【旧暦葉月四日 月齢 2.5 処暑 天地始粛(てんちはじめてさむし)】
スピリチュアル系の本や話題では、怒りは良くないものとされている。愛と許しが説かれている。(最初にことわっておきたいが、スピリチュアルな世界は好きなほうだ)
それは素晴らしいことだと憧れる。だれに対しても愛をもって接することができて、何があっても許すことができるなら、素晴らしい。
が、しかし。私はまだ人間で、イヤミの一つも言いたくなることもあるし、嫌だなと思う人もいるし、ナメられたり、不平等な扱いを受けたり、ひどい目に合わされたりしたら怒ることもある。そういう目に遭っている人を見ても怒りがこみ上げてくる。
怒らないこと、という本があるくらい、怒ることは良くないことなのだろう。そう言われても、私は怒ってしまう。無理に怒りをないものとしたり、怒っていないふりをして神さまたちならどう考えるかと考えて聖人になりきるのは、自分には嘘に思えてできない。出てきたものをないことにはできない。出てきているのにないことにするのは、例えば、頭痛を鎮痛剤でごまかしてないことにしてしまうのと同じに思える。自分は出てきた感情は出てきたものとして真剣に向き合い、学びの機会にしたいと思っている。
正直言って、出てきた感情と真剣に向き合うのはかなり苦しい。怒りを感じる自分のことを、「あーあ、まだまだダメなヤツ」と思うこともある。でも、こういうときに自分は嫌だと感じるんだ、それはなぜだろうと考えていくと、自分が普段考えてもいなかったことに気付くこともあり、自分というものがよりはっきりとしてくる。
最近も、腹が立つことがあった。だれかに腹が立ったら、それをそのままぶちまける、我慢して目をつぶる、今後は相手と距離を置くようにする、など、いろいろな選択肢があるが、そのままぶちまけるような勇気はなく、それでいい結果をもたらすとも思えないので、一日くらい悶々とした。自分の中で相手にそういうことをさせている行動や思考があっただろうかと考えたり、こういうとき、我慢して目をつぶるのが許しなのか?相手に好きにさせておくのが愛なのか?と自問したりした。返事をしないといけないものだったため、相手にほんの少しでもいい変化をもたらすにはどんな返答をすればいいんだろうと考えた。今後について建設的な提案をしつつ、傍若無人なやり方に黙って従いはしないということをやんわりと伝えた。結果、相手にどんな影響があったのかはわからない。やんわりすぎて伝わったかすらわからない。でも、自分には少し成長したような達成感があった。
怒りが必ずしもいつも悪い結果をもたらすわけではないとも思う。昔、相方にむちゃくちゃに怒られたことがある。その頃は私以外の家族が結構大変だった時期で、自分だけ念願の大学に通い、好きな勉強をして、好きな仕事をして、いい人たちに囲まれて、幸せでいて、家族に申し訳なく、なんとなくうしろめたく思うところがあった。それをそのまま相方に話したら、めちゃくちゃ怒られた。だいぶ前のことなので、もう記憶もおぼろげだが、なぜそのような思考になるのかと問い詰められたような記憶がある。
相方の怒りのおかげで、私は自分の幸せを追求していいのだと思えるようになった。まずは自分が幸せになり、それから家族を幸せにして、と考えられるようになり、気づけば、家族も今は大変な時期を過ぎて、それなりに幸せに暮らしている。あれは、怒りがいい結果を生んだ出来事だったなぁと思い返すことがある。
相手を不愉快にさせることを恐れて、本当におもっていることを言わずに、表面上だけニコニコして、相手にすべて合わせて、愛と許しの振る舞いをしても、私の心の中にはきっと、怒りや憤りが生まれているわけだから、本当の愛と許しには程遠い。それで懺悔をすれば済むのか? なにか唱えればそれが清算されるのか? 私にはまだそういう実感はない。そういうのを推奨している人たちの中には、そういうのをしない人たちを蔑むような発言をする人もいて、結局あなたたちも心の奥底にはネガティブな感情を持っているじゃないか、と思うこともある。そして、そうやって相手に合わせているうちに、本当に自分が考えていることや望んでいることが、どんどんわからなくなっていく。直感が鈍っていく。
健全な怒りというのは、世の中を良くするために作用することもあると思っている。世の中で起こっているさまざまなひどい出来事を、やめてくれ、助けてくれ、どうにか現状を知ってもらいたいというなかなか普通のメディアからは聞こえてこない悲鳴を伝えたいし、伝えたくても伝えられない立場にある人たちの代弁者でありたいと思っているが、スピリチュアル系の人たちの中には、そういうひどい出来事を流布することは人々の心に不安を広げるために良くないことだと考えている人もいるようだ。事実としてひどいことが行なわれているのに、それを見ないようにして、幸せな暮らしをして、ポジティブな感情を大きくしていくのがよいこととされているかのように思える。
引き寄せの法則などから考えれば、確かに、そういう意見も一理あるのかもしれない。でも、人間なのだから、自分以外の人間や動物や植物がひどい目にあわせれていながら、本当に幸せになることはないのではないだろうか。そのひどい出来事に対する関心が高まれば、変える力を生むことにもなるのではないだろうか。言霊実験でも、無関心が一番腐敗をもたらす(ごはんに、「ありがとう」「バカヤロウ」という声をかけるか、紙を見せるかしたものと、無視するものの3種類を放置して経過を見る実験。「ありがとう」は発酵に向かい、「バカヤロウ」と無視は腐敗に向かうが、無視されたものが一番ひどく腐敗する)。自分だけ平和で安全で快適で楽しくて、世の中にあるひどいことを無視しつづけていたら、自分のその快適な暮らしさえ、蝕まれていくようにも思える。
前に、ある日本の有名なジャーナリストの人が、かなり人格の高い環境活動家に、日本人はマイ箸程度の小さな取り組みしかしない、と批判めいたことを言ったら、その環境活動家は笑って、そういう小さな行ないをする人たちはappreciate(真価を理解されて、感謝)されなければならない、彼らはたとえ小さなことでも行動していて、自然をよくするための力になっているのだからというようなことを笑顔で話していたのを映像で見たことがある。ジャーナリストさんのほうはムッとしていたが、より平和的で建設的な考えに変化する機会を提供することにもなり、ああいう対応ができたらいいなぁと勉強になった。私はそのジャーナリストさんの批判の仕方に腹を立てたが、環境活動家は腹を立てるどころか笑っていて、これが私と彼の違いだなぁ、と思った。
私はまだまだ偉大なスピリットからはほど遠い人間で、怒りを持つことがある。怒りをただ噴出させるのでは何も生まないが、貴重な学びの機会として、自分を知り、自分のまわりに良い変化をもたらす訓練として捉え、怒りと真剣に向き合って一つずつ丁寧に消化していけば、いずれは怒らずに笑いとユーモアでまわりにいい変化をもたらす人間になれるんじゃないかと思っている。