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20220729

[本紹介] 『しあわせの牛乳』(佐藤慧・著/安田菜津紀・写真/ポプラ社・刊)

山地酪農の中洞牧場さんについて書かれた本『しあわせの牛乳』(佐藤慧・著/安田菜津紀・写真/ポプラ社・刊)を読みました。

『しあわせの牛乳』
(佐藤慧・著/安田菜津紀・写真/ポプラ社・刊)

山地酪農で「しあわせの牛乳」を生み出している中洞(なかほら)牧場の中洞正さんの生き方と、中洞牧場の牛たちの様子を、写真と共に描いています。児童書コーナーで見つけました。小学生の方でも読めるように平易な文体で読み仮名も付いています。大人でも読み応えがある内容ですが、大きな文字で物語のように書かれているので、たいへん読みやすく、気軽に読み始めることができました。

20220630

[本紹介] 『菌の声を聴け』(渡邉格・渡邉麻里子・著/ミシマ社・刊)

大好きなパンやさん「タルマーリー」さんの本『菌の声を聴け』を読みました。

『菌の声を聴け』
(渡邉格・渡邉麻里子・著/ミシマ社・刊)

タルマーリーさんは、自家製天然酵母のパンとビールのお店で、野生の菌を採取して酵母とされています。私が知ったころには千葉県いすみ市にあったパンやさんでした。今は鳥取県の智頭町を拠点とされています。

20160915

『愛国と信仰の構造』を読んで―〈番外編〉

この3日間、『愛国と信仰の構造』を読んで考えたことを書いてきました。
  1. 愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
  3. 愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉
今日は番外編です。中島さんほど強い動機に突き動かされて学者になった人に出会った(本でだけど)は、初めてかもしれないと思いました。

中島さんにとって、愛国と信仰は人生を賭けた大きな研究テーマだそうです。

中島さんは、20歳のときに阪神大震災で被災。見慣れた風景が一変し、茫然自失の状態になったといいます。震災の状況を報じるテレビに釘付けになっていると、がれきの中を必死の形相で何かを探す女性が目に入ります。リポーターの「何を探しているのですか?」という質問に、何を当然のことを聞くのかというような雰囲気できっぱりと「位牌です」と答えるのを見て、「地震の揺れ以上の精神的な揺れ」が起こったそうです。自分が真っ先に握りしめたのは財布、この女性は位牌を必死で探している。この対象的な様子を目の当たりにしたことをきっかけに、自身の内面の「弱さ」に直面することになったと語られていました。
バブルが崩壊し、戦後日本の「成長」という物語が崩壊する中、二十歳の私は何に依拠して生きていけばいいのか、途方に暮れてしまいました。その茫漠たる不安を、震災は直接的な形で突きつけてきたのです。(p. 12)
中島さんは、精神的な〈弱さ〉の源である自分の中の「空白」、すなわち、宗教に向きあおうと考え、イスラム教、キリスト教、神道、仏教、ヒンドゥー教(五十音順)など、さまざまな宗教書を特定の宗教や宗派にこだわらずに読み漁るようになりました。

そのような状況下で、また一つの衝撃的な事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こります。マスメディアは「宗教は危ない」の大合唱になり、世間も「宗教は危険」一色になりました。自己の「空白」と向きあおうと、宗教を勉強しているさなかに、こんなことが起こるなんて本当に衝撃だったと思います。

宗教を十把一絡げにして危険視する論調に違和感を持ちながら、「図書館の本の森に籠もるようになって」いき、「なんとか自分が納得できる宗教へのアプローチを手にしたいともがいていた」といいます。

1995年はさらにもう一つ大きな出来事がありました。戦後50年にあたり、「村上談話」が発表されます。“右派”論壇からは「自虐史観からの脱却」「東京裁判史観の破棄」というスローガンが叫ばれ、歴史修正論的な議論が大手を振って論じられるように」なっていたそうです。それから20年余りが過ぎましたが、今ではその傾向がさらに強まり、その歴史修正論的な見方によって、日本は国際社会で孤立するようになっていると思います。

中島さんは、こうした一連の衝撃的な出来事を経験したことにより、「愛国と信仰」という問題が、「戦後の臨界点において暴力的に表出してきている」ことと、「その荒波が私の人生に押し寄せてきている」ことを実感なさったそうです。

こうして、「愛国と信仰」という問題は、中島さんの大きな研究テーマになりました。
私はこの問題に正面から向き合ってみようと思いました。「愛国と信仰」という問題を脇に置いたままでは、私の人生は片づかないと考えました。これが研究者という道を歩みだしたスタート地点でした。(p. 14)
私がこれまでに知っていた学者さんというのは、経済的な安定や地位や名誉が第一の目的で、身近でも、研究より飲み会とか旅行とか遊ぶほうが好きだけど、教授に気に入られたりとかして、「まあ、なれそうなんだったらなっとくか」みたいな人とか、研究で安定してお金をもらいながら続けられるならほかの仕事よりはましかな、くらいの人とか、名誉が欲しいから何かつぶしが聞きそうな研究テーマを探して研究者になっている人とか、そんな感じの人が多かった気がします。研究を続けるためだけになんかしょうもないような細かいことを研究して言い争っているなぁ、という印象も持っていました。保身のために優秀な研究を発表したゼミ生をいじめる教授とかもいたし…。昔はほんまもんの研究者もいたんだろうけど、今は希少なんだろうなぁというイメージでした。

なので、研究は大学にいなくたってできるけど、収入や地位や名誉のために大学に残る、あるいは、職務経験や特殊な経験を売りにして入り込むような世界なんじゃないのかな、と思っていました。もちろん、そういう人ばかりではないと思いますが。

人生をかけた課題にしっかりと向き合うために研究者になる、という人もいるんだなぁと、中島さんが学究の道に進んだ経緯を知れて、うれしくなりました。こういう真剣な学者さんが増えてもらいたいし、心からの要求に沿った生き方をする人が多くなるといいなぁと思いました。

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20160912

『愛国と信仰の構造』を読んで 〈1〉

『愛国と信仰の構造』は、政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書。

『愛国と信仰の構造』

明治から大正、昭和にかけて、日本を戦争へと向かわせた戦前のナショナリズムと全体主義がどのようにして起こっていったのかを検証している。

20160824

アラ探しをしているチームと、サポーティブなチーム、どちらが能力を最大限に発揮できるでしょうか?

常にアラ探しをしているチームと、自由にのびのびやらせてくれながらもサポーティブなチーム。チームのメンバーの能力が最大限に発揮されるのはどちらでしょうか?

昨日は翻訳の仕事で、翻訳者の悪口を言ったり、誤りを見つけて鬼の首を取ったような態度をとったりする発注者の話を少し書きましたが、そもそも、好き好んでミスする人なんていないと思います。

手を抜いていたとか、不真面目にやったとか、嘘八百を並べたとか、そういうことなら責められても仕方がないし、厳しく指摘して改善してもらうのが相手のためだと思います。でも、精一杯やって、それでも間違ってしまったものを、「それ見たことか!」と攻撃の材料にするなんていうのは最低だと思います。

人間は不完全な生き物です。そこをサポートしあうのがチームの役割。翻訳者一人でノーチェックで完璧なものができるんだったら、チェッカーも校正者もいりません。人間は完璧ではないから、どんなに気をつけていても、間違ったり、勘違いしたりすることがあるから、複数の目を通すわけです。立場を入れ替えてみれば、誰だってそのくらいはあるのではないかと思われるようなミスで、職能や人格までこき下ろすような攻撃をするのは、本当に最低だと思う。

このご時世、コンテンツを電子書籍にして読者に直接売ることもできるようになっていますから、状況としては著者と訳者と読者さえいれば、翻訳の本を販売するということは成り立ちます。こんな態度でいるのであれば、チェッカーも校正者も編集者も不要なわけです。現状は、正規の出版ルートを通さなければ、多くの人に届けることが難しいため、嫌な思いも我慢している人がほとんど。だから、こんな傲慢な人たちにも仕事がある。

電子書籍って言ったって、著作権や版権絡みでエージェンシーがどうたらこうたらという反論もあるでしょうが、著者が従来のルートを通さずに電子書籍でバンバンおもしろいものを出すようになったらどうでしょうか? 編集者が変な赤入れをしまくって、自分の言葉ではなくなってしまうし、印税が少なすぎる(だいたい10%)から、もう出版社からは出さないと宣言している著者も見かけるようになりました。やがてそれが一般化するようになれば、翻訳者が著者と交渉して、あるいは逆に、著者が翻訳者に直接依頼をして翻訳版を出すということも、可能になってくるでしょう。

そうなれば、編集者も、チェッカーも、校正者も、コーディネーターも、本当に感謝されるような役割を果たしていない限り、その仕事は不要になります。ミスを見つけて攻撃したり(というか、私がチェックの仕事をするときは、ミスを見つけるのが仕事だと思っている。あって当たり前で、なかったら私の仕事なんか無用だと思う…)、傲慢な赤入れをしたり、発注者だけに都合がよいスケジュールで翻弄したり、人をバカにしたり、そんな態度でいたら、むしろ足を引っ張るだけだと思います。

常にアラ探しをしているような相手と仕事をする場合、間違わないように、間違わないように、ということに気持ちが行き過ぎて、おもしろいもの、美しいもの、人々に喜びを与えるもの、いいものをつくりあげていく、ということに、力を注ぐことが難しくなります。

たとえば、スキーのジャンプや、水泳の飛び込みなどで、
「あんたなんかどうせ上手に飛べないわよ。今に失敗するから、ふん、見ててやる。失敗したら思いっきりこき下ろしてやるんだから」
と思って見ている人たちがそばにいて、上手に飛べる人っているのでしょうか?

「大丈夫、きっと飛べる。もし、失敗しても、ぼくたちが助けるから、心配しないで飛んでみて」
と思って見守ってくれる人がそばにいたほうが、成功する確率が高まるのではないでしょうか?

チームの役割とはそういうものだと思います。ミスがあったらフォローして、つらいときには支えになり、悩みがあったら相談にのり、体調がわるいときには十分に休めるように代わってあげたり、自信をなくしていたら励ましたり、改善すべき点があったら思いやりをもって提案したり、それがチームというものだと思います。

クリティカルヒットの機会を虎視眈々とうかがって、仲間のミスを探すなんていうのは、チームのやることではなく、敵のやることでしょう。それをして、チームにとって、どんないいことがあるというのでしょうか? 品質は下がるし、士気も下がるし、やっていてちっとも楽しくもない。

いいことが一つだけあるとすれば、それは、虎視眈々と狙っているその人のプライドが満たされるということだけです。「私のおかげでいい仕上がりになったのだ」「あいつは私よりできない」「ぎゃふんと言わせてやってすっきりした」、そんな浅はかな喜びは長続きしないでしょう。結局、この人の能力がそれほど高くないことには変わりはないのですから。

幸い、よくできる人と仕事をする機会に恵まれていて、そういう人たちとは本当にいい仕事ができます。ミスをしても、ミスについてのみ客観的な事実として指摘してくれるので、素直に受け入れられるし、次から気をつけられる。相手もミスをすることがあるけど、素直に認めてくれて、次に活かしてくれる(ミスを素直に認めるというのは本当に知性に自信のある人でなければできないことだというのも学んだ)。

リスペクトと感謝に基づいて、コミュニケーションをとり、仕事をつくりあげていけるというのは、本当に幸せなことだと思います。厳しいことを言うときも、普段からしっかりとした関係を築いているということもあって、相手のことを思ってのことだというのが自ずとわかります。そういう人たちと仕事をすると、「ああ、いい仕事ができたなぁ!」と思うことばかりですが、そういうとき「いい仕事をしたなぁ!」という達成感があるだけでなく、それを使う人たちにも喜んでもらえます。自分の能力も、人間性も、チームのメンバーのよいところに感銘を受けながら、自然と高めていけます。

針のむしろのようなところで精神を鍛えたいという人もいるかもしれませんが、私はやっぱり、人間性も能力も高い人たちと、サポーティブなチームのなかで仕事がしたいです。

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20160218

リモートワーク(遠隔ワーク)とオンサイトワークを比較

【旧暦睦月十一日 立春 末候 魚上氷(うおこおりにのぼる)】

地方へ移住する前から、会社など決められた場所に行かずに、好きな場所で仕事をする、というスタイルをとってきました。

移住前は、それだけだとお金が足りなかったので、パートタイムで会社にも通っていました。なので、東京時代は、半分はオンサイトワーク、半分はリモートワークで、両方のおもしろさも、難しさも味わいました。

リモートワークとオンサイトワークを一個人的な経験から比べてみたいと思います。

リモートワークのいいところはというと・・・

20160211

人間はモノじゃない

【旧暦睦月四日 立春 次候 黄鶯睍睆(うぐいすがなく)】

「フリーランスの仕事探しに良いよ!」と噂のLancers(ランサーズ)
を覗いてみて、びっくりしました。
価格コムで電化製品が並んでいるみたいに、
横に☆マークで評価がついた人間が並んでいる・・・

人間がモノみたいに扱われていてすごく悲しくなりました。
男性の写真の上に「俺のスペック需要ある?」というコピーが載った
結婚相談所のバナー広告にも辟易とします。

人間はモノじゃない。

20151118

ノマドか、エグゼクティブか

【旧暦神在月七日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせん}がさく)】

ノマド的な働き方とか、二地域居住とか、個人の自由を謳歌する働き方にも憧れる一方で、大企業や大きな組織で何かを大きく動かして社会に大きく貢献するような働き方にも憧れる。その辺、どうなんだろう?というような感じの質問をされたことがあります。

結論から言うと、どっちもやってみたらいいと思う。それで、合うほうを選んだらいい。こればっかりはやってみないことにはわからない・・・と言ってしまうと、ちょっと突き放しすぎな気がするので、今まで見聞きした範囲から私が考えていることを書きたいと思います。

私自身は、個人の自由を謳歌する働き方が働き始めてからのほとんどを占めていますが、大きな組織を垣間見る機会もありました。「社会貢献」をしたい、と思ったときに、どっちにも、やりやすいこととやりにくいことがあると思っています。やりやすいことを最大限発揮できて、やりにくいことはやりやすく変えていけるほうを選んだらいいと思います。

たとえば、大きな組織になると、個人として感じていることと、組織の一員としてしなければならないこととの間に大きな隔たりがあることもあるようです。私が2カ月だけいた中規模の会社でもそうでした。

そのジレンマを、組織の下層にいる間は我慢して、上層に上がってから変えていこうと思って耐えているうちに、だんだん個人の感覚が麻痺してきたり、上に上がるときにいろんなしがらみができたり、どんどんものが言えなくなって、結局、丸くなって終わる、という体験談も聞きました。

他方で、内側から変えていく勇気と粘り強さ、交渉力、推進力を持って、諦めることなく、組織のなかでいいことを広げている人の話も聞いたことがあります。組織と一口にいってもいろいろあって、自分にとってそういうことがしやすい組織だったら、組織で内側からいいことを広げていくのもやりがいのあることだと思います。

個人の自由を謳歌する働き方で、「社会貢献」に関して、だいぶやりやすいなと思うことは、
・やってはいけないことをしなくていい
・やってはいけないことに加担しなくていい
・やったほうがいいことをすぐに実行できる
・時間に余裕があるから、環境と社会のことをよく調べて考える時間がある
・よく調べて考えて買い物をしたり、意見を伝えたりすることで外側から働きかけができる時間がある
・いいことをしている人たちと網の目のようにつながって一緒に何かを始めることができる
あたりでしょうか。個人の決定権が大きいというのが一番の決め手だと思います。

たとえば、コピー用紙ひとつをとっても、パートタイムで行っていた会社では住民を焼き討ちにして追い出してまで熱帯雨林を破壊して作られた紙を使っていて、それを変えることは私にはできませんでしたが、個人で使う紙だったらすぐに変更することができます。家で使う紙は、びわ湖の森の間伐材と再生紙を使った「びわ湖の森の木になる紙」か、FSC森林認証紙にしていて、会社よりはわずかかもしれないけれど、少しでも、熱帯雨林の破壊を少なくできて、日本の森を再生するお手伝いができています。

やりにくいことは、やっぱり大金が必要なプロジェクトとかでしょうか。でも、そこの部分は長期的な目で見て、少しずつコツコツ幅広くいいことを積み重ねていって、じわじわと社会にいいことを広げていくやり方で補えるんじゃないかなぁとも思っています。

そして、そもそも、「社会貢献」ってなんなんだろうか?という、自分なりの定義や条件をしっかり持っておく必要があると思います。その定義や条件は、つねにアンテナを高くして、つねにアップデートしていかなければならないものです。そうしないと、「社会貢献をしている!」と思っていたのに、実際には、戦争に加担していたり、環境汚染や環境破壊につながっていたり、自由を妨げていたり、不公正や貧困を助長していたり、格差や差別を広げていたり、ということが往々にしてあるからです。

わかりやすい例として、原発はクリーンな未来のエネルギーだと言われていました。温室効果ガスの排出がないからというのが根拠です。これを鵜呑みにしている人にとっては、原発産業の推進は彼らにとっての「社会貢献」になります。

でも、稼働中も放射能を出し続け、ウランを掘る労働者には採掘中に大量の放射線を被ばくさせ、現場でも被曝労働者の犠牲なしに稼働することができず、周辺の海域の海水温を上げて生態系に悪影響を与え大量に出る使用済み核燃料を安全に処理する技術がないために十万年以上も管理し続けなければならず、核爆弾をいつでも作れる状態をつくっている。これを知っている人たちにとっては、原発産業の推進は、「社会貢献」どころか、環境破壊と人権侵害以外のなにものでもありません。(原発のことを勉強するようになったころのことはこちらに書いています→「20130413脱原発を願うようになった経緯」)

こうしたケースが、さまざまな分野において見受けられます。だから、「社会貢献」をするうえでは、何をもって社会貢献とするのかを判断する、たしかな目と、自分なりの定義が不可欠です。

ノマド的な人たちはもしかしたら、世捨て人的な感じに思われるのかもしれません。でも私の知っているノマドワーカーたちは、ものすごく優秀で、その能力を十分に活かして社会貢献をしています。私自身も、暮らしが豊かだから、仕事もいい仕事ができているように思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、私の仕事は感性と思考力の両方が求められるので、心身の健康によって仕事にも多少なりとも変化が出ます。

自然系の人たちのなかには、世捨て人のような暮らしをしている人もいますが、二刀流の人もいて、私は後者です。世間に背を向けているわけではなくて、世間の支配的な動きに振り回されないように、徐々にシステム依存を減らして自分の自由度を高めている一方で、それがまだできない大多数の人たちが困らないように、見識を磨いたり、意見を発表したり、署名をしたり、お金や時間の使い方で意思表明をしたり、できないをできるに変えられるように情報や知恵を共有したりと、できる限りのことをするように努めていて、まわりでもそういう人が多いように感じています。

まずは、そもそも社会貢献ってなんだろう?ということをよく調べて考えてみて、そのうえで、自分は世の中に何ができるだろう?、何はしたくないんだろう?と考えてみるのはどうでしょうか。そうして、それらを実現するために、ぴったりのスタイルをいろいろ試してみて見つけていったら、いいんじゃないかなぁと思います。