20160412

「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

【旧暦弥生六日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

昨日、"「頭で考えるな」という批判について。"というタイトルの記事を書きました。「頭で考える」ことを全否定するのではなくて、頭と心をバランスよく使うのが大切なのではないか、ということについて書いたものです。

これについて相方と話していたら、相方は、

「頭か心かではなく、心は頭の土台。どちらもよくなければならない。あるいは、直感はエンジン、感情と思考は車の両輪に例えることができる」

と言っていました。直感をきっかけにして、感情と思考を使って意見や行動を構築していく、ということだそうです。どちらが欠けても前に進むことができない。

頭で考えるのがわるいのではなくて、思考を何に使うかが大切なこと。思考はわるいことを遂行するのにも使えてしまうので、心を鍛錬することも非常に重要です。心を鍛錬しておけば、思考をいいことを遂行するために使うことができるからです。

「頭で考えるな」という人は、「心に従え」と言います。「心に従う」というのは、「直感に従いなさい」「考えるんじゃない、感じるんだ」という言葉で言われることもあります。つまり、直感や感情を道標にするということだと思います。

しかし、そういった人たちは、多くの場合、「直感」も「感情」も使いこなせているわけではないように感じます。だれかの言説を「頭で考えて」鵜呑みにしているだけだったりします。

「直感に従え」「考えるんじゃない、感じるんだ」と言う人も、結局はそれを頭で考えて命令しているだけだというのは、なんだか皮肉なことに私には思えます。「頭で考えるな」と言う人のなかで、直感と感情が使いこなせているのではないかと思う人にはまず会ったことがありません。

せめて、「思考」をやりきってからその境地に達しているのならばまだ納得ができるのですが、思考の放棄や、思考を中途半端にしていることの正当化に「直感と感情のみに頼ること」を使っているように感じます。「現実を直視しない言い訳にしないでほしい」、「考えない言い訳なのでは?」、と言いたくなることもあります。

結局のところ、現状では、「直感」だけで「神さま」や"something great"と呼ばれるものとつながって、人生を歩んでいける人ではないのだから、「思考」を頼りにするほかないんじゃないだろうか。チャネラーを名乗る人にも怪しい人もいるし…。「思考」を全否定してると、そういう怪しいスピ系の人に騙されたりもするし、世の中の望ましくない動きを止めることもできなければ、自分が望む方向に動かすこともできません。

心も鍛えつつ、思考力を高めることもやっていったらいいと思います。どちらかが優れば、どちらかが減るものでもないんですから。頭を使わない惰性の正当化のために、「頭で考えるな」と批判してくる人の言うことなんか、気にしなくていいと思う。もちろん、わるいことを遂行したり、人をだましたりするのに、思考力を高めることはよくないと思いますが…。「思考」がわるいんじゃなくて、それをどう使うかに問題があるんだと思います。

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