20120902

 わずかに開いたカーテンのすきまから、朝日が差し込む部屋。一筋の光に、細かな埃がチラチラと浮かび出される。
 
 今まで見えなかったものが見えるようになった。見えるとわたしは気になって、それを手で払おうとする。どんなに強く払おうと、流れが一瞬揺らぐだけで、埃はあいかわらず舞い続ける。わたしはそのうち疲れてきて、カーテンをぴっちりと閉める。埃は見えなくなり、まやかしにつかの間の安堵を得る。

 世の中にあるいろんな問題。良くないとわかっている。そこにあるとわかっている。ときどき、誰かが強い光を投じてくれて、はっきりそれを見えるようにしてくれる。なんとかしたいと強く思う。

 すぐには何も変えられなくて、そのうちまた見えないふりをする。「わたしなんかよりも、もっと効果的にやってくれるひとがいる」「どうしようもない問題だ」「必要悪なのだ」「自分には、ほかにやるべきことがある」。こういうとき、言い訳はいくらでも考えられる。

 よく照らされて、よく問題が見えて、敏感になっているときは、身の回りにある何を見ても悲しくなる。

 泣いているだれかの顔、働いても働いても苦しい生活から抜けられないでいる女性たち、ケガや病気に苦しむ子どもたち、戦い合う人々、引き裂かれたコミュニティ、先祖代々大切にしてきた土地を破壊される民族、自由を奪われた動物たち、荒れ果てた森、砂漠化する大地、やせていく畑、汚された川や海。

 何を見ても、その背景に浮かんでくる悲しい事実。何を見ても、つらくて悲しくて、知らなかったら楽だっただろうなぁと、またカーテンを閉めてしまいたくなる。何も変えられない自分に憤る。

 それでも、知らないほうがよかったとは思わない。利益のために隠された悲しい事実をもっともっと知っていきたい。わたしの心は光を求め続けている。