20190430

つらい経験は成長するのに必須ではない

苦労は必ずしも、成長に必須のものではない。苦労をしなくても、成長は可能だと思う。苦労がないに越したことはない。

中学生のころ、先輩を送り出す会で在校生が歌う定番ソングが海援隊の「贈る言葉」だった。「人は悲しみが多いほど 人には優しくできるのだから」という歌詞に、当時はぐっときたものだが、今は「そんなこともないんでない?」と思う。

今は、悲しみや挫折を経験してこなくても優しい人を何人も知っている。甘やかされて育ったり、溺愛されて育ったりして、他人に負担をかけているといった認識に乏しい無責任な人もいるが、それは自立心を養う機会がなかっただけ。楽しいことをしながらでも、自立心や思いやりを身につけることはできる。

野菜は苦労しなくても成長する。過保護にすると軟弱にはなるが、別にわざわざ雷や台風に打たれなくても、健全に育つ。霜に当たるとおいしくなる野菜もあるが、霜に当たると枯れてしまったり、苦くなったりする野菜もある。自然の姿から学ぶことは多い。

苦労やつらいこと、悲しいことを経験してしまった場合には、こんなものはないほうがよかったんだと否定したり、悲惨な経験だったといつまでも悲観しているより、それを糧にして、学びの材料にして、「あの経験があったから、今の自分があるんだ」と振り返ることができたほうが、それは絶対にいいと思う。

でも、だからといって、その経験がない人のことを、「あいつは、苦労を知らない。だから、成長していない」と決めつけるのはよくないと思う。

私はと言えば、そのままに過去の話をすれば「それは苦労したね」と言われることのほうが多い。そのおかげで、お金がない人のつらさを知ることができて、貧困の解決に向けてできることはしたいと心から思えるようになったし、今あるものを最大限有効活用する能力も身についたと思う。でも、その苦労をしなくても、その理解や能力は得られたはずだ。

相方にこの話をしたら、相方はこれといって苦労は思い当たらないと言った。「何かつらい経験ってなかったの?」と聞くと、しばらく考えた後、「あー、腰は不具合がずっとあって、これはつらいね」と答えた。間髪入れずに、「だからといって、腰の痛い人に優しくなれたかといえばそうではない」と言うので笑ってしまった。

確かに、苦労をした人が同じ苦労をしている人に対して優しい気持ちを持てるかと言えば、そういう人もいるが、そうでない人もたくさんいる。学生のときにお金の苦労をした人が、「自分だって苦労して大学に通い、奨学金を返してきたんだから、給付型奨学金なんて甘やかすんじゃない」と堂々と胸を張って言う人もいる。もし、苦労をした分、人に優しくなれるのだとしたら、自分がした苦労を若い世代にさせたくはない、お金のことなんか心配せずにのびのびと勉強できる仕組みを作りたい、という気持ちになるはず。

私が過去に経験してきたそれなりの苦労のおかげで、学ぶことができたり、成長することができたりした面はもちろんあるのだが、負の側面もあった。入学前から入りたかったがお金がなくて諦めざるを得なかったプロ養成のコースに、聞いた直後に「あ、それよさそう」とぽんと応募できてしまう同級生を恨めしく思ったこともある。20代前半のころは、自分はまわりの平均的な人たちよりも苦労してきたのだから、「もっと世間的に成功して然るべきだ」「もっと幸せになる権利がある」と思っているところがあった。今思うと怖いが、今もちょっと残っているかもしれない。でも、誰だって幸せになる権利があるということは頭では今は理解している。苦労しなければその権利が得られないというものではない。

「苦労の分、元を取ってやる」と思ってしまうのは、あまり健全ではない。いつまでも苦労に執着していないで、あれは通過点だったのだから、今をこの瞬間を大切に生きたほうが、自分に優しくできるし、他人にも寛容になれる。世間的な成功なんて、手にしてみたら、どうってことはないということはよく聞く話だ。むしろ、手にしたおかげで、幸福感が削がれていく人もいる。

人間は、豊かで満ち足りて、幸福を感じ、成長し続けるというのが本来の姿なのかもしれない。豊かさも幸せも、何かとの比較によって生まれるものではなく、自分の心で感じることによって、もたらされるもの。苦労を経験しようとなんかしなくても、今ある幸せ、ありがたいと思えることを日々発見して慈しんでいれば、学びは加速するように思う。

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