20160811

民主主義は至るところに。

最近、ちょっとした困りごとがあり、それを乗り越えるなかで、民主主義の勉強になったことがありました。「あ、今やっているのが民主主義なんだ」と。面倒だけど、民主主義の実践の訓練になっているんだな、という感覚を味わいました。

民主主義は、民が主、市民が主権を持っている、主人公であるという考え方。大事なことを決めるときは話し合う。人はそれぞれ個性を持っていて、考え方や思考パターン、意見が異なるというのが大前提です。一人で決めるよりも面倒です。

面倒だけど、人は完璧ではないから、一人だけに決定権を持たせてしまうと誤ることがあります。戦争など、重大な誤りにつながることもある。一人ではなくて少数だったとしても、根回しをされたり、一人の怖い人間が脅して要求を通したり、という危険もあります。ポジションによって、決定権が決まってしまうと、みんなに関わることについて、自分の利益しか考えずに決めてしまう人や、気まぐれにころころ方針を変える人が決定権を持つことになったら大変なことになります。

まず、第一段階は話し合うところ。今読んでいる『民主主義ってなんだ?』にこんな一節がありました。
高橋(源一郎さん):人間が複数いて、その中で何かひとつのことを正しく決めるって、根本的に無理だと思うんだよ。でもその無理を制度にするしかなかった。民主主義って、いちばん狭い意味では議会制民主主義だけど、実は選挙だけじゃないし、国会や議会の中にとどまらない、その外にもあるはずなんだ。それは社会運動も政治参加ということで、狭い意味でのデモクラシーでも保証されていることだけど、でももっと広げていくと、複数の人間が集まって何か決めるとしたら、そこに民主主義が発生すると思う。
奥田(愛基さん):人が二人いたら社会が発生するから。(p. 153)
彼と彼女が食事を決める話し合いにも、父と母と子が何かを決める話し合いにも、民主主義は発生している、という例とともに書かれていて、「あ、そっか、なるほど」と、民主主義は、政治だけでなくて、日常に実践の機会が溢れているんだと思いました。

でも、なかなかこの、話し合いの作法を体得している人が少ない。「おれ(あいつ)が正しいと思うことは正しい」という独裁制みたいな人もいるし、「箔のある人たちが正しいと言っているから正しい」と貴族制や寡頭制みたいな人もいるし、どんなに愚かなことでも「みんなが正しいと言っているから正しい」と衆愚制みたいな人もいます。

相手と意見が合わないとき、相手が間違っていると言ってしまうと、「お前が間違っている」「おれが正しい」の堂々巡りになってしまいます。これは自分の身にたまに振りかかることでもあるし、身近でもよく見聞きします。

事実ベースで、客観的にそれが正しいかどうかを淡々と話せば、別にケンカをするようなことでもないのに、自分が出してきた事実が反証されると、自分そのものが否定されたような気になる人が多くて、感情的に反撃したり、無関係な別の問題を持ちだして、「お前だってこんな間違いしてるじゃないか!」とかやってしまう。

私は前からそれは避けてきました。「Aという事実があるので、Bと言えるため、Cと考えられる」みたいな感じに、事実に基づいて、論拠を提示するように努力していて、論理の大切さ、事実の大切さはすごく実感するようになりました。誤った事実に基づいた論理は崩壊するし、誤った論理展開が行きつく先は誤った結論です。でも、なかなか、事実が正しいかどうかを判断できる人は少ないし、論理的な整合性がわかる人も少ない。

例を挙げてみようと思います。

たとえば、Aさんが民主主義をdemocrasyと綴ったとします(正しくはdemocracy)。

Bさんは「違うよ、お前バカじゃねーの」と言いました。これでは、どこがどう間違っているのか、なぜ間違いと言えるのか、Aさんには判断できません。たまたまスペルを間違った可能性もあるのに、「お前バカじゃねーの」とまで言われたら、ムッとするでしょう。

Aさんが「だって、Bがこの前democrasyって書いてたじゃないか」と言い返すと、Bさんは「書いてねぇよ。Cもこの前、democrasyって書いてたじゃねえか。そんなやつと友だちだからお前バカなんだよ」とムキになりました。

これもよくあるパターン。別の友人のスペルが間違っていた、ということは、Bが正しいスペルを書いた証明にはなりません。無関係な例というものです。ムキになるということは、Bも誤って綴っていた確率は高いでしょう。スペルを間違えた人と友だちだということがAさんがバカであることを示すことにはならず、論理の整合性も欠いています。

Bさんとは離れたところで、CさんはAさんに、「辞書を引いてみたら、democracyになっていたから、-syじゃなくて-cyが正しいと思うんだけど」と言いました。Aさんは誤りを指摘されて、「democrasyって書く人だっているもん!そんな細かいこと、伝わればどうだっていいじゃないか!」とムキになりました。

Cさんは事実をベースに正しいスペルを提示しているだけで、Aさん自体を否定しているのではないのに、Aさんは誤りを素直に認めることができず、綴りが正しいことの証明にはならない事実を挙げています。

Cさんは、「どうだっていいことだとはぼくは思わないな。Aがこのままdemocrasyと書き続けていたら、Aはバカにされるかもしれないし、間違って覚えてえしまう人も増えてしまうかもしれない。辞書にはdemocracyとあるのだから、-syと書く人が仮に多いとしても、正しいのは-cyだと思うんだけどな」と、辞書を広げて冷静に切り返しました。反証の誤りも認められないAさんは、「Cだって、間違いだらけじゃないか!」と逆上しました。

Cさんの「ぼくは思わない」というところが重要です。「Aさんにそう考えるな」と言っているのではなくて、「Aさんがどうだっていいと考える」ことを否定せずに(Aさんがどう思おうとAさんの勝手)、自分は違う意見であるということとその根拠を提示しています。根拠を聞いたうえで、「それはそうだ」と思えるなら、Aさんは考えを変えるだろうし、そうでなくても構わない。Aさんが自分とは異なる意見を持つ自由を認めている姿勢が重要です。

最後のAさんの発言もよくあるパターン。この議論で生まれる結果として望ましいのは、democracyのスペルを今後は正しく書けるようになることだと思うのですが、全く関係のない話を出してきてしまう。せめて、どういう誤りがあったのかの事例が複数提示されていれば、Cさんは自分が間違いだらけかどうか判断できますが、Aさんの反論は極めて主観的です。Cさんが間違いだらけだったとしても、誤りを指摘する資格がないわけではありません。むしろ、正しいスペルを教えてもらったほうが、自分のためになるのに。

つい最近の困りごとは、これに近いものがありました。ある文章についてどの日本語を使うかを決める話し合いだったのですが、両者の主張を支える事実の正しさというのは、辞書に基づいて決めることになります。私は辞書に基づいて意見を言ったのですが、相手は「辞書なんかどうでもいい」というのに近いことを言い出しました。

これって、憲法違反の安保法制(違憲の集団的自衛権の行使を認める法案が強行採決された)とそっくりだと思いました。辞書=憲法に置き換えられる。よりどころとなる憲法をどうでもいいと言ってしまう。

今回の困りごとではほかにも、主張Bを事実Aが支えていると、相手は考えているのだけど、そのAという事実は主張Bを支える根拠としては当てはまらない事例だったので、それを説明したのだけど、わからないみたいでした。辞書に基づいて用法や意味が定まり、法律や憲法よりも解釈の幅が狭い言葉の問題でさえも、二者の間で、ここまで埋められない溝があるのだから、法律や憲法だったらもっと難しいよなぁとしみじみ。

そして、今回みたいに二者間で解決できない場合に、困った!ということで生まれたのが裁判という制度だと思いました。「出るとこ出よらよ!」ってことで。第三者に意見を聞いて、どちらの言い分が客観的に見て正しいかを判断してもらう。

今回は、表現だけの論争以外にもたいへんなことがあって、二者間では永遠に解決できなさそうだったので、判断力のある大人に相談しました。日本語の適切さを判断できない人に聞いても、正しい判断は下せないので、わかる人に判断を仰ぐ。

文章においては、言葉の用法や意味上のルールを定めたのが辞書で、その実際の使われ方や解釈の幅を知るのに役立つのはウェブ検索(主にニュース検索を使います)。裁判では、法律や憲法が辞書、判例がウェブ検索に当たるのではないかと思いました。法的な正しさの判断は、日本語の正しさよりももっと難しいですが…。もたらされる影響ももっと重大なことが多いですし。裁判で判断を仰ぐ相手が、法律と憲法、判例をきちんと理解していなければ、おかしな判決が出てしまうので、裁判官には知識と経験が問われるのだと思いました。

これからみんなでどうしていくかは、会議で話し合って決めたりします。社会においても、未来の方針などは、裁判で決めるのではなくて、みんなで話し合い、意見を並べ、反論を繰り返し、判断材料をたくさん提示した上で、投票をして決める。今の日本の民主制度には、事実を知らせることも、意見を言うことも、不十分で、話し合うこともなく、投票だけになってしまっていますが。わかりあえない前提で、自分が正しいと思うことには決まらなかったとしても、みんなで決めることで、決まったことを受け入れられるようにした仕組みが、熟議した後での多数決になったのだと思います。

今回の困りごとを通じて、どんなふうにして民主主義の制度が生まれてきたのかを追体験したような気がしました。最近は民主主義に夢中になっているせいかもしれませんが。日本の民主主義は、こういう日常レベルで見てもまだまだだと思いますが、今学んでいる最中なんだろうなぁと思っています。

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