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20190831

ブログの更新をしばらくお休みします

しばらくの間、ブログの更新をお休みします。

ここ数年、やりたいことがありすぎて、どれもちょうどよく心地よく楽しめるようにバランスを吟味したいと感じていました。もう少し、やることを精査する時間を持ちたいと考えています。

考えたことをここに書かせてもらってきて、頭の中や気持ちが整理されたり、だれかのお役に立てたことがわかったり、ブログを書くことで望ましい変化もあり、大事な活動の1つとして向き合ってきましたが、考えていることとや感じていることを伝えるのが、文章という形がいいのか、それとも、他の表現の形がよいのか、公開の範囲をどのくらいにしたら一番よいのか、ということも、自分の中で少し整理したくなってきました。

もしかしたら、ブログという形はもう取らないことにするかもしれないし、しばらく書かずにいたら、やっぱり書きたくなるかもしれないし、しばらく休んでみて、どうなるかはわからないのですが、ちょっと休んで、またその後、どうするか決めたら、こちらでお伝えさせていただくつもりです。

20190312

あれから8年

東日本大震災と東京電力の原発事故から昨日で8年が経った。

今でも困難な生活を強いられている人もいる。不安のなかで暮らしている人もいる。傷が癒えていない人もいる。家族や親戚、友人や地域の人々との関係が大きく変わってしまった人もいる。震災だけだったらどうにかなったけど、原発事故があったから、放射能は目に見えないし、今も原発から出続けているから、もとの暮らしには戻れないという声も多く見聞きしてきた。

せめてこの日くらいは、被災された方々の気持ちを想像し、あの事故が私たちの世界に問いかけた大きな課題について、どうしたら解決できるのか、考える時間を持ちたいと思っている。

20170126

フェイスブックをやめてみて

フェイスブックをついに退会してひと月が過ぎようとしている。さみしくなるかもという不安もあったが、思いの外、氣持ちが軽くなった。やめてみると、思っていた以上に氣持ちが疲れていたようで、しばらくは、どーっといろんなものが出ている感じがした。

フェイスブックを使い始めた頃は、東日本大震災と原発事故の後の頃で、重要な活動をしている人や団体のことをたくさん知ることができた。フォローしている人や団体から、現場の一次情報や、マスコミでは報じられない重要な真実など、衝撃的なことをたくさん知ることができて、自分で情報を取りに行って、発信することの重要性に気が付かせてもらった。

20161006

片付けについて

9月は暇さえあれば片付けに精を出していて、片付けの進んだ一ヶ月だった。まだまだ、片付けるものがいっぱいだが…。

片付けというのは、やってみると奥が深い。人生で何をしたいか、優先して何をするのか、それらの活動をどう循環させていくのか、ということを考えることにもつながっている。それに、生活を彩り、快適にしてくれるモノたちの居心地がよさそうになり、活躍の出番も増えてうれしそうだ。

これまで、収納は少ないスペースに物をどれだけたくさん詰め込めるかだと思っていたが、これは大きな誤解だったと気がついた。

よくおしゃれな雑誌などに載っているような、引き出しに木のスプーンが取り出しやすい間隔で並んでいる写真なんかを見ると、「えー、場所がもったいない!」などと思っていたものだが、使いやすく、取り出しやすく、戻しやすくするというのが大事で、そのためには空間的な余裕が必要だということを学んだ。

それから、入るところがないものは、まだ始めるタイミングではないということだとも思った。やろうやろうと思って、本だけ買ってあるものがいくつもある。金継ぎの本もその一つ。

引っ越しのときにお気に入りの食器を何枚も割ってしまい、金継ぎが始めたくてしかたないのだが、片付けをしてみると、道具を置いておくスペースがまだないということが判明。

道具を置くスペースがない物事というのは、たいてい、時間的な余裕もなく、買ってきてもずっとやらないまま放置することになりがちだ。

家の中を見回してみると、片付いていないものがいっぱいある。

紙小物をつくろうと取ってある和紙の切れ端、消しゴムはんこ用の道具の買い置き、編み物用に買った草木染めの毛糸、リメイク用に買った古い着物、種取りがまだの豆やら麦やらがあちこちに・・・。

草木染めも本を買ってあり、布も無漂白の布を東京時代に買ったのだが、東京の狭い家ではそもそも無理で、移住してからは、ほかにやることがありすぎて、まだそこまで手が回らない。

本当にやりたいものしか残ってなかったのが、昔よりは成長したかなと思った。昔だったら、この検定は取っておいたほうがいいかも、みたいにテキストを買い込んで、いつか勉強するはずと積んであったり、「これくらい取っておかなければヤバイのでは・・・」みたいな恐怖に基づいて残してあった検定書もある。

今はやりたいものが収まる場所を待っているという状態。やりたいことを気持ちよくやれる余裕を生むために、片付けをしながら、空間的にも時間的にも整理を進めていけたらと思う。そう考えると、片付けが上手になると、楽しめることが増えるということだから、ますます片付けが好きになれそうだ。

あれだけ苦手だった片付け。こんまりさん(近藤麻理恵さん)の『人生がときめく片付けの魔法』を読んでも、3日も続かなかった。しかし、今回はどうやら、新月の願い事が効いたよう。

新月の願い事は、新月から8時間以内(48時間以内でもまだ効力は強いらしい)に、「私は」を主語にして、願い事を完了形(~しました)や進行形(~しています)で肯定文で10個書くと願い事が叶いやすいというもの。半信半疑で始めたものの、これまで、旅行が当たったり、ぴったりの家が見つかったりと、結構叶うので続けている(その後、lunalogy創始者のKeikoさんの提唱するパワーウィッシュになり、さらに叶うようになった気がする)。

9月の乙女座の新月のときに、「私は片付けが上手になりました」と書いてみたところ、あれだけ面倒でやりたくなかった片付けに燃えるようになり、やる気が結構続いている。乙女座は几帳面な星座なのもあって、片付けができるようになるという願い事と相性がよかったのかも。

片付けが苦手な方、乙女座の新月のときにパワーウィッシュをやってみるともしかしたら効くかもしれません。

20160903

言葉のレッスン

他人からの心ない評価など気にしない、と思っても、やっぱり言われると気になるもので、ここのところ、文章術の本がやけに気になっている自分がいます。

文章術、美しい日本語、悪文、名文など、そういう文章についての本を読んで勉強しようかと思い、大きめの書店に行ってパラパラといくつか見てみました。いくつか眺めてみたのですが、買って読み進めるきにならない。

なんでかというと、やっぱり、伝えたい中身がないからなんですよね。文章は、いくら美辞麗句が並んていたところで、伝えたい中身と、伝えたい想いがなかったら、それはきらびやかな外箱でしかない。

文章術や言葉についての本に興味が持てなかったことで、私が書きたいのは、きっと、文章として「うまい!」とか、文章として「すごい!」とか言われる文章ではないということがはっきりしました。

私が心を惹かれる文章は、多少まどろっこしくたって、多少間違っていたって、伝えたい想いがあって、伝えたい中身があって、その中身が素晴らしい文章なのです。それから、自分を大きく見せようというのでも、卑下するのでもない、ありのままの自分を肯定している人が書いた文章です。ただし、ありのままが下品な人の文章は好きではなく、人間としての向上心がある人でなければなりません。

プロの文章でもげんなりするようなものもあるし、一般の人の投書や友人からの手紙にも心が動かされるような文もあります。だから、こういう、文筆家や言葉の専門家が集めた美文の本を読んでも、私の言葉のレッスンにはあまり役立たないと思いました。

それでも、文章を磨くことは何かやっていきたいな、と思っていて、思いついたのが、この文章が好きだなあと思った文章を、ノートに書き留めていくことです。好きな文がたくさん詰まったノートができるのは、考えるだけでもわくわくします。楽しい方法で、文章を磨いていきたいと思います。

ちなみに、私が文章を学ぶうえでとても参考になった本が一冊だけあります。『日本語の作文技術(本多勝一・著)』という本です。句読点の打ち方から、形容詞の並べる順番まで、わかりやすく読みやすい文章を書くルールがまとまっています。

20160822

フェイスブック疲れ、再び

フェイスブック、選挙のときはちょっとがんばって書いていたのだが、もう疲れてしまって、10日ほど投稿が空いた。

世間はオリンピック一色だったようだけど、沖縄の状況、憲法の破壊、伊方原発の再稼働(「正気とは思えない」)、福島の凍土壁が凍らない問題(小出裕章さんなどが以前から指摘されていたとおりに)などなど、非っ常~~~~にたくさんの問題が山積していて、メディアがちゃんと報じないのないなら、私も何か言わないと、と久々にフェイスブックを覗いてみたのだが、うーん、やっぱり、すごい抵抗というか圧力を感じる。うーん、やっぱりこの空気、私の居場所じゃないわーという感じがした。

その空気をぶち破る勇気のある人は、活動家として認知されている人を除いて、そんなにいない。この空気をぶち破って書いている人も、単なる攻撃であったり、「こんなことを知っている自分はどうだ!」みたいな自尊心を埋める目的だったり、うっぷんを晴らすだけだったりして、重要なニュースを知ることができてありがたいにはありがたいのだが、かなり気持ちが滅入ってしまう(これについては先日も少し書いた)。

フェイスブックはショーみたいな感じで、「きゃっほー❤これ見てみて~♪」みたいなのは書きやすいんだけど、まじめな話って本当にしにくい。居酒屋で大勢に当たりさわりのない話をしたり、酒の勢いをかりてぶちまけている感じ。私はカフェで友人一人ひとりと深い話をするほうが好きなので、合わないわけだ。

私はこどものころから一匹狼という感じで(望んでそうなったわけではない)、常に浮いていたので、フェイスブックみたいな群れて楽しむところは、合わないんだろうと思う。今でも、みんなが白いものを見て黒だと言っていても、一人でぽそりと白いものは白いと言うタイプだと思う。目立つのは嫌だから、ぽそりと言う。社会活動に使いたいなら、フェイスブックよりツイッターのほうが私の場合は向いているのだと思うんだけど、ツイッターは誹謗中傷が増えてきているとも聞く。

愛嬌を振りまけるかわいいアイドルタイプ、おれについてこいみたいなリーダータイプ、他人にどう思われるかが気にならない人、ピエロを演じるのが好きな人、ちやほやされるのが好きな人、群れてワイワイするのが好きな人には楽しい場所なんだろうけど、私はどれも全然だめだ。誰にもついていきたくないし、ついてこさせたいとも思わない(各人の自由意志に従ってほしいから)。人に気を使いすぎる。つねに自分は自分のままでいたい。ちやほやされても下心は何かと勘ぐってしまう。わいわい騒ぐこともほとんどなく、騒いで楽しいとも思わない。静かに黙々と重要なことについて考えたり、何かを作ったりしているほうが好きだ。

フェイスブックでは、他人に対して疑心暗鬼になってしまうことも多い。「いいね」一つをとっても、「いいね」を押されても押されなくても本音を勘ぐってしまう人もいるし、Aさんのシェアした記事には「いいね」を押して、同じ記事をシェアしているBさんに「いいね」を押さなかったら何か思われないだろうかとか、あるいはAさんのある投稿にはいいねを押して、それ以外にはいいねを押さなかったら何か思われないだろうかとか、不安になる。それに、リアルでは私にカスタマイズして見せないでおいてくれている、私が見たくない側面も見せられてしまう。他人がどんどん嫌いになっていくループに陥りそうになることもある。

再び、いっそのことフェイスブックをやめてしまおうかなぁという熱が復活しているのだが、連絡手段にもなっているし、役に立つ面もあるし、しばらく開かないで不快感が落ち着くのを待ちたいと思う。

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20160821

身体は正直。痛みや不調は、何かが違っていることを知らせるサイン。

身体は正直です。私は基本的には玄米菜食で、白砂糖と化学物質は避けています。白身の魚や小魚は、放射能汚染に注意しながらときどき食べます。卵は、無農薬野菜と草をついばんで育った放し飼いの卵を自然派コープで届けてもらっています。

こういう食事について、ゆるくポップに書かれた本が、最近、書店に並んでいました。『「食事」を正せば、病気、不調知らずのからだになれる ふるさと村のからだを整える「食養術」』(秋山龍三/草野かおる・著)という本です。

「食事」を正せば、病気、不調知らずのからだになれる ふるさと村のからだを整える「食養術」

「こうしなきゃだめ!」みたいなよくある感じではなく、続けやすい形で提案されているところがよいなぁと思いました。読み物としてもおもしろく、必要な情報がよくまとまっていると思います。

私はこの本で言うと、仙人級まであと少しのゆる仙人みたいな感じかな、と思いましたが、こうした食生活にしてから、体調を崩すことがほとんどなく、肌がきれいになって化粧品がいらなくなりました。もともと身体が丈夫だったわけでは決してなく、幼いころから虚弱体質と言われていたほどで、1カ月に数日は寝込み、毎年3月と9月には総決算のように数週間寝込むし、風邪はしょっちゅうひき、月経中は頭痛と月経痛で鎮痛剤なしでは過ごせないくらいでした。

肌のほうはと言えば、鼻の毛穴の黒ずみが気になって、毛穴すっきりパックは「痛い(泣)」と思いながらもいろいろ試し、クレンジング剤、洗顔料、拭き取り化粧水、美容液、化粧水、乳液、クリーム、オイル、日焼け止め、と、化粧品はゴロゴロいろんなものを使っていたのに、皮膚表面が固い感じがするし、おでこと鼻(いわゆるTゾーン)はベタベタ、くすみが気になるからファンデーションでごまかす、みたいな感じでした。顔と身体と手でも分けていた化粧品が、今では天然素材の石けん一つと植物性オイル一本だけ。食べ物を変えた今のほうが、ずっときめも細かく、透明感が出て、皮膚も柔らかくなった感じがします。小鼻の黒ずみもなくなりました。

東京では、玄米菜食の飲食店が結構あったので、事前に調べて行けばたいていどのエリアでも(東側にはあまりなかった)、普段と近い食事ができました(放射能の心配が出てきてしまいましたが、それでも、そうしたお店は良心的なところが多くて、お客さんも気にする人が多いからだと思いますが、産地を表示してくれていたり、放射能検査済みで不検出のものを提供してくれていました)。

しかし、地方へ移住後、外でゴハンを食べるときには、無添加はそれなりに見つかるのですが、無農薬となるとかなり難しい。完全に菜食にするのが難しくなり、ときどき、お肉を食べることがあります。動物性の食品をたくさん食べるとお腹が痛くなることがあるので、メニューからなるべく入っていなさそうなものを選ぶのですが、勘がハズレて入っていることも。あんまり避けまくるのも身体にわるいし、食べ物にも、農家さんを含め、作ってくれた人にも、失礼なので、入っていたらありがたく感謝していただきます。

最近、相方はお付き合いで外食が増えていて、お肉を食べてもそれほどお腹を壊すこともなくなったので、また、マクロビを習っていた友人が「男性は動物性をとったほうがいい」(私はこれには懐疑的。男女問わず個人差があるはず)と言っていたこともあってか、ときどきはお肉をと言うようになりました。

それで、外食でお肉が入っていると、相方に食べてもらっていたのですが、ついに、てきめん、来てしまいました。鶏肉がごろごろ入ったメニューを食べた後、最終電車の中でお腹が痛い…と始まり、降りてしまったら次の電車がないので最寄りの駅までヒヤヒヤ。私も、その日は生クリームやチーズなど、動物性の食品がたくさん入ったメニューを食べたのですが、胃が気持ち悪く、翌朝になってお腹が痛くなりました。二人とも、合わない食べ物はすぐ排出するように身体が整ってきたようです。思い返せば、自然食になる前によくお腹を壊していたのも、身体さんが教えてくれていたんだろうなぁ、と今ならわかりますが、昔は下痢止めを飲んでも効かないと怒っていたものでした。

身体は正直だなぁと思った出来事をもうひとつ。この二ヶ月ほど、ちょっとストレスのかかることが多くて、甘いものが欲しくなり、白砂糖の入ったお菓子を調子にのって食べまくっていました。

白砂糖は身体を冷やし、カルシウムなどのミネラルを奪うと言われていますが、実際に白砂糖の入ったものを食べるとイライラしやすくなったり、頭痛が起こったり、顔色が悪くなることもよくありました。それで食べないようにしていたのですが、夏の暑さで顔色はわからなかったのと、もともとストレスでイライラしているので、変化がわからなかったのもあり、あんなに避けていた白砂糖の入ったお菓子をしょっちゅう口にするようになっていました。

その結果、やっぱり、身体さんは正直です。メイド・イン・アースのオーガニックコットンの布ナプキンにしてからはほぼ皆無だった月経痛が復活。鎮痛剤を飲むほどでもなく、昔ほどではなかったのですが、それでも身体が重くてしんどくて、内臓を冷やしてしまったということだなぁ、と反省しました。

身体の痛みや反応は、より健康になって人間本来の状態を取り戻すにはどういう食べ物を食べ、どういうものを使い、どういう生活をしたらよいのかを教えてくれるサインだと実感しました。痛みや普段と違う不調があったら、その原因を探ってみて、改善を図り、試行錯誤を続けることで、何を食べるべきか、どう生きるべきかがわかるのではないでしょうか。久々に体調を崩し、友人が自分の子に「身体さん感じて。まだ食べたい?」と聞きながら食事を与えていたのを思い出しました。

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20160407

私はこうしたい、ってはっきり言うのは大事かも。フェイスブックの利用方針を投稿したらすっきりしました。

【旧暦弥生朔 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

少し前に、フェイスブックが嫌になってきた話を何本か書いて、やめようかどうか悩んだりもしていたんですが、自分なりの利用方針をはっきり書いて投稿したら、なんだかすっきりしました。

自分はこういうふうに使うというのをはっきりさせておくのは、モノと人の主従関係が逆転しがちなこのご時世、結構大事なことなのかもと思いました。私はこれが嫌、こうしてもらいたい、とはっきり言っておけば、声が上げられない多数の人たちの代弁というか、「あ、これ、私は気にならないけど、気になる人もいるかもな」と、ちょっと考えてみてくれる人が増えるかもしれません。

何を書いたかと言うと、私の顔がはっきりわかる写真を無断で不特定多数に投稿しないでもらいたいこと、外部サイトからシェア機能などを使って投稿しているけど、本体のページはあんまり見ていないことなどを書きました。

写真の投稿は、たぶん、親切心でしてくれている人もいると思います。集合写真をメールでデータ添付するような感覚なのかもしれない(過去に、私が写っていた写真を無断で、営業目的も兼ねて投稿していた人もいたので、親切心でしている人ばかりではないんだけど)。それが不特定多数に公開されていることについて、考えが至っていないだけで、悪気はない。でも、嫌なものは嫌だって言っていいと思うんですよね。なるべく配慮は必要だと思うんですが。

相手も嫌な思いをさせようと思ってしているわけでなく、親切心でだと思うので、相手が喜ぶことをしたいと思ってくれている人がほとんどでしょうから、「私はこういうことはあまり好きじゃなくて、こういうのは好きです」ってはっきりしておいたほうが、お互いにハッピーなんじゃないかと思います。

たとえば、立場を逆にして考えてみると、私は相手を喜ばせたくて、みんなの前で相手にお酒をプレゼントしているんだけど、相手は実はお酒が好きじゃなかったとする。相手は何も感想を言わないんだけど、私はまたお酒をプレゼントし続ける。相手は内心、困っているかもしれない。みんなの前でお酒をプレゼントするもんだから、勝手にまわりが「あの人、酒豪なんだって!」と言い出して、私は相手に、自分の知らないところで、迷惑かけてしまうかもしれない。それなのに、お酒をプレゼントし続けるのは、私にとってもハッピーなことじゃない。相手が本当にしてもらいたいことをしたいと思う。

FB本体のタイムラインをあんまり見ていないことについて書いたのは、私の投稿に「いいね」を押してくれているのに、押してくれている人たちの投稿をあんまり見れていなくて「いいね」を押しにいけていないのが申し訳なく感じていたからです。

ときどき、「どうしているかなぁ?」と見せてもらいに行っているんですが、リアルタイムで最新情報は追っていなくて、時間と心に余裕があるときだけなので、「いいね」を押したいのがあっても、だいぶ時間が開きすぎていて、「今頃見に来たの?恐っ!」と思われそうでちょっと押せないのです。

ツイッターだと、気になる人のページに飛んで、一覧で投稿を見せてもらうのは、ブログを見に行っている感じと変わらないというか、そんなに気まずい感じがしないんだけど、フェイスブックのプロフィールページでタイムラインを見せてもらうのは、勝手に相手の部屋におじゃまして、アルバムとか日記をパラパラ見ているような感覚で、なんだか気まずい感じがするのはなぜなのだろう…。

FB本体のタイムラインは、前も書いたんですが、ちょっと苦手です。いろんな人が、いろんな場所にいて、いろんな気分で投稿したものが、一気に目の前に並ぶから、頭がごった煮状態になります。一人は動物園に行き、一人はデモへ行き、また別な人はステーキを食べ、また別な人はケーキを食べ、また別な人は温泉へ行き、また別な人は重大なニュースに危機感を募らせていて、また別な人は自分の子どもの写真を投稿している…。こんなのがずらーっとタイムラインにごちゃまぜに並んだら、すごく気持ちが混乱する。私が関心を引かれるのは、今挙げたような例のなかでだったら、デモや重大なニュースだけど、他の人のも見ないのは差をつけてしまって申し訳ないような感じになる。かと言って、順番に見ていくと、感情が両極に振れまくってとてもおかしな状態になる。

それに、「いいね」を押すことではほかのリスクも感じます。たとえば、仕事がまだできていないのに「いいね」を押したのを仕事関係の人に発見されたら気まずかったり、お誘いをもらっているけどまだじっくり読む時間が取れなくて保留しているものがあるのに、お誘いをくれた人に他の人のものへ「いいね」を押しているのがわかられると、お誘いをくれた人が不愉快を感じるんじゃないかと思ったり、tom-tomはAさんには「いいね」を押しているのに、自分には押してくれないとか思う人も出てくるんじゃないかと思うと、結局、全部「いいね」を押さなくちゃいけなくなったり、でも私にも信条があるから「いいね」が押せないものもあるんだけど(化学物質とか社会毒を摂取している投稿には「いいね」は押せないとか)、それを「tom-tomは自分の何が気に入らないんだ!」とか思う人もいるんじゃないか…とか、いろいろ考えてしまって、苦しくなる。はー、いいねってホント難しいものですね…。考えすぎねって言われますけども…。

フェイスブック自体がなんか苦手なんですよね。国会中継みたいな感じというか…。私の発言や質疑応答がすべて、いろいろな関係性の人たちに公開されていて、リアルタイムで見ている人がいるかもしれないというのも、なーんか、落ち着かない。個人に関する情報は、この人は大丈夫、と思う人には伝えているけど、この人はまだちょっとよくわからないと思う人には、まだ伝えていない部分や、見せていない面もある。それが全部公開されちゃう。検索がしにくいのも国会中継に似ていて、たまたま目に入った一部の投稿で、私のイメージが決まってしまう。逆も然りで、私がたまたま目にした相手の投稿や質疑応答で、その人のイメージができてきてしまうのも恐いなぁと思う。直接会っているときは全然嫌な感じがしないのに、むしろ大好きなのに、直接会うときと、フェイスブック上のキャラが一致しなくてその違和感に苦しくなったり。だから、なるべく見ないようになりました…。そういえば、相方は、「親類から一回会っただけの人まで、いろんな関係性の人たちがみんな参加している飲み会」、「だれにでも個展スペースが与えられていて、それが一挙に集まっている出入り自由の展覧会」と例えたことがあったなぁ。

もともとそんなに社交が得意じゃないし、リアルでのコミュニケーションで大満足です。みんなが見ているところでのコミュニケーションって、やっぱり浅くなるけど、手紙とかメールとか、直接会って話したりとかだと、もっと濃いコミュニケーションができる。それに、なあーんか、フェイスブックでアップデートを追っていると、直接会ったときに、近況を話さなかったりもする。「投稿もしたんだけど」と前置きされた上で話されたりとか、「(投稿を)見てないの?」と言われたことも…。

「私はこうやって使う方針です」とはっきりさせたら、だいぶ気が楽になりました。私はこうしたい、ってちゃんと声を上げるのって、結構大事なことかもしれないなと思いました。



20160322

啓蒙思想のこと。

【旧暦如月十四日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

最近訳している文章で、ヨーロッパの哲学者について調べる機会がありました。

こうした哲学者たちが当時置かれていた境遇と、私が今悩んでいることが共通している、…と言うと大げさですが、そんなふうに思えました。

当時の社会では、キリスト教の教会の教えていることが、真実とそうでないものとがごちゃごちゃに混在した状態で盲信されていました。教会という権威が言うことに、「それってちょっと違うんじゃないの?」という異論を差し挟むことは、かなりのリスクを伴うことだったようです。

それに立ち向かっていくために、勉学を積み重ね、自分の考えを理詰めで組み立て、どんな反論にも対抗できるくらいの強度を持たせて、自分の考えを形成していったのが、当時の哲学者たちだったんだなぁと思いました。

私が今悩んでいることというのは、人々が権威の言うことだからと盲信していることに、自分が「ちょっと違うんじゃないか」と気づいた場合に、それを言うと危険が伴ったり、まわりから危険人物扱いをされたりする、もしくはそれが怖くて言えない、という問題です。

権威が言うからと盲信していることというのは、例えば、放射能は怖くない、食品添加物も農薬も危険ではない、原発を動かさないと経済が不況になるといった、富裕層と政治の癒着から生まれているさまざまな神話や、日本の固定的なジェンダー観、それから、祈っていればすべて解決する、ネガティブなことはネガティブな現実を引き寄せるから言ってはならないという考え方、占いによる決め付けなど最近のスピリチュアルの思想に関するものなどです。

信じたくないことまで信じなきゃいけないと思って信じている人もいるし、真実とそうでないものがありとあらゆるものに混在して混沌としているのに、「先生がいうから」「国がいうから」「みんなそうしてるから」って、自分の頭で考えて判断する権利を譲り渡してしまうってもったいなさすぎる。だれでも考える能力が備わっているんだから、どんどん使っていかないと錆びついてしまうし、どんどん自分の行動の自由、思想の自由を奪われてしまうと思う。

啓蒙思想も、権威を盲信したり、固定観念にがんじがらめになって、蒙昧になっている自分自身の精神を解き放とう、自分の頭で考えよう、自分の心で感じよう、という思想だったんじゃないのかな、と思いました。

ブリタニカ国際百科事典の説明には、
啓蒙思想:神,理性,自然,人間に関する観念が一つの世界観に統合され,多くの賛同者を得て,芸術,哲学,政治に革命的な発展をもたらした 17~18世紀のヨーロッパの思想運動。人間の可能性は,正しい「理性」によって切り開かれるもので,そこにこそ真実の認識と人類の幸福とを得ることができるという確信に貫かれていた。
とあります。

そう考えると、人間の思考力は当時からそんなに進歩していないと感じれられて、愕然としました。当時の哲学者たち、革命を起こした人々が、自分の理性を使って考える権利を勝ち取り、後の世代にその自由を与えてくれたのに、私たちはまだ、何かを盲信したり、他人の頭で借り物の思考している。さらに状況を難しくしているのは、盲信するテーマが、キリスト教の教会の教えだけでなく、
科学、経済、スピリチュアルと、多岐に分化していること。盲信する対象が増えただけで、自分の頭で考える人間はそんなに増えていないように思います。

放射能安全キャンペーンはその筆頭ですが、まともに機能してない科学によって裏打ちされた「権威の言うこと」をまだ盲信している人たちが多いというのは、人類が進歩していない証拠なのではないかと思ってしまいます。啓蒙思想からもう3世紀も経っているこの2016年という時代に、まだこんな状況かと思うと、焦燥感を覚えます。

自分の頭を使うって、結構負荷がかかるので、筋トレと一緒で結構疲れるんですよね。インプットだけでなく、アウトプットもするとなるともっと負荷がかかる。だから、つい、惰性で、流されちゃう。自分の頭を使うのをやめて、誰か権威の言うことを信じていたほうが大多数がそうだから楽だし、お墨つきがついているから安心していられます。権威の言うことを組み合わせて説明できる自分にも、権威がついているような錯覚に陥って、自己過信に酔いしれたりもする。盲信するって、一見楽で気持ちいいことに感じられるけど、長期的に見れば、自分の頭の体力はどんどん衰えて、簡単に騙されたり、落ちぶれたりしてしまいます。

ある程度までがんばって、意識して自分の頭で考える訓練を積んでいけば、自分で自分の人生を切り開いていく力もつくし、社会をよりよい方向に導くために役立てることもできる。それはとても気持ちのよいことで、惰性で得られる刹那的な気持ちよさとは全く満足感が違います。マラソンも一定以上行くと快感になると友人が言っていたのを思い出しました。

20160228

フェイスブックとツイッターの世界の違いについて。togetterのまとめから。

【旧暦睦月廿一日 雨水 次候 霞始靆(かすみはじめてたなびく)】

この3日間、フェイスブックにまつわる話を書いてきました。この先、どう付き合っていこうか悩ましく、ぐるぐると調べていたら、こんなまとめに遭遇。
togetterより
FacebookとTwitterが切り取る世界の違い
上記は、社会の考察などについてブログに綴られているちきりんさんがツイッターでつぶやかれていたものと、それに対する他のユーザーさんの反応とのやりとりをまとめたツイートログです。

ちきりんさんは以下のような本も書かれている方です。

自分のアタマで考えよう
(ちきりん・著/ダイアモンド社・刊)

ちきりんさんは冒頭で、ツイッターとフェイスブックは「世界Aと世界B」と思うくらいかけ離れた世界に見える、と切り出し、ユーザーと意見交換を始められています。

20151208

『小さき声のカノン』―感想ふたたび

【旧暦神在月廿七日 大雪 閉塞成冬(そらさむくふゆとなる)】

先日、『小さき声のカノン―選択する人々』を観て、

「日本とベラルーシではなんでこんなに国の対応が違うんだろう?」
「日本でもベラルーシみたいな対応が国としてできないのはなぜなんだろう?」
「ベラルーシみたいなきちんとした対応をするために、私たちに足りないものってなんなんだろう?」

そんな疑問がいっぱい湧いてきました。

20150706

『チョムスキー 9.11』を観て

【旧暦皐月廿一日 夏至 半夏生(はんげしょうず)】

2003年に製作されていた『チョムスキー 9.11』というドキュメンタリー映画。

安倍政権が強引に集団的自衛権の行使容認について審議が進められるなか、6月16日から21日まで無料でYouTube上で限定公開されていたので、視聴しました。一緒に戦争をする可能性の高いアメリカが、どんなふうにして戦争を作ってきたのかを、知っておく貴重な機会になりました。

特に印象に残ったところを備忘録として残しておきたいと思います。あくまでも私の記憶なので、少し変わってしまっているところ、ニュアンスの異なってしまっているところがあるかもしれませんが、何もないよりは、何か考えるきっかけ、調べるきっかけ、行動するきっかけにつながったりもするかなーと思ったので、公開します。( )は私の感想・コメントです。

・知識人は事実を知りながら言わないようにしつけられている、このことは西欧や日本でも顕著。

・アメリカは石油に関心があるから戦争をしかける。(→『おカネで世界を変える30の方法』などでも読んで、よく指摘されることだけど、アメリカでもこう指摘する人がいるのかーと)

・国民を服従させるには恐怖を利用するのが最も簡単。ブッシュのスピーチライターが「悪の枢軸」(axis of evil)という言葉を作ったのは、国民の恐怖心を利用するため。(身近なところからも、あらゆる恐怖心を克服していくことが、ぶれずに平和を貫く第一歩かも)

・「悪の枢軸国」という言葉で、アメリカ人が思い浮かべるのは、第二次世界大戦中の日独伊の三国。三国あるとよりイメージが合致するので、イラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸国に仕立てあげた。北朝鮮との敵対関係を作ると、韓国と日本は困るが、アメリカが知ったことではない。

・「対テロ戦争」なんてものはない。アメリカが最大のテロ国家である。

・9.11の攻撃は、大変な惨事ではあるが、歴史上、新しいことではない。アメリカも同じようなことを他国でやっている。規模ではなく、どこで起こったかが、取り上げられ方を左右。

・世界の残忍で抑圧的な権力が、9.11の事件をいいように利用するだろうということは十分に予測できていた。(日本は平和憲法の改訂に向かうかもしれないとも指摘されていた)

・我々はみな、なんらかの形で戦争に加担している。自分たちの払った税金で、人殺しが行なわれている。

・中東の緊張緩和策として、国際機関の観察官(モニターと言っていた)を派遣し、卑劣な行動を監視する案を、国連にEUが提案。これは効果的な策だったが、アメリカが拒否権を発動してこれを阻止。(アメリカはやっぱり戦争したいのか)

・ブッシュの大好きな聖書にも「偽善者は、他人に適用する基準を自分に適用しない人だ」と書かれている。他国への攻撃はよくて、自分が攻撃されるのはだめ、と言うアメリカ。鏡に写った自分を見つめるのは難しいことだが、自分をしっかりと見ないといけない。

・それでも、過去よりも着実に、アメリカは良くなってきている。市民運動が大きく成長し、かつてほどの政府の蛮行が許されなくなってきている。
※この映画が作られた当時、南ベトナムにアメリカが戦争をしかけてからちょうど40年だった。30~40年でアメリカの市民運動が成長。当時は、女性と子どもが歩くだけの反戦抗議デモですら、缶やトマトが投げつけられた。抗議集会や講演などは開くことすらできなかった。反戦運動ができたのも60年代、環境運動ができたのも70年代。今では市民運動が政府の蛮行を許さないくらいに成長。これは大きな変化。(日本も、3.11をきっかけにようやく市民運動が芽生えたように思うので、30~40年でどう大きくしていけるだろうか)

・身近なことから変えていける。投獄されたり、暗殺されたりする心配もないアメリカで、可能性は無限大。何かを維持しよう、あるいは、何かを変えよう、とする行動は、それがモラルに基づくものであれば、人間の本質的な性質を引き出し、拡大し、表現する可能性を与える。

・アフガニスタンをアメリカとロシアが破壊した。攻撃するのではなく、賠償をすべき。

・メディアを政府がコントロールするのではない(アメリカの話)。メディアの決断。
※わかりやすい具体例:パレスチナの住民がイスラエルへの抗議として投石(インティファーダと呼ばれる)を始めた2日後、イスラエルはアメリカのヘリコプターでパレスチナ住民の制圧を開始。クリントンはもっと多くの軍用ヘリを送り、何十人もの住民を殺した。これを報じたのは、小さな町の新聞にあてた投書だけだった。政府に言うなと命令されたわけではなく、報じないことを決めたのは、メディアの編集者。(→情報の受け手が何を求めているか、どんなことを報じれば視聴率が上がるか、ということを意識している、ということなのかな?と)

・資本主義が完全に実現すれば、経済を破壊する。このことを資本家は知っていて、資本主義の完全な実現を求めてはいない。(→リーマン・ショックやサブプライム危機などが起こる前にすでにこの指摘がされていた)

内容が多岐にわたって、なかなか難しく、歴史が教えていることや、今の政治的指導者と、過去の政治的指導者とで、蛮行を正当化するのに利用する言葉の類似点など、具体的な事実までは覚えきれなかったのですが、歴史は確実に繰り返していて、まだまだ学んでいないことが多いんだなぁ、と思いました。時代は確実に良くなってきているし、私たちが社会を良くするためにできることは無限大だという、前向きに考えられるメッセージで、未来を明るく思い描けました。なにもかも、自分たち次第なんだと。

こんなに歴史的背景も含め、幅広い知識を整理して、いま起こっていることの背景を分析し、明快に説明できる人はなかなかいないと思います。日本の改憲の動きや、資本主義のことなど、予測がずばり的中しているものもありました。何をしていくべきなのかを知るために、何が起こっているのか、その原因やメカニズムは何なのかを知っておく必要がありますが、そうするためのかなり貴重な情報と洞察を提示してくれていると思いました。もっと勉強させてもらいたいです。素晴らしい学者さんだと思いました。

ノーム・チョムスキーの名を初めて知ったのは、大学で生成文法を習ったときでした。難しすぎてちんぷんかんぷんでしたが・・・。なので、チョムスキー氏=言語学者とインプットされていたので、社会のことについて鋭い批判をしているのを知ったときは意外でした。映画の最後で、なぜ言語学を研究しているのかを聞かれて、人間の高度な能力に興味があり、人間の能力を凝縮した領域の1つが言語だったと答えているのを聞いて、なるほどー、とぐっときました。ある哲学者(名前を忘れました)もモラルの根底にあるものは今でいう「生成文法」であると言っている、ある一定の制限のなかで自由に表現し、創造していく、と語られているのを聞いて、言葉を学んでいる者の一人として、うれしく思いました。言葉の奥深さがますます好きになりました。

映画の構成についてですが、ある程度知識レベルの高いアメリカ人にとっては常識なのだろうけれど、日本人にはぴんと来ない歴史的出来事や、他国との関係などが次々出てきていて、再生を一旦停止しながら、ネットで検索しつつ、視聴しました。欲を言えば、日本人向けに、背景の解説がコンパクトにわかりやすく適宜入っていると、すんなり理解できていいのだけどなー、と思いました。やや消化不良な感じなので、時間を見つけて、ほかの映像や本などでも勉強したいと思っています。

20150122

Facebookについて

【旧暦師走三日 月齢 1.6 大寒 欸冬華(ふきのはなさく)】

Facebookのプライバシーポリシーが1月1日から改訂になり、OSやら、端末内のファイル名やら、なんでそんなものまで?と思うものの情報収集をするというので(コチラのページの「ディバイス情報」を参照。ユーザーの同意に基づき、とあるものの、何をもって同意したと見なすのかは謎で)、フェイスブックになんだかモヤモヤ思うことも多々あったので、100%好きなわけでないし、退会してもいいかなぁ、そのほうがすっきりするかなぁ、と先月から考えていました。

話す機会があった方にはFacebookやめようか検討していて、と話していたのですが、今のところ、Facebookしか連絡先がわからない方もいるので、アカウントを残すことにしました。気になることはいろいろあるものの、メリットのほうが少し多いかなとも思ったので。ただ、これまで通り、ニュースのシェアや、社会活動にしか使わないことにしています。「知人がフェイスブックで放射能関連の情報を流していて、食べ物に気をつけるようになって」などといった声を聞くことがあり、だれからも反応がない状態でも(気にしていませんが)、役に立っていることがあるらしいことを知りました。

近況などは、これまで通り、ブログに書いていきます(ブログをメインにした経緯)。理由として、フェイスブックをしていない友人が多いこともあります。フェイスブックにリンクを載せることはしません。フェイスブックだと、私の書いたものが見たくないタイミングで目に入ることもあるでしょうし、載せるとなんとなく「いいね」を期待してしまう自分に嫌気がさします。そういえば、あいつどうしてるかな?と思ってブログを訪ねてもらうくらいのほうが、より自然なコミュニケーションのような気がします。フェイスブックは、ソーシャルな活動には使いやすいのですが、パーソナルなコミュニケーションの場として使うには、ダイアローグとモノローグの間を彷徨っているような、あてどのなさを感じます。

連絡手段としては、Facebookしか連絡先がわからない方には連絡用に使わせていただこうと思いますが、メールアドレスや住所のわかる方にはそちらで連絡させていただきます。Facebookでメッセージをいただいた場合は、あまりログインしていないので、お返事が遅くなることがあります。できれば、メールでご連絡いただけたほうがありがたいです。

フェイスブックをやめたいなーと思っている人も結構多いようで、90日間ログインしないとどうなるか、という社会実験みたいなものも見かけました。私自身は、1月に入ってから、ニュースサイトなどのシェア機能でシェアやリコメンドをすることはあっても、フェイスブックのページ自体はほとんど開けていません。そうしたら、自分がやるべきことに集中できている状態で、人の目が気になってモヤモヤすることもなく、だれか1人の人に集中して手紙やメールを書いたりする時間もでき、取り残されている感でさみしくなるかと思いきや、かなり快適です。どうしてるかなぁ?と思う人の投稿が見られないのはちょっとさみしいですが。連絡したい気持ちが強くなるので、それもよいかもしれません。

辞めたくなった方は、こちらに辞め方が書かれていますので、ご参考までにどうぞ。退会の方法は結構わかりにくいみたいです。

●フェイスブックの退会方法
http://nanapi.jp/25829/

20141119

アマルガムのその後の話

【旧暦閏月廿七日 月齢 26.2 霜降 金盞香(きんせんかさく)】

*English edition below*--アマルガムのその後の話です。アマルガムは、水銀を含む歯の詰め物のことです(健康と環境への悪影響や各国の禁止状況については過去の記事をご覧ください)。

自然派の人々がおすすめされていたので(その人たちは悪くないのです。アマルガムのことは知らなかったのだと思うので。「アマルガム ◯◯歯科」で調べて見なかった私が悪い (-_-; )、マクロビオティック(正食、食養とも)を提唱している歯医者さんを相方が受診したら、詰め物はアマルガムしか使わないと言われ、アマルガムの危険性について、次の受診時に説得してみようと、情報を集めた話を先日の記事で書きました(コチラ→アマルガムにうなされる)。

クーヨンなどの自然派の雑誌にも書かれている歯医者さんで、講演もされているので、全国から患者さんが来ているそうです。アマルガムしかないことがわかっていたら、絶対に受診しませんでした。保険がきかなくて、初診料が3万円台後半もします。歯医者さんの名前は出せませんけれど、この記事が私たちみたいな人で受診を検討している人の目に止まり、判断材料の1つになることを願って、ことの顛末を書きたいと思います。

結局、説得はできなかったそうですが、一応議論にはなったそう。いや~、でもひどすぎて、久々にはらわたが煮えくり返りました。

相手の言い分は、玄米を食べて、砂糖をやめれば、問題ないの一点張りです。水銀が危なくないとは言わなかったみたいですが。

口の中でずっと水銀を出し続けるのに、口の中でずっと電磁波のアンテナになって身体に不調をきたすのに、玄米を食べてれば大丈夫って、そんなアホな…。 

友人が、アメリカでもアマルガムが規制されるというニュースを教えてくれて、国際条約の水俣条約を受けて日本も日本歯科医師会がアマルガムの廃絶に取り組むと宣言していることを伝えたところ、「研究者の言うことなんて信用ならん」とアタマから否定。否定するからには、論拠を示してほしいのですが、ないから言えないのでしょう。水銀が大丈夫だというのは誰の言うことを信用してのことなのでしょうか。

内海聡さんという現代医療に疑問を投げかけるお医者さんの本を、その歯医者さんも持っていたそうです。その本にも「アマルガムは毒」とはっきり書かれているのですが、都合の悪い話は無視なんですかね(内海さんがアマルガムについて触れられているFBの投稿その1、その2。同じような内容が本にも書かれていました)。

アマルガムが危ないと言われたのは10年ほど前のこと。もう日本にはアマルガムの在庫がないそうで、その歯医者さんはわざわざオーストラリアから輸入しているそうです(なんで、そんな危ないもん輸入してんねん!)。

前の投稿でも書きましたが、この歯医者さん、食事療法も含めた独自の診療をしているため、保険がききません。院長先生が担当する場合は1時間あたり2万円、歯科衛生士さんが担当する場合は1時間あたり1万円だそう。簡単な治療でも難しい治療でも一律で時給計算って、個人的には法外な感じがします。保険の効く普通の歯医者さんよりも安全なもので治療してくれるならそれもわかりますが、アマルガムを使う普通より危ない治療なのに、トータルで60万近くかかるという見積もりを出されました。

アマルガムが身体に悪いことはこれだけ自明のこととなっているし、それを知っているからには口の中に入れたいわけがありません。代替策が一般的になっている現代なのに。イヤだと言っているのに、「入れてみてから考えては?」と言われたそうです。私からすれば無責任としか言いようがありません。あなたに高いお金を払って、そんなに身体に悪いものを悪いとわかっていながら口の中に入れるバカがどこにいると思っているのでしょうか。しかも、もしやっぱりダメだったら、また高いお金を、身体に毒を入れた張本人に払って、とってもらわないといけない。もはやブラックコメディのよう。

しかも、その歯医者さんでは、アマルガムを詰めた後、ヤスリで磨いて表面をツルツルにするとのこと。そんなことをしたら飛び散った水銀を飲み込んでしまいます。下手な歯医者でアマルガムを除去しようとして、飛び散った水銀を飲み込んでしまい、身体中に激痛が走ってのたうち回った事例を映像で見たことがあるので、ぞっっとしました。

しまいには「そんなこと言って、あなた虫歯10本もあるじゃないの!」と、弱みにつけこんで発言権を奪おうとする始末。水銀が身体に悪いことと、それでも彼らが水銀を使い続ける理由と、相方に虫歯があるということには全く因果関係がありません。論理が破綻しています。

カルテに挟まれていた説明には、「水銀よりも砂糖のほうが何万倍も身体に悪い」と書かれていました。だれの研究結果なのかも、どう実験したのかも、どういうデータに基いているのかも、まったくなし。あるのは一方的な主張だけです。論理思考の基本である「主張―理由付け―証拠(具体例)」のピラミッド構造がまったくありません。

そもそも、何について水銀と砂糖を比べているのかも不明です。何万倍と言うからには、例えば、水銀を摂取した場合と砂糖を摂取した場合とでガンの発生率を比べるなど、同じものについて数値がなければいけないはずですが。砂糖を目の敵にして、玄米を無条件に良いものとするその姿勢は、他の考え方を認めず、唯一神のみを絶対とする原理主義者に重なるものがあります。

その次のページには、その歯医者さんが強度が弱いから使わないと主張するレジン(樹脂)を埋めた歯で虫歯が再発した恐ろしい写真が何枚も載っていて、「ね、アマルガムのほうがいいでしょ?」と言わんばかり。同じ条件下で、アマルガムについては再発率を調べたのでしょうか。頑丈だとおっしゃるアマルガムだって「3年以内に劣化の兆候が表れ、10年後には平均で総重量の約73%が減少する」と言われていますし、身近な例で言えば、うちの父はアマルガムの下で虫歯が再発しています。

いくらマクロビを提唱しているにしても、アマルガムの危険性もフッ素の危険性(ここではフッ素も使うそう)も勉強していないなんて、歯医者という本業をおろそかにしているように思います。こう言っては失礼でしょうけれども、玄米を圧力鍋や炊飯器で炊いてもよいと教えているなど、マクロビを仕事にしている私の友人知人たちより理解がずっと浅く、レベルははるかに下に思えます。歯医者という本業はおろそかで、マクロビもそこまでなのに、私の友人知人たちよりも高いお金をとるなんて許せないと思いました。若杉ばあちゃんも言っていますが、食養で金儲けしようなんてとんでもない。毎日の暮らしで食養を実践している一人として、そう思います。

そもそも、医者の役割というのは、なるべく患者の意向に沿って、患者が治るのをサポートすることだと思います。専門知識をもとに患者に情報を与え、患者がよりよい判断をできるようにするのが良い医者であり、患者の意向を無視して自分のやり方を押し通そうとするなんて傲慢です。

その先生の指導のおかげで玄米で元気になった人がいっぱいいるとおっしゃるのですが、「治してやった」という上から目線な物言いは間違っていると思います。お米を作ったのは彼ではありません。偉いのはお米を作った農家さんだし、そういう身体にいい自然のお米を作っている農家さんは決まって、お米が偉い、自然が偉いと言うものです。不可能と言われるりんごの無農薬栽培を成功させた木村秋則さんも、「あなたの腕にきゅうり一本成らせることができますか?あなたが作っているのではない。きゅうりがきゅうりを作っているのです」と、おごり高ぶる人間を諭しています。

教訓としては、知識と論理的に考える力は自分を守ることにもなるし、人を助けることにもなると思いました。これだけ社会毒があふれている今の時代、これらがなければ簡単に毒漬けになってしまいます。受診してしまってから見つけたのですが、アマルガムについてその歯医者さんのブログで質問していた人がいました。その人はあっさり引き下がって信じてしまっていました。知識と調べる力が足りなかったのか、それとも、穏便に済ませるためにお茶を濁したのかはわかりません。おかしいことはおかしいと主張しなければ、被害者が増えるばかりだと思いました。

お医者さんについては、自然派やホリスティックなお医者さんも、普通のお医者さんも、同じくらい警戒して慎重に調べたほうがよいと思いました。特に、代替医療などはまだ走りですし、流行りにのってマーケティング的に使っているお医者さんにも当たってしまったことがあります。

それから、英語が読めてよかった!と思いました。日本語だけだと、日本の中のことしかわかりませんが、英語が読めると世界中から情報が集められるので、例えば、日本で安全と言われていても、海外では危ないというのが常識になっていることなども知ることができます。日本で公開されていないのに、アメリカでは公開されている重大な文書を読めてしまったり。殺されないようにするために必要な力だと思いました。

This post is about a debate my partner had over the health risk of dental amalgum with a dental clinic which calls itself "natural dental clinic". (Several friends who do macrobiotics and love natural lifestyles recommend this clinic.) Studies around the world say dental amalgum, consisted with mercury up to 50%, is highly harmful for health.
i.e.) http://www.biomedcentral.com/content/pdf/1745-6673-6-2.pdf
Some countries, including Sweden, have banned or restricted the use of it.

The dentist advises its patients to avoid chemicals in food such as additives, pesticides, and refined sugar, so it was the last thing I expected that such a macrobiotic dentist uses such a dangerous metal, now that the alternative material, composite resin, is more common in Japan. Though they were quite illogical and my partner refuted all their claims with enough data and studies, they never agreed.

The lessons are that English gives me larger domain to find important information to survive than Japanese, and that enough knowledge and good logical thinking are necessary to survive or live better in this society full of invisible toxic substances. Of course, we decided never to see that dentist again.

20140810

カンタ・ティモールを観てきました

【旧暦文月十五日 月齢 14.2 立秋 涼風至(すずかぜいたる)】*明日は満月3:09*

ドキュメンタリー映画カンタ・ティモール(歌え、ティモール)を観てきました。

*ストーリー紹介↓
http://www.canta-timor.com/01story.html

*予告編はコチラ↓
 

監督のお兄さんで撮影にも同行された写真家の直井さんも来てくださり、貴重なお話も聞かせていただきました。

上映後のお話し会の様子
悲しい事実を描いたものではありますが、善く生きる希望を与えてくれる、素晴らしい映画でした。東ティモールの人々の歌い、語る言葉や生きる姿から、許すということ、大地を敬う心、ジャーナリズムの重要性、政治にまずは関心を持つことの重要性など、大切なことをたくさんたくさん教えてもらいました。去年(まだ東京にいました)、フェアトレードショップで働いている友人からも、「すっごくいいから観て〜」とチラシをもらっていて、みたいみたいと思っていたのですが、移住のドタバタで叶わず、ようやく観ることができて本当に良かったです。音楽も素晴らしくて、音楽好きの方にもオススメです。

国民の3人に1人が殺され、国土の9割を焼かれるという壮絶な戦争が27年間続いた後、2002年に東ティモールは独立しました。こんな大変なことがあったなんて全然知りませんでした。

太平洋戦争中には日本が占領したこともあることや、占領を続けていたインドネシアにヨーロッパ各国が経済制裁を強める中で多額の軍事資金援助をしてきたのが日本で、しかも国別の内訳のグラフを見ると、日本の援助額が世界一だったこと、インドネシア軍の撤退を求める国連の総会決議では先進国の中で日本だけが毎年反対の票を投じていたことなど、日本人として、知っておくべきだったなぁ、と思う歴史を知ることができました。

日本がインドネシア軍の支援にまわったのは、インドネシアを支援すれば石油を安く買うことができ、インドネシア市場に日本の製品を売ることができるから。アメリカも軍事協力をしていました。一部の大企業が金儲けのために、自分たちは手を汚さずに戦争を起こしている―なんてむごいんだろうと思いました。

*もっと詳しく知りたい方はコチラ↓
■東ティモールについて(監督の広田奈津子さんがまとめてくださっている)
http://www.pc-lifeboat.com/waon/katsudou/abouttimor.html
■独立した東ティモール 日本とどんな歴史が?
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-05-30/0530_faq.html

同じからくりが、アチェをはじめ、世界中で今も起こっている戦争で見られます。使われているのは私たちの税金で、税金の使い道を決める国会議員を決めるのは私たちの投票。大企業を支えているのは私たちがその企業の製品やサービスに支払っているお金や、銀行にあずけているお金。私たちは何をすべきなんだろう、どうしたらいいんだろう、とすごくすごく考えさせられました。

3.11以降、世界を良くしたいと願い、願いから行動に移している人も多くなってきたように感じています。また、何か良くないことが起こっているときに、あいつが悪い、と悪者を決めて、そいつをやっつけるみたいな、単純思考ではなくて、自分も思考や行動も含めて、何がこの現象を起こしているんだろう、どうしたら解決できるんだろう、と考える人も増えてきたように思います。

そういう願いや思考や行動は、確実に世の中に良い変化をもたらしていると思います。例えば、外国の石油をねらって戦争が引き起こされているという現状を変えるには、石油を輸入する必要がなくなればいいと私は思うのですが、石油利権がらみで戦争を起こしまくってきたアメリカは今、外国から輸入する石油依存を減らすと宣言しています。2013年には20年ぶりにアメリカ国内で産出された石油量が輸入量を上回り、「アメリカン・メイド・エネルギー」をキーワードに再生可能エネルギーによる発電量拡大を目指しています(ちょうど今させてもらっているリサーチのお仕事で知ってタイムリーでした)。ソーラーパネルに使われるレアメタルはやっぱり地下資源だから、地下資源利権がらみの戦争につながるのではないか、という問題はありますが…。でも石油がらみの戦争がなくなる方向に動いていることは、今までからしたら大きな進歩だと感じます。街に出て、企業活動をチェックしてみても、まだまだ問題があって発展途上ではあるものの、昔に比べたら考えられないくらい、地産地消やフェアトレードを取り入れた製品が広がっているし、石油原料をやめて植物性由来成分に切り替えた製品なども増えています。私たちの願いや思考や行動が、目に見える良い変化として現れてきているのではないかなぁと思っています。

質疑応答を聞いていて、大企業や政府や大手マスコミなどを悪者と決めつけて、ただ叩くのではなくて、よく話して仲間になって一緒に良くしていくという、そういうスタイルが大切だなぁとも思いました。大企業でも大手マスコミでも、中で働いている人たち一人一人は、自分と同じ、一人の人間で、知ったらいいことをしたいという人もいっぱいいると思うし、知ったらいいことをしたいと思っている人が社内で多数派になったら行動したいのになぁと思っている人もいると思います。そういう仲間をだんだん増やしていくことも、自分にできることかなぁ、とお話をきいていて思いました。

とても素晴らしい映画でした。

20140618

電気代505円也

今月分の電気使用料のお知らせが来ていました。

先月までは同じ敷地内で友人が住むもう一軒の家と電気が共同だったのですが、この間、切り離し工事が済んで、今月から純粋に我が家だけの計算になりました。

見てみると505円。こんなに安かったのは初めてでちょっと衝撃でした。早いとこ、アンペアダウンして基本料も下げよう!

ソーラー発電のライト(通称イチロー。ソーラーパネル第一号だから)で過ごしていましたが、ムカデが出るようになり、イチローではムカデの発見が遅れるので蛍光灯を使うようになりました。なので、来月はもうすこし高いかなぁ…。

東京のアパートでは、照明はイチローで、東電の電気は冷蔵庫と洗濯機とパソコンでした。パソコンは今も変わらないので、冷蔵庫と洗濯機って結構電気を使うんですね。干し野菜と手洗い、ますますやる気がわいてきました(←ゲンキン)

改装が落ち着いてお金にも時間にも余裕ができたら、照明とパソコンも完全に自家発電にします。

20140527

ヤナの森の生活


大きな虫が出て不安に心がしぼんでいたときに、近所の書店で出会った本です。

ムカデに噛まれて意気消沈な今、読み返して元気をもらっています。マングースよりはムカデのがマシか~。。虫が嫌で、最近よくイオンに避難している私に、暮らしを創っていくやる気を取り戻させてくれたのと同時に、大切なことを思い出させてくれる本でした。自然と調和したサステナブルな暮らしを創る。感謝して生きる。初心に返りました。またがんばります。

そして、こんな素敵な本の翻訳がいつかできたらいいなぁという夢もできました。

20140302

西のほうへ移住します

3月中旬に日本の西のほうへ移住します。

2004年に東京へ来て、早いもので10年が経とうとしています。生まれ育った自然豊かな環境から、この東京に来たときは、同級生の言葉を借りると「コンクリートジャングル」のこの都会を、とても好きになれませんでした。

でも、長く暮らすうちに、素敵な人たち、素敵なお店、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれて、いざ離れる時が来てみると、大好きな人たちとちょくちょく会えなくなるのはとてもさみしいです。地理的に遠くなってしまうのは残念ですが、自分の生き方を見つめ直し、新しい場所で新しい暮らしを始めることにしました。

この地域にはそれまで行ったことがなかったので、その後、数回訪れました。山もあり、海もあり、小洒落たお店がけっこうあり、歴史も深く、人は穏やかで親切な人が多く、とてもすてきなところだと思いました。という話をすると、あえて負の側面を教えてくれる地元の方もいて、正直というか、いい人が多いなぁと思いました。

住む家を探しに行ったときには、ふらりと入ったお惣菜屋さんのお姉さん(仕事仲間にそっくりでびっくりした)まで、「このエリアは穏やかな人が多くて住みやすいですよ」と地図を持ってきてくれたり、どこへ行っても親身になってくださる方がいました。実際に家を見せてもらうときは本当にたくさんの優しい人たちのお世話になりました。

ありがたいことに、駅が近くて、田畑がついた古民家を借していただけることになり、移住することになりました。引っ越したら、まずは田んぼと畑をがんばります。あとは、非電化冷蔵庫を作ったり、PC用のソーラーシステムを組み立てたり。囲炉裏とかまどと石窯も作りたいし、コンポストトイレも作りたいし、山や寺社を探検にも行きたいし…やりたいことがいっぱいです。

東京に来るときには、みなさんとまたお会いできたらうれしいです。物理的にはあまり会えなくても、これからももっと交流できたらうれしいです。

※もっと読んでくださる方へ→西のほうへ移住します―追記

西のほうへ移住します―追記

長くなりますが、もっときちんと書いておきたいと思ったので、もう少し詳しく追記します。移住を真剣に考えるようになったのは、震災と東電の原発事故がきっかけでした。

もともと田舎育ちなので、都会は合っていなくて、いずれは田舎にと漠然と思っていました。地震と原発事故でそれが加速したという感じです。

地震で大きな仕組みがストップし、お金があっても食べ物がない、電気が来ない、燃料も足りなくなる、電車が動かなくて家にも帰れない、そんな都会の暮らしを目の当たりにしました。お金さえあれば何でもできるという前提を自分が持っていたことと、それは幻想であるということを同時に知ることになりました。

もともと、自然と調和した暮らしがしたいという気持ちをぼんやりと抱いていましたが、この経験をきっかけに、衣、食、住、エネルギーの自給率を増やした手作りの暮らしがしたいと具体的に考えるようになりました。すでにそういう暮らしに入られている人々のお話を見聞きするうちに、ますます憧れが膨らみ、東京でも小さな畑を借りて自然農に挑戦したり、味噌や梅干しを作ったり、自家製酵母でパンを焼いたり、小さなソーラーシステムを作ったり、焚き火を教えてもらったり、田舎暮らしの予行練習をしているような感じでした。自分でできることが増えるのが楽しいのと同時に、どんな状況でも生きていける安心感が大きくなっていきました。

場所を西日本にしたことについては、これは言わないことも考えたけれど、やっぱりそれは卑怯だと思ったので言います。自分だけ情報を知って、それをもとに行動し、ほかの人に知らせないのはずるいと感じるし、情報を知ったうえで暮らしを考えてほしいと思うので、やっぱり言うことにしました。もちろん、今汚染地に住んでいる人たちに不安を与えたくないから本当のことは言わないという気持ちもわかります。私も迷ったのはそういう気持ちがあったからです。聞きたくないという人もいると思いました。言わない人を責めるつもりはありません。言わないのが正しいのか、言うのが正しいのか、私にはわかりません。ですが、自分が本当のことを聞かせてもらって助かったという経験や、自分の中のずるい気がするという感覚に従って、本当のことを言いたいと思いました。私の思ってきたことも合わせてこれまでの経緯を書きたいと思います。

東京電力の原発が爆発して、東京も放射能で汚染されてしまいました。原発の問題に詳しい人たちの中には汚染がないか少ない地域に移住をする人もいました。自分の住んでいるところは大丈夫と思いたい気持ちも捨てきれず、私の住んでいる府中市では空間線量計を無料で貸出してくれているのを知っていながら、測ることはしませんでした。しかし、親しい人が汚染されていない地域から東京に引っ越してきたいと言うので、本当に来てもいいものかと、ついに測ることにしました。

そのときのことは過去のブログにも書きましたが、概して0.07~0.08μSv/hのところが多く、0.1μSv/hを超える場所も点在していて、事故前の東京の平均数値0.036μSv/hよりも低くなる場所はまれでした。また、車通りの多いところに行くと高くなる傾向がありました。土や空気に存在しているということは確かで、埃に付着して存在する放射能が舞い上がったものを吸い込めば、呼吸による内部被曝をしてしまいます。この程度ならそこまで神経質になる必要はないとおっしゃる方もいるのですが、私が知る限り、何ベクレルまでなら大丈夫なのかは科学的に証明されていませんし、大丈夫とおっしゃる根拠がわからないので、外出時はなるべくマスクをして吸い込まないようにするようになりました。

「放射能下の日本で暮らすには?」など原発と被曝に関するさまざまな本を読んだり、映画「内部被ばくを生き抜く」を見て、被ばくに対するリテラシーを高めようと勉強しました。本はたくさん読みました。内部被曝は何ベクレルまでなら大丈夫という研究結果はないということもわかりました。わからないなら、予防原則をとって、なるべく避けたいと思いました。若い人ほど影響を受けやすいこともわかりました。同年代の友人や小さい子どもがいる人にはできる限りの被曝対策をとってもらいたいと思いました。

さまざまな本やウェブサイトにも書かれていることですが、自然放射能と違って人工放射能は身体からすんなり出て行かずに特定の臓器にたまり(たまりやすい場所は核種によって異なる)、至近距離から集中攻撃をすることがわかっており、外部被曝ではさほど問題にならない種類の複数の放射線も内部被曝では問題になってきます。DNAの二重らせんを二本とも放射線で切られてしまうと、誤って修復してしまうことがあり、染色体異常を引き起こし、これが増殖すると発がんにつながるリスク(わかりやすいNHKの映像)があります(「放射能下の日本で暮らすには?」にウニの比喩でわかりやすく書かれていて、参考になります)。

東京で暮らすなら空間線量計も欲しい(そうでないと、線量の高いところに知らずに座ってしまったりするから)けれど、高くてとても買えない…と思いました。自分ができるなかでベストなのは何かを考えました。厳しい検査体制をとっているところから不検出の野菜を買う、検出下限値がわからないなら汚染されていない産地のものを買う、外食でどこのものかわからないものをどうしても食べないといけないときは汚染されやすい食品を避ける(「食べる?」という本が参考になります)、飲み水にはセシウムを吸着するゼオライト入りの浄水器を使う、外出時はマスクをして吸入を防ぐ、放射能の排出を助ける麻炭を摂取する、免疫力を高める食事をする、電磁波や化学物質など放射能以外の危険因子を避ける、レントゲンなどの医療被曝の回数を減らす(日本の医療被曝は鮮明さを優先して諸外国よりも線量が高く、回数も多い)など、できることをいろいろ考えて、できるものはやってきました。聞いてくれる人にはそういうお話もしてきました。

自然と触れ合いたいけど汚染がどのくらいあるかわからない、お風呂の水にも放射能が微量に入っている、吸い込む空気にも放射能はある、それでも東京なのか?と自分に問いました。東京をどうしても離れられない理由はなく、生活の不安がないわけではないけれど、田舎のほうがやりたいことができると前から思ってきたじゃないか、と思い、そうすることにしました。東京で知り合った素敵な人たちと会えなくなることだけが東京を離れたくない唯一の理由でしたが、新しい土地にも素敵な人たちがたくさんいるし、東京の素敵な人たちと新しい場所にいる素敵な人たちの橋渡しができたらもっと素敵なことが起こるかもと思えるようになりました。

親には最初、「ベクレルだかモクレルだか知らないけど、そんなことを知ったところで何にもならないじゃないか。そこまでするのか」と言われましたが(故郷からはだいぶ距離が離れてしまうので、遠くに行かれるのが嫌だったのだと思います)、「後悔したくないから」と伝えた後、科学的知見と論拠や移住先についての情報を長い手紙に書き、今はよく理解してくれています。故郷も、山と風向きに守られていたおかげで、市民測定所などのデータを見ていて水や空気などから放射性物質が検出されることはほとんどないのですが、車がないと生活できない環境なので、移住は難しいと判断しました。

放射能のことをちゃんと言おうと思ったのは、すでに移住した人たちが、隠さずに理由を言ってくれたおかげで(たとえば田中優さんなど)、私も移住を現実的に検討することができ(それがなければ検討すらできなかったと思います)、生き方を考え直すきっかけにもなり、とても感謝しているからでもあります。もし、移住できるならしたいと思っている人が、この文章を読んでくれて、願いを実現する力に少しでもなれたらうれしいです。いろいろな方と話していて感じるのですが、東京には放射能がないと思っている人がかなりいるようです。だから、移住という選択肢がとれない人たちには、正しい情報を知って、できる対策をとって後悔のないように過ごすということを少しでも考えてみてもらえたらと願っています。これからも情報発信を続けていくつもりです。肥田先生のインタビュー記事も希望が湧いてくる内容です→「内部被曝を乗り越えて生きるために」。

新しい土地に引っ越すことができるのも多くの人の支えがあってのことでした。そのことに感謝して、移住後は社会のために自分ができることをやっていきたいです。早く事故が収束すること、原発事故の被害を受けた人々が生活を立て直せるように社会が変わること、原発が世界からなくなること、命を大切にする世の中になることを願っています。

20131106

太陰太陽暦のこと

【旧暦10月4日 月齢 2.6 霜降 楓蔦黄(もみじつたきばむ)】

上記にも書いてあるので、お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、太陰太陽暦を使いはじめました。現在一般的に使われているグレゴリオ暦(新暦)と対比して、旧暦ともよく呼ばれます。

きっかけは、よく行くフェアトレードショップアースジュースの友人に、借してもらった一冊の本でした。早川ユミさんの『種まきびとのものつくり』という本で、高知県の自然に囲まれて、自然に沿った生き方をされている様子が写真とイラストと文章で紹介されています。月のリズムでも生活することも書かれていて、とても興味をひかれました。お仕事をご一緒している方が月のリズムでご自身のウェブマガジンを更新されていて、旧暦のことは前から気になっていました。

新月から次の新月までが1カ月。よく考えたら、monthの月って、お月さまのことなんですね。太陽が上って沈むまでが1日なので、dayの日ってお日さまのことなんですね。日と月と、毎日見る暦は実はこんなに身近に宇宙を感じられるものだったんだなぁと感動しました。

月の満ち欠けと地球の水の関係は、こちらの説明がとてもわかりやすくておもしろかったです。
●はからめ『地球の水と月と太陽』
最後のほうに「…この引力の問題は、海だけじゃなく全ての水に影響があることなのです。それは体内を流れる血液など、約70パーセントは水でできている私たち人間への影響は大有りだと思いませんか?月の満ち欠けは水にとっての時計のようなものであると私たちは考えています。月の満ち欠けと、体を照らし合わせてみてはいかがでしょうか?」とありますが、ほんと、大有りだと私は直感的に思います。

はからめさんの月のカレンダーのページに書かれている暦のいろいろ、とてもおもしろいので、よかったら見てみてください。2014年版はもうできているそうです。
●はからめ『月のカレンダー』

2週間くらい過ごしてみたのですが、結構月の影響を受けていたんだなぁと実感しました。満月に種をまくと芽が出やすいとユミさんの本に書いてあったので満月にまいてみたら、新月すぎに本当にぶわーっといっぱい出ていました(F1種でないので出芽は遅いのです)。仕事についても、下弦から新月にかけては仕事が落ち着いていたので、いろいろと溜まっていた諸用をすっきりさせて、新月を過ぎたら急に相方も私も仕事がぽんぽこ入ってきて、今まで意識しなかったけれど、仕事のサイクルもそんな感じだったのかもなぁ、と思いました。

お気に入りの本『にほんのいきもの暦』を参照しながら、二十四節気と七十二候も手帳に写してみたら、結構そのとおりで、昔の人の感覚ってすごかったんだなぁ、本当に自然とともに生きていたんだなぁ、と思いました。今の二十四節気は「霜降」(北国では霜が降りる頃)、七十二候が「楓蔦黄(もみじつたきばむ)」です。二十四節気はただテキトーに決められているのではなくて、太陽の運行をもとにしているとのこと(*注1)で、暦、なんとも奥が深いです。
*注1:二十四節気(日本文化いろは事典)

今年の手帳にはからめさんの月の手帳がほしいなぁと思っています。太陽太陰暦を勉強しながら、自分で手づくりするのも身についてよさそう。ちなみに、昔からあるとは言っても、大安とか仏滅とかの六曜はテキトーに振っているだけなので、信じていません(広まったのは新暦が採用された明治以降なんだとか)。ついている手帳がほとんどなのですが、はからめさんのにはついていないのもありがたいです。六曜は、差別との関連も指摘されているよう。テキトーに振っているだけなのに、なんか、仏滅とか言われたらなんか怖くなっちゃうじゃないですか。しかも仏滅ってほんとの漢字は物滅で、暦業者が勝手に字をあてて広めたようですし、そんなテキトーで運命左右しないでくださいよってなことで、できれば見たくないものです。

そうそう、暦といえば、地球暦も大好きです。まだあまり詳しくわからないのですが、機会があったら、じっくり知りたいです。Facebookでも発信されていて、興味深く読んでいます。