20190423

「世界の問題を見るな、話すな」というスピ系の人たちからの批判について

ここ数年、スピ系の人が増えてきたと感じる。

スピ系というのは、私のなかでは、スピリチュアル系の本やネット情報をいろいろ読んで、ただ鵜呑みにして、生半可なスピリチュアルの知識を信じ切っている人たちのこと、という感じで認識している。

そうした人たちの間では、世界で起こっている出来事に目を向けてはいけないという主張が多い。ネガティブな気分を引き起こすようなものを見たり、話したりしていると、それが現実化してしまうから見ても話してもいけない。ネガティブな気分を引き起こすようなものは、波動を下げるから近づいてはいけない。言霊には力があるから、ネガティブな気分をもたらすような言葉は使ってはいけない。そういったことが根拠になっているようだ。

5~6年ほど前から、身近な人からそうした話をよく聞く機会が増えた。よくわからない状態で判断するのは控えたいと考えるので、自分でも勉強しなければと感じ、勧められた本やその原典に近い本を読んでみるようになった。いいことも書かれている。信じてやってみたところでおもしろいだけで何の損にもならず、うまくいったらいいことしかないようなものは実験してみることもある。

ただ、ネガティブな気分になるとそれが現実化するから、環境問題や社会問題については目を向けてはいけない、語ってはいけない、そんなものは無視して、気分がよくいられることだけに集中していれば、望み通りの世界が実現する、といった主張は、私にはどうしても受け入れられない。現実として存在している問題を無視し続けていて、本当に解決になるというのだろうか。自分はそれを望まない、では何を望むのかを明確に認識するためには、まずは現実をしっかりと見つめる必要がある。対症療法的なアプローチではなく、根本治癒を可能にするクリエイティブな解決策を考え出すには、表面的にではなく、つぶさに観察する必要があると思う。

原典に近い本にも、たしかに「ネガティブな情報は見るな」といったようなことが書かれているように思える。だが、私には「全く見るな」と言っているのではなく、問題だと思うことにばかり集中してしまい、解決のほうを見ることができないのであれば、見ないほうがいい、見る頻度をコントロールしたほうがいい、と言っているのではないかと思える。もう起こってしまっていることをくよくよ考え続けるより、それをきっかけにして自分の望みに気づいたのなら、問題そのものを見つめ続けるのではなく、自分の望みや解決策を明確に思い描くことに時間を使うべきだと言っているのではないか。問題を知ることで、望みが明確になる。「全く見るな」と言っているのとは違う気がする。

世界で起こっている出来事を見ることなく、気分がよくいられることだけに集中して、毎日ご機嫌で過ごしていたら、望みが何でも現実化して、豊かで幸せな暮らしが実現するという人もいる。だが、世界と個人は密接に関わり合っている。自分が考えを向けていなくても、望まないことが起こることだってある。ほかの人間や動植物たちの犠牲のもとに、自分の個人レベルの豊かで幸せな暮らしが成り立っているということもある。それで果たして本当に豊かで幸せといえるだろうか。

東電の原発事故はその最たる例だ。多くの人々は、原発がどこにあるかすら理解しておらず、放射能が飛んでくるなんて、想像もしていなかったし、いい気分で電気を使いまくって楽しく暮らしていたのかもしれない。それでも、事故は起こり、放射能は撒き散らされている。住むところを失った人もいるし、放射能汚染で健康を害している人もいる。スピリチュアルな人たちが語る理論通りであれば、いい気分で楽しく暮らしていたら、原発事故の影響が、そういう暮らしをしていた人には降りかからなかったはず。自分や自分のまわりの人も含め、原発のことは何も考えずに、楽しく暮らしていた人たちにもその影響は及んだ。

仮に、思考の力が現実を創るということが100%事実だと仮定しても、世界は自分一人だけの想念が影響を及ぼしているわけではない。世界を構成する全員が影響を与えている。自分が何かネガティブなことを想像していなかったとしても、他者が自分の利益のために戦争や環境破壊や人権侵害を強烈に思い描いていれば、それは現実になってしまうだろう。

それによって、直接的にも間接的にも、自分の穏やかな生活に影響が及ぶことだってある。起こりうる望まない状況を未然に防いだり、すでに起こってしまったことを繰り返さないようにするためには、現実をきちんと見た上で、解決策や対抗策を練る必要があるのではないだろうか。見ないでいれば起こらないということではないと思う。

自分が望む世界、たとえば、平和で豊かで美しい世界を力強くイメージすればいい、という人もいるが、それをイメージするには、自分が住んでいるこの世界で起こっている現実を直視する必要があることもある。「失って初めて大切さがわかった」といったことが起こるように、すでにある素晴らしい恩恵が当たり前になってしまっている場合もあるからだ。

世界で起こっていることを「見るな」と糾弾してくるのは、結局のところ、その人が精神的に高いレベルに至っていないことの証明なのではないだろうか。まだ自分のことだけで精一杯で、世界と自分とのつながりを理解できていないか、うすうすは理解していても、それをきちんと見ることがしんどいくて、世界で起こっている出来事に目を向けないことを正当化できる理由を、スピリチュアルな教えのなかに求めているようにも思える。それでいて、スピリチュアルな教えを自分は分かっている、目覚めている、自分は波動が高いのだ、などと思っているのはなんだか不思議な感じがする。

世界の問題を知って、怒り狂うだけだとか、暴力に訴えてしまうとか、ただネガティブな気分で終わってしまうのなら、それは精神衛生上も良くないし、まわりの人にも迷惑がかかるので、そういう段階の人は見ないほうがいいのかもしれない。だが、世界で起こっていることを知っておきたいと思う人を、「ネガティブな現実を創る気なのか? やめてくれ」と攻撃したり、見下したりするのは、よいこととは思えない。そんなふうにして自分の価値体系に他者を当てはめて断罪して、攻撃したり、見下したりすることが、スピリチュアルな在り方だとも思えない。

たとえ、目に見えない何か高尚な存在に、世界の問題を見るなと言われても、私は見ることをやめたくない。少しでも状況をよくするためにできることがあるのであれば、すぐにやっていきたいと思うから、そのチャンスを逃したくはない。それは、自分の暮らしを守ることにも、発展させていくことにもつながっている。

いくら、スピ系の人たちに批判されても、(あなたはそれで解決になると思うのなら、そうしてください。私は今のところ、それだけでは不十分だと感じているので、別の方法を試してみたいのです)と心の中でひっそり思って無視しようと思う。地球での豊かで安全な暮らしを持続可能にし、平和で社会的公正の行き届いた生命を大切にする世界を現実化していきたいという、同じ望みを共有しているのであれば、アプローチの仕方はいろいろあっていいと思う。アプローチの仕方がちょっと違うからと言って、足を引っ張るのは、実現の遠回りになるのではないだろうか。

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