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20170223

いい人といい仕事をする

私はフリーで翻訳などの仕事をして食べている。フリーで働くなら、どんな仕事をするか、だれと一緒に仕事をするかをよく考えて決めることは本当に大事だと思う。それができるのがフリーのいいところでもある。どこか決まったところに勤務するという働き方だと、自分でそれを決めるのは難しいから。

なんかの拍子で、昔のメールが出てきた。読んでみると、移住直前のメールだった。あーそういえばそうだった、とがっかりしたのを思い出した。

20160907

家事や育児について考えていること(誤解されると困るので…)

ジェンダーについてちょいちょい書いていると、お金を取ってくる仕事を女性がするのがいいことだと私が思っていると誤解されるかも…と思ったので、それについても書いておきたいと思います。

これについては過去にも書いていますが(「ワーキングマザー」「働くママ」にという言葉に感じる違和感)、金銭的な収入にならない仕事、たとえば、家事や子育てなどを、低く見る風潮にも「それってどうよ?」と思っています。

家事や育児しかできない女は低能だとか思っているおかしな人もいますけど、そういうのとは全く違う考えで、私が問題だと思っているのは、社会の固定観念のせいで、本当にしたいことができない、あるいはやりにくいことなのです。

いわゆる「男らしい」と言われている仕事(例:管理職やエンジニア系の仕事など)を女性がやりたいと思った場合に、女性だからという理由で排除されたり、変な目で見られたりすること、また、いわゆる「女らしい」と言われている仕事(例:家事や子育てのほか、看護師、保育士)を男性がやりたいと思った場合に、男だからという理由で、変な目で見られる(排除されることはあんまりないのでは)のはおかしいと思うのです。

いわゆる「主婦業」も、名前からしていかにも女のものって感じですけど、男女どちらでもやりたいほうがやればいいと思うのです。家事は、やりたいほうがって言ったらどっちもやんないかもしれないけど、もし夫婦のどちらも働いているのなら、女の仕事だという感じで押し付けないで、平等に分担するべきだと思います。家事は女の仕事ではありません。一人暮らしで生きていれば男でも女でもどっちでもやるものなのですから。女は男の身の回りの世話をするために存在しているわけではありません。

女性がパートナーの男性の活動を支えたいという気持ちで、家庭の運営を担当するのであれば、それはそれで素晴らしいことだと思います。もちろん、逆も然りです(でも、逆の場合は、風当たりが厳しいみたいで、これっておかしいでしょって思う)。

私の場合は、今は翻訳やリサーチなどの仕事が楽しいし、お金が必要なのでいろいろやっていますが、もし、相方に何かものすごく成し遂げたい偉業があって、それで生計が立つのであれば、私は金銭的収入を得る仕事を一旦休止して、家事に専念するのもアリだと思っています。今のところは、どちらも仕事が楽しいし、家事ができる余裕がどちらにもあるので、分担しながら楽しくやっています(過去記事:我が家の家事分担について。家事は分担よりも共同作業が楽しい。)

料理をつくることは、家族の健康をつくる、お医者さんのような仕事だと思います。おいしいという喜びをつくる仕事でもあります。これが、例えば、シェフやパティシエ、料理研究家、パン職人、うどん職人のような、なにかお金になる仕事でしている人であれば、なんか「すごい!」みたいに見られる風潮がありますけど、家で料理をつくる人は、毎日、家族のために、ありとあらゆる職人になるのですから、本当にすごいと思います。家事をする人は料理のいろんな職人だけではなくて、掃除や洗濯の職人にもなります。

それにどの仕事をとっても、直接的な現金収入にはなっていないかもしれないけど、出て行くお金をかなり減らしています。

料理を外部に全部任せていたら、お弁当なら500円くらい、レストランなら1000円くらいでしょうか。毎食それで過ごしたら、月に45,000~90,000円ほどの出費になります。飲み物を家で作らずにペットボトル頼りでいたら、安売りで80円くらい、小売価格では150円ほどですから、それだけでも1万円前後の出費になります(地球上に人間が快適に生存できる期間も縮めるし)。掃除や洗濯のサービスを誰かに頼んだらどのくらいかかるでしょうか? 

食事についてはそれだけではなく、食事が外食だけだったら、お金がかかるうえに、病気がちになって、医療費もかさむでしょう。肌もボロボロになって化粧品代もかなりかかるようになるかもしれません。気持ちがすさんで、憂さ晴らしに大金が飛んで行くことになるかもしれません。身体によい食べ物を選んで手で作られた食事は、どんな薬にも勝る薬だと思います。古代中国では、薬物で治療する医者が「下医」と呼ばれて最も位が低く、食べ物だけで治す「食医」が最も位が高かったそうです。家族のなかで、健康な身体をつくる食べ物をつくる人は、この「食医」にあたると思います。そのくらい、尊い仕事だと私は思っています。

私は繕い物が好きで、相方の靴下やズボンを直したりしていますが、それでもかなり出費が押さえられています。繕い物は、使えるものが一から作るより早くできるので達成感を味わえるのが早いのと、「捨てられるの?ぼく、もう捨てられちゃうの?」と思っていそうな物たちが、別な顔になってまた活躍してくれるのがうれしいのです。

先日、仕事がしばらく空いて、縫い物ばかりしていたときに、

tom-tom: 「あー、今日はなんもお金になることせんかったー」
相方:(手縫いで作ったズボンを指して)「それ、作ったやん」
tom-tom: 「たしかに、これ、買ったら1万円近くするよね。リネン100%だし」
相方:「1万できかんで! 3万円はするでー。手縫いやで。オーガニックコットンの縫い糸やし。あの展示会(早川ユミさんの展示会のこと)でも手縫いやったら5万ほどしたやろ」

…という話になりました。5万ほどしたかどうかは定かではなく、作家として長年経験を積まれている早川ユミさんと同じ値段では失礼にあたると思いますが、手で縫って1着作ろうと思ったら、時給換算すると3万円というのは確かに、妥当かもしれません。

現金収入を持ってくる人がエライと言うのなら、出て行くお金を抑えることで富を増やしている人も同じくらいエライと思います。

お金だけではなくて、一緒にいて支えてくれたり、いつも安心して帰ることのできる空間をつくってくれていたり、おいしいという喜びを創造してくれたり、こどもが素晴らしい人間に育つのを助けたり、…ほかにもたくさんありますが、こういうことは、お金でははかることのできない価値を生む仕事だと思います。だから、私は家事や育児を低く見ているなんていうことは決してありません。

ただ、それが女性だけに押し付けられていて、男性がそれをするのは特別とみなされ、女性がするのが当然と思われていて、女性は社会のことを全く考えなくてもいい、女性はおバカでかわいらしくいてくれ、みたいな古くさい風潮がまだ残っているのが嫌だなぁと思っているだけです。

それに、家事をどっちがするかとか、どのくらい分担するかとか、ライフステージで入れ替わったっていいと思うんです。例えば、男性が会社務めをしていて、女性が家事を切り盛りしてきた家庭で、男性が「少し、世間から離れて自分を見つめ直したい」と思ったとしたら、女性が働きに出て、男性が家事をするようになっても、全然普通のこととみなされるような社会になってほしいと思うのです。

今はそれが許されないような圧力があって、男性もたいへんだと思います。男性は自分のことを深く何も考えずに、立身出世のレースに臨むためのレールに乗って、大人になってからはずっと会社人間でやってきて、金と地位と名声ばっかり追い求めて、自分の人間性を見失ったり、そういう人もいると思います。男女平等が本当に普通になったら、変な男のプライドもいらなくなります。男性だって生きやすくなるんじゃないでしょうか。

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20160903

言葉のレッスン

他人からの心ない評価など気にしない、と思っても、やっぱり言われると気になるもので、ここのところ、文章術の本がやけに気になっている自分がいます。

文章術、美しい日本語、悪文、名文など、そういう文章についての本を読んで勉強しようかと思い、大きめの書店に行ってパラパラといくつか見てみました。いくつか眺めてみたのですが、買って読み進めるきにならない。

なんでかというと、やっぱり、伝えたい中身がないからなんですよね。文章は、いくら美辞麗句が並んていたところで、伝えたい中身と、伝えたい想いがなかったら、それはきらびやかな外箱でしかない。

文章術や言葉についての本に興味が持てなかったことで、私が書きたいのは、きっと、文章として「うまい!」とか、文章として「すごい!」とか言われる文章ではないということがはっきりしました。

私が心を惹かれる文章は、多少まどろっこしくたって、多少間違っていたって、伝えたい想いがあって、伝えたい中身があって、その中身が素晴らしい文章なのです。それから、自分を大きく見せようというのでも、卑下するのでもない、ありのままの自分を肯定している人が書いた文章です。ただし、ありのままが下品な人の文章は好きではなく、人間としての向上心がある人でなければなりません。

プロの文章でもげんなりするようなものもあるし、一般の人の投書や友人からの手紙にも心が動かされるような文もあります。だから、こういう、文筆家や言葉の専門家が集めた美文の本を読んでも、私の言葉のレッスンにはあまり役立たないと思いました。

それでも、文章を磨くことは何かやっていきたいな、と思っていて、思いついたのが、この文章が好きだなあと思った文章を、ノートに書き留めていくことです。好きな文がたくさん詰まったノートができるのは、考えるだけでもわくわくします。楽しい方法で、文章を磨いていきたいと思います。

ちなみに、私が文章を学ぶうえでとても参考になった本が一冊だけあります。『日本語の作文技術(本多勝一・著)』という本です。句読点の打ち方から、形容詞の並べる順番まで、わかりやすく読みやすい文章を書くルールがまとまっています。

20160829

続・「言葉は文化だ」

先日、尊敬する通訳者が過去に述べた「言葉は文化だ」という言葉から考えたことを書き、brotherとsisterを日本語に訳すときに困るという話を実例として取り上げましたが、少し前に訳した原稿にhalf-brotherという言葉が出てきて困りました。

half-brotherとは、片親が違う兄または弟のことを指します。日本語に訳す場合、一般的に使われる言葉は異父兄(弟)か異母兄(弟)で、年齡が上か下かに加えて、父親と母親のどちらが違うのかが確定しなければ、訳語が定まりません。日本ではそれが普通だというのはわかるのですが、half-brotherという言葉を見て、プライバシーの意識が欧米のほうが高いと感じました。

歴史上わりと有名な人物のhalf-brotherだったので、調べれば当然、母が違うのか、父が違うのかはどこかに出てきます。しかし、英語のプライバシーの意識、そして、著者があえてそれを明示しなかったという意図を考えると、調べ上げて、どちらが違うのかを明らかにする訳にすることは、本来すべきではないと思いました。当人の人物像だけがわかれば十分であって、両親のどちらが別の相手と一緒になったのかを探るのは下世話で野暮なことです。

そこで、片親が違う兄(どちらが年上だったのかは調べました。さすがに「兄(または弟)」とはできず…)と訳したところ、案の定、異父か異母かを明らかにした言葉に校正されて戻ってきました。しかも、一番使いたくない「腹違いの」になっていて、ものすごく悲しかったです。原文はhalf-brotherというさっぱりした表現なのに、わざわざこんな生々しい日本語を当てたくはありませんでした。

私の感覚では、「腹違い」なんていう言葉は生々しいだけでなく、ある政治家がかつて女性を生む機械とだと言って非難を浴びましたが、そういう生命を育むことに対する畏敬の念が感じられないセリフを彷彿とさせ、女性を何だと思っているんだろう?と思うくらい思慮に欠けた言葉だと思います。ちなみに、父親が違う場合はなんと言うかというと、「種違い」というそうです。こなれた訳だとか、うまい日本語だと思う人も多いようですが、私からすれば、本能だけで生きている生物かなにかに使うような言葉で、高度な人間性を軽視した下品な言葉でしかありません。

先方は「腹違いの」が読み物として力のある表現だと思われている感じで、私の表現だと「健全すぎて眠気を催す」ということでしたが(これ以外の表現についても言っているようだったが、これも含まれると思われる発言だった)、それでも、どうしてもこの言葉は使いたくなかった。しかも、訳者として名前が出る原稿だったので、私がこんな言葉を使ったことになってどこかに残るなんていうのは人生の汚点と言えるくらい嫌でした。父母のどっちが違うかなんて、そこまで下世話に勘ぐらなくてもいい文化もあるということを知ってもらいたいという思いもありました。

こういう表現が「うまい表現」と思われるくらい、日本の文化は遅れているということなのでしょうか? 英語では単にhalf-brotherで済むのに、日本語では、父と母のどちらが違うのかまで探らなければいけないのでしょうか。ニュース記事を検索してみたら「片親違いの」という表現が使われるようになっていたので(そういう意識を持った翻訳者さんたちもいるとわかってうれしかった)、「ニュースでも使われているので」とお願いして、「腹違いの」は「片親違いの」に直してもらいました。

他にも、議論になった訳語があり、「◯◯の雄(ゆう)」という表現に変えられていた箇所がありました。「~の雄(ゆう)」は、二つのうち大きくて勢いの良いほう、特に優れていることやその人物という意味で、「◯◯の雄」は、◯◯について優れた人物という意味になりますが、雄(オス)と雌(メス)ではオスのほうが優れているという観念が根底に感じられる言葉です。「地方創生の雄として注目されている」「書きおろし時代小説の雄」など、新聞や雑誌などでも粋な表現として使われるようです。

先方は、ウィキペディアによればこの人物はブイブイ言わせていたみたいだから「雄(ゆう)」のほうがいい、という意見でしたが、原文自体はそのような男女差別のニュアンスのない言葉だったので、わざわざそんな「オスとメスではオスのほうが優れている」というニオイのついた言葉にしなくても…と思い、よりニュートラルな第三案に変えてもらいました。

「言葉狩りだ」と非難されたり、「英雄の雄までダメとでも言うのか?」(英雄の雄は単なる男という意味でしかなく、雄のほうが優れているというニュアンスはないのであてはまらない例だと思う)というようなことも言われたりするくらい、かなりうるさがられはしましたが、呼吸をするように男女差別が行われている日本においては特に、ジェンダー差別や固定観念のある言葉は、私が扱うものからは極力なくしていきたいのです。原文がそういう言葉なら仕方ないのですが、この場合は、原文にはそういう男女差別のニュアンスがなかったわけですから、わざわざないところに男女差別のある日本語を持ち込まなくてもと思います。

しゃれた表現だとか、おおっと思われるような表現だ、とされる日本語は、ジェンダー意識や倫理観に欠けるものも多いのが残念です。戦争で使われていたような言葉が語源になっているものもあります。言葉を扱う者として、その言葉が背景に持つものや彷彿とさせるもの、根底にある観念などには、常に敏感でありたいと思います。

言葉は文化の反映であり、言葉が変わることで、個人の自由意志を妨げたり、人間性を低下させたりするような慣習が解消されていくということもあると思っています。言葉にはそういう力があると思います。どういう世界をつくっていくことを望むのか、それに応じた言葉を意識して使っていきたいです。もちろん、翻訳の場合は、原文から離れてはいけないので、その制約の枠内でということにはなりますが。

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20160826

難解な言葉を使うと賢く見える?

私は平易な言葉を使うので、私のことをバカだと思う人もいるようです。まぁ、それでもいいのです。他人がどう思おうと、それはその人の自由ですから…。

何かを訳したり、書いたりするときは、「伝える」ということが私にとって最も大事な目的です。自分の使う語彙レベルの高さを見せしめることは目的のリストには入っていません。だから、だいたいみんなが辞書を使わなくてもわかるような簡単な言葉を書くようにしています。だって、辞書と首っ引きで読まなきゃいけない文章なんて、なかなか読む気にならないではないですか。読んでさえもらえないなら、伝えるという目的が果たせません。読んでもらえたとしても、辞書を使って意味を理解してくれなかったら、内容の一割も伝わらないかもしれません。

たとえば、次の文章はどうでしょうか。


1. その側近は躊躇した挙句、総理に誤謬を正すよう諫言したが、総理は渋面をつくって彼に罵詈雑言を浴びせた。


読めますか? 私は「誤謬(ごびゅう)」「諫言(かんげん)」「渋面(じゅうめん/しぶづら)」が読めず、「躊躇(ちゅうちょ)」はたぶん書けません。「罵詈雑言(ばりぞうごん)」はちょっと読み方があやふやで、念のため辞書を引きました。読めなくて書けない言葉というのは、馴染みが薄いので、なんとなくこんな感じかな?くらいの理解に終わってしまいがちです。腑に落ちて理解できた感じがしません。中国語を読んで、なんとなく漢字から意味を推測しているのに近いかも。

最近読んだ本に出てきたのが、こんな感じの訳文でした(訳者さんが特定されることは望まないので、引用は避けて、似た文章を作っています)。1ページのうちに何度も何度も辞書を引かないとわからない語がゴロゴロ出てくる。今、バーニー・サンダースさんの自伝を原文で読んでいるのですが、こちらよりもその訳書のほうが辞書を引く回数がはるかに多かったです。英和辞典よりも国語辞典を引くほうが多いっていう状況は、ちょっと初めてかもしれません。たぶん私は世間の平均(*)よりも多く本を読んでいると思うのですが、そういう私でもわからない言葉がたくさん出てくるので、世間一般では読み通せる人がどのくらいいるのだろうか?と心配になりました(重要な内容の本だったので)。

*文化庁の調査によると、月に1冊も本を読まない人が約半数の47.5%。

私は内容にも言葉にも興味があるので辞書を引きながら読みましたが、辞書を引かないで読んだらほとんど表面的にしか理解できないのではないかと思いました。ちなみに、その訳文が出てきた本というのは、英語で書いている著者が一人で、複数の翻訳家が共同で訳したものだったのですが、他の訳者さんが担当した章はこんなに辞書を引かなくても読めたので、たぶん、原文が特別に難しい語で書かれているというわけではないと思います。

この訳文に出会ったときはちょうど、仕事で訳した文章について、日本語のレベルが低いというようなことを言われたばかりだったので、「あー、こういう文章だったら、すごいって思ってもらえたんだろうなぁ!」と思ったのでした。(原文が平易な英語で、日本語も原文の持ち味を生かしたかったので、平易に合わせただけだったのですが、相手は私と目標が違っていたみたいです)

ただ、私も仕事でこういう批評をされたばかりだったので、こういう難しい言葉がごろごろした訳文を書いた訳者さんにも、事情があったんだろうなぁ、と思いました。難解な語を連発して自分の語彙レベルが高いことを見せつけないと、編集サイドで好き勝手に変えられたり、足元を見られたりといった不具合があるのだろうということは、十分に想像できるからです。中身ではなく、表面的なことでしか、文章のよしあしがわからない人が、残念ながらプロの現場にもいるので、お金と地位と名声を得ていくためにはやむを得ないのかもしれません。

それでもやっぱり、私は1のような文章はあまり好きではありません。好みの問題だとは思いますが…。自分の語彙レベルの高さを自慢するよりも、伝わりやすい表現を選びたいからです。1のような文章は、次のように書き換えても、十分に伝わると思います。


2. その側近はためらった末、総理に誤りを訂正するように忠言したが、総理は不機嫌な表情になって彼にさんざんな悪口を言った。


もちろん、難しい表現がしっくり来る場面もありますし、その言葉でないと言い表せないということもあるので、そういうときは私も難しい言葉を使います。ですが、ゴロゴロとオンパレードのように並んでいるのは、「こんな難しい言葉をこんなにたくさん使いこなせる私ってすごいでしょ?」という自尊心は埋めることができるのかもしれませんが、伝えるという目的を果たすうえでは逆効果だと思います。私も初めて知った言葉は使ってみたくなったりもしますが…。

訳す場合は、原文の語彙レベルに合わせるので、難しい言葉も使うことがあります。でも、慣用句や日本語独特の言いまわしは、とってつけたようで浮きやすいので、慎重に何度も読み返して、浮いていないか確認します。

特に、文化的な背景を調べると、海外の文章にはそぐわないものもあるので、言葉の背後にあるものも配慮したうえで言葉を選んでいます。例えば、欧米人が "I want to die at home."と言ったとして、そのセリフを「畳の上で死にたい」と訳したら変な感じがしますよね。「皮切りに」という表現も翻訳の文章でよく見かけるのですが(便利なのでついつい私も使ってしまう)、もともとは最初に据えるお灸という意味なので、あまり大きな出来事でないものに使うのは仰々しい感じがしますし、海外の文脈で使うにはなんだか違和感があります。

知性のある人の文章に触れていると、やっぱり、文章の語彙レベルで内容の知性の高さは測れないというのがよくわかります。知性のある人ほど、そういうゴテゴテした言葉は使わないのです。

憲法学者の樋口陽一さんは、話すときも語彙レベルが高い言葉を使われるのですが、全く嫌味な感じがなくて、板についているというか、その言葉は本当に樋口さんのものになっていて、ひけらかす目的ではなく、その言葉が口をついて出ている感じで、樋口さんの品性を伴いながら、伝えたい内容を適確に表しています。

孫崎享さんの『戦後史の正体』は、辞書を引かなくてもわかる言葉ばかりで書かれていますが、内容が理路整然としていて、何が起こったのか、事実がわかりやすく説明されています。

英語でもバーニー・サンダースさんの自伝は本当に平易な言葉で書かれているのですが、知性と愛と感謝に溢れています。週刊STでエッセイを書いているKip Katesさんの文章も平易な英語でウィットに富んだ文章で、大学生のときからずっとお手本にしています。

何を優先するかは人それぞれですが、私はバカだと思われても、なるべく多くの人に伝わりやすい言葉を使っていきたいと思っています。バカだと思われると仕事で不都合のある人は、伝わりやすさよりも難解な語を使いまくって能力の高さをアピールするほうを優先するのも作戦だとは思います。

でも、私の場合はそうなのですが、自分の文章を貫いていたら、よさをわかってくれる人が繰り返しお仕事をくださったりします。そういう人は希少で、生活の不安が起こることもまあ、あるにはあるのですが、表面的にしか物事を判断できずにバカにしてくる仕事の相手がたくさんいても、ちっとも楽しくないし、疲弊するだけです。長期的に見れば、そういう本質で物事を判断できる仕事の仲間が徐々に増えていくと思うので、最初はちょっと大変でも、伝えるということを最優先事項として、自分が納得できる仕事を重ねていきたいと思っています。

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20160824

アラ探しをしているチームと、サポーティブなチーム、どちらが能力を最大限に発揮できるでしょうか?

常にアラ探しをしているチームと、自由にのびのびやらせてくれながらもサポーティブなチーム。チームのメンバーの能力が最大限に発揮されるのはどちらでしょうか?

昨日は翻訳の仕事で、翻訳者の悪口を言ったり、誤りを見つけて鬼の首を取ったような態度をとったりする発注者の話を少し書きましたが、そもそも、好き好んでミスする人なんていないと思います。

手を抜いていたとか、不真面目にやったとか、嘘八百を並べたとか、そういうことなら責められても仕方がないし、厳しく指摘して改善してもらうのが相手のためだと思います。でも、精一杯やって、それでも間違ってしまったものを、「それ見たことか!」と攻撃の材料にするなんていうのは最低だと思います。

人間は不完全な生き物です。そこをサポートしあうのがチームの役割。翻訳者一人でノーチェックで完璧なものができるんだったら、チェッカーも校正者もいりません。人間は完璧ではないから、どんなに気をつけていても、間違ったり、勘違いしたりすることがあるから、複数の目を通すわけです。立場を入れ替えてみれば、誰だってそのくらいはあるのではないかと思われるようなミスで、職能や人格までこき下ろすような攻撃をするのは、本当に最低だと思う。

このご時世、コンテンツを電子書籍にして読者に直接売ることもできるようになっていますから、状況としては著者と訳者と読者さえいれば、翻訳の本を販売するということは成り立ちます。こんな態度でいるのであれば、チェッカーも校正者も編集者も不要なわけです。現状は、正規の出版ルートを通さなければ、多くの人に届けることが難しいため、嫌な思いも我慢している人がほとんど。だから、こんな傲慢な人たちにも仕事がある。

電子書籍って言ったって、著作権や版権絡みでエージェンシーがどうたらこうたらという反論もあるでしょうが、著者が従来のルートを通さずに電子書籍でバンバンおもしろいものを出すようになったらどうでしょうか? 編集者が変な赤入れをしまくって、自分の言葉ではなくなってしまうし、印税が少なすぎる(だいたい10%)から、もう出版社からは出さないと宣言している著者も見かけるようになりました。やがてそれが一般化するようになれば、翻訳者が著者と交渉して、あるいは逆に、著者が翻訳者に直接依頼をして翻訳版を出すということも、可能になってくるでしょう。

そうなれば、編集者も、チェッカーも、校正者も、コーディネーターも、本当に感謝されるような役割を果たしていない限り、その仕事は不要になります。ミスを見つけて攻撃したり(というか、私がチェックの仕事をするときは、ミスを見つけるのが仕事だと思っている。あって当たり前で、なかったら私の仕事なんか無用だと思う…)、傲慢な赤入れをしたり、発注者だけに都合がよいスケジュールで翻弄したり、人をバカにしたり、そんな態度でいたら、むしろ足を引っ張るだけだと思います。

常にアラ探しをしているような相手と仕事をする場合、間違わないように、間違わないように、ということに気持ちが行き過ぎて、おもしろいもの、美しいもの、人々に喜びを与えるもの、いいものをつくりあげていく、ということに、力を注ぐことが難しくなります。

たとえば、スキーのジャンプや、水泳の飛び込みなどで、
「あんたなんかどうせ上手に飛べないわよ。今に失敗するから、ふん、見ててやる。失敗したら思いっきりこき下ろしてやるんだから」
と思って見ている人たちがそばにいて、上手に飛べる人っているのでしょうか?

「大丈夫、きっと飛べる。もし、失敗しても、ぼくたちが助けるから、心配しないで飛んでみて」
と思って見守ってくれる人がそばにいたほうが、成功する確率が高まるのではないでしょうか?

チームの役割とはそういうものだと思います。ミスがあったらフォローして、つらいときには支えになり、悩みがあったら相談にのり、体調がわるいときには十分に休めるように代わってあげたり、自信をなくしていたら励ましたり、改善すべき点があったら思いやりをもって提案したり、それがチームというものだと思います。

クリティカルヒットの機会を虎視眈々とうかがって、仲間のミスを探すなんていうのは、チームのやることではなく、敵のやることでしょう。それをして、チームにとって、どんないいことがあるというのでしょうか? 品質は下がるし、士気も下がるし、やっていてちっとも楽しくもない。

いいことが一つだけあるとすれば、それは、虎視眈々と狙っているその人のプライドが満たされるということだけです。「私のおかげでいい仕上がりになったのだ」「あいつは私よりできない」「ぎゃふんと言わせてやってすっきりした」、そんな浅はかな喜びは長続きしないでしょう。結局、この人の能力がそれほど高くないことには変わりはないのですから。

幸い、よくできる人と仕事をする機会に恵まれていて、そういう人たちとは本当にいい仕事ができます。ミスをしても、ミスについてのみ客観的な事実として指摘してくれるので、素直に受け入れられるし、次から気をつけられる。相手もミスをすることがあるけど、素直に認めてくれて、次に活かしてくれる(ミスを素直に認めるというのは本当に知性に自信のある人でなければできないことだというのも学んだ)。

リスペクトと感謝に基づいて、コミュニケーションをとり、仕事をつくりあげていけるというのは、本当に幸せなことだと思います。厳しいことを言うときも、普段からしっかりとした関係を築いているということもあって、相手のことを思ってのことだというのが自ずとわかります。そういう人たちと仕事をすると、「ああ、いい仕事ができたなぁ!」と思うことばかりですが、そういうとき「いい仕事をしたなぁ!」という達成感があるだけでなく、それを使う人たちにも喜んでもらえます。自分の能力も、人間性も、チームのメンバーのよいところに感銘を受けながら、自然と高めていけます。

針のむしろのようなところで精神を鍛えたいという人もいるかもしれませんが、私はやっぱり、人間性も能力も高い人たちと、サポーティブなチームのなかで仕事がしたいです。

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20160211

人間はモノじゃない

【旧暦睦月四日 立春 次候 黄鶯睍睆(うぐいすがなく)】

「フリーランスの仕事探しに良いよ!」と噂のLancers(ランサーズ)
を覗いてみて、びっくりしました。
価格コムで電化製品が並んでいるみたいに、
横に☆マークで評価がついた人間が並んでいる・・・

人間がモノみたいに扱われていてすごく悲しくなりました。
男性の写真の上に「俺のスペック需要ある?」というコピーが載った
結婚相談所のバナー広告にも辟易とします。

人間はモノじゃない。

20160205

女性の話し言葉を「オンナことば」を使わずに訳す

【旧暦師走廿七日 立春 初候 東風解凍(はるかぜこおりをとく)】

先日、会話を訳す機会があり、女性の話し言葉の訳で苦労しました。最終的な納品先の業種上から判断して、たぶん、訳を見ただけで女性だとわかるようにしてほしい(「~するわ」みたいな、映画の字幕っぽい訳にしてほしい)のだと思われましたが、でも、今時、「~だわ」「~なの」「~のよ」「~かしら」なんて、古めかしい女性言葉を使う女の人はいない。昔もたぶんそんな女性はいなかった。

この論文によると、この女言葉には明治政府によるこういう押し付けがあったようです。

20160124

statesmanとpoliticianの違い

【旧暦師走十五日 大寒 初候 款冬華(ふきのはながさく)】

たまには翻訳者(※)らしく、英語のお話も書いてみようと思います。

今、ある英語学習書の訳と注釈を書いています。

英文に"statesman"という単語が出てきました。
辞書を引くと「政治家」と出てくるのですが、
"politician"とはどう違うのか、注釈を書いておきたいな、と思いました。

英英辞典を引いて比べてみると、

20151118

ノマドか、エグゼクティブか

【旧暦神在月七日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせん}がさく)】

ノマド的な働き方とか、二地域居住とか、個人の自由を謳歌する働き方にも憧れる一方で、大企業や大きな組織で何かを大きく動かして社会に大きく貢献するような働き方にも憧れる。その辺、どうなんだろう?というような感じの質問をされたことがあります。

結論から言うと、どっちもやってみたらいいと思う。それで、合うほうを選んだらいい。こればっかりはやってみないことにはわからない・・・と言ってしまうと、ちょっと突き放しすぎな気がするので、今まで見聞きした範囲から私が考えていることを書きたいと思います。

私自身は、個人の自由を謳歌する働き方が働き始めてからのほとんどを占めていますが、大きな組織を垣間見る機会もありました。「社会貢献」をしたい、と思ったときに、どっちにも、やりやすいこととやりにくいことがあると思っています。やりやすいことを最大限発揮できて、やりにくいことはやりやすく変えていけるほうを選んだらいいと思います。

たとえば、大きな組織になると、個人として感じていることと、組織の一員としてしなければならないこととの間に大きな隔たりがあることもあるようです。私が2カ月だけいた中規模の会社でもそうでした。

そのジレンマを、組織の下層にいる間は我慢して、上層に上がってから変えていこうと思って耐えているうちに、だんだん個人の感覚が麻痺してきたり、上に上がるときにいろんなしがらみができたり、どんどんものが言えなくなって、結局、丸くなって終わる、という体験談も聞きました。

他方で、内側から変えていく勇気と粘り強さ、交渉力、推進力を持って、諦めることなく、組織のなかでいいことを広げている人の話も聞いたことがあります。組織と一口にいってもいろいろあって、自分にとってそういうことがしやすい組織だったら、組織で内側からいいことを広げていくのもやりがいのあることだと思います。

個人の自由を謳歌する働き方で、「社会貢献」に関して、だいぶやりやすいなと思うことは、
・やってはいけないことをしなくていい
・やってはいけないことに加担しなくていい
・やったほうがいいことをすぐに実行できる
・時間に余裕があるから、環境と社会のことをよく調べて考える時間がある
・よく調べて考えて買い物をしたり、意見を伝えたりすることで外側から働きかけができる時間がある
・いいことをしている人たちと網の目のようにつながって一緒に何かを始めることができる
あたりでしょうか。個人の決定権が大きいというのが一番の決め手だと思います。

たとえば、コピー用紙ひとつをとっても、パートタイムで行っていた会社では住民を焼き討ちにして追い出してまで熱帯雨林を破壊して作られた紙を使っていて、それを変えることは私にはできませんでしたが、個人で使う紙だったらすぐに変更することができます。家で使う紙は、びわ湖の森の間伐材と再生紙を使った「びわ湖の森の木になる紙」か、FSC森林認証紙にしていて、会社よりはわずかかもしれないけれど、少しでも、熱帯雨林の破壊を少なくできて、日本の森を再生するお手伝いができています。

やりにくいことは、やっぱり大金が必要なプロジェクトとかでしょうか。でも、そこの部分は長期的な目で見て、少しずつコツコツ幅広くいいことを積み重ねていって、じわじわと社会にいいことを広げていくやり方で補えるんじゃないかなぁとも思っています。

そして、そもそも、「社会貢献」ってなんなんだろうか?という、自分なりの定義や条件をしっかり持っておく必要があると思います。その定義や条件は、つねにアンテナを高くして、つねにアップデートしていかなければならないものです。そうしないと、「社会貢献をしている!」と思っていたのに、実際には、戦争に加担していたり、環境汚染や環境破壊につながっていたり、自由を妨げていたり、不公正や貧困を助長していたり、格差や差別を広げていたり、ということが往々にしてあるからです。

わかりやすい例として、原発はクリーンな未来のエネルギーだと言われていました。温室効果ガスの排出がないからというのが根拠です。これを鵜呑みにしている人にとっては、原発産業の推進は彼らにとっての「社会貢献」になります。

でも、稼働中も放射能を出し続け、ウランを掘る労働者には採掘中に大量の放射線を被ばくさせ、現場でも被曝労働者の犠牲なしに稼働することができず、周辺の海域の海水温を上げて生態系に悪影響を与え、大量に出る使用済み核燃料を安全に処理する技術がないために十万年以上も管理し続けなければならず、核爆弾をいつでも作れる状態をつくっている。これを知っている人たちにとっては、原発産業の推進は、「社会貢献」どころか、環境破壊と人権侵害以外のなにものでもありません。(原発のことを勉強するようになったころのことはこちらに書いています→「20130413脱原発を願うようになった経緯」)

こうしたケースが、さまざまな分野において見受けられます。だから、「社会貢献」をするうえでは、何をもって社会貢献とするのかを判断する、たしかな目と、自分なりの定義が不可欠です。

ノマド的な人たちはもしかしたら、世捨て人的な感じに思われるのかもしれません。でも私の知っているノマドワーカーたちは、ものすごく優秀で、その能力を十分に活かして社会貢献をしています。私自身も、暮らしが豊かだから、仕事もいい仕事ができているように思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、私の仕事は感性と思考力の両方が求められるので、心身の健康によって仕事にも多少なりとも変化が出ます。

自然系の人たちのなかには、世捨て人のような暮らしをしている人もいますが、二刀流の人もいて、私は後者です。世間に背を向けているわけではなくて、世間の支配的な動きに振り回されないように、徐々にシステム依存を減らして自分の自由度を高めている一方で、それがまだできない大多数の人たちが困らないように、見識を磨いたり、意見を発表したり、署名をしたり、お金や時間の使い方で意思表明をしたり、できないをできるに変えられるように情報や知恵を共有したりと、できる限りのことをするように努めていて、まわりでもそういう人が多いように感じています。

まずは、そもそも社会貢献ってなんだろう?ということをよく調べて考えてみて、そのうえで、自分は世の中に何ができるだろう?、何はしたくないんだろう?と考えてみるのはどうでしょうか。そうして、それらを実現するために、ぴったりのスタイルをいろいろ試してみて見つけていったら、いいんじゃないかなぁと思います。

20130415

「複」業という選択肢

「副」業の誤変換ではなくて、「複」業です。

最近、「なにしてる人?」ときかれても、「あれと、これと…、それから、 あれもやってて、あ、あとこんなこともしてて、それと…」のように、ひと言では表せない人が増えているように感じています。

身近でも複数の活動を生業(なりわい)にしているおもしろい人によく出会います。みんなどの活動も楽しんでいて、どれもやりたいことで、しかも、どれもだれかに喜ばれていて、感謝されていて、働いている時間も楽しんでいるように見えます。

カフェやレストランやバーも、少し前なら、飲食だけの場所だったように思いますが、最近では、お祭りの会場になってみたり、マルシェが開かれたり、はたまたライブハウスに変身したり、ワークショップがいっぱいある学校になってみたり、雑貨屋さんがいつもあったり、ヨガスタジオになってみたり、、、とひと言ではとても言い表せないお店を多く見かけるようになりました。

やりたいことはぜんぶやる!
それが「複」業を楽しんでいる人たちに感じられる気概です。
私もそんなふうになりたいなーと憧れています。

生業にする、と言っても、お金をもらう仕事には限りません。生きていくために必要なものを得ることにつながる活動もあります。

農家のお手伝いをしてお金の代わりに収穫の一部をもらったり、自給する術を身につけたり。手仕事のお手伝いをして夕飯をごちそうになる、というお話もきいたことがあります。

体験をセンスの糧にしたり、技術を身につけたり、縁を育んだり。こうしたことも生きていくために必要なことだと思います。

田中優さんが著書などでおっしゃっていた「生活の百姓になれ」という言葉が大きなヒントをくれました。これは、生活のなかで百の(=たくさんの)活動をして、お金に頼らない部分を増やしましょう、という提案です。

さきほどはお金以外の「収入」を得る例を挙げましたが、自分で自給できる範囲を増やすことは支出を減らすことにつながります。支出が減れば、手元に残るお金は増えます。そうすれば、お金で得なければならない収入は減らせます。

たとえば、ちょっとせせこましい計算になりますが、平日の昼と夜を外食で済ませていて、一食あたり1000円くらい使うとしたら、1000円✕2✕20日=40000円。

知り合いの農家さんから直接送ってもらっているお米と野菜で自炊する場合、うちの場合は一食あたりがだいたい300円なので、300円✕2✕20日=12000円。40000-12000=28000円稼いだのと同じになります。(と、考えてくると「主夫」や「主婦」と呼ばれる人々、めちゃめちゃ稼いでますね。洗濯とか掃除とか、全部他人任せにしたらいくらかかるんでしょう。。)

もしも、米と野菜の自給率が100%だとしたら、40000円稼いだのと同じになります。

私は週2回、会社に行くときはお弁当を詰めていきます。朝30分だけ早起きして、お弁当屋さんになります。外で食べたら1000円くらいかかるので、経費を引いて、700円分働いたぞー!と考えると、早起きもいいものです。(そしてなにより、自分でつくったほうが楽しいですし、妥協抜きで好きなものが食べられます。)

火がおこせて、薪もつくれたら、あるいは、生ゴミをバイオガスとして利用できれば、ガス代だってなくていい。電気も自給できたら、電気代もいらない(料理の薪を利用する小型火力発電ってできないんだろうか?)。

省エネで削減した分の電力を発電したものとみなす「ネガワット発電」と同じ発想で、節約した分のお金を稼いだものとみなせば、それも立派な生業(なりわい)ではないでしょうか。

また、食べられなくなるリスクを分散できることも「複業」のいいところだと思います。

*ちなみにこの「複業」という言葉、たぶん私のオリジナルではないと思います。何かで読んで記憶に残っていたのだと思うのですが、すみません、思い出せません。。。

■参考になる書籍
「半農半Xの種を播く」
「地宝論 -地球を救う地域の知恵」
「減速して自由に生きる ──ダウンシフターズ (ちくま文庫)」

20120827

「モノに使われるな」

「モノに使われるな」
幼い頃、よく両親に言われた言葉である。

食事のときに、背筋を伸ばした状態でお茶碗を口のそばまで持ち上げるのではなく、背中を丸めてお茶碗に口を近づけたりすると、よくこの言葉で叱られた。

お金もモノのひとつだが、「お金に使われる」、言い換えれば、「お金に働かされる」ことはなるべく避けたいと思っている。嫌なことでもやって、自分や家族を犠牲にして、遠くにいるだれかや自然を傷つけて、それでもお金のために働かなければならない、そういう状態は避けたいと願う。

お金のために働く。嫌なことでも我慢して、たまったストレス解消に、高い買い物や食事、旅行、ゲームや音楽やマンガで現実を紛らわす。朝から夜遅くまで働いて、身体を少しでも休めるために、会社の近くの、たいがいは都心の騒々しくて家賃の高いマンションに住み、外食や出来合いの料理で食費はかさみ、不摂生がたたって体調がいつも優れず、それでも会社に行かないといけないからと高いサプリメントを飲んだりする。そしてますます、お金が必要になって、嫌なことも我慢して働かざるをえないループから抜け出せなくなる。人生をまともに考える時間も気力もない。ただ毎日をこなしていくだけだ。お金を得るために。

そんなこともあるだろう。お金は人間が生きていくために使うモノのはずなのに、お金に使われ続けてしまう。こんな人生は送りたくないと思う。わたしはお金の主人でありたい。

使わなければならないお金をだんだん減らしていくために、モノを大切に使い、生活に必要なものを自分で生み出す力をつけていきたい。そして、やりたいこと、必要だと思うこと、能力が必要とされていることをやっていって、対価をもらえたなら、そのお金を、たとえわずかでも、だれもが安心して笑って暮らすことのできる世界を創る一助として使っていけたらいいなと思う。

20120714

わたしの仕事

「お仕事は?」という質問に「翻訳など」と答えていたら、「わたし=英語の人」という印象が強くなっていた。翻訳も非常にやりがいを感じる仕事のひとつではあるものの、まだいろんなことに挑戦してみたい気持ちも強く、自分の可能性が固定されてしまうような気がする。以前は翻訳が多かったが、今は編集やリサーチや執筆が主な割合を占めて、そのときどきで割合を増やす。今後もどうなっているかわからない。

わたしの活動にどんなものがあるかと考えてみた。英語を学ぶ手伝いをする、英語を日本語に翻訳する、調べ物をする、校正をする、文章を書く、絵を描く、うたを歌う、畑仕事をする、家事をする、雑貨を作る。そのなかでたまたまお金が発生しているものと、そうでないものとがある。 お金ではなくても、生きていくために、生活をよくするために、必要なものを生んでいる仕事もある。大切なだれかを支えるための仕事もある。同じ活動でも、お金が発生することで自由を失うこともある。仕事とは、お金が発生しているかどうかで決まるものではなく、どれも隔たりなくわたしの生活を彩っている。

こうして挙げてみた活動がどのように発生しているかを考えてみた。発生したのが自分の内側からか外側からかという軸を縦に、「やりたい」という希望からか「やらなければ」という必要からかという軸を横にして、さまざまな活動を並べてみるとおもしろい。それぞれの判断項目はくっきりと分かれるものではなく、いつのまにか移行している場合もある。今後、どうなっていきたいかがはっきりとしてくる。お金が発生している仕事は、どちらかと言えば「外側×必要」寄りのものが昔は多かったが、最近では「外側×希望」が多くなっている。

わたしの仕事はまだ定まっていない。今のところは、定めたいともあまり強くは思っていない。これまでの経験や能力を生かしつつ、不自然を抜けて世の中をもっと正しく、楽しくしていくための一助となるような仕事を一個人として幅広く精一杯やっていきたいと思う。

20120610

カゴの外で生きる

一つの企業の中に入って、毎日決まった時間に出社し、一日中机の前に座って、決まった時間を過ぎたら帰るという日々を、送ったことがあった。満員電車を避けるために、朝6時すぎの電車に乗り、新宿南口のサザンテラスにあるスターバックスで2時間ほど勉強してから出社していた。

2カ月ともたなかった。一番大きかったのは、配属先がそれまでの経験と能力が生かせる部署ではなく、もはや変えることもできなかったことだが、活動の範囲が急に狭くなったことに物足りなさを感じていたように記憶している。

大学の頃は、同時進行でいろいろな人たちと関わり、いろいろな活動をしていた。主体的に動くことが許されていた。それが急に、活動範囲が一つの会社の中になり、与えられた仕事をただこなしていくだけになった。自分が縮小していくような恐怖を感じていた。

思い切って外に出ようと思った。会社の同期や上司、人事部の人たちに辞意を伝えると、本音でぶつかってくれた。温かいいい人たちだった。

それでも外に出た。危険から身を守ってくれるカゴを失った感覚だった。常に生活の不安がある。それでも、カゴの持ち主に生活を委ねているよりも、自分の責任でこの世界を渡っていきたいと思った。

現実は、そんなに格好よくいっているわけではなく、不安に負けそうになることもある。応援してくれる人たち、温かく見守ってくれる人たちの支えのおかげで、なんとか心が折れずにまともな生活ができている。

そんなことを考えているといつも浮かんでくるのが、Mr.Childrenの「心ある人の支えのなかで なんとか生きてる今の僕で」〈Everything (It's you)〉という一節。今は支えてもらうばかりだが、その気持ちに応えられるような仕事をして、力をつけ、いずれは、一生懸命な若者にチャンスと希望を与えられるような人間になりたいと思う。