20151126

幸せな人が増え、視野が広ってより高いレベルの幸せを考えられる人が増えると、世界は良くなるという仮説

【旧暦神在月十五日 小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)】

尊敬する活動家の田中優さんがよく運動のタテ・ヨコ・ナナメの話をされます。タテは政治、ヨコは市民に広げる活動、ナナメはそれ以外。

私はナナメを考えるのが好きです。

ナナメの方向の一つとして、最近相方と話していて、どっちか(定かではない)が閃いたことがあります。それは、幸せで満ち足りた人を増やすこと。これなら小心者の私でもできると思いました。

「社会問題とかってあんま興味ないんだよね~」ってかっこつける人(私から見るとかっこよくないが)、スピリチュアルボケしちゃっている人、「どうせわかんないしー」って愚かなフリをする人の共通点は、自分の心が満たされていないことです。

自分がハッピーじゃない。思考が自由じゃない。だから、自分のこと、自分の周りの狭い範囲のことで頭と気持ちがいっぱいいっぱいになって、地球の環境や社会のことに目を向ける余裕がないのです。視野が狭すぎる。でも、それでいっぱいいっぱいなのもわかる。自分もかつてはそうでした。こういう人たちは、まずは自分が幸せになる必要があります。

反対に、社会の問題にまっすぐ目を向けて行動をしている人たちは、自分は恵まれているという感覚があるみたいです。自分が幸せでたまたま恵まれた境遇にあるから、たまたま不運な状況にある人たちを少しでも早く楽にするためにできることをしたいと思っているように見えます。

そして、世のため、人のための活動をすることでまた、心の中に活力が生まれる。腹の底から力が湧いてくる。すっごくいきいきしていいオーラが放たれている感じがします。東京時代、宇都宮けんじさんfacebooktwitter)を生で見たことがありますが、まさにそんな感じがしました。

自分が幸せで満ち足りている人は、自分に降り掛かってくる問題に対処する時間が、そうでない人たちよりも少なくて済み、もっと大きな視野で世界の動きと自分のつながりを俯瞰して、考え、行動に移すことができます。環境問題、戦争、政治の状況、低い投票率、貧困、労働問題、ジェンダーの問題、不自然な食べもの―こうした問題は、実際、他人事ではないのです。巡り巡って、自分の生活の不安要素になってしまうからです(これについては環境の面でですが、過去に「エコ=エゴ?」という記事を書いています)。

だから、幸せで満ち足りた人を増やすことができたら、その人たちはきっと、頭と心に余裕ができて、もっと高いレベルでの幸せ、世界全体の幸せを考えるようになって、行動に移せる人も増えていくと思います。

幸せで満ち足りた人を増やすこと。方法はいろいろあると思います。だれかの悩みを聞く、(とくに当たり前のように扱われている人に)感謝をする、ほめる、笑いをおすそ分けする、本来の自分の望みに気づく手助けをする、いいところに気づいて本当の自信をつけてもらう手助けをする、今ある豊かさ、幸せに気づくきっかけをつくる、などなど。孤児院で奉仕活動をしているうちに、自分がすでに持っている幸せに気づけるようになったという人の話も聞きました。そういう機会をつくるのも一つの方法かもしれません。そこから、自分と広い世界との関連を考えられる人たちが増えていったら、世の中はもっともっとよくなる。これもナナメの方向の一つかなと思います。