20160824

アラ探しをしているチームと、サポーティブなチーム、どちらが能力を最大限に発揮できるでしょうか?

常にアラ探しをしているチームと、自由にのびのびやらせてくれながらもサポーティブなチーム。チームのメンバーの能力が最大限に発揮されるのはどちらでしょうか?

昨日は翻訳の仕事で、翻訳者の悪口を言ったり、誤りを見つけて鬼の首を取ったような態度をとったりする発注者の話を少し書きましたが、そもそも、好き好んでミスする人なんていないと思います。

手を抜いていたとか、不真面目にやったとか、嘘八百を並べたとか、そういうことなら責められても仕方がないし、厳しく指摘して改善してもらうのが相手のためだと思います。でも、精一杯やって、それでも間違ってしまったものを、「それ見たことか!」と攻撃の材料にするなんていうのは最低だと思います。

人間は不完全な生き物です。そこをサポートしあうのがチームの役割。翻訳者一人でノーチェックで完璧なものができるんだったら、チェッカーも校正者もいりません。人間は完璧ではないから、どんなに気をつけていても、間違ったり、勘違いしたりすることがあるから、複数の目を通すわけです。立場を入れ替えてみれば、誰だってそのくらいはあるのではないかと思われるようなミスで、職能や人格までこき下ろすような攻撃をするのは、本当に最低だと思う。

このご時世、コンテンツを電子書籍にして読者に直接売ることもできるようになっていますから、状況としては著者と訳者と読者さえいれば、翻訳の本を販売するということは成り立ちます。こんな態度でいるのであれば、チェッカーも校正者も編集者も不要なわけです。現状は、正規の出版ルートを通さなければ、多くの人に届けることが難しいため、嫌な思いも我慢している人がほとんど。だから、こんな傲慢な人たちにも仕事がある。

電子書籍って言ったって、著作権や版権絡みでエージェンシーがどうたらこうたらという反論もあるでしょうが、著者が従来のルートを通さずに電子書籍でバンバンおもしろいものを出すようになったらどうでしょうか? 編集者が変な赤入れをしまくって、自分の言葉ではなくなってしまうし、印税が少なすぎる(だいたい10%)から、もう出版社からは出さないと宣言している著者も見かけるようになりました。やがてそれが一般化するようになれば、翻訳者が著者と交渉して、あるいは逆に、著者が翻訳者に直接依頼をして翻訳版を出すということも、可能になってくるでしょう。

そうなれば、編集者も、チェッカーも、校正者も、コーディネーターも、本当に感謝されるような役割を果たしていない限り、その仕事は不要になります。ミスを見つけて攻撃したり(というか、私がチェックの仕事をするときは、ミスを見つけるのが仕事だと思っている。あって当たり前で、なかったら私の仕事なんか無用だと思う…)、傲慢な赤入れをしたり、発注者だけに都合がよいスケジュールで翻弄したり、人をバカにしたり、そんな態度でいたら、むしろ足を引っ張るだけだと思います。

常にアラ探しをしているような相手と仕事をする場合、間違わないように、間違わないように、ということに気持ちが行き過ぎて、おもしろいもの、美しいもの、人々に喜びを与えるもの、いいものをつくりあげていく、ということに、力を注ぐことが難しくなります。

たとえば、スキーのジャンプや、水泳の飛び込みなどで、
「あんたなんかどうせ上手に飛べないわよ。今に失敗するから、ふん、見ててやる。失敗したら思いっきりこき下ろしてやるんだから」
と思って見ている人たちがそばにいて、上手に飛べる人っているのでしょうか?

「大丈夫、きっと飛べる。もし、失敗しても、ぼくたちが助けるから、心配しないで飛んでみて」
と思って見守ってくれる人がそばにいたほうが、成功する確率が高まるのではないでしょうか?

チームの役割とはそういうものだと思います。ミスがあったらフォローして、つらいときには支えになり、悩みがあったら相談にのり、体調がわるいときには十分に休めるように代わってあげたり、自信をなくしていたら励ましたり、改善すべき点があったら思いやりをもって提案したり、それがチームというものだと思います。

クリティカルヒットの機会を虎視眈々とうかがって、仲間のミスを探すなんていうのは、チームのやることではなく、敵のやることでしょう。それをして、チームにとって、どんないいことがあるというのでしょうか? 品質は下がるし、士気も下がるし、やっていてちっとも楽しくもない。

いいことが一つだけあるとすれば、それは、虎視眈々と狙っているその人のプライドが満たされるということだけです。「私のおかげでいい仕上がりになったのだ」「あいつは私よりできない」「ぎゃふんと言わせてやってすっきりした」、そんな浅はかな喜びは長続きしないでしょう。結局、この人の能力がそれほど高くないことには変わりはないのですから。

幸い、よくできる人と仕事をする機会に恵まれていて、そういう人たちとは本当にいい仕事ができます。ミスをしても、ミスについてのみ客観的な事実として指摘してくれるので、素直に受け入れられるし、次から気をつけられる。相手もミスをすることがあるけど、素直に認めてくれて、次に活かしてくれる(ミスを素直に認めるというのは本当に知性に自信のある人でなければできないことだというのも学んだ)。

リスペクトと感謝に基づいて、コミュニケーションをとり、仕事をつくりあげていけるというのは、本当に幸せなことだと思います。厳しいことを言うときも、普段からしっかりとした関係を築いているということもあって、相手のことを思ってのことだというのが自ずとわかります。そういう人たちと仕事をすると、「ああ、いい仕事ができたなぁ!」と思うことばかりですが、そういうとき「いい仕事をしたなぁ!」という達成感があるだけでなく、それを使う人たちにも喜んでもらえます。自分の能力も、人間性も、チームのメンバーのよいところに感銘を受けながら、自然と高めていけます。

針のむしろのようなところで精神を鍛えたいという人もいるかもしれませんが、私はやっぱり、人間性も能力も高い人たちと、サポーティブなチームのなかで仕事がしたいです。

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