20161005

善行について

ボランティアに行きだした人が、急に尊大な態度を取るようになったり…。慈善活動の寄付集めを手伝うようになった人が、「そんなものの頼み方なくない?」って感じの頼み方で、お金を要求してきたり…。

「善行」をしているからと、礼儀や思いやりを免れると勘違いしているのか、ものの頼み方や提案の仕方がめちゃくちゃだったり、道理をわきまえず、筋を通さないやり方を押し通す人も結構いる。まわりの人に不快感や迷惑をかけるような、そんな慈善活動なんかむしろ、やらないほうがいいんじゃないの?って思ってしまう。

いいことをしている人はいい人だと思っていたのだが、実はそんなこともないと、最近気づいてしまった。

なんで、そうなるんだろう?と考えながら、いろいろな人たちを観察していて、ある共通点があるのではないかと思い至った。「善行」を施す場以外では無礼な態度を取る人間は、その「善行」によってもたらされるよい結果が、実は自分の望みにはなっていない。

そういう人たちが善行をしたいのは、善行をすることが、こんな立派なことをしている、という経歴を身につけることになるから。言い換えれば、善行をしたという経歴が自分に自信をつけるためのアイテムとして捉えてられている。そのため、こういう立派なことをしている自分は、していない人たちよりも偉いという態度になる。そのアイテム数を増やすことが目的化してしまっている。アイテム数を増やす、経験値を増やすことによって、他者からの評価を高めることが目的であり、だれかや何かを助けること、自然環境を回復させることなどではない。…ない、とまでは行かないのかもしれないが、動機としては二番目以下の要素だろう。

自然を壊さず、なるべく自然が喜ぶような暮らしを心がける、また、消費や預金で戦争に加担せず、なるべく作る人も売る人も喜ぶような選択を心がける、そういう暮らし方をひけらかす人も多いが、黙々と地道にそういう日々を創っている人たちもいる。

黙々と、誰に自慢するでもなく、地道にそういう暮らしを創っている人たちを何人か知っている。そういう人たちは、何か有名な団体に所属して活動しているとか、何人の人を助けたとか、そういう箔のようなものは何もつかないが、醸し出す雰囲気というか、威厳のようなものが揺るぎない感じがする。そして、そういう暮らしを創ること自体が喜びになっていて、だれかに認められなくても、幸せそうだし、そういう暮らしに協力的な人たちに感謝をし、そうでない人たちにも阻害しないでくれることに感謝して、丁寧に対応をしている人しか見たことがない。

善行をしている人たちも、本当に誰かや何かを助けることが自分の目的になっている人は、ひけらかしもしなければ、自慢もせず、ただただ「助ける」という目的に集中していて、協力を広げるためにも誰に対しても礼節をわきまえている。まだ問題に気がついていない人たちや、全く協力しない人たちに対しても、見下すような素振りは全くない。そういう人は本当に立派だと思うし、数人でもそういう人を知ることができたことは本当に幸運だと思う。

善行によってもたらされる良い結果そのものが自分の喜びでない場合、自分の自信を高めたり、他者からの評価を高めたりするために、善行をした経験数を増やすことが目的化してしまう。そういう善行というのは、むしろ、その人の人間性に害を与えるのではないだろうか。善行をする中で、本当に立派な人間に出会い、自分の浅はかさに気づくきっかけになることもあるのかもしれないが。

) 関連記事