【旧暦神在月七日 月齢 5.6 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)】
先日、ひさびさにスポーツの試合を見た。夕食を食べに入った店でテレビがついていて、たまたまかかっていたのがアメリカ対日本の野球の試合だった。
どちらのチームの選手も、初めて見た人たちだったのに、なぜか日本を応援してしまう自分に気づき、怖くなった。国対抗のスポーツの試合はナショナリズムを助長しやすいのかもしれないと思った。相方は、日本人だからという理由で知らない人でも応援したくなるというようなことは思わないらしく、個人差はあるだろうが、大多数はどうなのだろうか。また、久々にアナウンスを聞いたが、選手の名前は呼び捨て、年齢まで大声で叫び、なんて失礼な人たちなのだろうと思った。応援するような温かい気持ちは全く感じられず、どちらが勝つかにただ興奮しているだけに見えて閉口だった。
オリンピックもワールドカップも、じつはあまり興味がない。どちらが勝つかなんて、興味がない。メダルの数なんてどうでもいい。選手同士がスポーツを通じて親交を深め、技を磨き合い、尊敬する選手から刺激や学びを得ることは素晴らしいことだ。一流の選手の試合後のコメントを読むと、きっとそのような気持ちで試合に臨んでいるのだろうなぁと想像する。
だが、観る側と報じる側は、親善とは逆の態度をとっていないだろうか。日本人のアナウンサーが、日本の選手の名前をけたたましく叫ぶのも、日本の新聞の多くで、日本人選手の活躍だけが強調されるのも、お互いの健闘を讃えるのではなく、同族の躍進を望む意識を焚きつけているように思える。観る側は自分がやらないから無責任に見ることができる。「敵」を叩いたり、日本人選手が勝てなかったからとあれがダメだった、これがダメだったと好き放題に批判をしたり、傍観者の言いたい放題な物言いには、それならお前がやってみろと言いたくなる。
戦ってどちらが強いか、どちらが上手かを、既成の基準に照らして決めるなんていうのは、さみしいことだ。お互いにそれぞれいいところは違う。それぞれのいいところを評価しあい、認め合い、お互いを高め合い、共にさらに高い芸術的世界を創造するほうが、楽しくて、よりよいものができていくのではないだろうか。オリンピックも世界大会も、競争ではなくて、共に創る共創の場になっていったらいいのになと思う。