【旧暦神在月五日 月齢 3.6 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)】
異なる言語を混ぜくちゃにして話すのは、長年、言語能力が低いからだとされてきた。大学の授業でそんな話を耳にした記憶がある。
また、言葉は文化だとも聞いた。この二つの意見は矛盾していないかと思っていた。
ある文化にしかないものを、別の文化の言葉で表す場合、表したいことを表せる表現がないこともあるはずだ。そういうときは混ぜるしかないのではないか。
日本語の中でさえもそうだ。秋田弁が母語の私は、秋田弁にしかない言葉を、東京弁に変換しても、結局しっくりこないことが多い。和歌山弁も話せるようになり、和歌山弁ならではの会話のリズムやスタイルが、東京弁に変換した途端にぎこちなくおもしろみがなくなり、出てくる発想が変わってくる。私と相方は和歌山弁で話すことが多いが、秋田弁が表す概念をお互いがよく知っている単語については、秋田弁を混ぜて話している。
英語も話す人と話していて、英語の概念で表したほうがしっくりくる場合や伝わるのが速い場合、英語を日本語に混ぜて話すことがある。翻訳の仕事もしているので、なるべく混ぜないほうが良いものかと自粛していたが、最近訳した英語のエッセイに、言語能力が高いほどコードスイッチング(異なる言語を混ぜて話すこと)をするというシンガポールの研究者の論文が紹介されていて、自主規制をやめることにした。
特に、男女について話すとき、日本語は不自由だと感じる。私は、wifeを「奥さん」「家内」、husbandを「旦那さん(=patron)」「ご主人(=master)」と言うのが嫌いだ。女だからって「奥」「家の内」にいるわけではなく、独立した意志を持った個人である。男だからって他の家族を従える「主人(=master)」や経済的に援助する「旦那(=patron)」ではない。そんな男尊女卑の古い考えを反映しているものはぶち壊してしまいたい。一人一人の人間が自分自身のmasterであり、自由であると同時にそれぞれに責任があり、お互いの意志にもとづいてお互いを大切にし、協力し、家庭を運営していく。それが本来の人間の在り方ではないだろうか(これについては過去にも書いている*1、*2)。嫌いなのに、それ以外に適当な日本語がないから、名前を知らない夫婦について話すとき、女性のほうを示したいときは「奥さん」、男性のほうを示したいときは「旦那さん」と言わなければならない。そのたびに「負けた」というくやしい思いをする。
自分たちのことを話すときは、「パートナー」「相方」「連れ合い」などの表現を試しに使ってみている。かつて「友だち」と言っていたこともあったが、「それカレシでしょ(なんで言わないの)」とヒンシュクを買ったことがあってやめた。「連れ合い」は、ときに年相応でないと失笑され、パートナーも遠回しに聞こえるようで「カレシ?」「ダンナ?」と聞かれることもあり、結局「相方」に落ち着いた。
こういう違和感を持っている人は私たちだけではないようで、山暮らしの本を書いている男性も著書のなかで「相方」と呼んでいるし、古くて新しい暮らしを提案している男性も著書の中で「同居人」をいかに愛しているかを書いていた。「相方」と言う人がまわりで少しずつ増えてきているような気もしている。LGBTの人たちもパートナーのことを「相方さん」「パートナー」と呼ぶと聞いて、性差がない状態ではやはりそういう表現に落ち着くのかと、おもしろく思った。
「カレシ?」「ダンナ?」と聞かれるたびに思うが、日本語では婚姻関係まで明らかにしなければ単語が定まらず、多くの日本人は落ち着かないないようだ。そして説明しても理解されにくい。東京と秋田では経験がないが、移住先の西日本では子どもがいるかどうかまで聞かれることも多い。いる場合には、私は「お母さん」、相方は「お父さん」と呼称が変わるのだろう。
今年は議会でのセクハラ、マタハラが明るみに出たが、日本語自体がセクハラでマタハラな言語かもしれないとさえ思う。私は相方といると決まって「奥さん」と呼ばれる。面倒なのでいちいち訂正しないが、名前を言わないといけなくなると、「えっ、結婚していないんですか!?」と驚かれ、「ご予定は?」などと言われて煩わしい。きちんとしていない不真面目な恋人どうしのように思う人もいるようだ。契約などのお墨付きがなければ、絆の強さがわからないほど目が節穴なのだろう。腹が立つが捨て置くことにしている。
言葉が文化の表れであるならば、言葉には文化を変えていく力がある。違和感のある文化の言葉をそのまま使うのではなく、よりしっくりくる表現を他の言語から借用するなり、作り出すなりして、新しい表現を作っていけば、おかしな慣習だって、おかしな考え方だって変えていけるのではないだろうか。言葉への違和感をそのままにせずに、自分がしっくりくる言葉を使っていけば、おかしなものに染まらずに自分をしっかり保てるのではないだろうか。逆に言えば、言葉のもつ概念や背景、ニュアンスをよく考えずに使っていると、固定観念に流され、思考が疎かになっていくのではないだろうか。どういう言葉を使うかをよく考えていくことは社会の問題や生き方を考えていくことにもつながっていく。そんな気がしている。