昔、生活保護をもらう人のことは、働く能力がないなんて自分が悪い、生活保護をもらうなんて恥、みたいな、弱肉強食的な考え方を持っていた。今思えば、全然実情がわかっていなかったのだと恥ずかしい。
昔、まだテレビを見ていた頃、生活保護の不正受給の話をよくニュースかなにかで見たせいかもしれない。実際には、不正受給は1%にも満たない(日弁連:「今ニッポンの生活保護制度はどうなっているの?」)。本来、救済されるべき人が責められ、救済されなければならない人を救済するのが職務のはずのケースワーカーまでが嫌がらせをするとも聞く(ダイアモンド・オンライン:不正受給問題であたかも犯罪者扱い!?生活保護受給者が脅える凄惨な仕打ちと悲惨な日常)。
相方がビッグイシューのインタビューで読んだ話を教えてくれたことがある。そのインタビューを受けていた人は、青山の路上でビッグイシューを売っていて、お会いしたことがある。とても素敵な人だった。まっすぐで真摯な印象を受けて、どうしてこんないい人がハウスレスになってしまったのだろう、と不思議に思うほどだった。
その人は、お店を開こうと資金を貯めていたのだが、一緒にお店をしようとしていた友人が、いざお店を開く段階になって、資金を全部持って消えてしまったのだそうだ。警察に訴えるなりして、友人を捕まえて、資金を取り返せば、その人はハウスレスにならずに済んだだろうが、そうはしなかった。友人を犯罪者にすることができなかったのかもしれない。私ももしそういうことになったら、訴えることができるかどうかはわからない。
去年12月の衆議院選のときに、こんな記事も読んだ。
東京新聞:千円ぜいたくも我慢 衆院選 生活保護、最大の削減幅
ガンになり、治療費のためにした借金を返せなくて自己破産。今もガンに苦しみ、働くことはできない。病気に絶対にならないなんて、誰が言えるだろう?
努力次第で何でもできるなんていうのは、傲慢な考え方なのかもしれない。日本の社会は失敗が許されないような、一度失敗すると戻ってくるのが難しいような、そんな窮屈な世の中のように思う。だから不運にもブラック企業に勤めてしまい、自殺を考えるほどでも、会社を辞めるという選択肢を取れない人が多いのかもしれない。一回コースを外れてしまうともう社会生活が営めないような恐怖があるのかもしれない。自分が満足に生活できているのはたまたま運がいいだけで、不運にも病気になったり、事故にあったり、だれかに騙されたり、勤務先が突然倒産になったり、危ないことがあるかもしれない。それを自己責任で片付けるように手懐けられて言われるがままにしていては、自分がいざ躓いたときに、自分の首を締めることになる。
保険会社に保険料を払う。病気になったり、事故にあったら、保険会社から保障を受ける。それは当然のことだと思われている。国に税金を払う。会社が倒産した、事故にあった、病気になった、などで、生活が危うくなったら、国から保障を受ける、これはどうして当然のことではないのだろう?
この話を、昨年2月の東京都知事選のときに見た対談のインターネット中継で聞いて、確かにそうだなぁ、と思った。こういうことを学校では教えてくれない。生活保護は、憲法25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」を保障するための制度。同じ対談での、生活保護の申請の仕方を学校で教えるべきという意見に本当にその通りだ思った。