20161002

世間一般の固定観念通りの考えなら、人付き合いは楽かもしれないが

たまに他者と話すと、さまざまな発見がある。

世間一般の固定観念に考えが符合している人はさぞかし生きるのが楽だろうなぁと思うことがあった。結婚や出産の話題などのゴシップが好きで、男は男らしく、女は女らしくといったジェンダー観は世間一般の固定観念の通り。地位や名声などのラベリングによって他者を評価する。そういう人たちは友人も多く、SNSも楽しんでいるし、人の集まるところにでかけていくのも楽しそうだ。かたや、私は個人の自由を阻害する固定観念が大嫌いで、大勢といても孤独を感じ、たいていの人間と過ごすのは苦しい。

ゴシップやジェンダー差別、地位や名声などによる評価など、そういう固定観念に染まった話を聞いていると、私は次々に疑問が浮かび、その疑問を投げかけたい気持ちを抑えるのだが、相手は私が不快に思っていることに全く気がついていない。他者がどう感じているか、どう考えているかを察知するセンサーが鈍い人のほうが世の中には多く、そういう人たちも生きるのが楽そうに見える。私はただひたすら我慢して聞き、相手は気持ちよく滔々と話し続ける。

反論せずに我慢して聞くのは、相手の反応が先々までだいたい予想がつくからだ。反論したところで理解されない可能性が高い。理解されずに激怒されて終わるだけだ。相手が固定観念に気がつくまでには恐らく、長い時間がかかる。死ぬまで知らずに過ごすかもしれない。そのほうがその人にとってはもしかすると幸せなのかもしれない。それに、私が何か言ったところで、気づくきっかけを与えられるどころか、むしろ余計に凝り固まる可能性のほうが高い。だから私は黙ってただひたすらやり過ごす(わかりそうな相手で、相手のためになるかもしれない場合には少し意見を言ったりもするのだが)。

こうやってやり過ごすのはしんどいのだが、そういう人たちと自分をもう少し広い視野で見てみると、自分のほうが自由度が高く、幸せな気分でいることが多いということに気がつく。

そういう人たちは、結婚や出産、地位や名声のある仕事など、世間的な幸せにとらわれている。それを手にしている場合でもそんなに幸せそうには見えない。手にしていない場合は、手にしなければ不幸だという気持ちでいる。餓鬼のように渇望して苦しんでいる人もいる。

自分らしさや自分のしたいことという点でも、自分は男だからといわゆる女らしいと言われている性質を押さえ込んだり、自分は女だからといわゆる男の仕事とされているものには最初からできないと決めつけていたり(逆も然り)していて、非常にもったいないと思う。他者から得る気づきも、世間一般の固定観念という色眼鏡を通して見ているために、まっさらな目で見ているよりも大幅に少なく、しかも歪んでいることが多い。

世間一般と一緒に過ごす時間という短いタイムスパンでは、そういう人たちのほうが楽かもしれないが、人生全体の時間で幸せな割合を比べてみると、恐らく、固定観念を捨て去ったほうが幸せな時間が多くなると思う。自分はこれからも、孤独を恐れず、自分の自由意志を大事に世の中を見て学び、自分の人生を楽しんでいきたいと思った。

) 関連記事