20160914

愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉

この記事は一昨日からの続きです:
  1. 一昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 昨日→愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書『愛国と信仰の構造―全体主義はよみがえるのか』を読んで考えたことを連続で書き残しています。

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この本の中で、親鸞の思想と日蓮の思想が全体主義につながっていったプロセスを知って、とても驚いた。ただ、昨日も書いたように、困難な時代背景を考えると、どんな思想だろうが芸術だろうが、過激思想につながる可能性はあったのかもしれない。親鸞と日蓮が特別に危険だったわけではなく。

世界を見渡せば、キリスト教の思想も十字軍という侵略戦争につながったし、イスラム教の思想も過激派武装グループを生んでしまっているし、この本にはほかにも、本居宣長の国学や、日本の儒教(元祖中国の儒教とは少し違うらしい)、若杉ばあちゃんも褒めていた大本教なども全体主義につながっていたことが書かれている。

だれかの言うことをただひたすらに信奉して、実感の伴わないもの、実体のつかめないものを、頭のなかだけでこねくりまわせば、どんなものでも危険なものに変わってしまう可能性はあるのだと思う。親鸞の思想がとりわけ危険だということでは全くないのだが、今のさまざまなスピリチュアルの思想にも通じるものがあると思ったため、親鸞の思想について本の中から取り上げて考えてみたいと思った。

親鸞の思想は、大辞林
「法然の思想をさらに徹底させ,絶対他力による極楽往生を説き,悪人正機を唱えた」
とある。

「絶対他力」とは、人は修行などの自らの努力によって救われるのではなく、絶対的な仏の慈悲によって救われるのだという考え方。阿弥陀仏如来(仏様)が立てた一切衆生の救済(=全人類を救済する)という誓願(=本願)がすなわち「他力(=本願力)」であり、この「他力」によって人は皆救われるのだという(参照:コトバンク)。後半の「悪人正機」というのは、阿弥陀仏如来の本願力=他力で救われるのは、善人だけではなく、悪人もであって、むしろ悪人こそが救われる対象なのだ、という考えのこと(参照:大辞泉)。

親鸞の思想に傾倒していた三井甲之と、その弟子の蓑田胸喜は、超国家主義者で、歴史の教科書にも載るような言論弾圧事件を連発。美濃部達吉氏を追放に追い込んだ「天皇機関説事件」にも関与している。彼らもまた「煩悶青年」だった。

中島さんは本の中で、
その蓑田胸喜の師匠である三井甲之が『親鸞研究』という本を書いている。一体なぜ親鸞を愛読している人物が、最も危うい国家主義者となったのか。私の中で衝撃とともに、非常に大きく重い問題として伸し掛かってきたわけです。(p. 48)
三井甲之らの行動の原理は、親鸞の思想から導き出された「自力の否定」でした。激しい言論弾圧を行ったのも、ごく簡単に言ってしまえば、自力はけしからん、ということからです。
 帝国大学の教授たちは、自力によって世界や日本を作り上げようとしている賢しらな輩(やから)だ。ゆえに、徹底的に弾圧しなければならない。そんなふうに彼らは考えた。右派とはいえ、大川周明の設計主義的な思想も許すことができなかった。これが三井甲之たちにとっての「絶対他力」という思想でした。(p. 50)
と解説している。

なぜ、親鸞の思想がこのような超国家主義につながってしまったのか? 

三井は、親鸞に傾倒する前は、俳人の正岡子規の写実主義に夢中だった。正岡子規が亡くなり、心のよりどころをなくした三井は、近角常観の求道学舎に通うようになり、親鸞の思想に傾倒していく。

三井のなかで写実の「ありのまま」=「自然」という概念が、親鸞の「自然法爾」(読み:じねんほうに=「自力」を捨てて、阿弥陀如来の本願力、すなわち「他力」の中に生きること)という思想と結びつく。その結果、「自力」はけしからん!、「個人の賢しらな計らい」は捨てないといけないと考えるようになる。

ここまでを整理すると、

正岡子規の写実「ありのまま」=親鸞の「自然法爾」
 ↓
「絶対他力」に導かれて生きること
「自力」はすべて捨てるべき

という感じ。

親鸞の思想は、写実と結びついた後、どのようにして、ナショナリズムに変化していったのか?

「絶対他力」に導かれて一体になるべき「自然」とは、具体的には何か?と考えたときに、それが「祖国日本」である、というふうにつながったのだ。古来から続いてきた天皇の下にある日本こそが「自然」であると捉えられるようになった。こうして親鸞の思想が「一君万民ナショナリズム」(それまでの士農工商のような身分制度ではなく、神である天皇を君主としてその下にいる国民はすべて平等であるという思想)と一体化する。

そして、帰依すべき「総体意志」こそが天皇の大御心であり、阿弥陀仏の本願の働きのそのものだと考えた三井は、日本人は現実をあるがままに任せ、「ただ日本は滅びず」と念じ、「祖国日本」と唱えて、祖国を礼拝すれば、永遠の幸福を得ることができると訴えた。

正岡子規の写実「ありのまま」
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親鸞の「自然法爾」
 ||
「自力」を完全に捨て去り、「絶対他力」に導かれて生きるべき
 ↓
「絶対他力」に導かれて一体となるべき「自然」=祖国日本
 ↓
祖国日本=天皇の下にある日本
 ↓
帰依すべき総体意志=阿弥陀仏の本願力=天皇の御身心
 ↓
現実を「自力」で変えようとせず、現実をあるがままに任せるべき
「祖国日本」と唱え、「ただ日本は滅びず」と念じれば永遠の幸福が得られる

なんでそうなるの??という感じだけど…、これを思想の基盤として弾圧事件まで起こるほど、本気でそう信じこんだエリート青年が数多く存在したということだ。

親鸞の教えでは「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ=阿弥陀仏にすべてお任せします、帰依しますの意)」と唱えれば救われると言われているが、このように、なにか唱えれば幸せになれるという思想は、現代のスピリチュアルでブームになっているようなものにも多数見受けられる。

現代においても、スピリチュアル系の人たちの中には、ネガティブな情報はネガティブなものを引き寄せるから良くないと言って、地球人みんなが解決に向けて取り組むべき問題を提起し、行動している人たちを抑えこもうとするような人も散見する。ただ何か唱えていればいいのだと。神や仏にお任せすればいいのだと。心の痛む問題を多くの人に見せるのは、その問題を増幅することにつながるから害悪だと。

私が社会の問題について語ると、ホ・オポノポノを信じている人は、「ありがとう」「ごめんなさい」「許してください」「愛しています」とさえ唱えれば悪いものは全部クリーニングされるからもう心配するのはやめようと言う。放射能も、添加物などの化学物質の毒も、社会の不正も、戦争も、環境破壊もみんな、「ありがとう」「ごめんなさい」「ゆるしてください」「愛しています」と唱えさえすれば、なくなるとでも言うのか? 

はたまた、「引き寄せの法則」を信じている人は、ネガティブな思想はネガティブな現実を引き寄せるからそういうことは「しゃべるな」と、感謝がいいことを引き寄せるからひたすら「ありがとう」と唱えればいいと言い、引き寄せを信じている人がさらに進むと波動を信じるようになるらしいが、何か特別な周波数の音を流せば浄化される、エネルギーの高いマントラ(般若心経など)を唱えるだけでいいと言う。決まって、ネガティブな現実に目を向けるな、と言うのだ。注意を向けるということは、それに力を与えることになるのだからと。

思考が現実になるとか、なにか波動の高いものを唱えれば浄化されるとか、そういうこともあるかもしれないとは思っている。しかし、それは仮説でしかない。それが真実だと考えて、ただ唱えて、念じて、祈ってさえいればいいと思うのは勝手だし、それで本当にうまくいくと思っているのなら、そうして世界をいい方向に導いてくれればいいのだが、異なる考えを持っている人に、無理やり同じように考えさせようとするのはよくないと思う。「自力」を大事に生きている人たちにまで、「自力」を捨てるように迫る。前述の三井甲之たちのグループは、暴力的な手段にも及んだ。

私からすれば、自分の直感や信念に従って「自力」を大切にして生きている人たちにまで、「自力」を無理やり捨てさせるように暴力的な手段を行使する、それこそが「自力」だと思う。「ありのまま」を良しと思い、「祖国日本」と唱えれば世界が良くなると思うのだったら、他者を攻撃することなく、ただひたすらに「祖国日本」と唱え、「ただ日本は滅びず」と念じていているべきではないか。他者の行動や考え方を力ずくで変えようとすることこそ、「自力」の行いではないのか? 現代の多種多様なスピリチュアルを信じている人たちの一部もまた、「自力」をひたすらに否定するようなことを言ってくるが、考えること、知ること、解決のために行動を起こす人たちの邪魔立てをすることだって、「自力」ではないのか?

なにか唱えるだけですべて救われるのだったら、そんなに簡単なことなんだったら、とっくの昔にこの地球は楽園になっているはずだ。だが、現実はそうではない。まずは問題を知らなければ、この問題を解決したいという願いも生まれない。もっと現実的には、解決に向かう世論も生じ得ないし、世論が高まらないことには政治は変わらない。そういうニーズが大きくなれば、企業も変わっていくし、日常における選択もどんどん変わっていく。

「他力」や、そのほか、波動や法則や神や宇宙など、なにか偉大な力に帰依して生きようとしている人たちも、結局は自力の域を出ることはないのだ。自力の域を越えてなにか偉大な力と一体になることは、悟った人間にはわかる境地かもしれないが、まだ悟っていない人間には、「ごっこ」程度でしか実践はできない。ごっこ遊びをする子どもは「ごっこ」だと理解しているからいいのだが、悟った人間「ごっこ」をしているスピリチュアル系の大人は「ごっこ」だとわかっていないから怖い。まだ悟っていないほとんどの人間は、個人の自由を取り戻し、人間を含めたすべての生き物に幸福と安寧をもたらすことに貢献するなど、なるべくよいことに「自力」を使っていくしかないのではないだろうか。

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