20160413

「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。

【旧暦弥生七日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

おととい昨日と「思考」を否定する言説について思うことを書いていて、かつて、私も「頭で考えるの、やめよう」と思ったことがあったことを思い出しました。

パパラギ」という本を読んだときに、「考えるという重い病気」という一節がありました。
パパラギ (SB文庫)

その一節を読んだとき、「そっかー!もう考えるの、やめよう」と単純に思ってしまいました。でも、よく考えてみれば、ツイアビ(この本の語り手で、自然とともに行きている民族の首長)は思考よりも、直感が優れているのでそれができるのかもしれないけど、私は直感を磨いてこなかったし、自然とともに生きてもいなかったので、自然が教えてくれるインスピレーションはほぼ感じ取れない状態でした。

そんな私が思考をやめたら、生きていくこともできません。だから、思考をやめるなんて無理なことだということは、すぐにわかりました。

そういう私のような、思考も直感も発展途上の人間が、思考や論理を否定し、直感や感情のみに従っていたら、非人道的なことも起こってしまいます。

ツイアビの民族のように、自然とともに暮らし「直感」に従って生きている民族のなかには、迷信に基づく慣習がある民族もいます。いけにえの儀式や、男女差別(この道は女は通ってはいけない、とか)、女性器切除、月経中の女性や出産後の女性を汚れたもの(血が出ているから)として隔離する風習、迷信に基づく動物虐待など。これらは正しい情報を論理的に組み立て、他者に説明していくこと、つまり「思考」を正しく働かせることによって、なくすことのできる悲劇でもあります。

もちろん、「直感」を研ぎ澄ませていけば、こうした迷信が誤りであることに気づくことができるかもしれません。しかし、「直感」は共有することや説明することが難しいものであり、慣習に関わる他者を説得して、理不尽な差別や残虐な行為を終わらせることは難しいのではないでしょうか。

「直感」の研ぎ澄まされた人々が多ければ、一部の人の「直感」によって生まれた非人道的な行為を終わらせることができるのかもしれません。「感情」が優れた人が多ければ、「かわいそうだ」「自分がされたら嫌だ」と感じとって、そのような行為を終わらせることもできるかもしれません。

しかし、実際にはそうはなっていません。そのコミュニティを構成する多くの人々の「思考」と「直感」や「感情」が発展途上であるために、一部の人々がよしとする迷信を盲信して非人道的な行為が続いているということではないでしょうか。

もし、「思考」のほうが高めやすいのであれば、「思考」を否定して「直感」が育つのを待つよりも、「思考」を鍛えていけばいいのではないかと、私は思います。

迷信に基づく動物虐待の例として、台湾の友人から聞きましたが、猫は死んでから化けるという言い伝えから、猫が死ぬと化けて出ないように木に吊るすという古い慣習があるそうです。若い人たちは、もうやらなくなっているそうですが、古い人々のなかにはまだする人もいるそうです。

これも、科学的に考えれば、猫が化けるということは非科学的であり、論理的に考えれば、仮に化けて出ると仮定しても、木に吊るせば化けて出ないということは非論理的である(肉体を固定しても霊魂は自由に動き回れるから)と説明すれば、終わらせることのできる動物虐待だと思います。実際に、若い人たちはやらなくなっているということで、論理的に正しい情報が周知された結果なのではないかと思います。「思考」を全否定していたら、もう少し、続いていたのではないでしょうか。

何かで読みかじって、思考はよくないと決めつけてしまうと、おかしな方向に進んでしまいます。「頭で考えるな」と批判する人々も、結局はまだ、思考から抜けだせてはいない。それなら、思考を否定することなく、思考も直感も合わせて鍛えていけばいいのではないかと思います。

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