【旧暦弥生九日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】
ここのところ、頭で考えること、思考を否定する考えに対して、自分が思うことを書いてきましたが、最近思うのが、「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか、ということです。あくまでも、個人的な経験と、体感をもとにした意見ですが。
私は「思考」によって、自然とともにある暮らしをすることが、合理的であり、楽しいことであると思うようになりました。そうして、自然とともにある暮らしをするようになったら、自然からのインスピレーションのようなものを受け取ることが増えてきたように思います。「直感」も高まってきたように感じます。
「思考」をわるいことに使うのはいけないと思いますが、思考も否定せずに正しく作動させて、思考力を高めていけば、自ずと、「直感」や「感情」も感度が高まっていくような生き方にたどりつくものなのではないかと思います。
こういう暮らしをするようになってから、ふとしたときに、なんだか不思議なインスピレーションがわくことがあります。「ん? これって私が普段使っているような語彙じゃないよね?」と思う言葉が唐突に浮かんできたりします。つい最近の例ではこの前書いた「おかげさま」など。「自分に返れば、自ずと分かれ、自ずと分かる、それが自分」とか「えええー?それってどういう意味??」みたいなのもたまにあります。だれかの至らない行為に「なんでそういうことするんだろう?」と憤慨していたら、突然浮かんできた「あなたのところで終わりにしなさい」、あれも謎だったなぁ…。なんとなく引かれる方向へ行ったら、探していたものに出会えたり、会いたかった人に会えたり、おもしろいものがもらえたり、ということも。
思い描いたことが、結構現実になってしまうことが、自然とともにある暮らしをするようになって、私の体感としては多くなってきました。「石川県に住む友人に会いに行きたいな」と思っていたら、金沢旅行が当たったり、「パン屋さんができたらいいのになー」と思っていたら近所に大阪から移住してきた人が石臼挽きの自家製粉小麦のパン屋さんを開店されたり、「イオンに無印良品があれば最高なのに」と思っていたら数カ月後にイオンに無印ができたり(これはみんなも思っていたからかもしれないけど)、ミラクルが重なってびっくりすることがあります。どうしているかなぁ、と思い浮かべていた友人とばったりどこかで出会ったり。
だけど、直感を磨いている最初のうちは、それが自分の頭で捏造した「お告げ」なのか、それとも、本当に自然からのインスピレーションなのかが判断できない。たぶん。少なくとも私はそうです。インスピレーションかな?と思ったものを、自分のいい方向に役立てられるように、咀嚼して消化するのに「思考」は必要なんですよね。わるいものじゃないかどうか判断するのも「思考」です。
直感が変わってきただけでなく、感情もものすごく複雑に敏感になってきた気がします。欲望(も感情の一種か?)も、それは外部から操作されてのものなのか、自分の内側から湧いてきているものなのかが大きく違ってわかるようになったし、怒りや悲しみの感情も全身で感じるようになってきました。
それを後から「思考」をつかって分析しているから、また「感情」から学ぶし、「感情」も種類が豊かになってきたように思う。単純ではなくなってきたように思います。本来の感受性が研ぎ澄まされてきた感じで、たまに人と会うのが続くとつらかったりもする。そういう揺り戻しが起こっていて、これを乗り越えたらまたもっと人間的に成長できるのかなぁと、「思考」している自分がいます。
感情をもとに、直感をもとに思考して、思考をもとに行動を変えていったら、感情も直感も磨かれているような気がします。よく、スピリチュアル系の人は、「頭で考えるのをやめなさい。そうすれば直感とつながれる」と言ったりしますが、私の体感としてはむしろ逆で、頭(理性?)を使って考えて、行動をよりよくしていくことで、感情が豊かになり、直感も冴えてきたように思います。
頭も心も否定しないでほしいと思います。両方持って生まれた人間なのですから、バランスよく使っていけばいいと思います。
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