20141226

しないことリストのすすめ

【旧暦霜月五日 月齢 4.1 冬至 乃東生(ないとうしょうず:夏枯草が芽を出す)】

辻信一さんの新書『「しないこと」リストのすすめ』を読みました。数カ月前に出たばかりの本なのですが、地元の図書館にもう入っていました。コアーな自然系の司書さんがいらっしゃるのかもしれません。


20141220

砂糖の害について

【旧暦神在月廿八日 月齢 26.6 大雪 鮭魚群(さけのうおむらがる)

先日、砂糖断ちをしている話を書きましたが、砂糖の害についてとてもわかりやすくイラストで説明されているブログ記事を知りましたので、ご紹介します。ご家族にわかりやすく説明するために描かれたのだそうです。

☆砂糖の害について☆

http://blogs.yahoo.co.jp/tffxq722/55122405.html
上記ブログから。
ほかにもメカニズムなどがわかりやすく描かれています。
じゃあどうする?という結末も共感しました
私が砂糖の害について知ったのは、食養(マクロビ)関連の本ででした。2年くらい前から白砂糖はなるべく食べないようになり、今は歯のために極力避けるようにしています。甘いお菓子がないとダメ状態から、だんだんと我慢できるようになり、最近は白砂糖以外の甘味料も含めて、甘いもの自体が欲しくならなくなりました(好きなことには好きなのですが)。歯の不具合のおかげで砂糖中毒を終わらせることができてよかったです。身体の不調はなにか大切なことを教えてくれているのかもしれません。

20141216

それでも種をまき続ける

選挙結果にがっかり。でも落胆している暇があったら、できることをしっかりやっていかないとなぁ、と気を取り直しました。友人がフェイスブックの投稿で「明日世界が滅びるとしても、私はりんごの木を植える」というマルティン・ルターの言葉を教えてくれました。私も種まきを続けていきたいと思います。

ひとまず、選挙結果を自分なりに考えたいと思います。

この選挙はなんだったのか。私的には雨宮処凛さんのこの論考が近かったかなぁと思っています。

「命より金」の安倍政権への審判。の巻

20141129

共創する世界へ

【旧暦神在月七日 月齢 5.6 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)】

先日、ひさびさにスポーツの試合を見た。夕食を食べに入った店でテレビがついていて、たまたまかかっていたのがアメリカ対日本の野球の試合だった。

どちらのチームの選手も、初めて見た人たちだったのに、なぜか日本を応援してしまう自分に気づき、怖くなった。国対抗のスポーツの試合はナショナリズムを助長しやすいのかもしれないと思った。相方は、日本人だからという理由で知らない人でも応援したくなるというようなことは思わないらしく、個人差はあるだろうが、大多数はどうなのだろうか。また、久々にアナウンスを聞いたが、選手の名前は呼び捨て、年齢まで大声で叫び、なんて失礼な人たちなのだろうと思った。応援するような温かい気持ちは全く感じられず、どちらが勝つかにただ興奮しているだけに見えて閉口だった。

オリンピックもワールドカップも、じつはあまり興味がない。どちらが勝つかなんて、興味がない。メダルの数なんてどうでもいい。選手同士がスポーツを通じて親交を深め、技を磨き合い、尊敬する選手から刺激や学びを得ることは素晴らしいことだ。一流の選手の試合後のコメントを読むと、きっとそのような気持ちで試合に臨んでいるのだろうなぁと想像する。

だが、観る側と報じる側は、親善とは逆の態度をとっていないだろうか。日本人のアナウンサーが、日本の選手の名前をけたたましく叫ぶのも、日本の新聞の多くで、日本人選手の活躍だけが強調されるのも、お互いの健闘を讃えるのではなく、同族の躍進を望む意識を焚きつけているように思える。観る側は自分がやらないから無責任に見ることができる。「敵」を叩いたり、日本人選手が勝てなかったからとあれがダメだった、これがダメだったと好き放題に批判をしたり、傍観者の言いたい放題な物言いには、それならお前がやってみろと言いたくなる。

戦ってどちらが強いか、どちらが上手かを、既成の基準に照らして決めるなんていうのは、さみしいことだ。お互いにそれぞれいいところは違う。それぞれのいいところを評価しあい、認め合い、お互いを高め合い、共にさらに高い芸術的世界を創造するほうが、楽しくて、よりよいものができていくのではないだろうか。オリンピックも世界大会も、競争ではなくて、共に創る共創の場になっていったらいいのになと思う。

20141127

コードスイッチング

【旧暦神在月五日 月齢 3.6 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)

異なる言語を混ぜくちゃにして話すのは、長年、言語能力が低いからだとされてきた。大学の授業でそんな話を耳にした記憶がある。

また、言葉は文化だとも聞いた。この二つの意見は矛盾していないかと思っていた。

ある文化にしかないものを、別の文化の言葉で表す場合、表したいことを表せる表現がないこともあるはずだ。そういうときは混ぜるしかないのではないか。

日本語の中でさえもそうだ。秋田弁が母語の私は、秋田弁にしかない言葉を、東京弁に変換しても、結局しっくりこないことが多い。和歌山弁も話せるようになり、和歌山弁ならではの会話のリズムやスタイルが、東京弁に変換した途端にぎこちなくおもしろみがなくなり、出てくる発想が変わってくる。私と相方は和歌山弁で話すことが多いが、秋田弁が表す概念をお互いがよく知っている単語については、秋田弁を混ぜて話している。

英語も話す人と話していて、英語の概念で表したほうがしっくりくる場合や伝わるのが速い場合、英語を日本語に混ぜて話すことがある。翻訳の仕事もしているので、なるべく混ぜないほうが良いものかと自粛していたが、最近訳した英語のエッセイに、言語能力が高いほどコードスイッチング(異なる言語を混ぜて話すこと)をするというシンガポールの研究者の論文が紹介されていて、自主規制をやめることにした。

特に、男女について話すとき、日本語は不自由だと感じる。私は、wifeを「奥さん」「家内」、husbandを「旦那さん(=patron)」「ご主人(=master)」と言うのが嫌いだ。女だからって「奥」「家の内」にいるわけではなく、独立した意志を持った個人である。男だからって他の家族を従える「主人(=master)」や経済的に援助する「旦那(=patron)」ではない。そんな男尊女卑の古い考えを反映しているものはぶち壊してしまいたい。一人一人の人間が自分自身のmasterであり、自由であると同時にそれぞれに責任があり、お互いの意志にもとづいてお互いを大切にし、協力し、家庭を運営していく。それが本来の人間の在り方ではないだろうか(これについては過去にも書いている*1*2)。嫌いなのに、それ以外に適当な日本語がないから、名前を知らない夫婦について話すとき、女性のほうを示したいときは「奥さん」、男性のほうを示したいときは「旦那さん」と言わなければならない。そのたびに「負けた」というくやしい思いをする。

自分たちのことを話すときは、「パートナー」「相方」「連れ合い」などの表現を試しに使ってみている。かつて「友だち」と言っていたこともあったが、「それカレシでしょ(なんで言わないの)」とヒンシュクを買ったことがあってやめた。「連れ合い」は、ときに年相応でないと失笑され、パートナーも遠回しに聞こえるようで「カレシ?」「ダンナ?」と聞かれることもあり、結局「相方」に落ち着いた。

こういう違和感を持っている人は私たちだけではないようで、山暮らしの本を書いている男性も著書のなかで「相方」と呼んでいるし、古くて新しい暮らしを提案している男性も著書の中で「同居人」をいかに愛しているかを書いていた。「相方」と言う人がまわりで少しずつ増えてきているような気もしている。LGBTの人たちもパートナーのことを「相方さん」「パートナー」と呼ぶと聞いて、性差がない状態ではやはりそういう表現に落ち着くのかと、おもしろく思った。

「カレシ?」「ダンナ?」と聞かれるたびに思うが、日本語では婚姻関係まで明らかにしなければ単語が定まらず、多くの日本人は落ち着かないないようだ。そして説明しても理解されにくい。東京と秋田では経験がないが、移住先の西日本では子どもがいるかどうかまで聞かれることも多い。いる場合には、私は「お母さん」、相方は「お父さん」と呼称が変わるのだろう。

今年は議会でのセクハラ、マタハラが明るみに出たが、日本語自体がセクハラでマタハラな言語かもしれないとさえ思う。私は相方といると決まって「奥さん」と呼ばれる。面倒なのでいちいち訂正しないが、名前を言わないといけなくなると、「えっ、結婚していないんですか!?」と驚かれ、「ご予定は?」などと言われて煩わしい。きちんとしていない不真面目な恋人どうしのように思う人もいるようだ。契約などのお墨付きがなければ、絆の強さがわからないほど目が節穴なのだろう。腹が立つが捨て置くことにしている。

言葉が文化の表れであるならば、言葉には文化を変えていく力がある。違和感のある文化の言葉をそのまま使うのではなく、よりしっくりくる表現を他の言語から借用するなり、作り出すなりして、新しい表現を作っていけば、おかしな慣習だって、おかしな考え方だって変えていけるのではないだろうか。言葉への違和感をそのままにせずに、自分がしっくりくる言葉を使っていけば、おかしなものに染まらずに自分をしっかり保てるのではないだろうか。逆に言えば、言葉のもつ概念や背景、ニュアンスをよく考えずに使っていると、固定観念に流され、思考が疎かになっていくのではないだろうか。どういう言葉を使うかをよく考えていくことは社会の問題や生き方を考えていくことにもつながっていく。そんな気がしている。

20141123

Go Vote? or Go War?

【旧暦神在月二日 月齢 0.6 小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)


脱戦争ポスター展より

安倍首相のことは別に嫌いじゃない。「アベちゃん」と呼びたくなるくらい、なんだか親しみを感じてしまう。やっていることは許せないが、「だじゃぐわらし」(秋田弁で思い通りにならないと暴れるわがままでかんしゃく持ちの子どものこと)みたいでめんこくもある。G20で各国首脳から敬遠されて、一人寂しそうに自分のコップにお水を自分で注ぐ様子なんて、すねた子どもみたいでそれだけでもかわいそうなのに、ネットでバカにされているのを見たら、いたたまれない気持ちになってしまった(なので敢えて写真は載せない)。

きっとただの人に戻ったら、悪いやつじゃないのだと思う。でもおぼっちゃまで甘やかされて育って打たれ弱いのだと想像する。それで、うまく利用されてしまうのだと思うし、すぐ調子に乗ってしまう。長きに巻かれ、権力者になびき続けて、頭ももしかしたらあまりよく使ってこなかったのかもしれない。法律をつくる人のトップなのに、憲法のこともわかっていない。法律が専門でない私でさえ、中学校の時に習った衆議院の解散の条件くらい覚えている。内閣不信任決議案が可決されたときと、内閣信任決議案が否決されたとき以外に解散はできないはずだ。なんで解散できるのか、なんでこんな身勝手な解散が許されるのか謎すぎる。森田実さんも憲法違反だと指摘している。

●政治評論家・森田実氏が緊急寄稿「大義なき解散は憲法違反」
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/155128

政権公約というのも、アベちゃんはあんまりわかっていないみたいだ。約束を守るということくらいは、私にもできるし、守れなくなったら、ちゃんと理由を説明して、守らなくてもいいかどうか約束した相手に聞いてみる。2012年12月の衆議院選挙で掲げていた公約で、平気で破ったものがいっぱいある。しかも説明がない。ささいなことでもないのに、みんなの暮らしに関わることなのに大きな嘘をついてしれっとしている。

●自民公約 次々変質 秘密法:記述なし→制定、TPP:反対→参加(東京新聞11.19)

非戦音楽人会議さんからのウォールから

赤ペン先生みたいに採点してくれている人もいた。

真実を探すブログより

アベちゃんがキャラ的にいくらめんこくても、これにはさすがに憤慨している。よくみんな怒らないで、黙っていられるなぁと思う。憎めないキャラだからなのか。

衆議院の選挙をするには、私たちの税金が約700億円つぎ込まれるそうだ。アベノミクスが失敗して、やけくそになったのか知らないが、もっといいことに使ってくれと言いたくなる。安倍政権の延命のための解散などと言われているが、そんなことのために700億円なんてたまったもんじゃない。朝日新聞によると、東京駅の復元工事が500億円だったという。

●衆院選の費用700億円、高い?安い? 他の用途なら…(朝日新聞11月20日)
http://www.asahi.com/articles/photo/AS20141119004681.html

そんなことを言われてもあまりピンと来ないが、被災地の除染だったらどのくらいできるのだろう? 子どもたちに保育園はどのくらい建てられるのだろう? ハウスレスの人々が安心して休める住宅はどれくらい建てられるのだろう?

もう決まってしまったものは仕方がない。自分たちが納めた税金が700億円も使われるなら、選挙に行かなければ払い損だ。どうせやるんだったら、少しでも、多くの人々にとって良い社会だと自分が思える状態に近づくような結果にしたいものだ。最初から諦めていては、スクラッチを買ったのに削らず捨てるようなものだ。不謹慎な例で申し訳ないが。

棄権すれば、自分の意見が全く反映されないところで、税制をはじめ、好き放題にされてしまう。暮らしは悪化するばかりだ。これを見てみてほしい。携帯電話税に死亡消費税なんてシロモノまで自民党は検討している。経済的徴兵制なんてのもある。アベノミクスで格差が進み、生活が苦しくて奨学金が返せなくなった人が徴兵されるというシステムだ。これをみなさんはどう考えるだろうか?私には許せない。

山本太郎さん(参議院議員)ウェブサイトより

上記の続き
戦争に行くのと、投票に行くのとどちらがいいかと聞かれたら、私なら絶対投票だ。大げさだと思われるかもしれないが、秘密保護法(戦前の治安維持法みたいなもの)に集団的自衛権(超ざっくりだがアメリカとグルになって人殺しをしていいよってこと)の解釈変更など、今の政府はちゃくちゃくと戦争をできる国づくりを進めている。私は男ではないので、戦争に行く可能性は低いが、戦争は大嫌いだし、自分の子どもを戦争に行かせたくない。自衛隊にいる友だちもいる。彼のことを戦争に行かせたくない。だからより平和的な民主的な文民的な手段で主張を続ける。

こんなことを書いていると、決まっていつもの仮想敵がやってくる。嫌われるかもしれない。疎まれるかもしれない。あいつ何熱くなってんだよ、バカじゃねーのとおかしく思われるかもしれない。でも嫌われてもバカにされても、より生きやすい未来のためにできることはやったほうがいいと思っている。

世のため、人のためというよりも、私は自分のためなのだ。生活は楽なほうがいい。税金は少ないほうがいいに決まってる。税金は人助けや弱者のサポート、持続可能な社会のために使ってほしい。福島にいる友だちの子どもたちに健康にのびのび笑って育ってほしい。家業の農業を守りたい。おいしくて安全な食べ物が食べたい。平和も環境も守りたい。などなど、自分の願いが叶ってほしいというだけで、極めて利己的な動機だ。そんなことをしてもちっぽけなことだと笑われるかもしれない。でも、一個人の行動の積み重ねが世の中を作っているのだと私は思う。

最後にもう一度、しつこいようだが、衆議院選挙には私たちの税金が700億円つぎ込まれる。安倍政権が誕生した2012年衆議院選挙の投票率は59.32%と過去最低だった。その結果、迎えているのが今だ。消費税は8%に上がり、格差は広がり、戦争ができる日本になろうとしている。アベノミクスとやらの効果も無残な結果だ。浜矩子氏は初めから「アホノミクス」とばっさりだったが、その通りになった。もっと多くの人が投票に行って意志を示せば、この状況を変えることができる。

●総選挙事務700億円 貴重な一票忘れずに
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014112202000106.html

選挙までに整理していきたいことのメモ。
-- アベノミクスが残したもの
-- 立候補者のうち、原発推進議員と秘密保護法案に賛成した議員
-- 結果がどうなればアベちゃんの暴走を止められるのか
-- 今回の衆議院選挙の自分にとっての論点(“争点”にあらず)

〈過去に書いた同種の記事〉
--選挙と私
--柵がない者の役割

20141119

アマルガムのその後の話

【旧暦閏月廿七日 月齢 26.2 霜降 金盞香(きんせんかさく)】

*English edition below*--アマルガムのその後の話です。アマルガムは、水銀を含む歯の詰め物のことです(健康と環境への悪影響や各国の禁止状況については過去の記事をご覧ください)。

自然派の人々がおすすめされていたので(その人たちは悪くないのです。アマルガムのことは知らなかったのだと思うので。「アマルガム ◯◯歯科」で調べて見なかった私が悪い (-_-; )、マクロビオティック(正食、食養とも)を提唱している歯医者さんを相方が受診したら、詰め物はアマルガムしか使わないと言われ、アマルガムの危険性について、次の受診時に説得してみようと、情報を集めた話を先日の記事で書きました(コチラ→アマルガムにうなされる)。

クーヨンなどの自然派の雑誌にも書かれている歯医者さんで、講演もされているので、全国から患者さんが来ているそうです。アマルガムしかないことがわかっていたら、絶対に受診しませんでした。保険がきかなくて、初診料が3万円台後半もします。歯医者さんの名前は出せませんけれど、この記事が私たちみたいな人で受診を検討している人の目に止まり、判断材料の1つになることを願って、ことの顛末を書きたいと思います。

結局、説得はできなかったそうですが、一応議論にはなったそう。いや~、でもひどすぎて、久々にはらわたが煮えくり返りました。

相手の言い分は、玄米を食べて、砂糖をやめれば、問題ないの一点張りです。水銀が危なくないとは言わなかったみたいですが。

口の中でずっと水銀を出し続けるのに、口の中でずっと電磁波のアンテナになって身体に不調をきたすのに、玄米を食べてれば大丈夫って、そんなアホな…。 

友人が、アメリカでもアマルガムが規制されるというニュースを教えてくれて、国際条約の水俣条約を受けて日本も日本歯科医師会がアマルガムの廃絶に取り組むと宣言していることを伝えたところ、「研究者の言うことなんて信用ならん」とアタマから否定。否定するからには、論拠を示してほしいのですが、ないから言えないのでしょう。水銀が大丈夫だというのは誰の言うことを信用してのことなのでしょうか。

内海聡さんという現代医療に疑問を投げかけるお医者さんの本を、その歯医者さんも持っていたそうです。その本にも「アマルガムは毒」とはっきり書かれているのですが、都合の悪い話は無視なんですかね(内海さんがアマルガムについて触れられているFBの投稿その1その2。同じような内容が本にも書かれていました)。

アマルガムが危ないと言われたのは10年ほど前のこと。もう日本にはアマルガムの在庫がないそうで、その歯医者さんはわざわざオーストラリアから輸入しているそうです(なんで、そんな危ないもん輸入してんねん!)。

前の投稿でも書きましたが、この歯医者さん、食事療法も含めた独自の診療をしているため、保険がききません。院長先生が担当する場合は1時間あたり2万円、歯科衛生士さんが担当する場合は1時間あたり1万円だそう。簡単な治療でも難しい治療でも一律で時給計算って、個人的には法外な感じがします。保険の効く普通の歯医者さんよりも安全なもので治療してくれるならそれもわかりますが、アマルガムを使う普通より危ない治療なのに、トータルで60万近くかかるという見積もりを出されました。

アマルガムが身体に悪いことはこれだけ自明のこととなっているし、それを知っているからには口の中に入れたいわけがありません。代替策が一般的になっている現代なのに。イヤだと言っているのに、「入れてみてから考えては?」と言われたそうです。私からすれば無責任としか言いようがありません。あなたに高いお金を払って、そんなに身体に悪いものを悪いとわかっていながら口の中に入れるバカがどこにいると思っているのでしょうか。しかも、もしやっぱりダメだったら、また高いお金を、身体に毒を入れた張本人に払って、とってもらわないといけない。もはやブラックコメディのよう。

しかも、その歯医者さんでは、アマルガムを詰めた後、ヤスリで磨いて表面をツルツルにするとのこと。そんなことをしたら飛び散った水銀を飲み込んでしまいます。下手な歯医者でアマルガムを除去しようとして、飛び散った水銀を飲み込んでしまい、身体中に激痛が走ってのたうち回った事例を映像で見たことがあるので、ぞっっとしました。

しまいには「そんなこと言って、あなた虫歯10本もあるじゃないの!」と、弱みにつけこんで発言権を奪おうとする始末。水銀が身体に悪いことと、それでも彼らが水銀を使い続ける理由と、相方に虫歯があるということには全く因果関係がありません。論理が破綻しています。

カルテに挟まれていた説明には、「水銀よりも砂糖のほうが何万倍も身体に悪い」と書かれていました。だれの研究結果なのかも、どう実験したのかも、どういうデータに基いているのかも、まったくなし。あるのは一方的な主張だけです。論理思考の基本である「主張―理由付け―証拠(具体例)」のピラミッド構造がまったくありません。

そもそも、何について水銀と砂糖を比べているのかも不明です。何万倍と言うからには、例えば、水銀を摂取した場合と砂糖を摂取した場合とでガンの発生率を比べるなど、同じものについて数値がなければいけないはずですが。砂糖を目の敵にして、玄米を無条件に良いものとするその姿勢は、他の考え方を認めず、唯一神のみを絶対とする原理主義者に重なるものがあります。

その次のページには、その歯医者さんが強度が弱いから使わないと主張するレジン(樹脂)を埋めた歯で虫歯が再発した恐ろしい写真が何枚も載っていて、「ね、アマルガムのほうがいいでしょ?」と言わんばかり。同じ条件下で、アマルガムについては再発率を調べたのでしょうか。頑丈だとおっしゃるアマルガムだって「3年以内に劣化の兆候が表れ、10年後には平均で総重量の約73%が減少する」と言われていますし、身近な例で言えば、うちの父はアマルガムの下で虫歯が再発しています。

いくらマクロビを提唱しているにしても、アマルガムの危険性もフッ素の危険性(ここではフッ素も使うそう)も勉強していないなんて、歯医者という本業をおろそかにしているように思います。こう言っては失礼でしょうけれども、玄米を圧力鍋や炊飯器で炊いてもよいと教えているなど、マクロビを仕事にしている私の友人知人たちより理解がずっと浅く、レベルははるかに下に思えます。歯医者という本業はおろそかで、マクロビもそこまでなのに、私の友人知人たちよりも高いお金をとるなんて許せないと思いました。若杉ばあちゃんも言っていますが、食養で金儲けしようなんてとんでもない。毎日の暮らしで食養を実践している一人として、そう思います。

そもそも、医者の役割というのは、なるべく患者の意向に沿って、患者が治るのをサポートすることだと思います。専門知識をもとに患者に情報を与え、患者がよりよい判断をできるようにするのが良い医者であり、患者の意向を無視して自分のやり方を押し通そうとするなんて傲慢です。

その先生の指導のおかげで玄米で元気になった人がいっぱいいるとおっしゃるのですが、「治してやった」という上から目線な物言いは間違っていると思います。お米を作ったのは彼ではありません。偉いのはお米を作った農家さんだし、そういう身体にいい自然のお米を作っている農家さんは決まって、お米が偉い、自然が偉いと言うものです。不可能と言われるりんごの無農薬栽培を成功させた木村秋則さんも、「あなたの腕にきゅうり一本成らせることができますか?あなたが作っているのではない。きゅうりがきゅうりを作っているのです」と、おごり高ぶる人間を諭しています。

教訓としては、知識と論理的に考える力は自分を守ることにもなるし、人を助けることにもなると思いました。これだけ社会毒があふれている今の時代、これらがなければ簡単に毒漬けになってしまいます。受診してしまってから見つけたのですが、アマルガムについてその歯医者さんのブログで質問していた人がいました。その人はあっさり引き下がって信じてしまっていました。知識と調べる力が足りなかったのか、それとも、穏便に済ませるためにお茶を濁したのかはわかりません。おかしいことはおかしいと主張しなければ、被害者が増えるばかりだと思いました。

お医者さんについては、自然派やホリスティックなお医者さんも、普通のお医者さんも、同じくらい警戒して慎重に調べたほうがよいと思いました。特に、代替医療などはまだ走りですし、流行りにのってマーケティング的に使っているお医者さんにも当たってしまったことがあります。

それから、英語が読めてよかった!と思いました。日本語だけだと、日本の中のことしかわかりませんが、英語が読めると世界中から情報が集められるので、例えば、日本で安全と言われていても、海外では危ないというのが常識になっていることなども知ることができます。日本で公開されていないのに、アメリカでは公開されている重大な文書を読めてしまったり。殺されないようにするために必要な力だと思いました。

This post is about a debate my partner had over the health risk of dental amalgum with a dental clinic which calls itself "natural dental clinic". (Several friends who do macrobiotics and love natural lifestyles recommend this clinic.) Studies around the world say dental amalgum, consisted with mercury up to 50%, is highly harmful for health.
i.e.) http://www.biomedcentral.com/content/pdf/1745-6673-6-2.pdf
Some countries, including Sweden, have banned or restricted the use of it.

The dentist advises its patients to avoid chemicals in food such as additives, pesticides, and refined sugar, so it was the last thing I expected that such a macrobiotic dentist uses such a dangerous metal, now that the alternative material, composite resin, is more common in Japan. Though they were quite illogical and my partner refuted all their claims with enough data and studies, they never agreed.

The lessons are that English gives me larger domain to find important information to survive than Japanese, and that enough knowledge and good logical thinking are necessary to survive or live better in this society full of invisible toxic substances. Of course, we decided never to see that dentist again.

20141117

被害妄想

【旧暦閏月廿五日 月齢 24.2 霜降 金盞香(きんせんかさく)】

*English edition below*--昨夜開票された沖縄知事選挙、那覇市長選挙、松戸市議会議員選挙。結果が気になって、昨夜は珍しく夜更かしをして、0時すぎまでハラハラしながらパソコン仕事をしていた。

結果は、沖縄知事選挙も那覇市長選挙も、辺野古への米軍基地移設に反対する候補が、自民・公明が推薦する基地推進派の現職を退けて、当選した(参照12)。私はジュゴンの住む沖縄の美しい海を守りたいという願いもあって(参照)、移設反対を掲げる候補に当選してほしいと願っていた。また、フェイスブックで知り合った沖縄に住む友人や、沖縄にいる尊敬する活動家たちが、一生懸命訴えているのを見て、私たちの願いがどうか叶いますようにと思っていた。

松戸市議会議員選挙は、去年の衆議院選挙のときに三宅洋平さんの応援でがんばられていたラッパーのDELIさんが立候補していて、脱被ばくを掲げているのを知り、心から応援していた。脱被ばくを掲げるもう1人の候補増田かおるさんとともに当選して、本当にうれしかった(参照)。

当確が出た瞬間、フェイスブックでつながっている人たちやフォローしている人たちがわーっと喜びを共有した。会ったことはないけれど、脱被ばく、平和、環境保護など、願いを共有する人々が、喜びをシェアしていて、ワールドカップやオリンピックほどの派手さではないけれど、サポーターのような感覚を味わった。

政治の話は日本ではとてもしにくい。直接だれかに文句を言われたわけでもないし、やや陰湿なことをされたのも1度だけだし(と言っても相手の苦しみの表れであって、私自身は少し凹んだくらいで今はまったく気にしていない)、応援してくれる人もいるのだが、妙な圧力を感じる。「知ったかぶりして」「偉そうに」「専門家気取りかよ」とか、「政治の話をするやつはウザイ」とか、「1人で騒いでばかじゃないの?」とか、たぶん、被害妄想なのだけど、そういうふうに思われていたらどうしようという恐れを持ってしまって、なかなか言い出しづらい。そういう被害妄想を抱いてしまうのは自分だけだろうか。みんなはどんなふうに克服しているのだろう。

スポーツの話をするみたいに、応援している自分たちの代弁者のことを、もっと語りやすくなれたらいいなぁと思う。スポーツ観戦では、どっちが勝っても自分や自分の子どもたちの未来が特に変わるわけではない。政治は、自分がどんな社会を望むのか、自分の払っている税金をどんなことに使いたいか、税金の制度をどういうふうにしたいか、その意見を代弁してくれる代表者を選ぶ機会だから、その成り行きは自分と自分の人生に影響を与える。消費税の税率は身近な例だし、労働に関する法律や税金の優遇制度なども働き方に大きく影響を与える。

自分に関わりのある物事だから、もっと気軽に語りあえたら、きっと良い世の中になると思う。今のところ、金銭的な得のある人々だけが熱心に政治の話をするから、その人たちにとって都合のよい政治状況になっているのではないだろうか。アタマではわかっていても、その被害妄想から抜け出すのはなかなか難しい。ガンディーの名言「見たいと思う世界の変化にあなたがなりなさい」を胸に、まずは自分から政治の話を気軽にしてみようと思っている。

Opponents to US base relocation to Henoko, where rare dugongs swim, were elected to Okinawa governor and Naha city mayor.
For details: BBC news "US base opponent wins Okinawa governor poll"
http://www.bbc.com/news/world-asia-30074445

Following the great news, in Matsudo city council election, votors chose two candidates speaking out for protection of children from radioactive contamination, DELI, male rap musician, and Kaoru Masuda.

Japanese people, unlike westerners, rarely talk about political issues such as election. There's pressure that prevents us from talking more freely, and I often feel it hard to and hesitate to speak out. No one has attacked me when I take up the issue on SNS and my blog, so it might be just my paranoia. It would be nice if we can talk about our political views(to put it more simply, what we hope for our society to be) casually, since it affects the future of us and our children's generation. Mahatoma Gandi's famous quotes “Be the change that you wish to see in the world” always gives me an encouraging push.

20141106

心を許せる人にほど

【旧暦閏月十四日 月齢 13.2 霜降 楓蔦黄(もみじつたきばむ

世間知らずと笑われるかもしれないが、初めて友人の結婚式に出たとき、親や身内が末席で、辞めた会社の重役が特等席なのに驚いた。ずっと会っていなかった私なんかが、誰よりも長い間子どもを大切にしてきたご両親よりも、新郎新婦に近くの席で申し訳なく落ち着かなかった。

なんで一番力になってくれているご両親やじいちゃんばあちゃん、親友たちに一番良く見えてお話できる席に座ってもらわないんだろう、一番感謝を伝えるべき人たちじゃないの?と思ったが、その後、何度か出席しているうちに、身内ほど末席に、仕事関係ほどいい席にというのが常識なのかとわかってきた。

近しいほどいつでも会えるから、という遠慮なのかもしれない。それは美しい心遣いだなぁとも思うのだが、なんだかしっくり来ない。

これから先も、困ったときに一番力になってくれるのは、家族や親しい友人たちだろう。それまでもそうだったに違いない。生涯勤めるかもわからない会社の偉いさんが、困ったときに何かしてくれるんだろうか。そもそも、席順という誰の目にも明らかな形で人間に格差をつけるのは嫌いだ。

日本人は、普段の生活でも、親しい人ほど蔑ろにしがちに思える。親しい人を大切にする人を中国的だとバカにする日本人にも会ったことがある。

付き合いの浅いうちは気を使ったり、言動に注意したり、相手の気持ちを理解しようとたくさん想像を巡らせたりするものだ。仲を深めようと会う回数や連絡を多くしようと努める。

仲が良くなるにつれて、安心して、気を使わなくなったり、うっかり失礼なことを言ってしまったりすることもある。

あまり気を使われると水くさく感じたりもする。地が出るというか、素を見せてもらうとうれしかったりもする。

かと言って、おざなりにされたり、バカにされたり、無理な頼みをナメた調子で言われたりすると悲しいし、会う優先順位を低くされたり、連絡が途絶えたりすると寂しいものだ。

私は友だちが少ないから、会う優先順位で悩むことはまずないが、たまに重なりそうになるときには、心を許せる人順にしたいと思っている。

日本的なウチソトの感覚からはかなりずれているだろう。でも、大事にすべきなのは、自分を大事にしてくれる人たちだと思う。いつもそばにいて支えてくれる人たちを後回しにしたり、自分の頭や時間などのリソース配分を少なくしたりするのは、大切にしてくれる気持ちをすり減らしていくのではないだろうか。

いつも誰に対してもリスペクトして、誠実でいられたら、そんなことは考えなくてもよいのかもしれない。今のところは、使える気や想像力や体力、時間やお金などのキャパシティが限られていて、それが難しいのだが、なるべくそうありたいものだ。

20141101

アマルガムにうなされる

【旧暦閏月九日 月齢 8.2 霜降 霎時施こさめときどきふる

盲点でした。

相方が東京の歯医者さんで治療していた虫歯。治療の途中で地方へ移住してきてしまったのですが、特に痛むこともないので、放置していました。痛まないからと調子に乗って砂糖を食べ続けていたら、ついにまた痛み出してしまい、歯医者さんで診てもらうことになりました。

移住先で自然派の人々がオススメされていた歯医者さんがあり、なるべく抜かない・削らないがモットーで、食養も含めた根本治療をされているようだったので、保険が効かないのですが、そこへ行ってみることにしました。

が、しかし…。相方がしょげてげっそりして帰ってきました。何があったのかと思ったら、詰め物にはアマルガム(水銀50%+銀35%・スズ9%・銅6%・亜鉛少々の合金)、しか使わないとのこと。

理由は?と聞くと、アマルガム(銀歯)のほうがレジン(樹脂)よりも頑丈だから、ということらしく、電磁波のアンテナになるから入れたくないと言ったら、毒は玄米で排出できるから、というようなことを言われたそうです。

「論点すり替わってるやん! 出せるって、そういう問題か?? 原則的には危険性が指摘されているものは身体に入れない、やむをえない場合のみ排出方法を考えるってのが大前提やないん? 玄米食べたら出せるってそんな簡単に済むんやったら、農薬だろうが添加物だろうが何を身体に入れても玄米食べときゃええっちゅうことやないか。食べ物の化学物質はあかんゆうてんのに。そもそも重金属がずっと歯にひっついとんのに玄米で出せるわけないやんか!」と突っ込みたくなりました。。。

自然育児系の雑誌(たしかクーヨン)にも取り上げられていたので、まさかアマルガムを使うとは夢にも思わず、この歯医者さんのサイトでは検索してみなかったのです・・・。そもそも、最近では歯の詰め物にレジンを使うところが多くなり、セラミックもあるこのご時世に、アマルガムなんて言葉すら思い出しもしませんでした。自然派の歯医者さんでアマルガムなんて言葉を久々に聞くなんて「まさか!」以外の言葉が浮かびません。。。完全に盲点でした。

レジンも何でできているかよくわからないけど、ほかに選択肢がないならアマルガムよりはマシだと思います。アマルガムは、電磁波を集めるアンテナとして働き、電磁波過敏症の原因になると言われています。証拠をと調べていたら、アマルガムを除去して、電磁波過敏症が改善した様子を映した動画もありました。

また、昨年、仕事関係で「水俣条約」について知る機会がありました。この条約は、水俣病を教訓として、国際社会が人体と環境に悪影響がある水銀の使用を段階的に減らしていくことで合意したものです。ピンときて「よかったなぁ、これでアマルガムもなくなるのでは?」と思っていたら、やっぱり使用削減対象物のリストに歯科用アマルガムも含まれていました(参照→環境省「水銀に関する水俣条約」の概要)。死んで火葬されるときに、アマルガムの水銀が気体となって放出されて、後の世代に水銀汚染を残してしまうという問題は、水俣条約関連のことを調べていて初めて知りました。死んでからまで迷惑をかけたくないなぁと思いました。

アマルガムに含まれる水銀は口の中で食べ物を噛むたびに水銀が少しずつ蒸発して、水銀の蒸気を吸い込んでいるという研究報告もあり、口の中で水銀がイオン化しているかどうかを調べてくれる歯医者さんもあります。頑丈と言われていますが、3年以内に劣化の兆候が出てきて、10年後には平均で総重量の約73%が減少するという研究報告もあります。水銀は神経毒なので、さまざまな病気や身体の不具合の原因になることがあり、アメリカでは自閉症の原因になったとして訴訟がたくさん起こっているようですし(関連記事(英語))、スウェーデンでは2008年に使用が全面的に禁止されています。ほかには、デンマーク、ドイツ、ノルウェー、イギリス、カナダでも使用が制限されているという情報も出てきました。

今回は検査だけで、2週間後に治療計画の話し合いをしてから治療開始になるので、まだアマルガムを詰められたわけではありません。よく話を聞いてくれて、治療計画もきちんと相談して納得の上で進めてくれる歯医者さんなので、説得してみようとは思うのですが、どうしてもアマルガム以外はできないと言われたら、他の歯医者さんに行くしかないなぁと思っています。自分で知る分には、直感的にアカン、だけで充分なのですが、安全だと思っている人を説得するとなると、材料をしっかり集めないといけません。おかげで詳しくはなりましたが、夢でまでアマルガムにうなされました・・・。

今回のことは、たとえ専門家であっても、完全に人任せにしては身を守れないという教訓になりました。それから、両親に感謝したくなりました。私の両親は、「チョコレートは食べるな!」「砂糖食べたらすぐ歯磨きしろ!」「よく噛め!」と耳にタコができるほど口うるさく言ってくれたので、私は虫歯がなく育ち、おかげでアマルガムなんてものには無縁でした。大人になって、磨きにくい親知らずの影に虫歯ができてしまったのが初めての虫歯で、その頃にはもうレジンが一般的になっていたので、私の歯には今もアマルガムはありません。電磁波にもやや敏感なほうですが、相方ほどではなく、厳しくしつけてくれた親に感謝したいです。

>>後日談:「アマルガムのその後の話

*ご参考*
ちょっと調べるとアマルガムの危険性についてはいろいろ出てきます。

◆歯の水銀がアトピー要因/アマルガム除去で確認(四国新聞2001/10/19)
http://www.shikoku-np.co.jp/national/life_topic/20011019000093

その不調「有害金属」が原因かも? 「解毒力」を高めよう(1)(日経ヘルス・フォーメン2011/9/2)

●PDF版:「幸せな人生を奪い去る水銀アマルガム」メアリー・デービス著/歯科用アマルガム水銀症候群支援協会(DAMS)デ・モイン支部刊)

●論文:Is dental amalgam safe for humans?(The opinion of the scientific committee of the European Commission Joachim Mutter)

アマルガムは安全だという主張もありましたが、出典がないものばかりで、信用できるものはありませんでした。その中には、危ないのは有機水銀で、アマルガムは無機水銀だから問題ないという論拠が多いのですが、これについて論文を引用しながら反論している動画がありました。簡単に言うと、無機水銀+大腸菌などの菌類→有機水銀になるという研究論文(「水銀の化学形態変化と生物活動」)があるそうです。

20141022

何者でもない

【旧暦長月廿九日 月齢 27.9 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり

環境問題や人権問題、社会問題、平和のことについて、情報発信などをしていると、活動家だと見られることもある。

だけど、私はただの人。何者でもない。

見て見ぬふりができない。自分がこんな状況に置かれたら―。そういうものに出会ったとき、ただの人は何も言ってはいけないのだろうか。何もしてはいけないのだろうか。

自分はどうやら、団体行動は好きではないらしい。考え方をある程度合わせないといけないピア・プレッシャーには耐えられないようだ。かといって、先頭に立つような性格でもない。だから活動家は合っていないと思う。お金を必要以上に儲けることには興味がないから、起業家も向いていない。

しいて名前をつけるなら、実践者だろうか。日々粛々とできることをやっていく。だれにも認められなくても、だれかに疎んじられても、できることを楽しめる範囲でやっていく。

たとえそれがどんな小さなことでも、少しでも良い変化を生めるのなら。だれも目に止めないような、小さな小さな変化でも。それが重なって、大きな良い変化につながっていくのだと思うから。

想い描いていることが全部できているわけではない。だけど、まだ改善の余地があると思えば、それもポジティブに捉えられる。

でかいことをしたいわけじゃない。何かをしているからって、何かを知っているからって、すごいと思われたいわけじゃない。結果としてそうなるならうれしいかもしれないが、それは目標ではない。

でも、どうやら、潜在意識にはそういうプライドが残っているようだ。見下してくる人に触れると、悔しくなったりしてしまう。ただ、すごいことをしている人に対するライバル心みたいなものは起こらなくなったから、それは進歩かもしれない。それに、たとえば、私より後に始めて、私を追い越してもっといいことをしている人に対して、悪い感情は起こらないし、むしろいろいろ教えてほしい、自分を高めるのを手伝ってほしいと思うようになった。

少しずつ、実践を重ねていくなかで、ニンゲンのレベルも上げていけたらいいなと思う。

だって、私はただの人。何者でもない。

20141019

難民高校生

【旧暦長月廿六日 月齢 24.9 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり

フェイスブックで流れてきたテレホンカードの寄付の募集。虐待や性的搾取を受けている女子高生たちが、携帯電話を奪われて、公衆電話から電話をかけてくることが多く、家に眠っているテレホンカードがあったら送ってほしいという内容だった。

リンク先に飛んでみると、「難民高校生」の文字に目を疑った。家にも学校にもどこにも居場所がなく、他に信頼できる人もいない。そんな絶望的な状況に置かれている高校生のことをそう呼んでいるそうだ。

リンク先の団体である、女子高校生サポートセンター/一般社団法人Colaboの代表の仁藤夢乃さんの設立趣意書を以下に転載する。

水商売や売春、変なビデオや本に出てくる女性に偏見を持ったこともあったが、悲しい事情から巻き込まれてしまう人も多いことを知った。

世の男性のみなさんにも、そういうものを見たり買ったり、そういう店を利用したりすることで、こういう状況に加担するのはやめてほしいと節に願う。

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設立趣意書
 高校時代、私は渋谷で月25日を過ごす“難民高校生”でした。

 家族との仲は悪く、先生も嫌いで学校にはろくに行かず家にも帰らない生活を送っていた私は当時、自分にはどこにも「居場所がない」と思っていました。そして、街には同じように「居場所がない」と集まっている友人がたくさんいました。

 私は、かつての私のように家庭や学校、他のどこにも居場所がないと感じている高校生のことを“難民高校生”と呼んでいます。当時の私や友人たちは、家庭にも学校にも居場所を失くした“難民”でした。

 家庭と学校の往復を生活の軸にしている高校生は、限られた人間関係性しか持っておらず、家庭や学校での関係性が何らかのきっかけで崩れるとすぐに居場所がなくなってしまいます。“難民高校生”には、誰でも、すぐになる可能性があるのです。

 そうして“難民”となった彼らが、彼らを見守る大人のいない状態で生活するようになると、そこには危ない誘惑がたくさん待っています。若さや体を売りにした仕事や危険な仕事、未成年の少女たちの水商売や売春への斡旋の現場や、暴力、望まない妊娠や中絶など、目をつぶりたくなるような現実を、私はたくさん目にしてきました。

 ただでさえ、家庭や学校に居場所を失くして精神的に傷ついている“難民高校生”たちは、そういう世界で生活を続けるうちに「これからどうなっていくのだろう」と不安になり、「自分は何をしているのだろう」と自信を失くし、「夢や希望を持てない社会」に絶望してしまいます。

 このままの生活を続ける以外にどんな選択肢があるのかすらわからないまま、そうした生活を続けるうちに、彼らはそういう世界で生きる人たちとの人間関係しか持たなくなり、ますます“難民生活”から抜け出せなくなってしまいます。

 そして、彼らがその生活から抜け出せないまま大人になり親になると、彼らを取り巻く問題は、次の世代まで連鎖する可能性があります。

 “難民高校生”の存在は一時的なものではなく、「次の世代につながる問題」なのです。
問題の背景には、「関係性の貧困」があります。“難民高校生”の問題は、貧困問題なのです。

  “難民高校生”や予備軍のために必要なのは、家庭や学校の「外の社会」との日常的な関わりです。居場所や社会的なつながりを持っていない高校生は、「外の社会」との関わりの機会や「外の大人」との関係性を持っていません。

 居場所がない高校生を取り巻く問題は、「若者だけの問題」や単なる「個人の問題」ではなく、背景には私たち一人ひとりがつくっている「社会」があります。

 一人ひとりが、“難民高校生”や予備軍の存在や彼らの抱える問題を知り、目を向けなければこの現状は変わりません。

 しかし“難民高校生”や“難民高校生予備軍”の存在や、彼らを取り巻く問題の認知度は低く、 学校での学習に困難を抱えている人の「リスタートの機会」や、青少年と地域社会の関わりの場も少ないのが現状です。

 そのため、私たちは“難民高校生”の問題を社会に発信し、それらの認知度を上げるとともに、“難民化”する高校生を減らすため、若者の視野を広げ、「若者が夢や希望を持てる社会」を目ざして『若者と社会をつなぐきっかけの場づくり』を行います。

20141018

Intangible--目に見えないもの・形のないもの

【旧暦長月廿五日 月齢 23.9 寒露 蟋蟀在戸(きりぎりすとにあり

Intangible value(無形価値)は、サステナビリティ(持続可能であること)に強く興味を持つようになるきっかけとなった翻訳の仕事で出会った言葉。社会的責任投資(SRI)ファンドによる大手企業数社が生んでいる無形価値についての評価報告書に載っていた。

簡単に言うと、売上や収益などにすぐには、そして直接は表れにくい、社会や環境にどんないいことをしているかを評価した報告書だった。具体的な形として見えにくいので、目に見える売上など(tangible)に対して、目に見えないもの、形のないものという意味でintangible。わかりやすい例を挙げると、動物実験をしている化粧品会社の無形価値は低く評価されていた。

企業の取り組みについて、見えない良い影響を評価していこうという動きがあるのを知って、うれしく思ったのを覚えている。それは、巡り巡って会社の売上につながったり、将来の競争力や技術力、売上などといった長期的な価値創出になるという考え方から、企業の戦略にも関わってくると考えられるようになってきているらしい。

個人の働きについても、数量化しにくい価値、目に見えない価値を評価したらいいのになぁ、と思う。

どんなでかい会社にいたかとか、どんなでかいプロジェクトを動かしてきたかとか、そんな経験や、どんなすごい資格を持っているか、、いくつ肩書を持っているか、どれだけお金をとってきたかという業績などで、人を比べて、劣等感に押し込めたり、優越感を持たせたり、そういうのはもう、これからの時代のやり方には思えない。そんな評価は、商品タグみたいなもので、相対的な評価でしかない(これについて昔書いた記事)。

幸いなことに、私の生んだ無形価値を評価してくれる人は、これまでにたくさんいた。売上を増やしただとか、そういうtangible value(だれにでもわかりやすく目に見える価値)は直接的には一度も出したことがない。

でも、組織の雰囲気を良くしたり、みんなが協力して動きやすいようにアイデアを出したり、必要とされている情報を提供したり、好きでやってきたことの結果を良い影響として評価して、わかりやすい形で報酬をくれた人も何人かいる。学生時代、運転免許をとらせてくれたオーナー。会社にかけあってくださり、「これ以上は無理だった、ごめんなさい」と時給を200円あげてくれた部長。気持ちがとてもうれしかった。目に見えないものも理解できる人たちに囲まれて働けたことを、今でも幸せに思っている。

数字や商品タグみたいなものにばかり目を奪われていたら、人の本当にいいところには気づけない。気づけなければ、伸ばせないどころか、踏み潰して折ってしまうことだってある。

私がここに書いている文章を、いつも読んでるよ、元気をもらったよ、あれ、よかったね、と励ましてくれる人たちがいる。そういう人たちの励ましのおかげで、私はこうして書き続けることができるのだが、そうした励ましは、私が書かない限り、顕在化はしない。

私がここに書き続けられるのにはエネルギーがいる。その物理的な源になっているのは、お米や野菜で、お米や野菜を作ってくれた会ったこともない農家の人、私が買ったお店で働いている人たち、お店まで運んできてくれた人たち、見えないところで私のことを支えてくれている人たちがたくさんたくさんいる。そういう人たちの営みも、私が書かない限り、顕在化はしない。

顕在化はしないが、その目に見えない価値は存在し、共鳴し、増幅し、私にすごく大きな力を与えてくれている。

私の文章というこの小さな例から気がついたことは、多くの偉業も無数の人々のintangible valueに支えられて成し遂げられてきたものだということ。世間では、なにかの賞をとった人だけがもてはやされるが、そのかげにたくさんの人のintangible valueが隠れている。自分1人でとれた賞ではないと語る人もいる。

だれもが素晴らしい働きをしている。それが巡り巡って、どんな大きな良い結果につながっているかわからない。目に見える結果の大小で、認証ラベルみたいなもんだけで、おれはすげえ、おれはまだまだだめだ、あいつはすげえ、あいつはしょぼい、なんて言うのは、もうやめにしないか。

20140927

補完しあう

【旧暦長月四日 月齢 2.9 秋分 雷乃収声(かみなりこえをおさむ

有機栽培の農家さんでも合成洗剤を使っていたり。食品添加物や農薬に気をつけている料理研究家さんがIHやテフロン加工のフライパンを使っていたり。環境や平和に関する仕事をしている人が戦争と環境破壊に加担している企業の商品やサービスを利用していたり。

それぞれが取り組んでいる分野とつながっている問題で、そっちも少し気にするようにしたら相乗効果があるのに、なかなかつながらないんだなぁということがよくあることに気がつきました。

直接自分に返ってくるのがわかりやすい場合でも、そういうことがあるのです。例えば、有機栽培の農家さんで、畑では化学物質を使わないようにして、土づくりも熱心にしているのに、地下浸透式の排水で(下水道に流すのではなく、敷地内に流して浸透させる)、合成洗剤を使っていることがあります。合成洗剤を流すと、土や生態系に悪影響があるのに…、とおせっかいだとは知りながら、キッチンや洗濯機のそばには激しく合成洗剤が並んでいるのを見て、心配になったことがあります。

全く意識の違う人たちと交流するのも大切という意見をたびたび耳にするのですが、まずは似たフィールドでやっている人たち同士がつながって、情報交換をして、知らない部分を補完しあうことも意味があるなぁと思いました。

私自身も、農薬や化学肥料、食品添加物についてはいろいろ知って、気をつけるようになっていた頃でも、ワクチンやクスリの危ない話は全然知らなかったし、お魚の養殖方法が悲惨だったり、ウナギやマグロのように絶滅が危惧されているなど持続不可能なことも知らなかったし、環境を守りたいと思いながら戦争と環境問題がつながっていることもわからなかったし、知らないことがいっぱいで、自分が望む世界のあり方とは真逆の世界を下支えするような行動も、知らずにたくさんしていました。

マルシェに行くようになったり、仕事仲間とプライベートでも話をよくするようになったり、フェアトレードショップや自然食品店、身体に優しい食事を提供してくれる飲食店、オーガニックコットンのお店などの人たちと仲良くなって、いろいろお話するようになったおかげで、自然とたくさん情報に触れられるようになりました。納得行かない話は図書館やインターネットで調べたりして裏をとったり。そうしてだんだんと自分なりに理解を深めて、行動を改めて来られました。

自分の場合、知らないことは恥でも何でもなくて、「えー知らなかったー!教えてー」という感じになるのですが、知らなかったことを恥に思う人もいるようです。自分が知っていて、あまり知られていない話を誰かが知っていたら、自分の場合、稀少な仲間を見つけて、うれしいと感じるのですが、自分だけ知っていることを誇りにしておきたい人もいるようです。それってどうなんかなぁー?とは思うのですが、気持ちよく情報共有ができる技を身につけたいところです。私はそういうのを知らずにしゃべってしまい、気づかないうちにプライドを傷つけているらしいので…。

20140921

見てくれている人

【旧暦葉月廿八日 月齢 27.5 白露 玄鳥去(つばめさる

昔、職場でお世話になっていた人(仮にAさんとしたいと思います)と、「見てくれている人っていますよね」という話になったことがありました。

偶然でしたが、その「見てくれている人」というのは、二人にとって同じ人でした。彼は隣の部署で英語の学習書の編集をしていて、私たちがそんな話をしていた頃には別な会社に転職していました。

Aさんはデザインが上手で、Aさんの作る本の販促物のデザインはとても素敵です。販促物のデザインで遅くなった時に、その「見てくれている人」とたまたま帰りが一緒になって、Aさんが彼に、「英語の学習書の部署なのに、英語ができないのが申し訳なくて」と話したら、彼は「Aさんはデザインができるでしょう?僕にはできない。それと一緒じゃないかな。僕ができないことをAさんがやってくれているんだから、申し訳なくなんか思わなくても」と言ったのだそうです(Aさんは私から見たらかなり英語ができます。厳しい英語の学校に通って特訓していた努力家さんで自分に厳しいのです)。部署が違っていて、何をしているかわからなさそうなものでしたが、Aさんは見てくれている人っているんだなぁと思ったと教えてくれました。

それを聞いて、私もAさんに、彼が「見てくれていた」話をしました。私が大学で英語を専攻していたのを知って、彼は私に「読んでみる?」とゲラ刷りの原稿を渡してくれたのでした。一通り気づいたことを書いて返しました。その時は何もなかったのですが、だいぶ後になって、編集部でインターンをさせてもらえることになったときに、彼が「(ゲラには)変な指摘もあったけど、あの年齢でたいしたもんだ。育てないともったいない。出版業界が厳しいからと、即戦力しか採らない時代だけど、新しい人を育てないと先はどうなるだろう。僕たちはもう育てる側に立つ年齢になっているのに」というようなことを話していたと、他の人から聞きました。それまで、インターンの前例がなかったことを考えると、私がインターンをさせてもらえることになったことと、彼のその言葉が、無関係だとは思えませんでした。そのインターンを通じて私は編集の経験を積ませてもらうことができて、今の仕事につながっています。

この話を思い出したのは、最近、別の「見てくれている人」の存在を知って、うれしくなったからでした。私が過去にした仕事を密かに見てくれていた人から、新しい仕事をいただきました。とても楽しい仕事で、やりがいを感じています。

その過去の仕事というのは、誰にも悪気はなくて、何かの行き違いだったのだと思うのですが、実は、費用のことで少し不公平なことがあったことを偶然知ることになってしまい、やる気をなくしそうになったものでした。引き受けたからにはいい仕事をしよう、最終的に使う人が喜んでくれるものにしようと、気を取り直して、手を抜かずにきちんと全力でやった仕事でした。そうしてできあがったものを見てくれていた人から楽しい仕事がやってくるとは。どんなことがあっても、一つ一つ、丁寧に、いい仕事をすることの大切さを学びました。

最初のエピソードで書いた「見てくれている人」も、転職が決まったのは「自分の仕事を見てくれている人がいて、来ないかと言ってもらえた」と言っていました。私も誰かのより良い歩みをそっと後押しするような、「見てくれている人」になれるといいなぁ、そんなことを思いました。

20140918

人工甘味料のリスク

【旧暦葉月廿五日 月齢 23.5 白露 玄鳥去(つばめさる

人工甘味料で代謝異常がおこり、肥満リスクが高まる可能性があるというニュースを新聞で見かけました。そのニュースで取り上げられていた研究論文の要約はコチラです。

20140914

殺虫剤入りのお茶を飲んでいませんか?

【旧暦葉月廿一日 月齢 19.5 白露 鶺鴒鳴(せきれいなく

我が家では無農薬・無化学肥料・フェアトレードのお茶を飲んでいるので心配ないのですが、家族や友人、知人がそうではないので、グリーンピースの報告を読んで、とても心配になりました。事実を知って、それでも飲むならそれは本人の自由なのですが、知っていたなら飲まなかったということもあるので、以下に紹介します。

お茶に農薬? インドからの報告

http://www.greenpeace.org/japan/ja/news/blog/staff/blog/50478/

この報告は、インド国内で販売されている、パッケージされた茶葉を対象に残留農薬を調査した結果をまとめたもの。インドで生産されているお茶の11%は世界に輸出されていて、輸出されたお茶の多くは、リプトン、トワイニング、テトリーなどのメジャーブランドとして流通しています。

調査結果の要旨を以下に引用します。

【調査結果の要旨】
・46サンプル中、合計34種類の農薬が検出された。サンプル全体の96%で検出された。
・検出された農薬の中には、最も危険な農薬であるモノクロトホスと、ミツバチの大量死の一因にもなっているネオニコチノイド系農薬イミダクロブリドが検出された。
・農薬が検出されたサンプルの半数以上は、10種類の“カクテル(混合物)”の農薬が含まれており、その内の1つのサンプルからは20種類の殺虫剤が混合していた。
・最低でも一つの農薬が検出されたサンプルは、EUが設定した残留基準値を超えていた。
・検出された農薬34種類の内、23種類の農薬はインドで茶葉栽培への使用が許可されていない。さらなる調査によると、インドで1989年以降、使用が禁止されている農薬であるにも関わらず、DDTが頻繁に使用されていた。
リプトンを販売しているユニリーバは、今回の報告を受けて、2020年までに原材料の農産物を栽培する際に使用する農薬を減らすなど、持続可能な農法への転換をするとしています。また、インドのお茶については、農薬に頼らない農法について科学研究を開始すると発表しています(参照:Unilever Commissions Research in India on the Feasibility of Non-Pesticide Methods of Plant Protection for Tea Crops)。

ちなみに、要約に出てきているネオニコチノイド系農薬は、虫だけでなく、人間への影響も懸念されていて、中枢神経系、自律神経系、骨格系に関連する多様な症状を引き起こす。脈の異常、指の震え、発熱、腹痛、頭痛、胸痛、短期の記憶障害も起きるという研究結果もあります(参照:中村隆市さんのブログ記事「農薬ネオニコチノイドに警鐘  「予防原則」で命守れ※新聞記事などの引用を交えての考察です)。

国産は安心というイメージがありますが、ネオニコチノイド系農薬の使用基準値は、日本は実はとても高くて、最も低いヨーロッパの数百~千倍(物によって異なる)です。しかも、ヨーロッパでは2015年までに使用を禁止する決定をEUが出しています。お茶の話題なので、お茶について言えば、日本のお茶は使用基準値が50ppmで、EUの0.1ppmに対して500倍もの差があります。美味しんぼの雁屋さんもブログで書かれていますが、私もミツバチの二の舞いにはなりたくないし、周りの人にもなってほしくありません。

*ネオニコについてもっと知りたい方はコチラ

無農薬・無化学肥料・フェアトレードは贅沢品という考え方をしている人が多いようなのですが、数十円~数百円くらいしか値段は変わりませんし、無農薬・無化学肥料・フェアトレードのお茶はおいしいのでミルクや砂糖がいりません。健康を害したらもっとお金がかかるので、トータルで考えたら、どっちが経済的にも健康的にもプラスになるでしょうか?

それに、農薬を使用せざるを得ない状況を作られている農家の人たちは、買って食べて取り込む消費者よりももろに農薬の影響を受けています。安いからと慣行栽培のものを買い続けていれば、状況を変えることはできません。農薬などの資材費がかかるのに、安くしか売れないので、農家の人は金銭的にも苦しくなり、儲かるのは農薬を売りまくる農協や企業だけです。危ない農薬を浴びずにおいしい農産物を作れる体制をみんなでつくっていくほうが賢明だと私は思います。

20140828

怒りについて

【旧暦葉月四日 月齢 2.5 処暑 天地始粛てんちはじめてさむし

スピリチュアル系の本や話題では、怒りは良くないものとされている。愛と許しが説かれている。(最初にことわっておきたいが、スピリチュアルな世界は好きなほうだ)

それは素晴らしいことだと憧れる。だれに対しても愛をもって接することができて、何があっても許すことができるなら、素晴らしい。

が、しかし。私はまだ人間で、イヤミの一つも言いたくなることもあるし、嫌だなと思う人もいるし、ナメられたり、不平等な扱いを受けたり、ひどい目に合わされたりしたら怒ることもある。そういう目に遭っている人を見ても怒りがこみ上げてくる。

怒らないこと、という本があるくらい、怒ることは良くないことなのだろう。そう言われても、私は怒ってしまう。無理に怒りをないものとしたり、怒っていないふりをして神さまたちならどう考えるかと考えて聖人になりきるのは、自分には嘘に思えてできない。出てきたものをないことにはできない。出てきているのにないことにするのは、例えば、頭痛を鎮痛剤でごまかしてないことにしてしまうのと同じに思える。自分は出てきた感情は出てきたものとして真剣に向き合い、学びの機会にしたいと思っている。

正直言って、出てきた感情と真剣に向き合うのはかなり苦しい。怒りを感じる自分のことを、「あーあ、まだまだダメなヤツ」と思うこともある。でも、こういうときに自分は嫌だと感じるんだ、それはなぜだろうと考えていくと、自分が普段考えてもいなかったことに気付くこともあり、自分というものがよりはっきりとしてくる。

最近も、腹が立つことがあった。だれかに腹が立ったら、それをそのままぶちまける、我慢して目をつぶる、今後は相手と距離を置くようにする、など、いろいろな選択肢があるが、そのままぶちまけるような勇気はなく、それでいい結果をもたらすとも思えないので、一日くらい悶々とした。自分の中で相手にそういうことをさせている行動や思考があっただろうかと考えたり、こういうとき、我慢して目をつぶるのが許しなのか?相手に好きにさせておくのが愛なのか?と自問したりした。返事をしないといけないものだったため、相手にほんの少しでもいい変化をもたらすにはどんな返答をすればいいんだろうと考えた。今後について建設的な提案をしつつ、傍若無人なやり方に黙って従いはしないということをやんわりと伝えた。結果、相手にどんな影響があったのかはわからない。やんわりすぎて伝わったかすらわからない。でも、自分には少し成長したような達成感があった。

怒りが必ずしもいつも悪い結果をもたらすわけではないとも思う。昔、相方にむちゃくちゃに怒られたことがある。その頃は私以外の家族が結構大変だった時期で、自分だけ念願の大学に通い、好きな勉強をして、好きな仕事をして、いい人たちに囲まれて、幸せでいて、家族に申し訳なく、なんとなくうしろめたく思うところがあった。それをそのまま相方に話したら、めちゃくちゃ怒られた。だいぶ前のことなので、もう記憶もおぼろげだが、なぜそのような思考になるのかと問い詰められたような記憶がある。

相方の怒りのおかげで、私は自分の幸せを追求していいのだと思えるようになった。まずは自分が幸せになり、それから家族を幸せにして、と考えられるようになり、気づけば、家族も今は大変な時期を過ぎて、それなりに幸せに暮らしている。あれは、怒りがいい結果を生んだ出来事だったなぁと思い返すことがある。

相手を不愉快にさせることを恐れて、本当におもっていることを言わずに、表面上だけニコニコして、相手にすべて合わせて、愛と許しの振る舞いをしても、私の心の中にはきっと、怒りや憤りが生まれているわけだから、本当の愛と許しには程遠い。それで懺悔をすれば済むのか? なにか唱えればそれが清算されるのか? 私にはまだそういう実感はない。そういうのを推奨している人たちの中には、そういうのをしない人たちを蔑むような発言をする人もいて、結局あなたたちも心の奥底にはネガティブな感情を持っているじゃないか、と思うこともある。そして、そうやって相手に合わせているうちに、本当に自分が考えていることや望んでいることが、どんどんわからなくなっていく。直感が鈍っていく。

健全な怒りというのは、世の中を良くするために作用することもあると思っている。世の中で起こっているさまざまなひどい出来事を、やめてくれ、助けてくれ、どうにか現状を知ってもらいたいというなかなか普通のメディアからは聞こえてこない悲鳴を伝えたいし、伝えたくても伝えられない立場にある人たちの代弁者でありたいと思っているが、スピリチュアル系の人たちの中には、そういうひどい出来事を流布することは人々の心に不安を広げるために良くないことだと考えている人もいるようだ。事実としてひどいことが行なわれているのに、それを見ないようにして、幸せな暮らしをして、ポジティブな感情を大きくしていくのがよいこととされているかのように思える。

引き寄せの法則などから考えれば、確かに、そういう意見も一理あるのかもしれない。でも、人間なのだから、自分以外の人間や動物や植物がひどい目にあわせれていながら、本当に幸せになることはないのではないだろうか。そのひどい出来事に対する関心が高まれば、変える力を生むことにもなるのではないだろうか。言霊実験でも、無関心が一番腐敗をもたらす(ごはんに、「ありがとう」「バカヤロウ」という声をかけるか、紙を見せるかしたものと、無視するものの3種類を放置して経過を見る実験。「ありがとう」は発酵に向かい、「バカヤロウ」と無視は腐敗に向かうが、無視されたものが一番ひどく腐敗する)。自分だけ平和で安全で快適で楽しくて、世の中にあるひどいことを無視しつづけていたら、自分のその快適な暮らしさえ、蝕まれていくようにも思える。

前に、ある日本の有名なジャーナリストの人が、かなり人格の高い環境活動家に、日本人はマイ箸程度の小さな取り組みしかしない、と批判めいたことを言ったら、その環境活動家は笑って、そういう小さな行ないをする人たちはappreciate(真価を理解されて、感謝)されなければならない、彼らはたとえ小さなことでも行動していて、自然をよくするための力になっているのだからというようなことを笑顔で話していたのを映像で見たことがある。ジャーナリストさんのほうはムッとしていたが、より平和的で建設的な考えに変化する機会を提供することにもなり、ああいう対応ができたらいいなぁと勉強になった。私はそのジャーナリストさんの批判の仕方に腹を立てたが、環境活動家は腹を立てるどころか笑っていて、これが私と彼の違いだなぁ、と思った。

私はまだまだ偉大なスピリットからはほど遠い人間で、怒りを持つことがある。怒りをただ噴出させるのでは何も生まないが、貴重な学びの機会として、自分を知り、自分のまわりに良い変化をもたらす訓練として捉え、怒りと真剣に向き合って一つずつ丁寧に消化していけば、いずれは怒らずに笑いとユーモアでまわりにいい変化をもたらす人間になれるんじゃないかと思っている。

20140827

長崎原爆の被爆者代表・城台さんのスピーチ

【旧暦葉月三日 月齢 1.5 処暑 綿柎開わたのはなしべひらく

8月の半ばごろ、友人のブログで紹介されていて、読みたい読みたいと思っていました。気持ちがしっかりしているとき、かつ、腰を据えてじっくりと読めるときにと思っていて、ようやく読むことができました。

城台さんは、用意していた原稿とは違う内容を、アドリブで話されたそうです(参照:【IWJブログ】長崎原爆の被爆者「今年は準戦時体制でもあります」 ~広島・長崎にみる安倍総理の「コピペ」は戦後レジーム」への挑戦!?)。日頃からおもわれていることがほとばしるように出たのだろうなぁと思いました。まだ読まれていない方はぜひ、読んでみてください。


東京新聞8月9日付より引用↓
◆被爆者代表「平和への誓い」全文

 一九四五年六月半ばになると、一日に何度も警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り始め、当時六歳だった私は、防空頭巾がそばにないと安心して眠ることができなくなっていました。

 八月九日朝、ようやく目が覚めたころ、魔のサイレンが鳴りました。

 「空襲警報よ!」「今日は山までいかんば!」緊迫した祖母の声で、立山町の防空壕(ごう)へ行きました。爆心地から二・四キロ地点、金毘羅山中腹にある現在の長崎中学校校舎の真裏でした。しかし敵機は来ず、「空襲警報解除!」の声で多くの市民や子どもたちは「今のうちー」と防空壕を飛び出しました。

 そのころ、原爆搭載機B29が、長崎上空へ深く侵入して来たのです。

 私も、山の防空壕からちょうど家に戻った時でした。お隣のトミちゃんが「みやちゃーん、あそぼー」と外から呼びました。その瞬間空がキラッと光りました。その後、何が起こったのか、自分がどうなったのか、何も覚えていません。しばらくたって、私は家の床下から助け出されました。外から私を呼んでいたトミちゃんはそのときけがもしていなかったのに、お母さんになってから、突然亡くなりました。

 たった一発の爆弾で、人間が人間でなくなり、たとえその時を生き延びたとしても、突然に現れる原爆症で多くの被爆者が命を落としていきました。私自身には何もなかったのですが、被爆三世である幼い孫娘を亡くしました。わたしが被爆者でなかったら、こんなことにならなかったのではないかと、悲しみ、苦しみました。原爆がもたらした目に見えない放射線の恐ろしさは人間の力ではどうすることもできません。今強く思うことは、この恐ろしい非人道的な核兵器を世界中から一刻も早くなくすことです。

 そのためには、核兵器禁止条約の早期実現が必要です。被爆国である日本は、世界のリーダーとなって、先頭に立つ義務があります。しかし、現在の日本政府は、その役割を果たしているのでしょうか。今、進められている集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法を踏みにじる暴挙です。日本が戦争できるようになり、武力で守ろうと言うのですか。武器製造、武器輸出は戦争への道です。いったん戦争が始まると、戦争は戦争を呼びます。歴史が証明しているではないですか。日本の未来を担う若者や子どもたちを脅かさないでください。被爆者の苦しみを忘れ、なかったことにしないでください。

 福島には、原発事故の放射能汚染でいまだ故郷に戻れず、仮設住宅暮らしや、よそへ避難を余儀なくされている方々がおられます。小児甲状腺がんの宣告を受けておびえ苦しんでいる親子もいます。このような状況の中で、原発再稼働等を行っていいのでしょうか。使用済み核燃料の処分法もまだ未知数です。早急に廃炉を含め検討すべきです。

 被爆者はサバイバーとして、残された時間を命がけで、語り継ごうとしています。小学一年生も保育園生も私たちの言葉をじっと聴いてくれます。この子どもたちを戦場に送ったり、戦禍に巻き込ませてはならないという、思いいっぱいで語っています。

 長崎市民の皆さん、いいえ、世界中の皆さん、再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。私も被爆者の一人として、力の続くかぎり被爆体験を伝え残していく決意を皆様にお伝えし、私の平和への誓いといたします。

 平成二十六年八月九日
 被爆者代表 城台美弥子
読んでいて、おばあちゃんが空襲を免れた話を思い出しました。

おばあちゃんはその日、お友だちと電車ででかける用事があって、横手駅で待ち合わせていました。おばあちゃんは忘れ物をして家にとりに戻ったので待ち合わせに間に合わず、お友だちは電車で先にでかけました。その電車に爆弾が落ちて、お友だちは亡くなりました。おばあちゃんはたまたま忘れ物をしたから助かったけれど、大切なお友だちが亡くなって、とてもとても悲しい思いをしました。約束をしていなければ、と悔やみました。

そういう話を、母から聞きました。おばあちゃんから直接は聞いたことがなくて、つらい思いをもう話したくないのかもしれないと思っています。おばあちゃんは、原爆の被爆者とは違って、身体には全く傷が残らなかったけれど、心には傷を抱えたままなのかもしれません。

おばあちゃんがたまたま忘れ物をしたから、おばあちゃんは助かり、お母さんが生まれることができて、私も生まれることができました。“再び愚かな行為を繰り返さないために、被爆者の心に寄り添い、被爆の実相を語り継いでください。日本の真の平和を求めて共に歩みましょう。”という言葉に、もうあんな悲しいことが起こらないように、できることをコツコツとやっていきたいと思いました。

20140826

補足+feedlyのこと

【旧暦葉月二日 月齢 0.5 処暑 綿柎開わたのはなしべひらく

だいぶ前に、現在の日本の結婚制度について感じている違和感を書いたことがあり、そのときの記事に、こんなふうに書きました。

人間なのに嫁/婿に「やる」とか「ける」(秋田弁であげる)とか「もらう」とか、贈答品のやりとりみたいな言葉で結婚の話がされることに、幼い頃から違和感を感じていました。高校の倫理の授業で、部族の時代から女性は「ギフト」だという考え方があると指摘している人類学者のことを倫理の先生が話してくれました。一人の学者の指摘ですが、それは先ほど挙げた表現といい、確かに日本にもあると思いました。中学校の卒業祝いでもらった印鑑が、女子は苗字が変わるからという理由で下の名前、男子は苗字になっていて、すごく変だと思った記憶があります。今思えば、そういう刷り込みを教育現場でもやってしまうのは良くないことだと思います。
高校の倫理の先生が話してくれた女性が贈り物であるという考え方について、文化人類学者の小馬徹教授が同様の内容を語っている記事を、ビッグイシューで見つけたので紹介したいと思います。

*贈り物をして初めて、ヒトは人間になった:文化人類学者の小馬徹さんと考える贈り物の秘密
(女性については“人類最初の贈り物は、女性!?”の見出しから)

相方に教えてもらって、RSSリーダーのfeedlyを使い始めました。google+やFacebookなどにアカウントを持っていれば、すぐに使いはじめることができます。リーダーへの追加が簡単で、直接URLを入れると追加でき、feedlyの検索バーから検索して追加することもできます。SNSへのシェアも簡単で、すごく使いやすくて気に入っています。以前はgoogleリーダーを使っていたのですが、なくなってしまって困っていたので、より使いやすいものを教えてもらえてよかったです。

20140816

権威や専門家のいうことと、自分の感覚

【旧暦文月廿一日 月齢 20.2 立秋 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

昨日、岸田劉生さんの絵の話を書いていて、専門家の解説のことで思い出したので書きたい。

かなり前のことで少し記憶も薄れているが、日本で最も権威ある大学の権威ある名誉教授が、権威ある放送局のラジオ番組で、芥川龍之介が志賀直哉に作品が書けないと相談したときに、志賀直哉は書けないときは無理に書かなければいいと芥川に言ったが、それは志賀直哉は家が裕福だったから言えたことだと嘲笑していて、私はすごく腹を立てた。

芥川龍之介さんが志賀直哉さんに相談したときのことを、志賀さんは全集に書いていた。

志賀さんが「書けないときは無理に書かなければいい」と言ったのは、裕福で芥川さんの苦労がわからなかったからではなくて、芥川さんが教師などもしていて、執筆以外の仕事でも食べていけることを知っていたからであり、志賀さん自身も、親からの援助はなく、書きたいものだけを真剣に書いて、書きたいことがないときは、翻訳などほかの仕事をして生計を立てていたこともあった。食うためだけに満足のいかないものまで書くことは、芸術家として不幸だという考えがあったのだろう。志賀さんは芥川さんの才能や感性も高く評価していたし、仲間としての愛があったからこそ、言えたことだと私は思う。

私はたまたま、その事実が本人の言葉で語られていたのを全集で読んだことがあったので、権威ある名誉教授が話した内容が誤りであることを知っていたが、ラジオを聞いている人の多くは全集までは読んでいないだろう。きっと鵜呑みにしただろうと思うと、志賀さんが気の毒でとても腹が立った。専門家のくせに、そんな無責任な発言をして、全集くらい読めよとも思った。権威の言うことを盲信するのは愚かだとそのとき確信した。

脱線するが、先日、マクドナルドなどの大手企業で賞味期限切れの鶏肉が使われていたことが判明して大騒ぎになっていて、新聞の見出しが「何を信じれば」だった。消費者たちは、大手企業だから大丈夫だと信じていたのに、大手でもこれでは一体何を信じればいいのだ、と困惑しているという。

添加物や化学物質のことなどを知って、大手だからこそ危ないかもしれないと私は思うのだが、大手だから安心というのが大多数の意見のようだ。それでは足元をすくわれるということを、何度も何度も歴史は教えている。足尾銅山事件に水俣病、森永乳業のヒ素入りミルク事件、もっと最近では、みずほ銀行暴力団融資事件が記憶に新しいだろうか。

だいたい、あんな変な食感で変な味のチキンナゲットを安心して食べるなんて、舌の感覚がおかしくなっているんじゃないかと心配になる。私も昔はなんとも思わずに食べていて、自分の感覚がどれだけ麻痺していたんだろうと思う。自分の感覚をもっと大切にして、もっと感覚をよくする訓練をしたら、自分の身体も心も良くなっていくし、それが社会を良く変えていくことにもつながると私は思う。

脱線してしまったが、話を元に戻すと、全員がそうだとは言わないが、権威ある専門家だって人間なのだから完璧ではない。何でも知っているわけではないし、誤ることもある。食うために研究していて研究を愛していないこともある。真実は作者本人にしかわからない。本人も忘れているかもしれない。

そうなれば、やっぱり、あてになるのは自分の感覚しかない。誤っている可能性だってある権威の書いたものを、読み漁って暗記する時間があったら、作品そのものをたくさん読んだり見たりして、人と対話するときのように真剣に向き合って、自分の感覚を研ぎ澄ましていくほうが有意義な時間の使い方だと私は思う。そして、そうした時間は、作品を通じて、書いた人や作った人の魂や伝えたいメッセージを、心の深いところ受け取る時間のように感じていて、結局は人間の勉強をしているのだと思っている。

20140815

絵を見る目

【旧暦文月廿日 月齢 19.2 立秋 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

東京に住んでいたころ、仙川にある武者小路実篤記念館にたびたび行った。企画展があって、定期的に展示が変わり、たまたま行ったときの企画展で、実篤さんの友人の岸田劉生さんの絵を見る機会があった。

子どもを描いたものが多く、初めて見たときの感想は、「かわいくないなぁ」だった。子どもの弾けるような笑顔を描いたものはそこにはなく、ぶすっとしているのかと思うくらいの表情ばかりで、なんでもっとかわいく描いてあげないんだろうと、その時は思った。

先日、仏生山温泉の帰りに、駅の前の横断歩道で女の子が道を渡ろうと、車の往来を真剣な目で見ているのを見かけた。その女の子の顔を見て岸田劉生さんの絵が突然目の前に蘇った。岸田劉生さんの描く子どもと、女の子の表情が重なり、「そうか、ありのままを描いていたんだ」と思った。子どもはいつでもあどけなく笑っているわけではなく、大人と同じように、ときに大人以上に、真剣に何かを考えたり、何かに打ち込んだりする。岸田さんの絵は、子どもたちのそうした面を捉えていた(のだと思った)。

白樺派に詳しい相方にその話をしたら、岸田劉生さんは「しかも自分の子どもを描いていたからね」と言う。かわいいときだけでなく、まるごと全部ありのままを愛していたからこそ、ああいう表情を描いたのだろうと思ったら、そのときになってなんだか感動してしまった。

背景知識を全く持たずに偶然岸田劉生さんの絵を見たので、率直な感覚を持てた。初めて見た時のその感覚を呼び覚ます経験をして、さらに理解が深まった。専門家による解説はおもしろいときもたまにあるが、勉強してから見たとしたら、おそらく、こういう感覚を持つことも、理解を深めることもできなかったと思う。他人の感覚や評価や知識に頼らずに、自分の感覚を大切にして、一対一で絵と向き合う。その積み重ねが、自分の中にある感性を呼び覚まして研ぎ澄ませ、絵を見る目を育てていくのかもしれないと思った。

20140810

カンタ・ティモールを観てきました

【旧暦文月十五日 月齢 14.2 立秋 涼風至(すずかぜいたる)】*明日は満月3:09*

ドキュメンタリー映画カンタ・ティモール(歌え、ティモール)を観てきました。

*ストーリー紹介↓
http://www.canta-timor.com/01story.html

*予告編はコチラ↓
 

監督のお兄さんで撮影にも同行された写真家の直井さんも来てくださり、貴重なお話も聞かせていただきました。

上映後のお話し会の様子
悲しい事実を描いたものではありますが、善く生きる希望を与えてくれる、素晴らしい映画でした。東ティモールの人々の歌い、語る言葉や生きる姿から、許すということ、大地を敬う心、ジャーナリズムの重要性、政治にまずは関心を持つことの重要性など、大切なことをたくさんたくさん教えてもらいました。去年(まだ東京にいました)、フェアトレードショップで働いている友人からも、「すっごくいいから観て〜」とチラシをもらっていて、みたいみたいと思っていたのですが、移住のドタバタで叶わず、ようやく観ることができて本当に良かったです。音楽も素晴らしくて、音楽好きの方にもオススメです。

国民の3人に1人が殺され、国土の9割を焼かれるという壮絶な戦争が27年間続いた後、2002年に東ティモールは独立しました。こんな大変なことがあったなんて全然知りませんでした。

太平洋戦争中には日本が占領したこともあることや、占領を続けていたインドネシアにヨーロッパ各国が経済制裁を強める中で多額の軍事資金援助をしてきたのが日本で、しかも国別の内訳のグラフを見ると、日本の援助額が世界一だったこと、インドネシア軍の撤退を求める国連の総会決議では先進国の中で日本だけが毎年反対の票を投じていたことなど、日本人として、知っておくべきだったなぁ、と思う歴史を知ることができました。

日本がインドネシア軍の支援にまわったのは、インドネシアを支援すれば石油を安く買うことができ、インドネシア市場に日本の製品を売ることができるから。アメリカも軍事協力をしていました。一部の大企業が金儲けのために、自分たちは手を汚さずに戦争を起こしている―なんてむごいんだろうと思いました。

*もっと詳しく知りたい方はコチラ↓
■東ティモールについて(監督の広田奈津子さんがまとめてくださっている)
http://www.pc-lifeboat.com/waon/katsudou/abouttimor.html
■独立した東ティモール 日本とどんな歴史が?
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-05-30/0530_faq.html

同じからくりが、アチェをはじめ、世界中で今も起こっている戦争で見られます。使われているのは私たちの税金で、税金の使い道を決める国会議員を決めるのは私たちの投票。大企業を支えているのは私たちがその企業の製品やサービスに支払っているお金や、銀行にあずけているお金。私たちは何をすべきなんだろう、どうしたらいいんだろう、とすごくすごく考えさせられました。

3.11以降、世界を良くしたいと願い、願いから行動に移している人も多くなってきたように感じています。また、何か良くないことが起こっているときに、あいつが悪い、と悪者を決めて、そいつをやっつけるみたいな、単純思考ではなくて、自分も思考や行動も含めて、何がこの現象を起こしているんだろう、どうしたら解決できるんだろう、と考える人も増えてきたように思います。

そういう願いや思考や行動は、確実に世の中に良い変化をもたらしていると思います。例えば、外国の石油をねらって戦争が引き起こされているという現状を変えるには、石油を輸入する必要がなくなればいいと私は思うのですが、石油利権がらみで戦争を起こしまくってきたアメリカは今、外国から輸入する石油依存を減らすと宣言しています。2013年には20年ぶりにアメリカ国内で産出された石油量が輸入量を上回り、「アメリカン・メイド・エネルギー」をキーワードに再生可能エネルギーによる発電量拡大を目指しています(ちょうど今させてもらっているリサーチのお仕事で知ってタイムリーでした)。ソーラーパネルに使われるレアメタルはやっぱり地下資源だから、地下資源利権がらみの戦争につながるのではないか、という問題はありますが…。でも石油がらみの戦争がなくなる方向に動いていることは、今までからしたら大きな進歩だと感じます。街に出て、企業活動をチェックしてみても、まだまだ問題があって発展途上ではあるものの、昔に比べたら考えられないくらい、地産地消やフェアトレードを取り入れた製品が広がっているし、石油原料をやめて植物性由来成分に切り替えた製品なども増えています。私たちの願いや思考や行動が、目に見える良い変化として現れてきているのではないかなぁと思っています。

質疑応答を聞いていて、大企業や政府や大手マスコミなどを悪者と決めつけて、ただ叩くのではなくて、よく話して仲間になって一緒に良くしていくという、そういうスタイルが大切だなぁとも思いました。大企業でも大手マスコミでも、中で働いている人たち一人一人は、自分と同じ、一人の人間で、知ったらいいことをしたいという人もいっぱいいると思うし、知ったらいいことをしたいと思っている人が社内で多数派になったら行動したいのになぁと思っている人もいると思います。そういう仲間をだんだん増やしていくことも、自分にできることかなぁ、とお話をきいていて思いました。

とても素晴らしい映画でした。

20140804

パブコメを出す

【旧暦文月九日 月齢 8.2 大暑 大雨時行(たいうときどきふる)】

鹿児島県川内原発の再稼働が決まったかのような論調の新聞もありますが、8月15日(金)まで、パブリックコメントを受け付けています。たくさんの反対の声が集まったら、無視はできないと思うので、私も以下を参考にしながら書こうと思っています。

パブコメ出そう、川内原発とまるほど


パブリックコメントの数は公表しないといけないものなので、日本のメディアがだまりこんでしまったとしても、海外のメディアは取り上げると思います。無視できないくらいの波を巻き起こせば、再稼働を阻止することは可能だと私は思います。

パパラギという大好きな本に、新聞はこう考えろと命令してくるのが気に入らない、というようなことが書かれてありました。

この間、新聞の見出しの一面に「川内原発 秋にも再稼働へ」という見出しがばーんと載っていて、「は?!いつ決まったの?!?」と、大ショックを受けて、中身をよく読んでみたら、単に「新規制基準に適合している」と国の機関が認めたというだけで、まだ再稼働が決まったわけじゃあないではないですか。ごくごく小さく“再稼働ヘ向けた”今後のスケジュールが載っていて、地元住民の同意が得られなければ、再稼働は困難であることがわかりました。再稼働してほしくない人たちがどういうアクションをとればいいのか、必要な情報が載っていなくて、なんでこんな見出しをつけるんだ、この新聞はそんなに原発を再稼働したいのか、と思うほどでした。

見出しの大きさや、記事の配置などで、巧妙に雰囲気が作られているように思います。ただ無批判に見出しだけさっとみてふーん、と思っていたのでは、簡単に流されるので、新聞を読むときは用心して読んでいます。景気の話も、散歩をしていて身の回りで観察した結果と、新聞とでは大きな開きがあります。景気がよくなったような記事が並んでいますが、実際に足を使って歩いてみると、消費税増税後、閉店に追いやられた店が多いことに気がつきます。イオンの中だけでもざっと7-8店はありました。唯一近所だった手芸店も閉まってしまい、閉店セールには店じまいを惜しむ人たちが集まっていました。

新聞もテレビも、メディアというのはある程度「こう考えろ」と命令してくるものだと思います。人間が作るものに真に中立なんていうものはありえないと思っています。フリージャーナリストの方が書かれたものは、どういう考え方の方で、どういうバックグラウンドがあって、こういう論考をしているのか、というのがわかりやすいのですが、新聞など企業が作ったものになると、どんな人間が書いているのかわからないので、中立そうに見えて、政府や大企業に都合のいい主張が仕込まれていたりします。個人としてそう思って書いているのか、それとも会社に染まっているのか、書いた人間がどういう考えで、どういう事情があって、それを書いているのかがわかりません。批判的に読まないと論調に流されてしまうので、自分でも観察してみることがとても大事だと思っています。なかには自分で観察しにいくことは難しいものもあるので、そういうものは、今はインターネットで調べられる時代なので、多種多様なソースをあたってみることも心がけています。

引き寄せの法則ではないですが、集団の思考というのは、世の中に影響を与えると感じています。「原発が再稼働されるんだなぁ」「自分には何もできないなぁ」と思う人が多かったら、再稼働されてしまうんだと思います。パブリックコメントなど、できることはまだまだあるのに、新聞にはパブリックコメントを受け付けていることは見当たりませんでした。見落としたのかもしれませんが、「秋にも再稼働へ」ほど、目につくようには書かれていませんでした。新聞に流されてできあがってしまっている集団の思考から、私は抜け出て、できることをしたら止まると考えるようにします。

20140729

機械と人間

洗濯をしていて気づいたこと―そのニ。

機械には機械の得意なこともあるが、だからと言って、人間よりも機械のほうが優れているという考えは幻想だった。人間と機械の優劣を比べるなんて、そもそもばからしいことで、それぞれ違う長所がある、ただそれだけなのかもしれないと思った。

「手洗いの後、心配だからもう一度洗濯機で洗う」
「機械で洗わなくて汚れが落ちるの?」
というようなことを言われることがある。

自分も、何年か前までは、洗濯機のほうが人間よりしっかり洗えると思っていたし、手書きの名刺より印刷された機械文字の名刺のほうがちゃんとしているように見えるとか、上手な手縫いの縫い目をミシンで縫ったみたいに上手だとか、平気で思っていた。

近年は「人間が機械に劣っているなんて、そんなことはないだろう。だって、機械は人間が考え出したものではないか」と思ってきたが、実体験として、機械よりも人間のほうがうまくできた事象に遭ったことがなかった。正確には、遭っていても、気づいていないか、覚えていないのかもしれないが。

私にそのことを体験させてくれた出来事は先日起こった。冬物のキルティングジャケットを、今年は初めて手で洗った。洗濯機がないからだ。かれこれ6年ほど着ていて、毎年洗濯機で洗っていたが、表面に黒ずみが目立ってきていた。汚れに固形の石けんを塗って軽くもみ洗いしたら、見違えるほどきれいになって新品みたいな色になった。機械で落ちなかった汚れが、手では落ちたのだ。

汚れが落ちた感触もはっきりわかるようになってきた。それはとても微妙な感覚だ。皿洗いをしていての、きゅっきゅっと鳴るあの感覚と似ているかもしれない。洗濯機で洗っていたころは、きれいになったかどうか、今思うと確かめてもいなかった。手洗いに疑念を示す人たちも、多分、確かめていないのではないだろうか。

きれいになったかどうかは、視覚、嗅覚、手の感触を働かせる。鈍っていた感覚が本来の感度を取り戻しつつあるのは、洗濯機をやめてみての思わぬ効果だった。

機械のほうが人間よりも優れているいう潜在的な固定観念は、人間本来の力を衰えさせているのかもしれない。その考え方を出発点にすれば、機械を使うしかない、自分にはできるはずがない、自分は無力だからエライ人が発明したものを使うしかない、エライ人が言うことは間違いないだろう、自分にはわかるわけがないと、無批判に言われたことを受け入れ、自分で考えたり行動したりすることをあきらめてしまう。受け入れた結果がどうなったか、表面的にしか―ともすれば全く―観察しない。

人間には力がある。世の中を良く変えていく力がある。考える頭がある。感じる心がある。工夫してうまくいくまで試行錯誤する根気がある。誰もにすべてが備わっている。道具は確かに便利だ。だが、その道具に本来の力を奪われてはいないか。

私もかつては劣等感がすさまじくて、無力感にさいなまれることはしょっちゅうだった。自分にないものばかりに目が行っていた。誰もに平等に力が備わっているなんて、当時聞かされたとしてもそうは思えなかったのではないだろうか。そうは思えないという人がいたら、少し手を動かしてみたらどうだろう。何か一つ、機械をやめてみて、アナログに戻ってみると、さまざまな発見がある。

20140728

洗濯をしていて気づいたこと

洗濯をしていて気づいたこと。

草木染めの服は色落ちするとよく言われるものだが、化学染料の服も色落ちしている。化学染料が溶け出した水を流して、環境に害はないのだろうか。

今までは洗濯機の中だったから見えなかったが、化学染料の服を洗っていると洗濯桶の中の水が、黒っぽい服は水が黒く濁るし、ピンク色の服は茶色っぽい水になるし、緑の服は茶緑っぽくなる。最初のうちは汚れが水に出た色だと思っていたが、同じ服を洗うたびに同じ色水ができるので、服の色だと気が付いた。

この色水を流す。この水にはどんな成分が含まれているんだろうと思った。動植物に有害な重金属類や環境ホルモンを流してはいないだろうかと不安になった。

環境団体グリーンピースのデトックスキャンペーンを思い出した。2012年4月発表の報告書“Dirty Laundry: Reloaded”に衣類を洗濯した際に流出される化学物質について書かれている。生産時にももちろん、工場からの排水に残留性や生物濃縮性のある重金属や環境ホルモンなどの有害化学物質が検出されていて、長期間にわたる環境への影響が危惧されている。

ちなみに、グリーンピースのことを、シーシェパードと混同して過激で危ない団体と勘違いしている人を時々見かける。まったく異なる団体で、市民の健康と地球の未来を守るために、企業への働きかけや調査研究、悪いことをしていないかの注視など、さまざまな活動をしてくれている。

フェアトレードブランドのピープルツリーではアゾフリー染料を使っていると、ウェブサイトで読んだ。アゾ化合物は発がん性が確認されていて、日本では一般的に今でも使われているが、ヨーロッパでは使用禁止になっているところもあるという。人体に影響があるということは、環境にも悪いものなのだろう。人間も自然の一部なのだから。

個人の生活と、企業の行い、環境と社会の状態は、見えにくいが密接に関わっている。化学染料を使っている企業にもデトックスをお願いする働きかけも、ささやかながら楽しめる範囲でやっていきたい。化学染料の危険性を知ってからは、それ以降新しく購入する服については、やむを得ない場合を除いて、植物や石など自然のもので染めたものか、無漂白・無染色の衣類にすることにしている。「買わない」という意思表示も、一つの働きかけの形だと考えている。

20140718

やさいのかみさま

ほぼ菜食になってからというもの、野菜料理の研究家のカノウユミコさんのレシピ本が大好きで、「菜菜ごはん」に始まり、かれこれ何冊も読ませてもらっています。

アクを邪魔者にしなかったり、クセをいかしたり、野菜に寄り添って、愛情を注いで、秘められたおいしさを引き出す調理のしかたがとても好きです。

なので、カノウユミコさんのエッセイ「やさいのかみさま」を図書館で見つけたときにはものすごくうれしくて、うきうきしながら貸出カウンターへ持って行きました。

版画の挿絵も、世界観にマッチしていて、とても素敵。食や料理、生き方などについてのエッセイと、それぞれに関連したレシピが掲載されたエッセイ集です。サンティなど、作ってみたいレシピもいっぱいでした。

やさいのかみさま

20140618

電気代505円也

今月分の電気使用料のお知らせが来ていました。

先月までは同じ敷地内で友人が住むもう一軒の家と電気が共同だったのですが、この間、切り離し工事が済んで、今月から純粋に我が家だけの計算になりました。

見てみると505円。こんなに安かったのは初めてでちょっと衝撃でした。早いとこ、アンペアダウンして基本料も下げよう!

ソーラー発電のライト(通称イチロー。ソーラーパネル第一号だから)で過ごしていましたが、ムカデが出るようになり、イチローではムカデの発見が遅れるので蛍光灯を使うようになりました。なので、来月はもうすこし高いかなぁ…。

東京のアパートでは、照明はイチローで、東電の電気は冷蔵庫と洗濯機とパソコンでした。パソコンは今も変わらないので、冷蔵庫と洗濯機って結構電気を使うんですね。干し野菜と手洗い、ますますやる気がわいてきました(←ゲンキン)

改装が落ち着いてお金にも時間にも余裕ができたら、照明とパソコンも完全に自家発電にします。

20140529

郷に入れば

畑と田んぼは、機械を入れずに、鎌や鍬、スコップを使い、全部手作業でやってみています。手でやっていると、近所の人たちが心配して気の毒そうに声をかけてくれます。

私たちとしては、手作業のほうが重い機械を持って出かけるよりも気楽で、会話も自然の音も楽しめて好きなのです。鍬でさえ、土を肥やしてくれているミミズをざくっとやってしまったことがあり、私がトラクターを使ったら大量殺戮になってしまうとも思いました。機械は使えば使うほど、土が締まって団粒構造が崩れるとも聞きました。

畑の近所の方たちはとても親切で、運がよかったなぁと思っています。いつも快く手伝おうかと声をかけてくださる方もいます。ただ、私の感覚が一般的な認識とだいぶずれていることもあり、思うままにはしにくいことも出てきました。無農薬・無肥料・不耕起の自然栽培の方針以外では、初めはやっぱり、郷に入れば郷に従え、かなぁと思います。

男女についての考え方がだいぶ東京とは違うと感じます。これは推測ですが、女に力仕事をさせる男はとんでもない、野良仕事をさせられる女は不憫だと思う男性が多いようで、私が畑に出ていると、相方がいろいろと言われることがあります。「こんなことをしたって無駄な抵抗。無意味!」と激しくキレられたこともありました(キレた方とはその後、相方が一人のときにうまく話し合いが進み、いろいろ助けてもらったそう。この時は機嫌が悪かっただけで、本当は協力的な優しい方のよう)。はっきりと男女観について語られたことはまだありませんが、私が畑にいるときと相方だけのときとでは態度が全然違うように感じていて、そうなのかなぁと思いました。近所で見る限り、女性や子どもが畑に来るのは本当に手が要るときで、女性一人で畑仕事をしている姿は小さな家庭菜園でしかあまり見かけません。まぁ、私がもっとがっちりしていて逞しければそんなこともないのだと思うのですが…。

手でやるのが好きなので、と言っても、機械でやることに慣れている方たちには感覚的になかなかこの楽しさが伝わらず、説明に作業の時間を削ったり、私のエネルギーが削がれて回復に時間がかかったりするので、相方と相談して、きちんと田畑が整備されるまでは私は隠れていることにしました(まだ開墾という感じなので…)。ムカデ事件以来、虫が怖くて、独りで家にいられないので、相方が畑に行っているときはカフェに避難しています。

実績があればまだ話もわかってもらえると思うのですが、初の試みなので、今のところこれがベストかな、と思っています。今までこの土地を見守ってきてくださり、用水路のことなど重要なことを教えてくださる親切な大先輩たちなので、多少の違いで対立するよりも、譲れる部分は譲らないと、と思いました。徐々に信頼関係を築いていきたいです。

相方に申し訳ないなぁと思うし、畑はどんな感じかなぁとやきもきしてしまいますが、今は勉強の時間ができたと考えて、英語の本を読んだりしています。相方の頼もしい面もわかったし、思いがけず勉強の時間もできたし、とポジティブに捉えています。

ついでながら、こっちに来てびっくりしたのは、相方と二人でいると、初対面でも子どもの有無をきかれること。名前は聞かれないのに、「お子さんは?」といきなり聞かれることも多々有ります。秋田も田舎ですが、不妊や経済的または家庭の事情などで悩んでいるかもしれないなどと配慮して、仲がよい相手にも子どもがいるかどうかはまずきくことはありませんでした。母に電話で話したときもそう言ってしました。今のところ、男性だと30代後半、女性だと40代より若い方にはきかれたことがないので、若い世代はもう少し感覚が違うかもしれません。

子どもがいないと答えると、「早く子どもを作らないと」と言われることもあり、これまた衝撃的でした。子どもを持つのも持たないのも個人の自由で、どちらの場合も幸せの1つの形、という感覚がない方が多いのかなぁと思いました。少子化で故郷の将来を案じているのかもとも思いましたが、それならなおさら、そういうプレッシャーをかけないほうが、若い人は入ってきやすいと思いました。

東京では顕在化していなかっただけかもしれませんが、一定の年齢で結婚して子どもを産んで、男が外で働いて女は奥で家庭を守り、みたいな固定観念が根強いんだなぁと感じます。相方と一緒にいると私は決まって「奥さん」と呼ばれます。悪意はないし、丁寧な言葉だとは理解していますが、あんまり、奥、奥と言われると、外の世界で活躍してはいけない存在になったような感じがして、気が滅入ります。東京でも秋田でも、初対面の男女を相手に、男を「ご主人」「旦那さん」、女を「奥さん」と呼ぶ人に会ったことがなかったので、慣れるまでしんどかったです。友だちに話したら、欧米ではこういうことは「assuming」(憶測で決めつけること)と言って失礼に当たるというのが常識だけど、日本では都会でもまだ見られると教えてくれました。

日本の昔からの家族の在り方とはよく言いますが、封建的な社会になってからの話で、所有という観念がなかった縄文時代とかは今のプロトタイプとは違ったと思うし、そういう昔からしたらどっちが昔からと言えるだろうかと疑問です。私と相方は、どちらも自立した個人であり、お互いとお互いの家族と歴史を尊重しあい、共鳴と協力に基づいたパートナーだと認識しています。私の感覚が日本の一般的通念と違うのですが、そのほうが男の人も女の人も自分の心の声に従ってもっと自由に幸せに生きられると思います。望むなら男だって家庭に活躍の場を見つけていいんだし、女だって外の世界で活躍していいし、男だからって義務感で嫌な仕事を続けなくても休息や充電、勉強やスキル獲得のために休んでその間は女が働いて家庭を支えるっていうスタイルだって在りだと思うのです。先進的と言われるヨーロッパでは常識になっているし、ヨーロッパ→都会→日本全体の常識に広がっていくといいなぁと思います。

大変なこともありますが、それも自分が望ましいと感じていることをはっきりさせるいい機会、 多様な人と信頼関係を築く訓練だと受け止めています。

20140527

ヤナの森の生活


大きな虫が出て不安に心がしぼんでいたときに、近所の書店で出会った本です。

ムカデに噛まれて意気消沈な今、読み返して元気をもらっています。マングースよりはムカデのがマシか~。。虫が嫌で、最近よくイオンに避難している私に、暮らしを創っていくやる気を取り戻させてくれたのと同時に、大切なことを思い出させてくれる本でした。自然と調和したサステナブルな暮らしを創る。感謝して生きる。初心に返りました。またがんばります。

そして、こんな素敵な本の翻訳がいつかできたらいいなぁという夢もできました。

20140302

西のほうへ移住します

3月中旬に日本の西のほうへ移住します。

2004年に東京へ来て、早いもので10年が経とうとしています。生まれ育った自然豊かな環境から、この東京に来たときは、同級生の言葉を借りると「コンクリートジャングル」のこの都会を、とても好きになれませんでした。

でも、長く暮らすうちに、素敵な人たち、素敵なお店、たくさんの素晴らしい出会いに恵まれて、いざ離れる時が来てみると、大好きな人たちとちょくちょく会えなくなるのはとてもさみしいです。地理的に遠くなってしまうのは残念ですが、自分の生き方を見つめ直し、新しい場所で新しい暮らしを始めることにしました。

この地域にはそれまで行ったことがなかったので、その後、数回訪れました。山もあり、海もあり、小洒落たお店がけっこうあり、歴史も深く、人は穏やかで親切な人が多く、とてもすてきなところだと思いました。という話をすると、あえて負の側面を教えてくれる地元の方もいて、正直というか、いい人が多いなぁと思いました。

住む家を探しに行ったときには、ふらりと入ったお惣菜屋さんのお姉さん(仕事仲間にそっくりでびっくりした)まで、「このエリアは穏やかな人が多くて住みやすいですよ」と地図を持ってきてくれたり、どこへ行っても親身になってくださる方がいました。実際に家を見せてもらうときは本当にたくさんの優しい人たちのお世話になりました。

ありがたいことに、駅が近くて、田畑がついた古民家を借していただけることになり、移住することになりました。引っ越したら、まずは田んぼと畑をがんばります。あとは、非電化冷蔵庫を作ったり、PC用のソーラーシステムを組み立てたり。囲炉裏とかまどと石窯も作りたいし、コンポストトイレも作りたいし、山や寺社を探検にも行きたいし…やりたいことがいっぱいです。

東京に来るときには、みなさんとまたお会いできたらうれしいです。物理的にはあまり会えなくても、これからももっと交流できたらうれしいです。

※もっと読んでくださる方へ→西のほうへ移住します―追記

西のほうへ移住します―追記

長くなりますが、もっときちんと書いておきたいと思ったので、もう少し詳しく追記します。移住を真剣に考えるようになったのは、震災と東電の原発事故がきっかけでした。

もともと田舎育ちなので、都会は合っていなくて、いずれは田舎にと漠然と思っていました。地震と原発事故でそれが加速したという感じです。

地震で大きな仕組みがストップし、お金があっても食べ物がない、電気が来ない、燃料も足りなくなる、電車が動かなくて家にも帰れない、そんな都会の暮らしを目の当たりにしました。お金さえあれば何でもできるという前提を自分が持っていたことと、それは幻想であるということを同時に知ることになりました。

もともと、自然と調和した暮らしがしたいという気持ちをぼんやりと抱いていましたが、この経験をきっかけに、衣、食、住、エネルギーの自給率を増やした手作りの暮らしがしたいと具体的に考えるようになりました。すでにそういう暮らしに入られている人々のお話を見聞きするうちに、ますます憧れが膨らみ、東京でも小さな畑を借りて自然農に挑戦したり、味噌や梅干しを作ったり、自家製酵母でパンを焼いたり、小さなソーラーシステムを作ったり、焚き火を教えてもらったり、田舎暮らしの予行練習をしているような感じでした。自分でできることが増えるのが楽しいのと同時に、どんな状況でも生きていける安心感が大きくなっていきました。

場所を西日本にしたことについては、これは言わないことも考えたけれど、やっぱりそれは卑怯だと思ったので言います。自分だけ情報を知って、それをもとに行動し、ほかの人に知らせないのはずるいと感じるし、情報を知ったうえで暮らしを考えてほしいと思うので、やっぱり言うことにしました。もちろん、今汚染地に住んでいる人たちに不安を与えたくないから本当のことは言わないという気持ちもわかります。私も迷ったのはそういう気持ちがあったからです。聞きたくないという人もいると思いました。言わない人を責めるつもりはありません。言わないのが正しいのか、言うのが正しいのか、私にはわかりません。ですが、自分が本当のことを聞かせてもらって助かったという経験や、自分の中のずるい気がするという感覚に従って、本当のことを言いたいと思いました。私の思ってきたことも合わせてこれまでの経緯を書きたいと思います。

東京電力の原発が爆発して、東京も放射能で汚染されてしまいました。原発の問題に詳しい人たちの中には汚染がないか少ない地域に移住をする人もいました。自分の住んでいるところは大丈夫と思いたい気持ちも捨てきれず、私の住んでいる府中市では空間線量計を無料で貸出してくれているのを知っていながら、測ることはしませんでした。しかし、親しい人が汚染されていない地域から東京に引っ越してきたいと言うので、本当に来てもいいものかと、ついに測ることにしました。

そのときのことは過去のブログにも書きましたが、概して0.07~0.08μSv/hのところが多く、0.1μSv/hを超える場所も点在していて、事故前の東京の平均数値0.036μSv/hよりも低くなる場所はまれでした。また、車通りの多いところに行くと高くなる傾向がありました。土や空気に存在しているということは確かで、埃に付着して存在する放射能が舞い上がったものを吸い込めば、呼吸による内部被曝をしてしまいます。この程度ならそこまで神経質になる必要はないとおっしゃる方もいるのですが、私が知る限り、何ベクレルまでなら大丈夫なのかは科学的に証明されていませんし、大丈夫とおっしゃる根拠がわからないので、外出時はなるべくマスクをして吸い込まないようにするようになりました。

放射能下の日本で暮らすには?」など原発と被曝に関するさまざまな本を読んだり、映画「内部被ばくを生き抜く」を見て、被ばくに対するリテラシーを高めようと勉強しました。本はたくさん読みました。内部被曝は何ベクレルまでなら大丈夫という研究結果はないということもわかりました。わからないなら、予防原則をとって、なるべく避けたいと思いました。若い人ほど影響を受けやすいこともわかりました。同年代の友人や小さい子どもがいる人にはできる限りの被曝対策をとってもらいたいと思いました。

さまざまな本やウェブサイトにも書かれていることですが、自然放射能と違って人工放射能は身体からすんなり出て行かずに特定の臓器にたまり(たまりやすい場所は核種によって異なる)、至近距離から集中攻撃をすることがわかっており、外部被曝ではさほど問題にならない種類の複数の放射線も内部被曝では問題になってきます。DNAの二重らせんを二本とも放射線で切られてしまうと、誤って修復してしまうことがあり、染色体異常を引き起こし、これが増殖すると発がんにつながるリスク(わかりやすいNHKの映像)があります(「放射能下の日本で暮らすには?」にウニの比喩でわかりやすく書かれていて、参考になります)。

東京で暮らすなら空間線量計も欲しい(そうでないと、線量の高いところに知らずに座ってしまったりするから)けれど、高くてとても買えない…と思いました。自分ができるなかでベストなのは何かを考えました。厳しい検査体制をとっているところから不検出の野菜を買う、検出下限値がわからないなら汚染されていない産地のものを買う、外食でどこのものかわからないものをどうしても食べないといけないときは汚染されやすい食品を避ける(「食べる?」という本が参考になります)、飲み水にはセシウムを吸着するゼオライト入りの浄水器を使う、外出時はマスクをして吸入を防ぐ、放射能の排出を助ける麻炭を摂取する、免疫力を高める食事をする、電磁波や化学物質など放射能以外の危険因子を避ける、レントゲンなどの医療被曝の回数を減らす(日本の医療被曝は鮮明さを優先して諸外国よりも線量が高く、回数も多い)など、できることをいろいろ考えて、できるものはやってきました。聞いてくれる人にはそういうお話もしてきました。

自然と触れ合いたいけど汚染がどのくらいあるかわからない、お風呂の水にも放射能が微量に入っている、吸い込む空気にも放射能はある、それでも東京なのか?と自分に問いました。東京をどうしても離れられない理由はなく、生活の不安がないわけではないけれど、田舎のほうがやりたいことができると前から思ってきたじゃないか、と思い、そうすることにしました。東京で知り合った素敵な人たちと会えなくなることだけが東京を離れたくない唯一の理由でしたが、新しい土地にも素敵な人たちがたくさんいるし、東京の素敵な人たちと新しい場所にいる素敵な人たちの橋渡しができたらもっと素敵なことが起こるかもと思えるようになりました。

親には最初、「ベクレルだかモクレルだか知らないけど、そんなことを知ったところで何にもならないじゃないか。そこまでするのか」と言われましたが(故郷からはだいぶ距離が離れてしまうので、遠くに行かれるのが嫌だったのだと思います)、「後悔したくないから」と伝えた後、科学的知見と論拠や移住先についての情報を長い手紙に書き、今はよく理解してくれています。故郷も、山と風向きに守られていたおかげで、市民測定所などのデータを見ていて水や空気などから放射性物質が検出されることはほとんどないのですが、車がないと生活できない環境なので、移住は難しいと判断しました。

放射能のことをちゃんと言おうと思ったのは、すでに移住した人たちが、隠さずに理由を言ってくれたおかげで(たとえば田中優さんなど)、私も移住を現実的に検討することができ(それがなければ検討すらできなかったと思います)、生き方を考え直すきっかけにもなり、とても感謝しているからでもあります。もし、移住できるならしたいと思っている人が、この文章を読んでくれて、願いを実現する力に少しでもなれたらうれしいです。いろいろな方と話していて感じるのですが、東京には放射能がないと思っている人がかなりいるようです。だから、移住という選択肢がとれない人たちには、正しい情報を知って、できる対策をとって後悔のないように過ごすということを少しでも考えてみてもらえたらと願っています。これからも情報発信を続けていくつもりです。肥田先生のインタビュー記事も希望が湧いてくる内容です→「内部被曝を乗り越えて生きるために」。

新しい土地に引っ越すことができるのも多くの人の支えがあってのことでした。そのことに感謝して、移住後は社会のために自分ができることをやっていきたいです。早く事故が収束すること、原発事故の被害を受けた人々が生活を立て直せるように社会が変わること、原発が世界からなくなること、命を大切にする世の中になることを願っています。

pm2.5に思う

pm2.5が中国から飛んできているという。新聞にも大きく載っていた。まわりの反応から推察して、テレビでもやっているようだ。問題であることは確かだ。それは確かなのだが。

pm2.5は前からあった。日本でも出している。基準値を超える日は過去と比べて大きく増えたというわけではなく、むしろ今よりも多い年もあった。なぜもっと早く取り沙汰されなかったのか。
※参考:日本エアロゾル学会「PM2.5に関して頻繁に寄せられる質問」
    :環境省発表資料「今年前半の PM2.5 濃度と過去との比較結果について

中国ばかりが悪いような言い方をする人がいる。中国、早くなんとかしろよ、と。マスコミではそういう扱いなのかもしれない。しかし、中国から来ているから中国が悪い、中国なんとかしろよ、というのはあまりにも短絡的ではないか。

自分の身の回りの物がどこで作られたか見てみてもらいたい。中国製が多いのではないだろうか。少なくとも店屋では中国製の文字をよく見かける。書かれていなくても、部品などは中国からきているかもしれない。

私たちが買ったもの、私たちが使っているものを作る過程でpm2.5が出ている。私たちが使っているものを作っている人たちはもっと濃度が濃くて危険な場所にいる。

中国だけに責任転嫁するのではなく、一緒に解決策を考えて協力する、それが筋ではないかと私には思えてならない。

中国で生産をしている日本企業にも、本社対下請けのような安さだけを追求した関係ではなく、環境と人に配慮した生産体制を一緒に築いていくパートナー関係を作っていってもらいたい。私たちのライフスタイルにも解決の糸口はある。安いものを大量に買って使い捨てにするライフスタイルを見直す、長期的に見て環境にも社会にもいいことをしている企業を評価して、たとえば買い物をする、そういう企業で働く、そういう企業に投資するなど、小さくてもできることはある。おかしな作られ方の物が評価されなくなれば、企業も変わらざるを得ないのだから。

もう一つ疑問がある。なぜ放射能はpm2.5ほど騒がれないのか?マスクをして外を歩いていると「pm2.5対策?」と言われることはあっても「放射能対策?」と言われることはまずない。日本は放射能を今なお世界中に撒き散らしている。汚染水放出・漏洩による海の汚染だけでなく、東電の原発に蓋をしない限り、空気にもずっと出続けている。

pm2.5の報道のされ方は、日本人の注意を放射能からそらそうとしているように見える。それに、中国を悪者に仕立て上げて国民感情を煽動しようという、戦争に向けた準備にも映る。

20140215

バレンタインがきらいなわけ

日本のバレンタインデーには苦々しい気持ちになる。最近はフェアトレードのチョコレートもあるので、そうでもなくなってきたのだが。

日本のバレンタインデーは、本来のバレンタインの精神を忘れ、基本的に女性が男性にチョコレートをプレゼントする日になっている。チョコレートメーカーが金儲けにしかけた。諸説あるが、本来、バレンタインとは、聖職者Valentineの命日だと言われている。St. Valentineとは、貧しい人、生活に困っている人、社会的弱者を救おうと心を尽くした人物である。

一人が一人にあげるだけでは飽きたらず、義理チョコ(恋愛対象でない複数の男性にあげるもの)、友チョコ(女友だちにあげるもの)、超義理チョコ(嫌いな男性にあげる安いチョコ)と、チョコを配る対象がどんどん増えている。

こんなことが好きな女性はいいだろうが、そうでない人間には苦痛である。こんなことに散財したくないし、あんなにたくさんのチョコレートを配らないといけないなんてお金のない人は楽しめないイベントだ。感謝の気持ちを伝えるいい機会でしょう?と言う人もいるかもしれない。感謝の気持ちなら普段から機会あるごとに伝えればいいと思う。何も一年に一回に限る必要はないし、チョコである必然性も私にはわからない。

男性は自分が誰からもチョコをもらえなかったらどうしようとハラハラし、本命チョコならうれしいかもしれないが、義理チョコをたくさんもらったらもらったでホワイトデーのお返しの心配をしなければならない。女性は女性だというだけで、「女子なのにチョコあげないの?」みたいな、チョコを配らないといけないというプレッシャーがある。男性に「君、今日は何の日か知ってる?女子なのにバレンタインなんて関係ないみたいな。変わってるねぇ」と言われたこともある。

しかも、そのチョコレートはほとんどが貧困国の人々と自然の犠牲の上に作られたものだ。フェアトレードのチョコレートは極わずか。低賃金で過酷なプランテーションで働かされ、仲買に安く買いたたかれたカカオ。教育の機会を奪われて働かされている子どもたちもいる。砂糖もフェアトレードでなければ同じようなもの。プランテーションを拡大するために自然が破壊されている。

ミルクは、暗くて狭い牛舎に閉じ込められ、本当は草が好きなのに乳脂肪分を高めるためだけに穀物を食べさせられて、病気になると厄介だからと薬漬けにされている可哀想な牛から搾り取ったもの。飼料穀物は大抵遺伝子組み換え穀物だ遺伝子組み換えといえば、乳化剤によく使われる大豆レシチンも遺伝子組み換え大豆が原料であることが多い

日本のバレンタインデーは、命を冒涜している。人間をバカにしている。真実を隠されて、知らずに楽しんでいる人のことを批判はしないが、私は企業の金儲けに振り回されたくはない。空気で強要されても怯まない自分でありたい。あげないと仲間外れになるし、とか、気まずいし、と思う女性の感情や、誰からももらえなかったら悲しいという男性の感情といった、人間の恐怖心を煽って金儲けに使うやり方が大嫌いだ。

St. Valentineの精神に則って苦境に立たされている人々のことを考える日にしたい。自分を支えてくれている人や自然を想う日にしたい。フェアトレードのチョコレートを味わいながら、遠い国の人々と自然に思いをはせるのもいいかもしれない。

20140213

柵のない者の役割

私にはお金もないが、おかげで柵(しがらみ)がない。
ない、とまでは言い切れないが。
柵があって言いたいことが言えない人がいることを知った。
柵があって自ら情報弱者になっている人がいることを知った。

柵がない者の役割というものを考えるようになった。
私は自分の殻を乗り越えさえできれば何でも言える。

ヨーロッパ出身の友人は日常的に政治の話をする。
日本にはそういう雰囲気がない。
政治の話はタブーとされている感じさえする。
日本人のミュージシャンが海外のミュージシャンに
「君は何党を支持しているんだい?」と聞かれて
面食らったというエピソードも最近読んだ。

柵がない私から、政治の話をすることで
日本で政治の話をする人が一人増える。
私の自由な発言を見たまわりの人の中で、
政治の話をする人が出てくるかもしれない。
また一人、また一人を自由に話せる人が増えていく。
いつのまにか政治の話がしやすくなって、
柵がある人でも話しやすくなったりするかもしれない。

政治は暮らしと密着してる。
私の働いたお金で
国は戦闘機を買ったり、
爆弾になって落とされたり、
原発につぎ込んだり、
政府に厄介、でも、
市民には極めて重要な発言をする人の監視をしたり。
そんなことに使われたくない。

政治の話をもっと自由にできる世の中にしたい。
そのファイアスターターになりたい。

20140204

置き去りにしないで

福島からの避難者の声です。東京都に住む人々に脱原発を選んでほしいです。
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2014020490135432.html

福島の人たちは、福島の原発で作られていた電気を全然使っていなかった。使っていたのは東京に住む私たちだった。無関心だった自分をすごく情けなく思った。東京で使う電気のために、原発が作られて、それが爆発し、福島の人々は、故郷を汚染され、コミュニティが崩壊した。家族がバラバラになった人もいる。母子家庭になり生活が苦しくなった人もいる。脱原発だけでなく、脱被曝、原発事故被害者の生活再建、お母さんが働きやすい環境の整備も具体的に政策に入っていることが重要だと思う。今なお苦しんでいる人を置き去りにして、脱原発だ、再エネ拡大だ、と叫ぶのは、自分が彼らだったらと思うと私には悲しすぎる。今なお、再稼働を急ぐ原発推進派。もはや人間の心を失っているのだろうか。

宇都宮けんじさんは、
と政策の柱に掲げている。何よりもまず第一に、原発事故被害者の支援なのだ。宇都宮さんが脱原発を目指すのは、被災者、被害者の苦しみを生で見て、この人たちを助けたい、という想いからなのだ。筋金入りだと私は思う。

中立を追求しない

中立を追求することに固執すると、真実へ近づくのに遠回りになることが多い。真実から遠ざかることすらある。

中立ではなく自立を心がけたい。だれかが言ったことをそのまま鵜呑みにするのではなく、自分の頭で考える。自分の心で感じる。直感に耳をすます。

自立していない発信とはなにか。誰かに遠慮して言うべきことを言わない。お金をもらっているとか、自分が生活上頼っているだれかに不都合な情報を故意に隠す。肩書が立派だからとか、著名人だからとか、そういった理由で内容を吟味せずに、しかも自分の考えを加えず、自分の考えであるかのようにそのまま横流しする。そういう発信を私は警戒している。

新聞やテレビには、政府やスポンサーの圧力がかかるとさまざまなところで見聞きした。自分で見てもそう思う。報道は、私が一次情報で得たものと違いすぎる。だから、新聞やテレビは、大企業寄りなのか、それとも、リベラル寄りなのかなど、どういう傾向の新聞かを頭に入れておいて、差し引いて考えたり、信用ならないものは一次情報を探したり、複数のメディアに目を通したりするようにしている。

直観的に違うと感じたもの、さまざまな見聞の末に事実ではないと考えたものについて、私は、無理に並べることを控えている。中立でないと言われることもある。私はそれでいい。

私がどういう人間で、どういう本を読み、どういう人を尊敬しているか、どういう生活をしているか、どういう世界を夢見ているか。そういうことを知ってもらった上で、私の書くこと、発言を見てもらい、見た人が考える材料にしてもらえたらうれしい。

20140201

選挙と私

選挙になると、うるさくしてすいません。

私は数年前までは、政治に無関心でした。大学2年のときに、先生に怒られても(このあたりのことは過去にブログで書きました)、選挙にいくという意味を腹では理解できなくて、新聞とか、テレビとかに流されて、たぶんなんとなくで選んでいたし、行かないこともありました。

私が政策を読んだり、本人の声を聞いたり、現場に行ったりするようになったのは、震災以降です。2011年に東日本大震災が起きて、東電の原発が爆発して、それでもすぐは気が付かなくて、しばらくしてから、自分で情報をとりにいくようになり、棄権することが生きにくい世の中をつくるのに加担しているということに気が付きました。世の中に文句はいっぱいあったけど、人のせいにしていて、自分は選挙を真剣にやっていない、そういう自分は、まだ大人になっていなかったと反省しました。

自分が棄権したり、白紙委任したりすることが、原発が爆発して自分の住むまちが汚染された、自分が将来男の子を産んだら戦争に言って人を殺してこいと自分の子に言わなければならないかもしれない、保育園が足りない、お年寄りの孤独死、働く人たちの過労死、過労自殺、税金は上がる、そういう生きにくい世の中を作るのに加担していたということに気が付きました。「騙されたあなたにも責任がある」という言葉に、ほんとにその通りだったと思いました。人任せにしないで自分の頭で考えて行動する、そういうちゃんとした大人になりたいと思いました。

そして同時に、投票するということが楽しい世の中を創る力にもなるということも、この前の参議院選挙で学びました。私は微力だけど無力じゃない。できることがたくさんある。そのことに気がついたら、政治がエキサイティングになりました(選挙自体も、テレビを見るより、ツイキャスとかUstの生中継のほうが人間性がよくわかっておもしろいし)。

だから、できることをしていきたいと思っています。
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