20160912

『愛国と信仰の構造』を読んで 〈1 〉

『愛国と信仰の構造』は、政治学者の中島岳志さんと宗教学者の島薗進さんの対談をまとめた新書。

明治から大正、昭和にかけて、日本を戦争へと向かわせた戦前のナショナリズムと全体主義がどのようにして起こっていったのかを検証している。

今の日本も、ヘイトスピーチがネット上でもリアルでも横行するようになるなど、ナショナリズム、排外主義が一定の支持を集めるようになっている。書店でもいわゆる「右翼」の本の広がりが多く目につくようになった。

安倍政権の主要閣僚のほとんどが所属している「日本会議」と「神道政治連盟」も、皇室を中心とした日本社会を理想とし、個人ではなく国体を重視するナショナリズムと全体主義の極めて強い団体だ。

その影響が色濃い自民党の憲法改正草案は、基本的人権、国民主権、平和主義、立憲主義が否定されている。現行憲法の「個人」の「個」が消え(日本国民のことを犬、猫、豚、牛、猿ではないとは認める、人としては認めるけど、違いや個性は認めませんということ)(1)、基本的人権の条項はごっそり削除されている(2)など、全体主義そのものとも言える草案だ(*)。国連人権理事会も、自民党の改憲草案を見て「これは何世紀前の憲法か?」と驚き、呆れているそうだ。

*以下の記事がよくまとまっている:
(1) 憲法学の「神様」がIWJに降臨!前代未聞!樋口陽一・東京大学名誉教授が岩上安身のインタビューで自民党改憲草案の狙いを丸裸に!(2016.2.17)
(2) ジャーナリスト・志葉玲さんの有料メルマガより:【転載・転送歓迎】酷すぎる自民党「壊憲」案のツッコミどころ
(検索すると対象をわかりやすく解説したページもたくさん出てくるので調べてみていただいて、ぴったりのものを選んでいただければ幸いです)

このように、市民レベルでも、国政のレベルでも、ナショナリズムが強くなっているなかで、戦前のナショナリズムの構造を分析し、しっかりと検証することが、戦争という同じ過ちを繰り返さないようにするために、非常に重要なのではないかと思い、本書を手に取った。

中島さんも本書の中で、次のような問題意識を語っている。
ナショナリズムと宗教。あるいは、愛国と信仰。このふたつが暴走するのは、とても危険なことです。第二次世界大戦前の日本でも、現代と同じように個人が砂粒化していた。そして、その後、起こったことは、バラバラの個人が国家とダイレクトに結びつき、全体主義の時代になだれ込み、戦争に突入していったという歴史です。
 戦後、七〇年あまりたった現代においても、同じことが繰り返されるのではないか。こうした危機感を、今、多くの人が直感し、それを共有するようになりつつあります。
 しかしながら、そこに至るまでの道筋や因果関係の分析というのが、実はまだまだ甘い。(p.18-p.19)
島薗さんも、この問題意識を共有している。
戦前の日本が抱えたナショナリズムと宗教の問題が、いまだに片付いていないという中島さんの認識は、まったくその通りだと思います。私の専門分野の宗教学の世界でも、戦前のナショナリズムを支えた国家神道という装置をどう考えるのか、という議論ですら、まだまだとても不十分な状態です。(p.19)
ナショナリズムと宗教、愛国と信仰が強い結びつきを持つに至るまでには、どのような背景、メカニズムがあるのか? 

両氏は、
極度の競争社会と社会の流動化により、社会的紐帯(地縁、血縁、利害関係など、人と人とを結びつけている条件)が希薄化すると、個人の砂粒化(岩が風や水などで削られてバラバラの砂粒になり、漂流する様子に、他者との結びつきを徐々に失って漂流するようになった個人を重ねあわせている言葉)が起こる。その結果、承認欲求を満たすリソースが不足し、自分の存在意義をナショナリズムや宗教に求める人が増える。(筆者要約)
と、分析している。

学校の勉強という単一のものさしで、幼少期からひたすら競争にさらされ、イス取りゲームのような受験が続き、学校を卒業したと思ったら、まともな仕事は十分になくて、また仕事を奪い合うイス取りゲーム。職に就けたとしてもまた誰かを蹴落としている(関連記事:「反貧困の学校」と「反貧困の学校2」を読んで〈その2〉―貧困は自己責任に非ず。セーフティネットはどんな状態?編)。

仕事を見つけられなかった人や、低所得の仕事しか見つからなかった人は、自分に能力がないせいだと自分を責め、他人からそういう目で見られることもある。運良く、それなりにまともな仕事のある人たちは、貧しい人を能力がないせいだ、努力が足りないからだと、自己責任論で片付け、優越感にひたる。原因は政治の失敗にあるにもかかわらず。しかも、その失敗をつくっているのは、民主政治に真剣に参画しない国民にほかならない。

私もときどき、「なんで生きているんだろう?」と思うことがある。この本で語られている「底が抜けてしまった個人の実存」とまでは行かないにしても、自分の存在理由を疑問に想うことはある。

今のところ、食べていくには問題ないのだが、「この年収の人にこんなに税金とったら食っていけんやろ!」と思うほど高い税金の請求が来る。「税金が払い続けられるだろうか?税金が払えたとしても他の固定費(“奨学金”という名を借りた学生ローンの返済に家賃、ネット代、携帯電話料金、光熱費など)が払い続けられるのか?」と綱渡りのような感覚がするときもある。

こうした税金は、前年の収入を元に税額が決定するが、翌年も同じだけの収入があるかどうかはわからない。「貯めときゃいいじゃん」と言われたこともあるが、住民税が年収の10%、国民健康保険税も年収の10%近く、それに加えて所得税、全部で25%前後持っていかれるなかで、毎月かつかつでやっている人がどうやって貯めておくことができよう?(それを私に言った人は、年収600万円はあると思われる、月々の固定収入のある人で、貯金にまわすお金が余裕であるので、恐らく、年収100~300万円ほどの人の状況は想像できないのだと思う)

そうなると、生きていくためにはお金が必要だから、何かほかにバイトでもするか?と思うのだが、やっていいと思えるような地球と人権に配慮した仕事はほとんど見当たらない。お金が必要だからやりたくないこともやらなきゃいけないではないか、生きていくためにはお金を稼がないといけない。

でも、好きなことだけしていてもゴハンはゆっくり食べていけるくらいのお金はあるのに、税金のためにやりたくもない仕事をするのか? 生きていくためには税金を払わないといけないんだから仕方ないではないか。やりたくない仕事をやらないで、生きていくためには、やりたい仕事をどうやってつくるか考えないといけない。

営業は大の苦手だし、友だちからお金を取るのも嫌だ。中途半端な知識でワークショップなどを開くのも(そんな人もかなりいるけど)、何年もかけて確かな知識と技術を身につけた上でワークショップを仕事にしている友人・知人にも、お客様にも失礼な気がする。仕事をつくるのって難しい…。生きるためにはそういうことも仕方がないのかもしれない。だって、生きるためにはお金を稼がないといけないから。働かないといけない。でもなんで生きているんだろう? 税金を払うために生きているのか?

こんなふうにぐるぐる考えた結果、私なんていてもいなくても世界にはそれほど大きな違いはないんじゃないの? なんで存在しているんだろう? なんて生きているんだろう? わからなくなってきたなぁ・・・と思うことはときどきある。

幸い、翻訳やリサーチなどのフリーでの仕事はおもしろいし、意義を感じられる仕事がほとんどで、「tom-tomがおらんかったら困る!」と言ってくれる家族や友人にも恵まれているので、社会的紐帯は大丈夫で、もんもんと考えることはない。お金を使わずに楽しく豊かに生きる知恵や技術もついてきた。

しかし、社会では、つらい仕事を安い賃金でさせられている人も多くなっていて、お金のかかる生活以外知らない人がほとんどではないか。「お前のかわりなんかいくらでもいるんだよ」とか言われたら、本当に傷ついて、個人の実存の底が抜けてしまうのもわかる。

高給取りならいいかといえばそういうわけでもなくて、高給取りでも仕事一色の暮らしでは、人生を楽しむ余裕もなく、土日は体力と気力の回復で精一杯で、生きている意味がわからなくなる人もいるかもしれない(関連記事:「モノに使われるな」)。ポジションと高い給料を稼ぐことなんて、個人の尊厳を支えるには危うすぎる。

そんなふうに「底が抜けてしまった個人の実存」を抱えながら、それでも生きていかないといけないとき、宗教や「生まれ」という不動の指標によって自己を意味付けしてくれるナショナリズムを拠り所にしたくなるという気持ちはなんとなく理解できる。そういう人たちがすごく増えてきていると思う。多種多様なスピリチュアルものに没入している人も多い。玉石混交で見極めが難しい。

希望が見えない今の日本社会で、「底が抜けてしまった個人の実存」をどう解決していけばよいのか。それを考えるうえで、重要な事実や見解がたくさん書かれている本だった。(つづく)
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この本についてはほかにも書きたいことがたくさんあり、もうだいぶ長くなってしまったので、また明日以降の投稿にします。

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