20160812

バカの壁と、自他の境と

高校生のときにヒットしていた養老孟司さんの『バカの壁』という新書。国語の先生に貸してもらって読んだのを記憶しています。

バカの壁 (新潮新書)
「バカの壁」ってこれか!と思うことが、大人になってから増えてきました。なかなか理解できなかったことが、思い込みを外すことで、「あ!わかった!」と、堰を切ったようにわかりはじめることがあります。そういうときに、自分の「バカの壁」を認識します。無意識レベルの思い込みに気がついて、それを手放していける感覚があります。

「話せばわかるなんていうのは嘘」というのは悲しい現実ではありますが、そういうこともあります。でも、戦争や暴力に訴えるくらいだったら、言葉でとことん議論を尽くしたほうがいいと思っています。

ただ、わかりあえないという前提で話すということも、大人になって覚えたように思います。人というのは、信じたいことを信じていて、どんなに根拠を並べても、その根拠を支える明白な事実を並べても、どう説明したって認めない場合もあります。事実かどうかなどどうでもよくて、自分が正しい、ということだけが信じられればそれでいい、という人もいます。そもそも、論理的な正しさというのは、論理がわかる人でないとわからない。もっともらしく語っているから正しいと思う人もいる。

家庭や職場や社会におけるポジションによって、正しさを決める人を決めている人も未だに結構いて、これも残念なことだと思います。最終判断をするのが自分だから自分が正しいとか、国が言っているから正しいとか…。これは独裁でしかありません(後者の例は、そもそも、「国」ってなんやねん!って話ですが…)。こうした人々にも、事実をベースにして話しても理解してもらえない。「正しいからとにかく正しいんだ」という大きな「理解の障壁」が立ちはだかっています。

絶対にはっきりさせないといけないこともありますが、白黒はっきりさせなくてもいいことも多いように思います。同じものを正しいと思う必要はなくて、あなたはこう考える、私はこう考える、あなたと私の考えていることは異なっているけれど、私はあなたの考えを尊重する、あなたも私の考えを尊重する、それが平和の秘訣だと思います。これは憲法で保障されている思想の自由。憲法が大事と言いながら、憲法で大切にされていることを尊重できない人も多いのは残念です。

まず、そもそも、自分と他人の領域の境がわからない人がたくさんいます。あなたの見解とは異なりますが、自分はこう考えていて、その根拠はこうで、この根拠はこういった事実に基づいています、というふうに論理を組み立てて、自分の意見を伝えるのではなく、根拠も挙げずに「オレの言う通りに考えろ」「お前が間違っている」とやってしまう人がいて、こういう人に、他人の領域に入り込まないでください、といくらお願いしても、毎回同じことを繰り返されます。「自他の境」という概念は、なかなか伝わりません。分厚い「理解の障壁」を感じます。

ほんのすこし、考えが違うだけで敵視したり、嫌悪感を抱く人が多くて、悲しいことだと思います。全く同じ考えの人間なんていません(いたら怖いし!)。みんなが違う視点や考えを持っているからこそ、さまざまな角度から物事を検証でき、多様な解決策やアイデアが生まれるもの。言い古された言葉かもしれませんが、同質なものは足し算にしかなりませんが、異質なものは掛け算になります。一様な世界は楽かもしれないけどつまらない。多様性はしなやかな強さと豊かな世界をもたらすと思います。

多様性を大切にするためには、自分と他人は違うのだということをしっかりと理解して、お互いの意見や考え方を尊重しながら、相手に対するリスペクトを忘れずに、論理的な議論をする能力が極めて重要で、社会のなかでなるべく多くの人がこれを持っている必要があると思います。私も学んでいる最中ではありますが。

幼いころ、親や兄弟姉妹とケンカをしたり、先生に反抗したりしたことも、いい経験になっています。怒られたり、泣かれたりして、「あ、これは言っちゃいけないことだったんだ」とリスペクトが足りなかったことを悟ったし、さらに嘘をつかれてごまかされたり、前言を平気で翻されたりして、追求が甘いとなめられて議論ができないのだということも学びました。そういう意味では、ケンカも大事なレッスンを与えてくれているのかもしれません。