何かを訳したり、書いたりするときは、「伝える」ということが私にとって最も大事な目的です。自分の使う語彙レベルの高さを見せしめることは目的のリストには入っていません。だから、だいたいみんなが辞書を使わなくてもわかるような簡単な言葉を書くようにしています。だって、辞書と首っ引きで読まなきゃいけない文章なんて、なかなか読む気にならないではないですか。読んでさえもらえないなら、伝えるという目的が果たせません。読んでもらえたとしても、辞書を使って意味を理解してくれなかったら、内容の一割も伝わらないかもしれません。
たとえば、次の文章はどうでしょうか。
1. その側近は躊躇した挙句、総理に誤謬を正すよう諫言したが、総理は渋面をつくって彼に罵詈雑言を浴びせた。
読めますか? 私は「誤謬(ごびゅう)」「諫言(かんげん)」「渋面(じゅうめん/しぶづら)」が読めず、「躊躇(ちゅうちょ)」はたぶん書けません。「罵詈雑言(ばりぞうごん)」はちょっと読み方があやふやで、念のため辞書を引きました。読めなくて書けない言葉というのは、馴染みが薄いので、なんとなくこんな感じかな?くらいの理解に終わってしまいがちです。腑に落ちて理解できた感じがしません。中国語を読んで、なんとなく漢字から意味を推測しているのに近いかも。
最近読んだ本に出てきたのが、こんな感じの訳文でした(訳者さんが特定されることは望まないので、引用は避けて、似た文章を作っています)。1ページのうちに何度も何度も辞書を引かないとわからない語がゴロゴロ出てくる。今、バーニー・サンダースさんの自伝を原文で読んでいるのですが、こちらよりもその訳書のほうが辞書を引く回数がはるかに多かったです。英和辞典よりも国語辞典を引くほうが多いっていう状況は、ちょっと初めてかもしれません。たぶん私は世間の平均(*)よりも多く本を読んでいると思うのですが、そういう私でもわからない言葉がたくさん出てくるので、世間一般では読み通せる人がどのくらいいるのだろうか?と心配になりました(重要な内容の本だったので)。
*文化庁の調査によると、月に1冊も本を読まない人が約半数の47.5%。
私は内容にも言葉にも興味があるので辞書を引きながら読みましたが、辞書を引かないで読んだらほとんど表面的にしか理解できないのではないかと思いました。ちなみに、その訳文が出てきた本というのは、英語で書いている著者が一人で、複数の翻訳家が共同で訳したものだったのですが、他の訳者さんが担当した章はこんなに辞書を引かなくても読めたので、たぶん、原文が特別に難しい語で書かれているというわけではないと思います。
この訳文に出会ったときはちょうど、仕事で訳した文章について、日本語のレベルが低いというようなことを言われたばかりだったので、「あー、こういう文章だったら、すごいって思ってもらえたんだろうなぁ!」と思ったのでした。(原文が平易な英語で、日本語も原文の持ち味を生かしたかったので、平易に合わせただけだったのですが、相手は私と目標が違っていたみたいです)
ただ、私も仕事でこういう批評をされたばかりだったので、こういう難しい言葉がごろごろした訳文を書いた訳者さんにも、事情があったんだろうなぁ、と思いました。難解な語を連発して自分の語彙レベルが高いことを見せつけないと、編集サイドで好き勝手に変えられたり、足元を見られたりといった不具合があるのだろうということは、十分に想像できるからです。中身ではなく、表面的なことでしか、文章のよしあしがわからない人が、残念ながらプロの現場にもいるので、お金と地位と名声を得ていくためにはやむを得ないのかもしれません。
それでもやっぱり、私は1のような文章はあまり好きではありません。好みの問題だとは思いますが…。自分の語彙レベルの高さを自慢するよりも、伝わりやすい表現を選びたいからです。1のような文章は、次のように書き換えても、十分に伝わると思います。
2. その側近はためらった末、総理に誤りを訂正するように忠言したが、総理は不機嫌な表情になって彼にさんざんな悪口を言った。
もちろん、難しい表現がしっくり来る場面もありますし、その言葉でないと言い表せないということもあるので、そういうときは私も難しい言葉を使います。ですが、ゴロゴロとオンパレードのように並んでいるのは、「こんな難しい言葉をこんなにたくさん使いこなせる私ってすごいでしょ?」という自尊心は埋めることができるのかもしれませんが、伝えるという目的を果たすうえでは逆効果だと思います。私も初めて知った言葉は使ってみたくなったりもしますが…。
訳す場合は、原文の語彙レベルに合わせるので、難しい言葉も使うことがあります。でも、慣用句や日本語独特の言いまわしは、とってつけたようで浮きやすいので、慎重に何度も読み返して、浮いていないか確認します。
特に、文化的な背景を調べると、海外の文章にはそぐわないものもあるので、言葉の背後にあるものも配慮したうえで言葉を選んでいます。例えば、欧米人が "I want to die at home."と言ったとして、そのセリフを「畳の上で死にたい」と訳したら変な感じがしますよね。「皮切りに」という表現も翻訳の文章でよく見かけるのですが(便利なのでついつい私も使ってしまう)、もともとは最初に据えるお灸という意味なので、あまり大きな出来事でないものに使うのは仰々しい感じがしますし、海外の文脈で使うにはなんだか違和感があります。
知性のある人の文章に触れていると、やっぱり、文章の語彙レベルで内容の知性の高さは測れないというのがよくわかります。知性のある人ほど、そういうゴテゴテした言葉は使わないのです。
憲法学者の樋口陽一さんは、話すときも語彙レベルが高い言葉を使われるのですが、全く嫌味な感じがなくて、板についているというか、その言葉は本当に樋口さんのものになっていて、ひけらかす目的ではなく、その言葉が口をついて出ている感じで、樋口さんの品性を伴いながら、伝えたい内容を適確に表しています。
孫崎享さんの『戦後史の正体』は、辞書を引かなくてもわかる言葉ばかりで書かれていますが、内容が理路整然としていて、何が起こったのか、事実がわかりやすく説明されています。
英語でもバーニー・サンダースさんの自伝は本当に平易な言葉で書かれているのですが、知性と愛と感謝に溢れています。週刊STでエッセイを書いているKip Katesさんの文章も平易な英語でウィットに富んだ文章で、大学生のときからずっとお手本にしています。
何を優先するかは人それぞれですが、私はバカだと思われても、なるべく多くの人に伝わりやすい言葉を使っていきたいと思っています。バカだと思われると仕事で不都合のある人は、伝わりやすさよりも難解な語を使いまくって能力の高さをアピールするほうを優先するのも作戦だとは思います。
でも、私の場合はそうなのですが、自分の文章を貫いていたら、よさをわかってくれる人が繰り返しお仕事をくださったりします。そういう人は希少で、生活の不安が起こることもまあ、あるにはあるのですが、表面的にしか物事を判断できずにバカにしてくる仕事の相手がたくさんいても、ちっとも楽しくないし、疲弊するだけです。長期的に見れば、そういう本質で物事を判断できる仕事の仲間が徐々に増えていくと思うので、最初はちょっと大変でも、伝えるということを最優先事項として、自分が納得できる仕事を重ねていきたいと思っています。
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