今日は番外編です。中島さんほど強い動機に突き動かされて学者になった人に出会った(本でだけど)は、初めてかもしれないと思いました。
中島さんにとって、愛国と信仰は人生を賭けた大きな研究テーマだそうです。
中島さんは、20歳のときに阪神大震災で被災。見慣れた風景が一変し、茫然自失の状態になったといいます。震災の状況を報じるテレビに釘付けになっていると、がれきの中を必死の形相で何かを探す女性が目に入ります。リポーターの「何を探しているのですか?」という質問に、何を当然のことを聞くのかというような雰囲気できっぱりと「位牌です」と答えるのを見て、「地震の揺れ以上の精神的な揺れ」が起こったそうです。自分が真っ先に握りしめたのは財布、この女性は位牌を必死で探している。この対象的な様子を目の当たりにしたことをきっかけに、自身の内面の「弱さ」に直面することになったと語られていました。
バブルが崩壊し、戦後日本の「成長」という物語が崩壊する中、二十歳の私は何に依拠して生きていけばいいのか、途方に暮れてしまいました。その茫漠たる不安を、震災は直接的な形で突きつけてきたのです。(p. 12)中島さんは、精神的な〈弱さ〉の源である自分の中の「空白」、すなわち、宗教に向きあおうと考え、イスラム教、キリスト教、神道、仏教、ヒンドゥー教(五十音順)など、さまざまな宗教書を特定の宗教や宗派にこだわらずに読み漁るようになりました。
そのような状況下で、また一つの衝撃的な事件、オウム真理教の地下鉄サリン事件が起こります。マスメディアは「宗教は危ない」の大合唱になり、世間も「宗教は危険」一色になりました。自己の「空白」と向きあおうと、宗教を勉強しているさなかに、こんなことが起こるなんて本当に衝撃だったと思います。
宗教を十把一絡げにして危険視する論調に違和感を持ちながら、「図書館の本の森に籠もるようになって」いき、「なんとか自分が納得できる宗教へのアプローチを手にしたいともがいていた」といいます。
1995年はさらにもう一つ大きな出来事がありました。戦後50年にあたり、「村上談話」が発表されます。“右派”論壇からは「自虐史観からの脱却」「東京裁判史観の破棄」というスローガンが叫ばれ、歴史修正論的な議論が大手を振って論じられるように」なっていたそうです。それから20年余りが過ぎましたが、今ではその傾向がさらに強まり、その歴史修正論的な見方によって、日本は国際社会で孤立するようになっていると思います。
中島さんは、こうした一連の衝撃的な出来事を経験したことにより、「愛国と信仰」という問題が、「戦後の臨界点において暴力的に表出してきている」ことと、「その荒波が私の人生に押し寄せてきている」ことを実感なさったそうです。
こうして、「愛国と信仰」という問題は、中島さんの大きな研究テーマになりました。
私はこの問題に正面から向き合ってみようと思いました。「愛国と信仰」という問題を脇に置いたままでは、私の人生は片づかないと考えました。これが研究者という道を歩みだしたスタート地点でした。(p. 14)私がこれまでに知っていた学者さんというのは、経済的な安定や地位や名誉が第一の目的で、身近でも、研究より飲み会とか旅行とか遊ぶほうが好きだけど、教授に気に入られたりとかして、「まあ、なれそうなんだったらなっとくか」みたいな人とか、研究で安定してお金をもらいながら続けられるならほかの仕事よりはましかな、くらいの人とか、名誉が欲しいから何かつぶしが聞きそうな研究テーマを探して研究者になっている人とか、そんな感じの人が多かった気がします。研究を続けるためだけになんかしょうもないような細かいことを研究して言い争っているなぁ、という印象も持っていました。保身のために優秀な研究を発表したゼミ生をいじめる教授とかもいたし…。昔はほんまもんの研究者もいたんだろうけど、今は希少なんだろうなぁというイメージでした。
なので、研究は大学にいなくたってできるけど、収入や地位や名誉のために大学に残る、あるいは、職務経験や特殊な経験を売りにして入り込むような世界なんじゃないのかな、と思っていました。もちろん、そういう人ばかりではないと思いますが。
人生をかけた課題にしっかりと向き合うために研究者になる、という人もいるんだなぁと、中島さんが学究の道に進んだ経緯を知れて、うれしくなりました。こういう真剣な学者さんが増えてもらいたいし、心からの要求に沿った生き方をする人が多くなるといいなぁと思いました。
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