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20190430

つらい経験は成長するのに必須ではない

苦労は必ずしも、成長に必須のものではない。苦労をしなくても、成長は可能だと思う。苦労がないに越したことはない。

中学生のころ、先輩を送り出す会で在校生が歌う定番ソングが海援隊の「贈る言葉」だった。「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」という歌詞に、当時はぐっときたものだが、今は「そんなこともないんでない?」と思う。

今は、悲しみや挫折を経験してこなくても優しい人を何人も知っている。甘やかされて育ったり、溺愛されて育ったりして、他人に負担をかけているといった認識に乏しい無責任な人もいるが、それは自立心を養う機会がなかっただけ。楽しいことをしながらでも、自立心や思いやりを身につけることはできる。

20190423

「世界の問題を見るな、話すな」というスピ系の人たちからの批判について

ここ数年、スピ系の人が増えてきたと感じる。

スピ系というのは、私のなかでは、スピリチュアル系の本やネット情報をいろいろ読んで、ただ鵜呑みにして、生半可なスピリチュアルの知識を信じ切っている人たちのこと、という感じで認識している。

そうした人たちの間では、世界で起こっている出来事に目を向けてはいけないという主張が多い。ネガティブな気分を引き起こすようなものを見たり、話したりしていると、それが現実化してしまうから見ても話してもいけない。ネガティブな気分を引き起こすようなものは、波動を下げるから近づいてはいけない。言霊には力があるから、ネガティブな気分をもたらすような言葉は使ってはいけない。そういったことが根拠になっているようだ。

20180529

古い布類には邪気が溜まる?

片付けのやる気を出すべく、片付けに関する本やサイトを読んでみていたら、「古いものには邪気が溜まり、特に布類には邪気が溜りやすいので、こまめに捨てる」というアドバイスをよく見かけた。断捨離で有名なある人も衣類は1年で捨てるという。寝具は3年で取り替えるという人もいた。お財布なんかもよく「3年が寿命」と言われるのを耳にする。古いものにはそんなに邪気が溜まるものなのだろうか。

20180403

断捨離ブーム、「捨てる」より「循環する」暮らしに

断捨離やミニマリストのブームが起こってしばらく過ぎ、これらの言葉はもうだいぶ一般的になってきた感じがする。

しまい込まれているよりも、「感謝して手放し、送り出そう」といったことは、断捨離や片付け、ミニマリスト関係の本によく書かれている。しかし、送り出した先が、埋立地だとしたらどうだろう? 乱雑に扱われるリサイクルショップだったら? 衣類の寄付にしても、タダでくれるから買わなくていいやという人が増えたり、闇市場に流れたり、現地の経済に悪影響を及ぼしてしまう恐れもあり、現地の人に本当は迷惑をかけている場合もある。

20180327

モノが持つ力

水を入れると、入れた水がおいしくなるというグラスに出会った。水を入れて数分後には透明度が増して水が輝いて見える。摩訶不思議なグラスだ。その形状が水を振動させて活性化するのだという。

初めて説明を読んだときは、半信半疑だった。発明した人が真剣だったのと、作っている人が真面目そうな職人さんだったので、もう少し読んでみると、値段も手ごろで、デザインも好きだったので、試しに取り寄せてみた。「ちょっと変わるくらいかな?」と思いきや、全く味が違う。あまりにも劇的な変化で「なんでだろう」と飲むたびに不思議だ。

20160914

愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉

この記事は一昨日からの続きです:
  1. 一昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で書き残しています。

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20160913

愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉

この記事は昨日からの続きです→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉

政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で投稿しています。

昨日は、社会的紐帯が希薄になった社会で砂粒化した人々が自己の実存の基盤を求めて宗教やナショナリズム、全体主義に傾倒していく、というメカニズムなどについて書きました。今日は当時の人々がどのようにしてナショナリズムに傾倒していったのかを、時代背景とともに、もう少し具体的に書きたいと思います。

20160912

『愛国と信仰の構造』を読んで 〈1〉

『愛国と信仰の構造』は、政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書。

『愛国と信仰の構造』

明治から大正、昭和にかけて、日本を戦争へと向かわせた戦前のナショナリズムと全体主義がどのようにして起こっていったのかを検証している。

20160611

ナオミ・クラインさんの記事『今そこにある明白な危機』(世界2015.12)を読んで。

岩波書店の月刊誌『世界』2015年12月号[雑誌]より。

『ショック・ドクトリン』(*)で有名なカナダ生まれのジャーナリスト、ナオミ・クラインさんが、気候変動について書かれていました。この記事は、2016年秋に日本語版が出る予定(岩波書店から)の"This Changes Everything: Capitalism vs. the Climate"(下記)の序章の一部を抜粋して翻訳した記事だそうです。

This Changes Everything: Capitalism vs. the Climate

記事は、異常な暑さのために飛行機が飛ばなくなったシーンから始まります。化石燃料を使いすぎたせいで、気候変動が起こり、そのために異常気象が引き起こされて、化石燃料を使う飛行機が飛ばなくなったというのに、それでもなお、化石燃料を使って飛行機で移動しようとしているという皮肉。そして、飛行機が飛ばなかったことを伝えるニュースは、原因が気候変動であること、化石燃料を使いすぎたことが原因であることには言及しなかった、という状況が描かれています。

20160415

「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか。

【旧暦弥生九日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

ここのところ、頭で考えること、思考を否定する考えに対して、自分が思うことを書いてきましたが、最近思うのが、「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか、ということです。あくまでも、個人的な経験と、体感をもとにした意見ですが。

私は「思考」によって、自然とともにある暮らしをすることが、合理的であり、楽しいことであると思うようになりました。そうして、自然とともにある暮らしをするようになったら、自然からのインスピレーションのようなものを受け取ることが増えてきたように思います。「直感」も高まってきたように感じます。

「思考」をわるいことに使うのはいけないと思いますが、思考も否定せずに正しく作動させて、思考力を高めていけば、自ずと、「直感」や「感情」も感度が高まっていくような生き方にたどりつくものなのではないかと思います。

こういう暮らしをするようになってから、ふとしたときに、なんだか不思議なインスピレーションがわくことがあります。「ん? これって私が普段使っているような語彙じゃないよね?」と思う言葉が唐突に浮かんできたりします。つい最近の例ではこの前書いた「おかげさま」など。「自分に返れば、自ずと分かれ、自ずと分かる、それが自分」とか「えええー?それってどういう意味??」みたいなのもたまにあります。だれかの至らない行為に「なんでそういうことするんだろう?」と憤慨していたら、突然浮かんできた「あなたのところで終わりにしなさい」、あれも謎だったなぁ…。なんとなく引かれる方向へ行ったら、探していたものに出会えたり、会いたかった人に会えたり、おもしろいものがもらえたり、ということも。

思い描いたことが、結構現実になってしまうことが、自然とともにある暮らしをするようになって、私の体感としては多くなってきました。「石川県に住む友人に会いに行きたいな」と思っていたら、金沢旅行が当たったり、「パン屋さんができたらいいのになー」と思っていたら近所に大阪から移住してきた人が石臼挽きの自家製粉小麦のパン屋さんを開店されたり、「イオンに無印良品があれば最高なのに」と思っていたら数カ月後にイオンに無印ができたり(これはみんなも思っていたからかもしれないけど)、ミラクルが重なってびっくりすることがあります。どうしているかなぁ、と思い浮かべていた友人とばったりどこかで出会ったり。

だけど、直感を磨いている最初のうちは、それが自分の頭で捏造した「お告げ」なのか、それとも、本当に自然からのインスピレーションなのかが判断できない。たぶん。少なくとも私はそうです。インスピレーションかな?と思ったものを、自分のいい方向に役立てられるように、咀嚼して消化するのに「思考」は必要なんですよね。わるいものじゃないかどうか判断するのも「思考」です。

直感が変わってきただけでなく、感情もものすごく複雑に敏感になってきた気がします。欲望(も感情の一種か?)も、それは外部から操作されてのものなのか、自分の内側から湧いてきているものなのかが大きく違ってわかるようになったし、怒りや悲しみの感情も全身で感じるようになってきました。

それを後から「思考」をつかって分析しているから、また「感情」から学ぶし、「感情」も種類が豊かになってきたように思う。単純ではなくなってきたように思います。本来の感受性が研ぎ澄まされてきた感じで、たまに人と会うのが続くとつらかったりもする。そういう揺り戻しが起こっていて、これを乗り越えたらまたもっと人間的に成長できるのかなぁと、「思考」している自分がいます。

感情をもとに、直感をもとに思考して、思考をもとに行動を変えていったら、感情も直感も磨かれているような気がします。よく、スピリチュアル系の人は、「頭で考えるのをやめなさい。そうすれば直感とつながれる」と言ったりしますが、私の体感としてはむしろ逆で、頭(理性?)を使って考えて、行動をよりよくしていくことで、感情が豊かになり、直感も冴えてきたように思います。

頭も心も否定しないでほしいと思います。両方持って生まれた人間なのですから、バランスよく使っていけばいいと思います。

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20160413 「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。
20160412 「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

20160413

「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。

【旧暦弥生七日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

おととい、昨日と「思考」を否定する言説について思うことを書いていて、かつて、私も「頭で考えるの、やめよう」と思ったことがあったことを思い出しました。

「パパラギ」という本を読んだときに、「考えるという重い病気」という一節がありました。
パパラギ (SB文庫)

20160412

「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

【旧暦弥生六日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

昨日、"「頭で考えるな」という批判について。"というタイトルの記事を書きました。「頭で考える」ことを全否定するのではなくて、頭と心をバランスよく使うのが大切なのではないか、ということについて書いたものです。

これについて相方と話していたら、相方は、

「頭か心かではなく、心は頭の土台。どちらもよくなければならない。あるいは、直感はエンジン、感情と思考は車の両輪に例えることができる」

と言っていました。直感をきっかけにして、感情と思考を使って意見や行動を構築していく、ということだそうです。どちらが欠けても前に進むことができない。

頭で考えるのがわるいのではなくて、思考を何に使うかが大切なこと。思考はわるいことを遂行するのにも使えてしまうので、心を鍛錬することも非常に重要です。心を鍛錬しておけば、思考をいいことを遂行するために使うことができるからです。

「頭で考えるな」という人は、「心に従え」と言います。「心に従う」というのは、「直感に従いなさい」「考えるんじゃない、感じるんだ」という言葉で言われることもあります。つまり、直感や感情を道標にするということだと思います。

しかし、そういった人たちは、多くの場合、「直感」も「感情」も使いこなせているわけではないように感じます。だれかの言説を「頭で考えて」鵜呑みにしているだけだったりします。

「直感に従え」「考えるんじゃない、感じるんだ」と言う人も、結局はそれを頭で考えて命令しているだけだというのは、なんだか皮肉なことに私には思えます。「頭で考えるな」と言う人のなかで、直感と感情が使いこなせているのではないかと思う人にはまず会ったことがありません。

せめて、「思考」をやりきってからその境地に達しているのならばまだ納得ができるのですが、思考の放棄や、思考を中途半端にしていることの正当化に「直感と感情のみに頼ること」を使っているように感じます。「現実を直視しない言い訳にしないでほしい」、「考えない言い訳なのでは?」、と言いたくなることもあります。

結局のところ、現状では、「直感」だけで「神さま」や"something great"と呼ばれるものとつながって、人生を歩んでいける人ではないのだから、「思考」を頼りにするほかないんじゃないだろうか。チャネラーを名乗る人にも怪しい人もいるし…。「思考」を全否定してると、そういう怪しいスピ系の人に騙されたりもするし、世の中の望ましくない動きを止めることもできなければ、自分が望む方向に動かすこともできません。

心も鍛えつつ、思考力を高めることもやっていったらいいと思います。どちらかが優れば、どちらかが減るものでもないんですから。頭を使わない惰性の正当化のために、「頭で考えるな」と批判してくる人の言うことなんか、気にしなくていいと思う。もちろん、わるいことを遂行したり、人をだましたりするのに、思考力を高めることはよくないと思いますが…。「思考」がわるいんじゃなくて、それをどう使うかに問題があるんだと思います。

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20160411 「頭で考えるな」という批判について。

20160411

「頭で考えるな」という批判について。

【旧暦弥生五日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

論理や科学の行き過ぎからか、「頭で考えるな」という批判をよく耳にするようになりました。直感や感情を置き去りにしてきたことへの反動だと思います。

しかし最近は、その「頭で考えるな」という批判が行き過ぎて、思考を全否定するようなことを言われることも、私の体感として増えてきました。スピリチュアル系の人たちにも多いし、自然系、とりわけ発酵好きの人たちにも多いです。

具体例を挙げれば、「大脳を使うと直感が鈍る」というスピリチュアル系の人たちがいましたが、根拠が定かではありません。発酵好きの人たちの中には、「腸で考える」ということを合言葉のように言う人たちがいます。私にはその「腸で考える」という感覚が理解できないし、感じとることもできません(腸内細菌の働きを模範に、社会のなかにいる一人一人の役割や、動きを「頭で考える」というのだったら理解できるのですが)。

権力側や、99%の市民から富を吸い上げている1%の富裕層たちは、考えない人を増やしたほうが好都合でしょう。考える人や思考力の高い人が増えると困る。何も考えずに、マインドコントロールしやすい人たちが増えたほうが、自分たちの望むように世の中を動かしやすいからです。

「頭で考えるな」と言う人たちは、こういう勢力にうまく使われてしまっているように感じます。直感がすこぶる優れている人が増えていれば話は違ってきますが、現状は、直感も感情も育たないまま、考えない人間が増えているだけのように私には思えます。

こうした批判が頭を使わない考えない人間を増やすことにつながっているのではないかという危惧を感じています。直感や感情がなおざりにされるのがよくないということには同意見ですが、論理や思考を全否定することなく、頭も心もバランスよく使えばいいと思います。

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20160329

「男らしく」「女らしく」生きなくていい。「自分らしく」生きたらいい。

【旧暦如月廿一日 春分 次候 桜始開(さくらはじめてひらく)】

よく一般的に使われる「女らしい」、「男らしい」という形容。

「男の子だから料理ができない」
「女の子なのに料理が下手」

「男の子だから車が好き」
「女の子なのに車が好き」

「男の子なのにピンクが好き」
「女の子なのに青が好き」

こういった表現もよく耳にします。「男なんだから泣くな!」とかはもう最低だと思う。泣きたいときは泣けばいいんですよ。「女のくせにそんな乱暴な言葉遣いして!」とかも、男も乱暴な言葉は使わないほうがいいのではないですか。

スピリチュアル系の人たちがよく使う、「男性性」「女性性」。占星術(いわゆる星占い)にもよく出てくる用語で、星座も男性星座、女性星座に分けられています。

こういう言葉には、とても違和感を感じます。というのは、この、「女らしい」「男らしい」「男性性」「女性性」といった言葉は、定義がとても曖昧ではっきりしない言葉であるにもかかわらず、生まれながらの性別によって、「どうあるべきか」を強制してくるものだからです。もう少し厳密な定義の言葉ではっきりと言われたら拒否感を感じるものであっても、「女性性」「男性性」などという言葉で語られると、はっきりしていないためになんとなく受け入れてしまったり、刷り込まれたりしてしまうのも恐いところだと思います。個性を阻害するものだと私は思っています。

男が外で働いて、女は家の中にいて家を守って、みたいな固定観念があります。スピリチュアルやマクロビの人間に対する陰陽論などでは、女が外で活躍すると、「男性性と女性性のバランスが崩れる」(というか、男性性が優位になるって意味でしょ?女が男化すると言わんばかり)と言われることもあります。

「女が外に出ることは、男になるということなのか?」
「外でさまざまな人たちと交流するのは男の役割なのか?」
「女は家の中を守ってこそ女らしいとされるのか?」
「でも、そういう考え方があるから、国会議員や、会社の重役に女性が著しく少なくて、結果、一般的に『男らしさ』『男性性』として良しとされているものをマインドセットとして持っている男性だらけになり、自然を大切にしたり、弱者を排除するのではなくて守ったり、多様性を大事にしたりといったことが、現状ではできなくなっているのでは?」
…などなど、すごく腑に落ちない。

「男性性」ってなんなんでしょう? 同じく、「女性性」ってなんなんでしょう?

洗濯をしながら相方に、疑問をぶつけてみました(うちでは洗濯は外で相方と一緒に手洗いをしています、詳しくはコチラ→☆)。

tom-tom: 女だからってバカにされたくないんだけど、私の好きなことってチクチクだったり、お絵かきだったり、料理だったり、いわゆる「女らしい」ことなんだよね。見た目も世間一般でいう「男らしく」はないし。どうしたらいいんかなー。

相方: チェーンソー振り回したら、結構男はビビるで。山の活動に来ている女の人も、女だからってなめられんようにかなり強そうにしとるで。女らしい素振りは見せたらあかん。恐いオーラ出しといたらええんよ。

tom-tom: えー、私、ちょっと外仕事しただけでも、疲れてまうのに。。。ダンベルで鍛えようかなー。

相方: ダンベルらてしたら、関節壊して終わりやで。バイク乗り回すとか。

tom-tom: バイク? 排気ガスで空気汚すのやだー。

相方: じゃあ、競馬。

tom-tom: やだ!馬が(ムチで)叩かれまくるのめっちゃかわいそう。

相方: ほんなら、酒とタバコとギャンブルと女(=女遊び)や。

tom-tom: お酒なんてちょっとで眠くなるのに。タバコも嫌いだし、ギャンブルもお金もったいない。

相方: 男らしいことってロクなもんないな。tom-tomが坊主になって野球帽とかかぶって、ぼくが髪伸ばしてみる?

tom-tom: なにそれー(*_*; それもさー、「男性性」に縛られた女と、「女性性」に囚われた男にならない? ほんとにしたいこととか、ほんとはどんな自分でありたいかを、世間一般の「男性性」「女性性」に縛られてあきらめちゃうのもなんか違うなあと思うんだけど。

相方: それもそうやなー。そんなん、みんなそのうち気づくんちゃう? スピリチュアルで男性性だ、女性性がどうの、なんて言ってる人たちも、行き切ったら(スピリチュアルの世界に行くとこまで行けば)いつか「あれ?」って気づくやろ。

まあ、これは大げさな例ですが、世間一般の人たちが使っているこの「男性性」「男らしさ」、「女性性」「女らしさ」という言葉の意味は、前者が「攻め」「能動」で、後者は「守り」「受容」といった感じなのでしょうか。もう少し言葉を足せば、男性性は、「攻撃」「征服」「支配」「勝負」といったところ、女性性は「共感」「協力」「隷属」みたいな感じ? うーん、やっぱりはっきりしない。

「男性性、女性性」とか「男らしさ、女らしさ」とかいう言葉で言うんじゃなくて、男でも協力的な人はいるし、女でも攻撃的な人はいるんだから、もっと厳密な形容詞とか、名詞とかを使って話せばいいのにと思う。

男性性は「思考」「論理」「社会的な承認」、女性性は「感情」「直感」「精神的なつながり」なんて言う人もいるけど、そんなの男性でも女性でもどっちも持っているし、「思考力」や「論理」も「共感力」や「直感」も、男性だからとか女性だからとかに関係なく、訓練すればある程度は誰でもできるようになるものだと思います。だれだって、どんな自分になるのかは、自分の意志次第でどうにでもなるものだと思います。

それに、こうした言葉は、LGBTQの人たちを排斥する言葉でもあるよなーと思う。LGBTQとは、L=Lesbian(女性の同性愛者)、G=Gay(男性の同性愛者)、B=Bisexual(男女どちらにも恋愛感情を持てる)、T=Transgender(心の性と体の性が一致しない人のこと)、Q=Queer(LGBTのどれにも当てはまらないけど、明確な異性愛でもなく、流動的であったりする)の頭文字をとったもので、性的マイノリティーのことです。マイノリティだからって含めないのってどうなの?と思いますね。

「男性性」「女性性」という言葉でいろんなことを片付けるスピリチュアル系の人たちは、この、男と女に対して社会的につけられた役割を、後付ではなくて、「宇宙の法則である」「神話の世界で描かれている」「古来からある占星術にも残っている」云々と言って、自然が与えた役割であるかのように語ります。しかし、これが自然が与えた役割だと言っているのはだれに聞いたのか定かではないし、聞いたにしてもそれが本当かどうか確かめようがないし、そもそも、神話や占星術ができたころ、社会を支配していたのは、今の時代よりも男性たちが主だったのだから、男性に都合のいいように作ったということもあるんじゃないのかな、と私は思う。もう少し新しい時代で、マクロビを体系立てた人も男性だし。

「男性性、女性性」という言葉は差別じゃない、みたいな無理矢理に説明しているのもありますね。「男性性の強い女性というのもいますし、女性性に傾いている男性という人たちもいて、必ずしも、男性だからこう、女性だからこう、というものではありません」とか。だったら、その言葉、使わなくていんじゃないの?って思う。ほかにいくらでも適切な言葉があるわけだから。「勇ましい」「たくましい」「目標をしっかり定めて進んでいく」「人の気持ちがわかる」「思いやりがある」「人の成功を一緒に喜べる」とか、もっと定義のはっきりした言葉を使えばいいんじゃないの? そうした言葉は、男性だからとか、女性だからとかにかかわらず、個人個人の特性を表すものになるはずです。

「男性性」「女性性」「男らしい」「女らしい」といったレッテルをつけるような便利な曖昧語は、せめて、自分なりの定義で語れるようになってから使わないと、おかしな方向に行っていることすら気が付かないし、おかしな方向に引っぱっていこうとしている勢力を助長したり、加担したりすることになってしまうと思います。

「女らしく」「男らしく」よりも、生まれながらのものについたレッテルに期待されるものにかかわらずに、「自分らしく」を目指せる、「自分らしさ」を自由に生きられる世の中になったらいいのになぁと思っています。

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20160324

悲劇は魂の選択か?を『引き寄せの法則』の原典から考えると―悲劇を終わらせるためにできること

【旧暦如月十六日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

先日、以下の記事を書きました。
20160312 悲劇は自分が引き寄せたもの?魂の選択?そんなわけないよ!の話。
この記事は、「悲惨な目に遭う人はそれを自分の思考によって引き寄せている」、「悲劇的な経験をする人は、それをこの世での修行や使命として選びとって生まれてきている」などという、特にスピリチュアル系の人たち(≠スピリチュアルな人。本当にスピリチュアルな生き方をしている人はこんな誤解はしない)によくある誤解を聞いて、考えたことを書いた記事でした。

「引き寄せの法則」というのがあって、スピリチュアル系の人たちには結構よく知られているのですが、これの曲解がそういうおかしな結論につながりやすいようです。

20160323

「足るを知る」は我慢を強要する教えではないと思う。

【旧暦如月十五日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

「足るを知る」という言葉は、いい言葉ですが、我慢を仕向けることにも使われます。

お腹が空いているのに「少しでも食べられただけよかったね」と思いなさい、とか、働いても働いても不当な賃金しかもらえないのに「仕事があるだけいい」と思え、とか、そういう意味で使われているのを見聞きすると、不公平や暴力を野放しにするのに、「足るを知る」を悪用しないでほしいなぁと思います。

20160318

行動のポジティブな連鎖

【旧暦如月十日 啓蟄 末候 菜虫化蝶(なむしちょうとかす)】

旅の途中で出会った友人が、沖縄の話をするお話し会みたいなものを開いてくれました。沖縄の食文化や暮らし、伝統、音楽、大好きな沖縄のことをたくさん語ってくれて、沖縄への愛が伝わってきてわくわくする時間でした。

そのわくわくな空気感に、参加していたみんなが和気あいあいムードになり、ざっくばらんに語り合いはじめました。

「竹富島が大好きで」と友人が語り始めると、台湾から来ていた方と、世界中を旅する写真家さんが、星野リゾートが竹富島に入ってきたために、利権をもらった人たちと、そうでない人たちとの間で分断が生まれ、島民がバラバラに引き裂かれてしまったという話を教えてくれました。

20160312

悲劇は自分が引き寄せたもの?魂の選択?そんなわけないよ!の話。

【旧暦如月四日 啓蟄 次候 桃始笑(ももはじめてわらう)】

スピリチュアル系の人の中にはときどき、

「悲惨な目に遭う人はそれを自分の思考によって引き寄せている」
「悲劇的な経験をする人は、それをこの世での修行や使命として選びとって生まれてきている」

などと言う人がいます。先日もそんなことを流布しているスピリチュアル系の講師に遭遇してものすごく憤りを感じました。

原典は何かはっきりしませんが、恐らく、引き寄せの法則(*)、輪廻転生やカルマなどの考え方、あとは、魂が親を選んで生まれてくるという考え方などがミックスしているんだと思います。

20140114

ビジョンの総和

【旧暦12月14日 月齢 13.7 小寒 水泉動(しみずあたたかをふくむ)】

未来は今を生きる人々の思い描いたビジョンの総和が可視化したもの。
そんな気がする。

いい未来を思い描く人が多くなればなるほど、未来の世の中はきっとよくなる。

だから、いい未来を具体的にはっきりと思い描きたい。自然の環の中の存在であることを認識して自然と調和し、だれもが笑って暮らせる世の中を、具体的にはっきりと思い描けばその通りになると思う。

未来のことを心配して、悲観ばかりしている人が多ければ、悲しい世の中になる。今の世の中は、あきらめている人が多すぎるから、こんなにおかしなことが起こりまくっているんじゃないか。無関心な人は、巧みに引き込んでくる悪に加担させられているかもしれない。

最近、言った通り、あるいは思った通りになることが多くて驚いている。それで、そんなふうに思うようになった。いや、アナスタシアを読んだり、霊氣や新月のデクラレーションのことを知ったりしたおかげで、最近になって意識するようになっただけで、もしかしたら前からそうだったのかもしれない。

今はまだ悲観している人や無関心な人が多いから、意識的にポジティブな未来を具体的に思い描く時間を持って、いい未来を思い描く人間の一人になることは、大切かもしれない。ポジティブに、いい未来を思い描くのは楽しいことだけど、悲しい現状を生きている人が前向きになるのは難しい。平凡に生きている自分には、それができる。だったら、できる人が意識してやったらいい。