なんでやろ?」と聞いたら、その男性は、自分のパートナーをものすごく尊敬しているのだそうです。「tom-tomが翻訳とかの仕事してるのも知ってるから、知性のある人間やと思ってるで」という。それで全く不快感を覚えなかったみたいです。

その言葉を発している人の、その思考が反映されたものをキャッチしてしまっているようです。なので、「奥さん」「ご主人」「旦那さん」というときに、ただwifeとhusbandの意味で発している場合はそれほどなんともないのですが、古い男女差別の固定観念を持っている人がその言葉を発しているときは、ひどく不愉快を感じてしまう。そういうことみたいです。

「ご主人」って、言葉として文字通りに考えたら、私は相方の奴隷とかペットじゃないんだから、って感じです。飼われてるわけじゃない。飾り物じゃない。れっきとした人間です。私の主は私でしかない。相方の主も相方でしかない。相方が私のご主人様になって私の生命維持の責任を持つ代わりに自由を拘束するなんていうのはいつの野蛮時代だよって話です。日本語には今のところ、「ご主人」「旦那さん」くらいしか一般的な言葉がないので、まぁ、仕方ないところもありますが…。

「奥様」「奥さん」という言葉は、丁寧な呼称だというのはわかっていますし、通じなさそうな相手には私も仕方なしに、「奥さん」と言ったりします(パートナーと言ったら、「なんてぇ?なんや、奥さんのことかい」みたいに言われたことも…。横文字にアレルギーのある人もいるので要注意です)。

でも、「奥様」「奥さん」という言葉ができた経緯を振り返ってみると、江戸時代に殿様が城の中の「大奥」と呼ばれる奥の部屋に女たちを囲っていて、そこにいる女性のことを「奥の方」と言っていた、それが身分の高い男の妻を呼ぶ「奥様」「奥さん」になり、現代は丁寧語として定着するようになっています。

こうした背景から、「奥様」「奥さん」と呼ばれるとき、私の知性や能力や個性はどうでもよくて、かわいらしさと美しさで男を飾ることで外では夫の評価を高め、家の中では男を喜ばせ、期待されるのは料理の腕と家事をてきぱきとこなす能力と、子どもを生み育てること、という、長年しみついてきた思考が襲いかかってくる感じがあるのです。何も考えてはいけないような、相方のサブでおまけで、影で支える存在でいなければならないというような、強迫観念にとらわれることもあります(相方は全くそれを望んでいない)。

男性だけではなく、女性のなかにも、そういう固定観念を当然のこととして私に向けてくる人もいます。自分がそういうふうな扱いを受けているから、人にも同じ苦しみを味わわせたいのかもしれません‥。地元にずっと住んでいる女性で、意見や考えを表明しても女だからときちんと聞いてもらえないことが続いたせいか、男がいる場面ではもう押し黙るようになった女性の話も聞きました。その気持ち、ものすごくわかる気がします。

もはや江戸時代ではないのですから、そろそろ、もっとまともな対等な呼び方が広まって欲しいものです。

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20160827

「言葉は文化だ」

「言葉は文化だ」と、大学時代に出会った尊敬する通訳者の方がおっしゃっていました。その方は、長年国際会議で通訳をされてきて、これ以上勉強しなくても金銭的にも地位と名誉の面でも十分だったと思うのですが、「言葉と文化」に理解を深めようと、異文化コミュニケーションの大学院で学びたいと考えて入学され、お金だけではない使命を感じて見識を磨いているんだろうなぁと、ますます尊敬したものでした。

その頃は、「言葉は文化だ」の意味が、抽象的にしか理解できていなくて、「あーそうなんやろなぁ」くらいだったのですが、たくさん翻訳をするようになり、英語と日本語の行ったり来たりを繰り返すうちに、「ほんまにそうや!」と思うような具体例に出会うことが増えてきました。英語と日本語で訓練してきたせいか(?)、西のほうへ移住してからは、生まれ故郷、10年ほど住んでいた東京、今住んでいる西日本のとある地域の方言やコミュニケーションのスタイルの違いを敏感に感じ取るようになり、同じ日本語のなかでもやっぱり、言葉は文化だなぁ、と思います。

英語の例を一つ挙げてみたいと思います。

最小限のガスと水で作れて、洗い物も少ないスパゲティの作り方や、フライパン1つで一気に何品か作る方法を、相方がブログに書こうとしていました。相方はそれを「ずぼらレシピ」と読んでいて、二人とも、日本人が受け入れやすいのは「ずぼら」という形容詞だよね!ということで意見が一致しました。

英語では、「ずぼら」はlazyですが、「たぶん、lazy recipeと言ってもあまり響かない。efficient way of cooking(効率のよい調理方法)とタイトルを打ったほうがたぶん見てもらいやすい」ということでも同意見でした。でも逆に、日本人に「効率のいいレシピ」と言っても響かない(*)。

「この違いはなんだろうね?」と相方にきいてみると、「腹芸が通用するかどうか」だと言います。

日本人は異なる文化背景を持つ人々に触れる機会があまりなく、まわりの人々と同質意識があると思います。イギリスから日本に交換留学で来ていた友人が、東京は日本最大の都市で外国人も多いにもかかわらず、「ここではみんなが私のことをガイジン扱いする。どこへ行ってもガイジンって目で見られる。tom-tomは髪も黒いし、目も黒くて、外見はどう見てもアジア人だけど、ロンドンではあなたをガイジン扱いしたりしない。ロンドンの住民かどうかは見た目ではわからないから」と言っていました。そのくらい、日本は日本人ばかりが日本に住んでいると思っているのかもしれません。

同質意識があるので、同じ文化背景を共有しているということが前提で話すことができ、日本人は、本心で思っていることよりも程度を上げたり、下げたりしながら、相手への敬意や自分との力関係を調整するところがあります。極端な謙遜は本心がわからないので、私はあまり好きではないのですが、「私はずぼらなんで」と言って自虐的に自分を表現することで評価のハードルを落としたり、相手が「いやいや、そんなことないですよ」と返してくれて、本心で思っている「ずぼらレベル」に調整されるのを想定しての会話であったり、ということがよくあります。自分と自分の身内のことを貶めて語り、相手を立てるのが丁寧だという暗黙の了解があるため、自虐ネタが受け入れられやすいのだと思います。

一方、欧米の文化では、異なる民族が入り交じるのがある程度は当たり前だという感覚だと思います。相手とは文化背景が異なり、思考パターンやコミュニケーションのスタイルが恐らく違うだろうという前提で話すので、必要以上に自分を下げることで不利な状況が生まれる恐れがあります。 "I’m a lazy person." と言ったら、本当に文字通り怠け者だと思われる可能性が高い。怠け者だから、大事なことは頼めないな、と思われてしまう可能性もあります。欧米の文化では、integrityを重視するという面でも、本心とは異なる発言をすることは望ましくないのではないかと思います。よい印象を与えるefficient(効率のよい)のほうが、リスクが低いし、最大限やることを減らしたということを伝えているという点で、伝えたいことを明確に伝えていると思います。このレシピを紹介するにあたって、ずぼらな人がすること、と言いたいのではないからです。

*注:googleで検索してみたら、“lazy recipes” も出てきましたが、日本語で “ずぼらレシピ” の検索件数のほうが断然多い。 “efficient” も調べてみたところ、“efficient cooking” などは桁違いの検索件数でした。

日本語と英語は言語学的にも遠い言語ですが、文化の面でも大きな違いがあると感じます。冒頭で書いた通訳者の方がよく挙げていた例は、brotherとsisterを日本語に訳すときのことでした。日本では年齡が上か下かが重視されるため、年齡が上のほうに「兄」「姉」、下のほうに「弟」「妹」という言葉があてられます。だから、どちらが年上かがわからないと訳せません。これにはよく苦労していて、調べても出てこないときもあるので、そういうときは仕方なく「兄(または弟)」「姉(または妹)」などとするしかありません。ほかにも、そのまま翻訳したら誤解される可能性があったり、情報が足りなかったり、おもしろさが伝わらなかったり、ということも多々あります。英語圏の文化背景は、本でも感じ取れることは多いので、アンテナを高くして、吸収していきたいと思います。

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20160826

難解な言葉を使うと賢く見える?

私は平易な言葉を使うので、私のことをバカだと思う人もいるようです。まぁ、それでもいいのです。他人がどう思おうと、それはその人の自由ですから…。

何かを訳したり、書いたりするときは、「伝える」ということが私にとって最も大事な目的です。自分の使う語彙レベルの高さを見せしめることは目的のリストには入っていません。だから、だいたいみんなが辞書を使わなくてもわかるような簡単な言葉を書くようにしています。だって、辞書と首っ引きで読まなきゃいけない文章なんて、なかなか読む気にならないではないですか。読んでさえもらえないなら、伝えるという目的が果たせません。読んでもらえたとしても、辞書を使って意味を理解してくれなかったら、内容の一割も伝わらないかもしれません。

たとえば、次の文章はどうでしょうか。


1. その側近は躊躇した挙句、総理に誤謬を正すよう諫言したが、総理は渋面をつくって彼に罵詈雑言を浴びせた。


読めますか? 私は「誤謬(ごびゅう)」「諫言(かんげん)」「渋面(じゅうめん/しぶづら)」が読めず、「躊躇(ちゅうちょ)」はたぶん書けません。「罵詈雑言(ばりぞうごん)」はちょっと読み方があやふやで、念のため辞書を引きました。読めなくて書けない言葉というのは、馴染みが薄いので、なんとなくこんな感じかな?くらいの理解に終わってしまいがちです。腑に落ちて理解できた感じがしません。中国語を読んで、なんとなく漢字から意味を推測しているのに近いかも。

最近読んだ本に出てきたのが、こんな感じの訳文でした(訳者さんが特定されることは望まないので、引用は避けて、似た文章を作っています)。1ページのうちに何度も何度も辞書を引かないとわからない語がゴロゴロ出てくる。今、バーニー・サンダースさんの自伝を原文で読んでいるのですが、こちらよりもその訳書のほうが辞書を引く回数がはるかに多かったです。英和辞典よりも国語辞典を引くほうが多いっていう状況は、ちょっと初めてかもしれません。たぶん私は世間の平均(*)よりも多く本を読んでいると思うのですが、そういう私でもわからない言葉がたくさん出てくるので、世間一般では読み通せる人がどのくらいいるのだろうか?と心配になりました(重要な内容の本だったので)。

文化庁の調査によると、月に1冊も本を読まない人が約半数の47.5%。

私は内容にも言葉にも興味があるので辞書を引きながら読みましたが、辞書を引かないで読んだらほとんど表面的にしか理解できないのではないかと思いました。ちなみに、その訳文が出てきた本というのは、英語で書いている著者が一人で、複数の翻訳家が共同で訳したものだったのですが、他の訳者さんが担当した章はこんなに辞書を引かなくても読めたので、たぶん、原文が特別に難しい語で書かれているというわけではないと思います。

この訳文に出会ったときはちょうど、仕事で訳した文章について、日本語のレベルが低いというようなことを言われたばかりだったので、「あー、こういう文章だったら、すごいって思ってもらえたんだろうなぁ!」と思ったのでした。(原文が平易な英語で、日本語も原文の持ち味を生かしたかったので、平易に合わせただけだったのですが、相手は私と目標が違っていたみたいです)

ただ、私も仕事でこういう批評をされたばかりだったので、こういう難しい言葉がごろごろした訳文を書いた訳者さんにも、事情があったんだろうなぁ、と思いました。難解な語を連発して自分の語彙レベルが高いことを見せつけないと、編集サイドで好き勝手に変えられたり、足元を見られたりといった不具合があるのだろうということは、十分に想像できるからです。中身ではなく、表面的なことでしか、文章のよしあしがわからない人が、残念ながらプロの現場にもいるので、お金と地位と名声を得ていくためにはやむを得ないのかもしれません。

それでもやっぱり、私は1のような文章はあまり好きではありません。好みの問題だとは思いますが…。自分の語彙レベルの高さを自慢するよりも、伝わりやすい表現を選びたいからです。1のような文章は、次のように書き換えても、十分に伝わると思います。


2. その側近はためらった末、総理に誤りを訂正するように忠言したが、総理は不機嫌な表情になって彼にさんざんな悪口を言った。


もちろん、難しい表現がしっくり来る場面もありますし、その言葉でないと言い表せないということもあるので、そういうときは私も難しい言葉を使います。ですが、ゴロゴロとオンパレードのように並んでいるのは、「こんな難しい言葉をこんなにたくさん使いこなせる私ってすごいでしょ?」という自尊心は埋めることができるのかもしれませんが、伝えるという目的を果たすうえでは逆効果だと思います。私も初めて知った言葉は使ってみたくなったりもしますが…。

訳す場合は、原文の語彙レベルに合わせるので、難しい言葉も使うことがあります。でも、慣用句や日本語独特の言いまわしは、とってつけたようで浮きやすいので、慎重に何度も読み返して、浮いていないか確認します。

特に、文化的な背景を調べると、海外の文章にはそぐわないものもあるので、言葉の背後にあるものも配慮したうえで言葉を選んでいます。例えば、欧米人が "I want to die at home."と言ったとして、そのセリフを「畳の上で死にたい」と訳したら変な感じがしますよね。「皮切りに」という表現も翻訳の文章でよく見かけるのですが(便利なのでついつい私も使ってしまう)、もともとは最初に据えるお灸という意味なので、あまり大きな出来事でないものに使うのは仰々しい感じがしますし、海外の文脈で使うにはなんだか違和感があります。

知性のある人の文章に触れていると、やっぱり、文章の語彙レベルで内容の知性の高さは測れないというのがよくわかります。知性のある人ほど、そういうゴテゴテした言葉は使わないのです。

憲法学者の樋口陽一さんは、話すときも語彙レベルが高い言葉を使われるのですが、全く嫌味な感じがなくて、板についているというか、その言葉は本当に樋口さんのものになっていて、ひけらかす目的ではなく、その言葉が口をついて出ている感じで、樋口さんの品性を伴いながら、伝えたい内容を適確に表しています。

孫崎享さんの『戦後史の正体』は、辞書を引かなくてもわかる言葉ばかりで書かれていますが、内容が理路整然としていて、何が起こったのか、事実がわかりやすく説明されています。

英語でもバーニー・サンダースさんの自伝は本当に平易な言葉で書かれているのですが、知性と愛と感謝に溢れています。週刊STでエッセイを書いているKip Katesさんの文章も平易な英語でウィットに富んだ文章で、大学生のときからずっとお手本にしています。

何を優先するかは人それぞれですが、私はバカだと思われても、なるべく多くの人に伝わりやすい言葉を使っていきたいと思っています。バカだと思われると仕事で不都合のある人は、伝わりやすさよりも難解な語を使いまくって能力の高さをアピールするほうを優先するのも作戦だとは思います。

でも、私の場合はそうなのですが、自分の文章を貫いていたら、よさをわかってくれる人が繰り返しお仕事をくださったりします。そういう人は希少で、生活の不安が起こることもまあ、あるにはあるのですが、表面的にしか物事を判断できずにバカにしてくる仕事の相手がたくさんいても、ちっとも楽しくないし、疲弊するだけです。長期的に見れば、そういう本質で物事を判断できる仕事の仲間が徐々に増えていくと思うので、最初はちょっと大変でも、伝えるということを最優先事項として、自分が納得できる仕事を重ねていきたいと思っています。

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20160824

原爆投下の真実―オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史〈1〉を読んで

映画監督のオリバー・ストーンさんとアメリカン大学歴史学部准教授のピーター・カズニックさんの本『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史〈1〉―2つの世界大戦と原爆投下』(全3巻)を読みました。


この本は、アメリカの暗部にしっかりと目を向けたものであり、アメリカの美しい物語は巷にあふれているので、この本では取り上げないとしています。

原爆の投下は、日本の降伏を早めるためにやむを得なかったと、アメリカでは教えられていて、この本によれば、アメリカ人の85%がそう考えているそうです。以前、アメリカに核実験に関する博物館が開館したというニュースを訳したときにも、関係者の女性のコメントは、原子爆弾によって、戦争の終結を早め、戦争が長引いていれば失われる可能性のあった何百万人もの人々の命が救われた、というような信じがたい内容でした。

世界の原爆投下に対する認識はこちらの記事が興味深かったです。
上記の記事によると、アメリカの公式見解は、「原爆は軍事基地を標的に投下された。つまり、市民の犠牲は限りなく避けられた。原爆による死者数は7万人である」というものだそうです。事実とは全く異なっていますが、ほとんどのアメリカ人はそう習っているのだそうです(日本も、政府に都合の悪いことは隠されるので、他の出来事について、同じような誤った認識はあるのかもしれません)。

日本の場合は隠蔽体質ですが、アメリカの場合は公文書を公開するので、誰にでも真実が開かれていて、歴史から学ぶことができる状況があるということもあり、このまやかしに根拠に基づいて異を唱えるアメリカ人は数多くいます。

原爆投下の真実については、この本の4章で詳しく書かれています。

日本を早期に降伏させるのが目的であれば、原爆を投下せずとも、ほかにも方法はあったと、アメリカ政府は認識していたのだそうです。
サイパン島でアメリカが勝利を収めた少なくとも前年の八月から、日本は終戦工作を秘密裏に模索しはじめていた。〈中略〉リチャード・フランクは原爆投下を擁護する最も権威ある著書『没落』を書いた人物だが、その彼ですら「原爆投下がなかったにしても、鉄道網の寸断と封鎖・空爆戦略の累積効果が相俟って(あいまって)、国内秩序は深刻な脅威にさらされたであろうし、その結果として天皇は戦争終結の宣言に追い込まれただろう」と述べている。(p. 310)
すでに日本は負けに負けていて、終戦の道を模索していたことをアメリカは把握していたというのです。アメリカとイギリスが「無条件降伏」という言葉を使ってしまったために、日本は天皇が処刑される可能性があると考え、応じることができなかった。当時のアメリカ人も、日本人にとって天皇が殺されることは、アメリカ人にとってキリストのはりつけと同じようなことだから、天皇制の存続と、天皇の命を守ることをはっきりと示せば、日本が降伏に応じる可能性は高いという意見が中枢からも上がっていました。
マッカーサー指揮する南西太平洋司令部の調査報告には、「天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう」とある。これを知った人の多くは降伏条件を緩和するようトルーマン大統領に求めた。(p. 311)
日本は、天皇制の存続が確保されていれば、早期に降伏する可能性が極めて高かったにもかかわらず、当時の大統領ハリー・トルーマン氏の側近だったジェームズ・バーンズ氏は(トルーマンが議員時代からの相談相手だった)、降伏条件の妥協をアメリカ国民は許さず、妥協すればトルーマン大統領の政治生命が危なくなると主張し、トルーマン大統領はそれを聞き入れてしまいます。

しかし、ワシントン・ポスト紙は社説で、「これは日本人を憎むとか憎まないとかいうレベルの話ではない。むろん私は憎んでいる。しかし、二年先に同じ条件で戦争が終結するのだとしたら、このまま続けてなんの益があるというのか」と書いていて、「無条件降伏」という言葉は日本国民の心に恐怖を植え付けており、戦争終結の障害になりつつあるとして、これが「致命的な文言」であると糾弾した(p. 314)、とあることからも、アメリカ国民がこれを承知しないということはなかったのではないかと思います。

天皇制の存続を約束する以外にも、日本を早期に降伏させる方法はありました。日本はソ連の参戦をなによりも恐れていたそうです。ソ連は、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相とヤルタで行なったヤルタ会談で、ドイツとの戦いが終わってから3ヶ月後に日本との戦いに参戦するという約束になっていました(p. 260)。

日本の政治の中枢にいた人々は、共産革命によって天皇と天皇の周辺の人々の命と地位が危うくなることを最も恐れていました。アメリカとだけでもぼろぼろに負けているのに、ソ連に参戦されたら、日本は壊滅するだろうと(日本の最高戦争指導会議「帝国は使命を制せらるべき」と結論[終戦史録])考えていて、ソ連の参戦はなんとしてでも避けたかったのです。何も原爆を落とさなくても、ソ連が参戦するだけで、日本が降伏する可能性は十分にありました。

なぜ、今にも降伏しそうな日本に、原爆を2つも落としたのか?という疑問が湧いてきました。

原爆投下を決定したトルーマン大統領という人物は、白人至上主義団体クークラックスクラン(KKK)にお金を払うほどのかなりの人種差別主義者で、日本人のことを忌み嫌っていたようです。当時のアメリカ人もまた、ドイツ人のことは、善良なドイツ人とナチスドイツのような野蛮なことをするドイツ人とを見分けていましたが、もともとあった有色人種に対する差別からも、日本人のことは全部野蛮人だとみなし、ゴキブリや、ネズミや猿(「黄色い猿を殺せ!」という比喩はよく使われたそう)のように忌み嫌っていたのだそうです。

こうした背景から、原爆投下によって日本人を無差別に殺すことなど、当時のアメリカ人にとってはさほど心の痛むことではなかったのかもしれません。

アメリカは、原爆を日本に落とすことによって、第二次世界大戦後の世界における覇権争いで、ソ連を牽制したいという思惑があったようです。

物理学者のレオ・シラード氏は、原爆の使用について注意を促そうとトルーマン大統領との面会を図ったものの、かなわず、代わりに側近のバーンズ氏と会って得た回答に憤慨してつぎのように語っています。
「バーンズ氏の回答は、戦争を終結するためには日本の都市に原爆を使用せざるを得ないというものではなかった。政府の誰もが知っていたように、彼はそのときすでに日本が敗北したも同然であることを承知していた……当時のバーンズ氏の懸念はソ連がヨーロッパで覇権を握ることにあり、彼は原子爆弾の保有・示威行為によってヨーロッパにおけるソ連の影響力を抑えられると主張していた」(p. 335)
原爆投下標的委員会のレズリー・グローヴス少将も、ジョセフ・ロートブラット氏(原爆開発に関わっていたが、唯一離脱した物理学者)に次のように語っていました。
「むろん、この計画(日本への原爆投下)の主たる目的はソ連に対する牽制であるのは承知しているね?」(p. 335)
しかし、原子爆弾の原理は秘密にされているものでもなく、ソ連もすぐにアメリカに追いつくことが予想されていて、アメリカが優位に立てるなどということは考えにくいことでした。当時の学者さんたちも、アメリカが日本に原爆を投下することは、ソ連との核武装競争につながると警告していました。

前述のレオ・シラード氏は、嘆願書にこのように書いています。
われわれが手にしている原子爆弾はまだ世界が破壊に向かう第一歩にすぎず、将来の開発によって人類が手にする破壊力は実質的に限りないものになります。したがって、新たに発見された自然のちからを最初に破壊目的に使用した国家は、想像を絶する規模の破壊という時代の扉を開けた責任を負うことになるでしょう。(p. 336)(全文はこちらでも読めます→レオ・シラードの嘆願書
日本への原爆投下は、戦争の早期終結が目的ではなく、ソ連との覇権争いにおいて、アメリカが優位に立ちたいという権力欲でしかなかったのです。戦争の犠牲者を減らすという目的ではなかった。すごく悲しくて、腹が立って、もし、トルーマンが大統領でなかったら、もっと良識のある人が大統領だったら、あんな苦しみを広島と長崎の人々はしなくてもよかったのに、とものすごく心がかき乱されました。アメリカが心底憎たらしくなりました。でも、これを告発してくれているのも、アメリカ人なのです。レオ・シラード氏など、アメリカにもまともな人は結構いたのです。

当時の軍の指導者たちの意見を紹介して終わります。(☆マークがついている人は、アメリカの五つ星階級章将官。五つ星階級章将官七名中六名が原爆投下は不可欠ではなかったと述べている)

まずはおなじみのダグラス・マッカーサー元帥(☆)。
原爆の使用を「軍事的にはまったく不必要」と考えており、アメリカがまもなく使用する予定と知ると怒り失望した。(原爆投下発表以前に記者会見を開き)日本は「すでに敗北しており」、自分は「次の戦争が一万倍の恐怖を伴うだろう」と考えていると記者たちに漏らした。(p. 346)
ダグラス・マッカーサー元帥は、アメリカが降伏条件を変更したなら戦争は数カ月早く終結しただろうと一貫して主張している。
〈中略〉
フーバー(元大統領)が1945年5月30日にトルーマンに送った、降伏条件の変更を提案する意見書は、「賢明でまことに政治家らしい」ものであり、もしこの意見書が聞き入れられたのであれば、「広島と長崎の虐殺も……アメリカの空爆に寄る大規模な破壊もなかっただろう。日本が躊躇することなく降伏を受け容れたであろうことを私はいささかも疑っていない」(p. 363)
トルーマン大統領付参謀長で、統合参謀本部の議長だったウィリアム・リーヒ提督(☆)。
「日本はすでに敗北しており降伏する用意ができていた……広島と長崎に野蛮な兵器を使用したことは日本に対するわが国の戦争になんら貢献していない。はじめてこの兵器を使用した国家となったことで、われわれの道徳水準は暗黒時代の野蛮人レベルに堕した。私は戦争とはこのようなものではないと教えられてきたし、戦争は女子どもを殺して勝利するものではない」
「トルーマンは、われわれは原爆の使用を決定したが……目標を軍事施設に絞ったと私には言った。むろん、彼はかまわず婦女子を殺しにかかったのであり、はじめからそのつもりだったのだ」。(p. 362)
ヘンリー・アーノルド元帥(☆)。
「原爆投下の如何にかかわらず、日本が壊滅寸前であることはわれわれには以前から明白に思われた」(p. 363)
東京大空襲を指揮した鬼であるカーティス・ルメイ大将。
「原爆もソ連参戦もなくとも、日本は二週間もあれば降伏していただろう」
「原爆は戦争終結とはまったくかかわりがない」(p. 363)
太平洋戦略航空軍の指揮官カール・スパーツ大将。
「ワシントンではじめて原爆使用を検討したとき、私は投下には賛成しなかった。私はある町の住民を殲滅するような破壊を好んだことは一度たりともない」(p. 363)
連合国軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー元帥(☆)。
(日本への原爆投下について)「二つの理由から反対だと答えた。第一に、日本は降伏する用意ができており、あのような恐ろしい兵器を使用する必要はなかった。第二に、私は自国があのような兵器を用いる最初の国になるのを見たくはなかった」(p. 342)
海軍将官の意見も載せておきます。
合衆国艦隊司令長官のアーネスト・キング提督(☆)。戦争当時に補佐に話した言葉。
「私は今回の投下はすべきでないと思う。それは無益だ」「私はとにもかくにも原爆を好まなかった」(p. 363)
太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督(☆)が戦後しばらくして会議で発言した言葉。
「実際、広島と長崎の破壊によって核の時代到来が世界に宣言される前に、そしてソ連が参戦する前に、日本はすでに講和を求めていた」(p. 363)
南太平洋方面軍司令官のウィリアム・ハルゼー提督。(原爆投下の翌年に語って)
「最初の原子爆弾は不必要な実験だった……いや、どちらの原爆であれ投下は誤りである……多くの日本人が死んだが、日本はずっと以前からソ連を通じて和平の道を探っていたのだ」(p. 364)
トルーマン大統領の側近バーンズ氏までもが戦争終結に原爆は必要なかったと認めています。
ニューヨーク・タイムズ紙によると、「バーンズは、広島に最初の原爆が投下される前に日本は敗北を覚悟していたことをソ連はつかんでいたと述べている」(p. 364)

アラ探しをしているチームと、サポーティブなチーム、どちらが能力を最大限に発揮できるでしょうか?

常にアラ探しをしているチームと、自由にのびのびやらせてくれながらもサポーティブなチーム。チームのメンバーの能力が最大限に発揮されるのはどちらでしょうか?

昨日は翻訳の仕事で、翻訳者の悪口を言ったり、誤りを見つけて鬼の首を取ったような態度をとったりする発注者の話を少し書きましたが、そもそも、好き好んでミスする人なんていないと思います。

手を抜いていたとか、不真面目にやったとか、嘘八百を並べたとか、そういうことなら責められても仕方がないし、厳しく指摘して改善してもらうのが相手のためだと思います。でも、精一杯やって、それでも間違ってしまったものを、「それ見たことか!」と攻撃の材料にするなんていうのは最低だと思います。

人間は不完全な生き物です。そこをサポートしあうのがチームの役割。翻訳者一人でノーチェックで完璧なものができるんだったら、チェッカーも校正者もいりません。人間は完璧ではないから、どんなに気をつけていても、間違ったり、勘違いしたりすることがあるから、複数の目を通すわけです。立場を入れ替えてみれば、誰だってそのくらいはあるのではないかと思われるようなミスで、職能や人格までこき下ろすような攻撃をするのは、本当に最低だと思う。

このご時世、コンテンツを電子書籍にして読者に直接売ることもできるようになっていますから、状況としては著者と訳者と読者さえいれば、翻訳の本を販売するということは成り立ちます。こんな態度でいるのであれば、チェッカーも校正者も編集者も不要なわけです。現状は、正規の出版ルートを通さなければ、多くの人に届けることが難しいため、嫌な思いも我慢している人がほとんど。だから、こんな傲慢な人たちにも仕事がある。

電子書籍って言ったって、著作権や版権絡みでエージェンシーがどうたらこうたらという反論もあるでしょうが、著者が従来のルートを通さずに電子書籍でバンバンおもしろいものを出すようになったらどうでしょうか? 編集者が変な赤入れをしまくって、自分の言葉ではなくなってしまうし、印税が少なすぎる(だいたい10%)から、もう出版社からは出さないと宣言している著者も見かけるようになりました。やがてそれが一般化するようになれば、翻訳者が著者と交渉して、あるいは逆に、著者が翻訳者に直接依頼をして翻訳版を出すということも、可能になってくるでしょう。

そうなれば、編集者も、チェッカーも、校正者も、コーディネーターも、本当に感謝されるような役割を果たしていない限り、その仕事は不要になります。ミスを見つけて攻撃したり(というか、私がチェックの仕事をするときは、ミスを見つけるのが仕事だと思っている。あって当たり前で、なかったら私の仕事なんか無用だと思う…)、傲慢な赤入れをしたり、発注者だけに都合がよいスケジュールで翻弄したり、人をバカにしたり、そんな態度でいたら、むしろ足を引っ張るだけだと思います。

常にアラ探しをしているような相手と仕事をする場合、間違わないように、間違わないように、ということに気持ちが行き過ぎて、おもしろいもの、美しいもの、人々に喜びを与えるもの、いいものをつくりあげていく、ということに、力を注ぐことが難しくなります。

たとえば、スキーのジャンプや、水泳の飛び込みなどで、
「あんたなんかどうせ上手に飛べないわよ。今に失敗するから、ふん、見ててやる。失敗したら思いっきりこき下ろしてやるんだから」
と思って見ている人たちがそばにいて、上手に飛べる人っているのでしょうか?

「大丈夫、きっと飛べる。もし、失敗しても、ぼくたちが助けるから、心配しないで飛んでみて」
と思って見守ってくれる人がそばにいたほうが、成功する確率が高まるのではないでしょうか?

チームの役割とはそういうものだと思います。ミスがあったらフォローして、つらいときには支えになり、悩みがあったら相談にのり、体調がわるいときには十分に休めるように代わってあげたり、自信をなくしていたら励ましたり、改善すべき点があったら思いやりをもって提案したり、それがチームというものだと思います。

クリティカルヒットの機会を虎視眈々とうかがって、仲間のミスを探すなんていうのは、チームのやることではなく、敵のやることでしょう。それをして、チームにとって、どんないいことがあるというのでしょうか? 品質は下がるし、士気も下がるし、やっていてちっとも楽しくもない。

いいことが一つだけあるとすれば、それは、虎視眈々と狙っているその人のプライドが満たされるということだけです。「私のおかげでいい仕上がりになったのだ」「あいつは私よりできない」「ぎゃふんと言わせてやってすっきりした」、そんな浅はかな喜びは長続きしないでしょう。結局、この人の能力がそれほど高くないことには変わりはないのですから。

幸い、よくできる人と仕事をする機会に恵まれていて、そういう人たちとは本当にいい仕事ができます。ミスをしても、ミスについてのみ客観的な事実として指摘してくれるので、素直に受け入れられるし、次から気をつけられる。相手もミスをすることがあるけど、素直に認めてくれて、次に活かしてくれる(ミスを素直に認めるというのは本当に知性に自信のある人でなければできないことだというのも学んだ)。

リスペクトと感謝に基づいて、コミュニケーションをとり、仕事をつくりあげていけるというのは、本当に幸せなことだと思います。厳しいことを言うときも、普段からしっかりとした関係を築いているということもあって、相手のことを思ってのことだというのが自ずとわかります。そういう人たちと仕事をすると、「ああ、いい仕事ができたなぁ!」と思うことばかりですが、そういうとき「いい仕事をしたなぁ!」という達成感があるだけでなく、それを使う人たちにも喜んでもらえます。自分の能力も、人間性も、チームのメンバーのよいところに感銘を受けながら、自然と高めていけます。

針のむしろのようなところで精神を鍛えたいという人もいるかもしれませんが、私はやっぱり、人間性も能力も高い人たちと、サポーティブなチームのなかで仕事がしたいです。

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20160822

フェイスブック疲れ、再び

フェイスブック、選挙のときはちょっとがんばって書いていたのだが、もう疲れてしまって、10日ほど投稿が空いた。

世間はオリンピック一色だったようだけど、沖縄の状況、憲法の破壊、伊方原発の再稼働(「正気とは思えない」)、福島の凍土壁が凍らない問題(小出裕章さんなどが以前から指摘されていたとおりに)などなど、非っ常~~~~にたくさんの問題が山積していて、メディアがちゃんと報じないのないなら、私も何か言わないと、と久々にフェイスブックを覗いてみたのだが、うーん、やっぱり、すごい抵抗というか圧力を感じる。うーん、やっぱりこの空気、私の居場所じゃないわーという感じがした。

その空気をぶち破る勇気のある人は、活動家として認知されている人を除いて、そんなにいない。この空気をぶち破って書いている人も、単なる攻撃であったり、「こんなことを知っている自分はどうだ!」みたいな自尊心を埋める目的だったり、うっぷんを晴らすだけだったりして、重要なニュースを知ることができてありがたいにはありがたいのだが、かなり気持ちが滅入ってしまう(これについては先日も少し書いた)。

フェイスブックはショーみたいな感じで、「きゃっほー❤これ見てみて~♪」みたいなのは書きやすいんだけど、まじめな話って本当にしにくい。居酒屋で大勢に当たりさわりのない話をしたり、酒の勢いをかりてぶちまけている感じ。私はカフェで友人一人ひとりと深い話をするほうが好きなので、合わないわけだ。

私はこどものころから一匹狼という感じで(望んでそうなったわけではない)、常に浮いていたので、フェイスブックみたいな群れて楽しむところは、合わないんだろうと思う。今でも、みんなが白いものを見て黒だと言っていても、一人でぽそりと白いものは白いと言うタイプだと思う。目立つのは嫌だから、ぽそりと言う。社会活動に使いたいなら、フェイスブックよりツイッターのほうが私の場合は向いているのだと思うんだけど、ツイッターは誹謗中傷が増えてきているとも聞く。

愛嬌を振りまけるかわいいアイドルタイプ、おれについてこいみたいなリーダータイプ、他人にどう思われるかが気にならない人、ピエロを演じるのが好きな人、ちやほやされるのが好きな人、群れてワイワイするのが好きな人には楽しい場所なんだろうけど、私はどれも全然だめだ。誰にもついていきたくないし、ついてこさせたいとも思わない(各人の自由意志に従ってほしいから)。人に気を使いすぎる。つねに自分は自分のままでいたい。ちやほやされても下心は何かと勘ぐってしまう。わいわい騒ぐこともほとんどなく、騒いで楽しいとも思わない。静かに黙々と重要なことについて考えたり、何かを作ったりしているほうが好きだ。

フェイスブックでは、他人に対して疑心暗鬼になってしまうことも多い。「いいね」一つをとっても、「いいね」を押されても押されなくても本音を勘ぐってしまう人もいるし、Aさんのシェアした記事には「いいね」を押して、同じ記事をシェアしているBさんに「いいね」を押さなかったら何か思われないだろうかとか、あるいはAさんのある投稿にはいいねを押して、それ以外にはいいねを押さなかったら何か思われないだろうかとか、不安になる。それに、リアルでは私にカスタマイズして見せないでおいてくれている、私が見たくない側面も見せられてしまう。他人がどんどん嫌いになっていくループに陥りそうになることもある。

再び、いっそのことフェイスブックをやめてしまおうかなぁという熱が復活しているのだが、連絡手段にもなっているし、役に立つ面もあるし、しばらく開かないで不快感が落ち着くのを待ちたいと思う。

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20160821

身体は正直。痛みや不調は、何かが違っていることを知らせるサイン。

身体は正直です。私は基本的には玄米菜食で、白砂糖と化学物質は避けています。白身の魚や小魚は、放射能汚染に注意しながらときどき食べます。卵は、無農薬野菜と草をついばんで育った放し飼いの卵を自然派コープで届けてもらっています。

こういう食事について、ゆるくポップに書かれた本が、最近、書店に並んでいました。『「食事」を正せば、病気、不調知らずのからだになれる ふるさと村のからだを整える「食養術」』(秋山龍三/草野かおる・著)という本です。

「食事」を正せば、病気、不調知らずのからだになれる ふるさと村のからだを整える「食養術」

「こうしなきゃだめ!」みたいなよくある感じではなく、続けやすい形で提案されているところがよいなぁと思いました。読み物としてもおもしろく、必要な情報がよくまとまっていると思います。

私はこの本で言うと、仙人級まであと少しのゆる仙人みたいな感じかな、と思いましたが、こうした食生活にしてから、体調を崩すことがほとんどなく、肌がきれいになって化粧品がいらなくなりました。もともと身体が丈夫だったわけでは決してなく、幼いころから虚弱体質と言われていたほどで、1カ月に数日は寝込み、毎年3月と9月には総決算のように数週間寝込むし、風邪はしょっちゅうひき、月経中は頭痛と月経痛で鎮痛剤なしでは過ごせないくらいでした。

肌のほうはと言えば、鼻の毛穴の黒ずみが気になって、毛穴すっきりパックは「痛い(泣)」と思いながらもいろいろ試し、クレンジング剤、洗顔料、拭き取り化粧水、美容液、化粧水、乳液、クリーム、オイル、日焼け止め、と、化粧品はゴロゴロいろんなものを使っていたのに、皮膚表面が固い感じがするし、おでこと鼻(いわゆるTゾーン)はベタベタ、くすみが気になるからファンデーションでごまかす、みたいな感じでした。顔と身体と手でも分けていた化粧品が、今では天然素材の石けん一つと植物性オイル一本だけ。食べ物を変えた今のほうが、ずっときめも細かく、透明感が出て、皮膚も柔らかくなった感じがします。小鼻の黒ずみもなくなりました。

東京では、玄米菜食の飲食店が結構あったので、事前に調べて行けばたいていどのエリアでも(東側にはあまりなかった)、普段と近い食事ができました(放射能の心配が出てきてしまいましたが、それでも、そうしたお店は良心的なところが多くて、お客さんも気にする人が多いからだと思いますが、産地を表示してくれていたり、放射能検査済みで不検出のものを提供してくれていました)。

しかし、地方へ移住後、外でゴハンを食べるときには、無添加はそれなりに見つかるのですが、無農薬となるとかなり難しい。完全に菜食にするのが難しくなり、ときどき、お肉を食べることがあります。動物性の食品をたくさん食べるとお腹が痛くなることがあるので、メニューからなるべく入っていなさそうなものを選ぶのですが、勘がハズレて入っていることも。あんまり避けまくるのも身体にわるいし、食べ物にも、農家さんを含め、作ってくれた人にも、失礼なので、入っていたらありがたく感謝していただきます。

最近、相方はお付き合いで外食が増えていて、お肉を食べてもそれほどお腹を壊すこともなくなったので、また、マクロビを習っていた友人が「男性は動物性をとったほうがいい」(私はこれには懐疑的。男女問わず個人差があるはず)と言っていたこともあってか、ときどきはお肉をと言うようになりました。

それで、外食でお肉が入っていると、相方に食べてもらっていたのですが、ついに、てきめん、来てしまいました。鶏肉がごろごろ入ったメニューを食べた後、最終電車の中でお腹が痛い…と始まり、降りてしまったら次の電車がないので最寄りの駅までヒヤヒヤ。私も、その日は生クリームやチーズなど、動物性の食品がたくさん入ったメニューを食べたのですが、胃が気持ち悪く、翌朝になってお腹が痛くなりました。二人とも、合わない食べ物はすぐ排出するように身体が整ってきたようです。思い返せば、自然食になる前によくお腹を壊していたのも、身体さんが教えてくれていたんだろうなぁ、と今ならわかりますが、昔は下痢止めを飲んでも効かないと怒っていたものでした。

身体は正直だなぁと思った出来事をもうひとつ。この二ヶ月ほど、ちょっとストレスのかかることが多くて、甘いものが欲しくなり、白砂糖の入ったお菓子を調子にのって食べまくっていました。

白砂糖は身体を冷やし、カルシウムなどのミネラルを奪うと言われていますが、実際に白砂糖の入ったものを食べるとイライラしやすくなったり、頭痛が起こったり、顔色が悪くなることもよくありました。それで食べないようにしていたのですが、夏の暑さで顔色はわからなかったのと、もともとストレスでイライラしているので、変化がわからなかったのもあり、あんなに避けていた白砂糖の入ったお菓子をしょっちゅう口にするようになっていました。

その結果、やっぱり、身体さんは正直です。メイド・イン・アースのオーガニックコットンの布ナプキンにしてからはほぼ皆無だった月経痛が復活。鎮痛剤を飲むほどでもなく、昔ほどではなかったのですが、それでも身体が重くてしんどくて、内臓を冷やしてしまったということだなぁ、と反省しました。

身体の痛みや反応は、より健康になって人間本来の状態を取り戻すにはどういう食べ物を食べ、どういうものを使い、どういう生活をしたらよいのかを教えてくれるサインだと実感しました。痛みや普段と違う不調があったら、その原因を探ってみて、改善を図り、試行錯誤を続けることで、何を食べるべきか、どう生きるべきかがわかるのではないでしょうか。久々に体調を崩し、友人が自分の子に「身体さん感じて。まだ食べたい?」と聞きながら食事を与えていたのを思い出しました。

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20160820

『「憲法改正」の真実』(樋口陽一さん✕小林節さんの対談)を読んで。自民党改憲草案では新自由主義が国是に、など。

憲法学者の樋口陽一さんと小林節さんの対談をまとめた新書『「憲法改正」の真実』を読みました。

憲法のことだけでなく、議論のお手本にもなるような素晴らしい本でした。手元に置いておいて何度も読み返し、議論の作法を身につけるための教科書にしたいくらいです。

20160818

楽しむことを責める投稿を見て考えたこと。伝統的な祭りが市民運動に及ぼす影響について。

日本は今ようやく市民のための政治を取り戻そうという動きが始まったばかりで、まだまだ、長い道のりになると思う。末広がりに長く続いていく運動にしていくためには、知恵と工夫、そして人間性を高めていくことが肝心だ。ちょっとやそっとでは変わらない。先を考えずに全力疾走して再起不能になるといった状況は、避けるべきだと思う。

夏祭りのシーズンで、全国各地のお祭りを楽しむ様子がSNSでも流れてくるようになった。そんななか、日本はこんなに悲惨な状況なのに、お祭りに浮かれている場合かという怒りがこもったフェイスブック投稿の話を耳にする。日本人はみんなすでにお祭り頭なのに日本中で連日祭り祭りで、そのお祭り頭は一体いつ覚めるのかというようなことが書かれていたという。

20160815

71年目の終戦記念日に思う

太平洋戦争の終戦から今日で71年の節目を迎えました。

来年も、再来年も、10年後にも、100年後にも、ずっとずっとその先まで、日本が国内外問わず、人を殺し、殺されることがない時代が続くことを心から願います。憲法で大切にされている平和を貫く精神を守り続けていきたいです。

数年前まで、具体的には2011年に東電の原発が爆発してしばらくするまで、原爆が広島と長崎に投下された日も、終戦の日も、特別な気持ちを持つことは特にありませんでした。何も知らなかったし、知ろうともしなかったからです。そういうムードだから、なんかそういうふうに思わないといけないのかな、くらいにしか思っていませんでした。日本が戦争をしないことの意味を、憲法9条に象徴される平和主義の意味を想うことはありませんでした。でも、自由と民主主義と平和主義の精神が薄れ、憲法までもが危機にされている2016年の今日、その意味を思わずにはいられません。

20160814

思ったことをきちんと伝えることが、自分以外の人のためになることもある

昨日も書いた通り、私は必要だと思えば、関係が悪化する可能性があっても、思ったことは正直に伝えるほうです(もちろん、言い方には配慮しますが)。

思ったことをちゃんと伝えるとよいことは、声を上げられない人や、未来の潜在的な被害を防げることだと思います。

かつて、残業代を払ってくれないのに、部長の気まぐれで業務が増えまくるバイトを数カ月の間、していたことがありました。大学時代にパートタイムで働いていた出版社に戻れるめどが立ち、辞められることになったのですが、後任を探さないと辞めさせてもらえないと言われました。

大学で一つ下の学年だった人で、その仕事に興味を持っていた人がいたので、その人を紹介することになりました。記憶が曖昧ですが、残業代がないことと、部長の性質は話したと思います。その人は働いてみたいということだったので、部長に話してみることに。

この話を別の人にしたら、「あなたね、自分が辞めたい仕事に、だれかを紹介するなんて、そんなことはよくないですよ」と憤慨していました。そう言われて、「確かに…」と自分が情けなくなりました。自分が逃れることしか考えていなくて、相手が行きたいと言うんだからいいじゃないか、くらいにしか考えていなかったのです。

幸い、部長がだらしのない人で、後任を紹介する話は流れたまま、私は退職の日を迎えました。

このときの反省から、自分がされて困ったことが、ほかの誰かに及びそうな場合、きちんと伝えるようになりました。困ることをしてきた人に直接言って、改善をお願いしたり、それが不可能な場合は、判断できる別の人に伝えたり、それでも改善が見込めないときは、被害が及びそうな人に事実を伝えて判断材料を提供したりします。

こんなことがあったのです、と正直に伝えてみると、「実は私もこうだったの!」と打ち明け話をされることも多く、自分だけではない場合がほとんどだとわかりました。「実はこの人とはこういうことがあって、気をつけたほうがいいよ」といった話をしてみると、「え!実は私もこんなことが!」みたいなことになり、「被害者の会をつくろうか」という冗談が飛び出すこともありました。

声を上げることによって、恐ろしくて黙ってしまっていた人が声を上げる勇気につながったり、心につっかえていた悲しみを外に出すきっかけを与えることができるのだとわかりました。泣き寝入りしないことで、被害を未然に防ぐことができると思いました。

困ったことをする人の行動を改善できたことはあまりないのですが、ときどき、素直に聞き入れてくれて、改善に活かしてくれる人もいます。相方もそうだし、私も相方に言われて改善できたこともある。素直に聞き入れられることは聞き入れてもらい、改善に活かしてもらえれば、相手もトラブルを未然に防げるようになったり、人間関係が円滑になったり、人間的に成長できたり、といういい循環が生まれます。

困ったことをする相手に、その困った行為について批判をすると、「愛じゃない」だのなんだとの非難を受けることもありますが、相手に好き放題にさせておくことが愛ではないと思うのです。相手の人間的な成長につながることが愛であって、わがままを許し、他者の自由や尊厳を阻害させておくことが愛ではないと思います。

20160812

バカの壁と、自他の境と

高校生のときにヒットしていた養老孟司さんの『バカの壁』という新書。国語の先生に貸してもらって読んだのを記憶しています。

バカの壁 (新潮新書)
「バカの壁」ってこれか!と思うことが、大人になってから増えてきました。なかなか理解できなかったことが、思い込みを外すことで、「あ!わかった!」と、堰を切ったようにわかりはじめることがあります。そういうときに、自分の「バカの壁」を認識します。無意識レベルの思い込みに気がついて、それを手放していける感覚があります。

20160811

民主主義は至るところに。

最近、ちょっとした困りごとがあり、それを乗り越えるなかで、民主主義の勉強になったことがありました。「あ、今やっているのが民主主義なんだ」と。面倒だけど、民主主義の実践の訓練になっているんだな、という感覚を味わいました。

民主主義は、民が主、市民が主権を持っている、主人公であるという考え方。大事なことを決めるときは話し合う。人はそれぞれ個性を持っていて、考え方や思考パターン、意見が異なるというのが大前提です。一人で決めるよりも面倒です。

20160810

民主主義ってなんだ?を読む

民主主義ってなんだ?
「市民集いの丘公園」という名前の公園で、木陰のベンチに腰掛けて、『民主主義ってなんだ?』を読む。

本では、民主主義とは何かということが問い続けられている。原初の民主制は、古代ギリシャに遡る。市民が丘に集い、社会のことを真剣にみんなで語り合う。ここは「市民集いの丘」という名前だが、語り合う市民は見当たらない。ちょっと、皮肉な偶然だった。

聞こえてくるのは、蝉たちの合唱。鳥の歌声。虫の羽音。ウシガエルの大きな鳴き声。かざぐるまの回転する音。

眠くなるほど平和な時間が流れている。

本に目を戻すと、この国のこと、未来のこと、世界のこと、民主主義とはなにか、を真剣に語り合う若者たちと経験を重ねた大人がいた。

この公園に流れる平和な時間と、本の中の世界は、どちらも確かに現実だけど、身の回りの世界しか見ないで生きている限り、本の中で語られているような状況を知ることはできない。

片目は堅く閉ざしたままのナチュラリストも例外ではない。原発や化石燃料に頼らないで生きていこう、自然を汚さないように、化学物質を使わない暮らしをしよう、なるべくゴミを出さないように循環させられるものを使おう、そういう暮らしは気持ちいい。気持ちいいから、平和ぼけになりがちだ。気持ちいい世界と同時に、気持ちいい世界を侵食する動きがある。

化石燃料を大量に使い続ける社会システム。

民主制の崩壊。アメリカと大資本にコントロールされた一党独裁。

それによって生まれる増税と社会保障費の削減。

沖縄の米軍基地問題をはじめとする日本人への人権侵害。

戦争ができる国づくり。

放射能のばらまき(*)。

ワクチンによる健康被害。

安全な食べ物が手に入りにくい状況。

憲法から基本的人権が消える。

声を上げないと、どんどん蝕まれる。主権者として現実を見据え、語り合わなければ、どんどん崩れていく。もう、来るところまで来てしまっている。

個人の暮らしを楽しむことは大切なことだ。しかし、努力して見ようとしなければ見えないところで、重大な危機が起こっている。自分は大丈夫というのは幻想だ。主権者である以上、面倒くさくても、現実を見て、考え、意見を語り、他の人の意見を聞いて、社会の在り方を決めることに、参加しないといけない。そうしたほうが、望む世界をつくっていける。

自然と共にある暮らしは気持ちいいけど、隠遁して、社会に対する責任を放棄してはいけない。長い目で見れば、その気持ちいい暮らしが少しずつ切り崩されていくことになるのだから。切り崩されてからよりも、早めに行動して手を打つほうが絶対に楽だ。壊れたものを直すより、壊れる前に予防するほうが簡単だ。

「市民集いの丘」に本当に市民が集って社会のことを語り合うようになったら素晴らしい。そういう場所が日本中にあふれる日が来るだろうか。

*東電福島第一原発から海や空気に今も出続けているだけでなく、日本政府は8000ベクレル/kg以下の汚染土を全国の公共事業で利用することを決定(→詳しくはコチラ:"「8,000Bq/kg以下の除染土を公共事業で再利用」方針の矛盾と危険性(解説と資料を掲載しました)"FoEジャパン 2016年5月2日)。フランスのヴィオリア社は、廃炉需要を見込み、日本に放射性物質を運びこんで処理する方針を固めていて、「日本が世界の核のゴミ捨て場になる」という危惧する声も多い。

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20160801

ポケモンGO、いい大人が浮かれている場合だろうか

ことでんの駅に、スマートフォンを片手に歩いてぶつかりそうになっている男女のイラストに「ぐるり見てんまい!」(「まわりを見てみなさい」という意味の讃岐弁)というコピーが添えられたいわゆる「歩きスマホ」をしないように促すポスターが大きく拡大されて掲示されるようになった。近所のイオンでも館内放送で「歩きスマホ」に注意を呼びかけるアナウンスが頻繁に流れるようになった。ポケモンGOというゲームは、それほどまでに「歩きスマホ」を促進するようだ。

イオンのなかの喫茶店でPC作業をしていたら、横に座っていた女性2人が旅行の計画を立てていた。夏休みの海外旅行のようだ。片方が突然スマホを取り出した。何かを調べるのかと思ったら、なんと、ポケモンGOだった。「ポケモンGOなんてやっている人、本当にいるの?」と思っていたら、ここにいた。30代後半くらいに見えるいい年をした大人だ。「みんなやってるからさー」と言ってアプリを開いている。電波が悪かったのか、「あれ、ここ入らない!」と憤慨して、「上のマックには結構(ポケモンが)いるらしいよ」と言う。相手の女性は旅行の計画をしにきたのであって、特に興味もなさそうだが、とりあえず付き合って聞いている。しばらく電波の回復を待ちながら関係のない話をし続けた後、ポケモンGOのほうの女性は、3階のマックに行ってしまった。旅行の話をほとんどしないまま、一人残された相手の女性は一人で旅行雑誌を広げている。なんとも気の毒だった。

3階のフードコートを通ると、家族で食事にきているテーブルで、母親とみられる女性が憤慨した表情で座っている。子どもがわるさでもしているのだろうかと見てみると、食事の終わった子どもはノートを広げてシールを貼ったりして遊んでいる。問題はどうやら父親のようだ。もう40代後半くらいに見える。テーブルに置いたスマートフォンの画面にポケモンのカプセルが写っている。ポケモンGOに夢中になりすぎて、食事が進んでおらず、家族みんなが待たされているようだ。家族で会話することなく、食べ物に感謝することもなく、架空のポケモンに浮かれて食事をしている中年のオッサン。女性が呆れるのも頷ける。

新聞で読んだが、ポケモンが現れたからと夜中にたくさんの人が公園に集まって騒いだり、画面に気を取られて階段から落ちたり、事故につながったりということも現実に起こっているという。立ち入りが禁止されている場所や不適切な場所(平和を祈るための厳粛な場所など)に架空のポケモンが現れたからとユーザーがやってきて、危険につながったり、迷惑になったりということも起きているそうだ。

こんな人間を堕落させるようなゲームはなくていいと思う。自分の時間と、相手の時間、まわりの人たちの時間を大切にできない状況をつくってしまうものは害悪でしかない。架空のポケモンをつかまえて何がおもしろいのだろう? 目の前のことを着実に進めていくほうがずっと有意義だ。

目的地に行くために携帯電話を使うのではなく、携帯電話が示す場所に人間が行かされる。完全に物に使われている。物に使われて、事故に合って、ケガをしたり、ケガをさせたり、ひどい場合は死んでしまったり、死なせてしまったりする危険だって十分あると思う。技術は進化しても、人間は退化している。人間の退化もここまで来てしまったのかと嘆かわしい。

子どもならまだしも、いい年をした大人が架空のポケモンをゲットするのに夢中になっているなんて本当に情けない。それは自覚がある大人もいるようで、聞くところによれば、ポケモンGOをやっているのがバレると恥ずかしいからと、犬を飼う人が急増しているそうだ。犬の散歩をカムフラージュに、ウロウロとポケモンをゲットしに繰り出す。犬に失礼ではないか。命を何だと思っているのか。犬は10年以上生きる。うちの犬は17歳まで生きた。ポケモンGOに飽きても、犬を大切に育て続けてくれるように願っている。

オリバー・ストーン監督は、監視全体主義の一環だと警鐘を鳴らしていたが、これに加え、愚民政策の一つではないかとも思っている。アメリカと日本だけでなく、自分の短期的な損得にしか関心がなく、うまい汁を吸わせてくれる富裕層のほうばかりを見ている政府は、国民に知らせたくないことがたくさんある。知らないでいてくれれば、主権を行使することもなく、コントロールしやすいから、なるべく何も知らずに、何も考えずにいてほしいのだ。

社会のことや自分の暮らしのことを真剣に考えてもらわないほうが、彼らにとっては好都合だ。そうすれば、選挙に行かないでくれる。選挙に行っても、自分の生活を良くするため、社会をよくするためといった目的を持たずに、無批判に戦略なしに投票をしてくれる。彼らは組織票だけで勝っているので、今の投票率なら楽勝だ。「今だけ、カネだけ、自分だけ」の政治を続けることができる。主権者である国民の目を背けたい。そう思っている可能性がかなり高いと私は思っている。

例を挙げれば、参議院選挙のときだって、憲法が変わるかどうかの瀬戸際だというのに、メディアはほとんど報じなかった。選挙が終わった途端に、改憲を言い出す有様だ。NHKに至っては、週末の行事を紹介するコーナーで、7月10日について、参議院選挙の投票日を紹介せずに、「納豆の日」で終わった。国民の生活の根幹に関わるような重要なことは、すべて隠されている。TPPだって全部黒塗りだ。主権者である国民の目を背けようとしていると言っても、おかしくはない状況だとわかってもらえるのではないかと思う。

国民にはバカでいてほしいのだ。そうすれば、操りやすく、自分たちの権益のためだけに、保身のためだけに、政治を動かすことができる。ポケモンGOのようなゲームも、愚民政策の一環ではないかと思わずにはいられない。先日、たまたま目にしたポケモンGOユーザーたちは、いい大人なのに、実在である家族と友人の時間を大切にすることよりも、架空のポケモンをゲットすることに夢中になっていた。これがなければ愚かではない人間だと信じたいが、完全に愚かな人間に成り下がってしまっていた。ポケモンGOではそもそも、賢くなりようがないのでは。

賢く、心意気のあるシリアの活動家たちは、ポケモンGOの人気を逆手にとって、シリアの支援を訴えることに活用している。シリア国外のアーティストたちもこれに加わっている。
「僕を助けに来て」 ポケモンGO人気をシリアの子供支援に(BBC 2016.7.22)
スウェーデンの作家のものというこの言葉がまさに適確に異常さを指摘していると思った。
「おじいちゃん、世界がひどいことになってた2016年の夏には何をしていたの? ああ、愛する孫たち、おじいちゃんたちは電話でポケモンを探していたんだよ」
シリアだけではなく、日本もとりわけ沖縄や福島は現実としてひどいことになっているし、潜在的には日本中がひどいことになっている。憎しみの連鎖や環境問題など、世界中がひどいことになっている。この状況を変えることができるのは、この世界に生きる一人ひとりの人間であり、私たちが何をするかにかかっている。架空のモンスターに浮かれている場合だろうか?