【旧暦神在月七日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせん}がさく)】
ノマド的な働き方とか、二地域居住とか、個人の自由を謳歌する働き方にも憧れる一方で、大企業や大きな組織で何かを大きく動かして社会に大きく貢献するような働き方にも憧れる。その辺、どうなんだろう?というような感じの質問をされたことがあります。
結論から言うと、どっちもやってみたらいいと思う。それで、合うほうを選んだらいい。こればっかりはやってみないことにはわからない・・・と言ってしまうと、ちょっと突き放しすぎな気がするので、今まで見聞きした範囲から私が考えていることを書きたいと思います。
私自身は、個人の自由を謳歌する働き方が働き始めてからのほとんどを占めていますが、大きな組織を垣間見る機会もありました。「社会貢献」をしたい、と思ったときに、どっちにも、やりやすいこととやりにくいことがあると思っています。やりやすいことを最大限発揮できて、やりにくいことはやりやすく変えていけるほうを選んだらいいと思います。
たとえば、大きな組織になると、個人として感じていることと、組織の一員としてしなければならないこととの間に大きな隔たりがあることもあるようです。私が2カ月だけいた中規模の会社でもそうでした。
そのジレンマを、組織の下層にいる間は我慢して、上層に上がってから変えていこうと思って耐えているうちに、だんだん個人の感覚が麻痺してきたり、上に上がるときにいろんなしがらみができたり、どんどんものが言えなくなって、結局、丸くなって終わる、という体験談も聞きました。
他方で、内側から変えていく勇気と粘り強さ、交渉力、推進力を持って、諦めることなく、組織のなかでいいことを広げている人の話も聞いたことがあります。組織と一口にいってもいろいろあって、自分にとってそういうことがしやすい組織だったら、組織で内側からいいことを広げていくのもやりがいのあることだと思います。
個人の自由を謳歌する働き方で、「社会貢献」に関して、だいぶやりやすいなと思うことは、
・やってはいけないことをしなくていい
・やってはいけないことに加担しなくていい
・やったほうがいいことをすぐに実行できる
・時間に余裕があるから、環境と社会のことをよく調べて考える時間がある
・よく調べて考えて買い物をしたり、意見を伝えたりすることで外側から働きかけができる時間がある
・いいことをしている人たちと網の目のようにつながって一緒に何かを始めることができる
あたりでしょうか。個人の決定権が大きいというのが一番の決め手だと思います。
たとえば、コピー用紙ひとつをとっても、パートタイムで行っていた会社では住民を焼き討ちにして追い出してまで熱帯雨林を破壊して作られた紙を使っていて、それを変えることは私にはできませんでしたが、個人で使う紙だったらすぐに変更することができます。家で使う紙は、びわ湖の森の間伐材と再生紙を使った「びわ湖の森の木になる紙」か、FSC森林認証紙にしていて、会社よりはわずかかもしれないけれど、少しでも、熱帯雨林の破壊を少なくできて、日本の森を再生するお手伝いができています。
やりにくいことは、やっぱり大金が必要なプロジェクトとかでしょうか。でも、そこの部分は長期的な目で見て、少しずつコツコツ幅広くいいことを積み重ねていって、じわじわと社会にいいことを広げていくやり方で補えるんじゃないかなぁとも思っています。
そして、そもそも、「社会貢献」ってなんなんだろうか?という、自分なりの定義や条件をしっかり持っておく必要があると思います。その定義や条件は、つねにアンテナを高くして、つねにアップデートしていかなければならないものです。そうしないと、「社会貢献をしている!」と思っていたのに、実際には、戦争に加担していたり、環境汚染や環境破壊につながっていたり、自由を妨げていたり、不公正や貧困を助長していたり、格差や差別を広げていたり、ということが往々にしてあるからです。
わかりやすい例として、原発はクリーンな未来のエネルギーだと言われていました。温室効果ガスの排出がないからというのが根拠です。これを鵜呑みにしている人にとっては、原発産業の推進は彼らにとっての「社会貢献」になります。
でも、稼働中も放射能を出し続け、ウランを掘る労働者には採掘中に大量の放射線を被ばくさせ、現場でも被曝労働者の犠牲なしに稼働することができず、周辺の海域の海水温を上げて生態系に悪影響を与え、大量に出る使用済み核燃料を安全に処理する技術がないために十万年以上も管理し続けなければならず、核爆弾をいつでも作れる状態をつくっている。これを知っている人たちにとっては、原発産業の推進は、「社会貢献」どころか、環境破壊と人権侵害以外のなにものでもありません。(原発のことを勉強するようになったころのことはこちらに書いています→「20130413脱原発を願うようになった経緯」)
こうしたケースが、さまざまな分野において見受けられます。だから、「社会貢献」をするうえでは、何をもって社会貢献とするのかを判断する、たしかな目と、自分なりの定義が不可欠です。
ノマド的な人たちはもしかしたら、世捨て人的な感じに思われるのかもしれません。でも私の知っているノマドワーカーたちは、ものすごく優秀で、その能力を十分に活かして社会貢献をしています。私自身も、暮らしが豊かだから、仕事もいい仕事ができているように思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、私の仕事は感性と思考力の両方が求められるので、心身の健康によって仕事にも多少なりとも変化が出ます。
自然系の人たちのなかには、世捨て人のような暮らしをしている人もいますが、二刀流の人もいて、私は後者です。世間に背を向けているわけではなくて、世間の支配的な動きに振り回されないように、徐々にシステム依存を減らして自分の自由度を高めている一方で、それがまだできない大多数の人たちが困らないように、見識を磨いたり、意見を発表したり、署名をしたり、お金や時間の使い方で意思表明をしたり、できないをできるに変えられるように情報や知恵を共有したりと、できる限りのことをするように努めていて、まわりでもそういう人が多いように感じています。
まずは、そもそも社会貢献ってなんだろう?ということをよく調べて考えてみて、そのうえで、自分は世の中に何ができるだろう?、何はしたくないんだろう?と考えてみるのはどうでしょうか。そうして、それらを実現するために、ぴったりのスタイルをいろいろ試してみて見つけていったら、いいんじゃないかなぁと思います。