20140816

権威や専門家のいうことと、自分の感覚

【旧暦文月廿一日 月齢 20.2 立秋 寒蝉鳴(ひぐらしなく)

昨日、岸田劉生さんの絵の話を書いていて、専門家の解説のことで思い出したので書きたい。

かなり前のことで少し記憶も薄れているが、日本で最も権威ある大学の権威ある名誉教授が、権威ある放送局のラジオ番組で、芥川龍之介が志賀直哉に作品が書けないと相談したときに、志賀直哉は書けないときは無理に書かなければいいと芥川に言ったが、それは志賀直哉は家が裕福だったから言えたことだと嘲笑していて、私はすごく腹を立てた。

芥川龍之介さんが志賀直哉さんに相談したときのことを、志賀さんは全集に書いていた。

志賀さんが「書けないときは無理に書かなければいい」と言ったのは、裕福で芥川さんの苦労がわからなかったからではなくて、芥川さんが教師などもしていて、執筆以外の仕事でも食べていけることを知っていたからであり、志賀さん自身も、親からの援助はなく、書きたいものだけを真剣に書いて、書きたいことがないときは、翻訳などほかの仕事をして生計を立てていたこともあった。食うためだけに満足のいかないものまで書くことは、芸術家として不幸だという考えがあったのだろう。志賀さんは芥川さんの才能や感性も高く評価していたし、仲間としての愛があったからこそ、言えたことだと私は思う。

私はたまたま、その事実が本人の言葉で語られていたのを全集で読んだことがあったので、権威ある名誉教授が話した内容が誤りであることを知っていたが、ラジオを聞いている人の多くは全集までは読んでいないだろう。きっと鵜呑みにしただろうと思うと、志賀さんが気の毒でとても腹が立った。専門家のくせに、そんな無責任な発言をして、全集くらい読めよとも思った。権威の言うことを盲信するのは愚かだとそのとき確信した。

脱線するが、先日、マクドナルドなどの大手企業で賞味期限切れの鶏肉が使われていたことが判明して大騒ぎになっていて、新聞の見出しが「何を信じれば」だった。消費者たちは、大手企業だから大丈夫だと信じていたのに、大手でもこれでは一体何を信じればいいのだ、と困惑しているという。

添加物や化学物質のことなどを知って、大手だからこそ危ないかもしれないと私は思うのだが、大手だから安心というのが大多数の意見のようだ。それでは足元をすくわれるということを、何度も何度も歴史は教えている。足尾銅山事件に水俣病、森永乳業のヒ素入りミルク事件、もっと最近では、みずほ銀行暴力団融資事件が記憶に新しいだろうか。

だいたい、あんな変な食感で変な味のチキンナゲットを安心して食べるなんて、舌の感覚がおかしくなっているんじゃないかと心配になる。私も昔はなんとも思わずに食べていて、自分の感覚がどれだけ麻痺していたんだろうと思う。自分の感覚をもっと大切にして、もっと感覚をよくする訓練をしたら、自分の身体も心も良くなっていくし、それが社会を良く変えていくことにもつながると私は思う。

脱線してしまったが、話を元に戻すと、全員がそうだとは言わないが、権威ある専門家だって人間なのだから完璧ではない。何でも知っているわけではないし、誤ることもある。食うために研究していて研究を愛していないこともある。真実は作者本人にしかわからない。本人も忘れているかもしれない。

そうなれば、やっぱり、あてになるのは自分の感覚しかない。誤っている可能性だってある権威の書いたものを、読み漁って暗記する時間があったら、作品そのものをたくさん読んだり見たりして、人と対話するときのように真剣に向き合って、自分の感覚を研ぎ澄ましていくほうが有意義な時間の使い方だと私は思う。そして、そうした時間は、作品を通じて、書いた人や作った人の魂や伝えたいメッセージを、心の深いところ受け取る時間のように感じていて、結局は人間の勉強をしているのだと思っている。