20160831

慣行栽培の野菜と自分が重なる

物知りな自然派の人が、農薬や化学肥料で育った野菜をまるで毒物のように扱うのを聞くと、なんだかその食べ物がかわいそうになることがあります。自分とその野菜が重なるからかもしれません。

うちの親は、食べ物の裏側の話に触れる機会はなかったし、インターネットもまだ家庭で使うには高すぎる時代だったので自分で調べることもなく、食品添加物や農薬、遺伝子組み換え作物の恐れのある油などの問題は何も知りませんでした。店で売っているし、国が認めているんだからと、リスクなど考えることすらなかったのも無理はないことだと思います。そうやって消費者をだましている大企業や国がわるいので、親がわるいとは思っていません。

仕事で忙しかったので、昼ごはんはささっとカップラーメンやインスタントラーメンで済ませることが多く、おやつはいろんな添加物がたくさん入ったパンやスナック菓子。家で育てていた野菜もF1品種で恐らく雄性不稔性(男性側の不妊症)を利用したようなものもたくさんあったと思います。本物のしょうゆや味噌があるなんていうことは全く知らなくて、添加物のうまみ成分が入った「だし入り」の万能つゆやだし入り味噌のことを醤油と味噌だと思っていたくらいです。塩も砂糖も化学的に精製されたナトリウムオンリーの食塩と、真っ白な白砂糖のことしか知りませんでした。スーパーではできあいのおかずも安かったので、週に1度の100円均一では一人一枚限定のとんかつを買いに並んだり・・・。そんな安売りのとんかつは、お肉も遺伝組み換え飼料を食べさせられ、抗生剤をバシバシ打たれたかわいそうな豚さんだったでしょうし、パン粉もポストハーベスト農薬が使われた外国産小麦の添加物まみれのものだったでしょうし、揚げ油だって遺伝子組み換えナタネだったかもしれません。

よく体調を崩していましたが、具合が悪くなれば親は心配してすぐに医者に連れて行ってくれて、いろんなクスリを飲みました。どうやって作られているのかもわからないサプリメントもたくさん飲みました。疲れが出れば、栄養ドリンクをぐびぐび。

服も化学繊維に化学染料、洗濯洗剤だって今考えれば危なそうな合成洗剤、身体や髪を洗うのも合成洗剤だし、化学物質だらけの化粧品もたくさん使いました。

そういうふうにして育っている私は、慣行栽培の野菜と同じで、化学物質をたくさん取り込んで大きくなりました。農薬や化学肥料で育った野菜や果物やお米などを、汚らわしいもののように切り捨てるような言い方を見聞きするたび、そういう自分と重なって、複雑な心境になります。化学物質まみれで育った自分もまた、出来損ないなんでしょうか。毒のような邪魔者なのでしょうか。他人に害を及ぼすのでしょうか。慣行栽培の作物を汚らわしいもののように切り捨てる人たちも、自分の育ち方を振り返ってみれば、化学物質と全く無縁で育ってきた人は少ないのではないでしょうか。

慣行栽培の野菜だって、好きでそういうふうに育てられたわけではありません。本当は自然の力で育つこともできるのだけど、人間が早く大きく形が揃って育つことを望むので、それに合わせるために、化学肥料も農薬も、甘んじて受け入れています。私の身体と同じで、きっと病気になったり、弱くなったりしながら、苦しみながら持ちこたえて、人間の望みに応えようとしてきたのだと思います。そう考えると、そうやって苦しみながらもどうにか健康に育ったのに、人間が食べるときになって、害悪のように睨まれる様子を見ていると、とてもかわいそうになってきます。育ちが多少わるくたって、一所懸命育った命なのですから、毒でも見るような目で見ないであげてほしいのです。

慣行栽培の作物を食べろと言っているのではありません。食べないことを選ぶときに、「ケッ」というような態度で蔑んだり、毒物みたいに憎むのはどうかと思うのです。私も、なるべく自然栽培や野生で育った生命力のある食べ物をいただくようにしていますが、それでも慣行栽培の作物を憎むことはありません。食べ物に罪はないのですから。慣行栽培の作物を食べるときにも、育ってくれて、私においしさと栄養を与えてくれることに感謝をしていただきます。ときどき苦すぎたり、食べてはいけない味のするときもありますが、そういうときも、ごめんね、という気持ちでさよならをして、土に還ってもらいます。

物知りになったマクロビオティックの愛好者や自然派の人々が、慣行栽培の作物を毒物かなにかのように毛嫌いしたり、出来損ないのように見下げたりする態度を見ていると、ブランド物が本物か偽物かを見分けて得意になっている強欲な人たちと、精神レベルはさほど変わらないのではないかと思ってしまいます。食養の世界や、自然に沿った在り方では特に大切なもの、命や自然への感謝を忘れてしまっているのではないでしょうか。

過去の記事を見返していたら、ワタクシ、3年前は、自然に沿った食事を理解してもらえないことに憤りを感じていたようでした(→20131106 健康第一)。今度は、知識を振りかざして慣行栽培の食べ物をメッタ斬りにする人に憤りを感じているというのは、時代が自然派にそれだけシフトしてきたということなのかもしれません。

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20160829

続・「言葉は文化だ」

先日、尊敬する通訳者が過去に述べた「言葉は文化だ」という言葉から考えたことを書き、brotherとsisterを日本語に訳すときに困るという話を実例として取り上げましたが、少し前に訳した原稿にhalf-brotherという言葉が出てきて困りました。

half-brotherとは、片親が違う兄または弟のことを指します。日本語に訳す場合、一般的に使われる言葉は異父兄(弟)か異母兄(弟)で、年齡が上か下かに加えて、父親と母親のどちらが違うのかが確定しなければ、訳語が定まりません。日本ではそれが普通だというのはわかるのですが、half-brotherという言葉を見て、プライバシーの意識が欧米のほうが高いと感じました。

歴史上わりと有名な人物のhalf-brotherだったので、調べれば当然、母が違うのか、父が違うのかはどこかに出てきます。しかし、英語のプライバシーの意識、そして、著者があえてそれを明示しなかったという意図を考えると、調べ上げて、どちらが違うのかを明らかにする訳にすることは、本来すべきではないと思いました。当人の人物像だけがわかれば十分であって、両親のどちらが別の相手と一緒になったのかを探るのは下世話で野暮なことです。

そこで、片親が違う兄(どちらが年上だったのかは調べました。さすがに「兄(または弟)」とはできず…)と訳したところ、案の定、異父か異母かを明らかにした言葉に校正されて戻ってきました。しかも、一番使いたくない「腹違いの」になっていて、ものすごく悲しかったです。原文はhalf-brotherというさっぱりした表現なのに、わざわざこんな生々しい日本語を当てたくはありませんでした。

私の感覚では、「腹違い」なんていう言葉は生々しいだけでなく、ある政治家がかつて女性を生む機械とだと言って非難を浴びましたが、そういう生命を育むことに対する畏敬の念が感じられないセリフを彷彿とさせ、女性を何だと思っているんだろう?と思うくらい思慮に欠けた言葉だと思います。ちなみに、父親が違う場合はなんと言うかというと、「種違い」というそうです。こなれた訳だとか、うまい日本語だと思う人も多いようですが、私からすれば、本能だけで生きている生物かなにかに使うような言葉で、高度な人間性を軽視した下品な言葉でしかありません。

先方は「腹違いの」が読み物として力のある表現だと思われている感じで、私の表現だと「健全すぎて眠気を催す」ということでしたが(これ以外の表現についても言っているようだったが、これも含まれると思われる発言だった)、それでも、どうしてもこの言葉は使いたくなかった。しかも、訳者として名前が出る原稿だったので、私がこんな言葉を使ったことになってどこかに残るなんていうのは人生の汚点と言えるくらい嫌でした。父母のどっちが違うかなんて、そこまで下世話に勘ぐらなくてもいい文化もあるということを知ってもらいたいという思いもありました。

こういう表現が「うまい表現」と思われるくらい、日本の文化は遅れているということなのでしょうか? 英語では単にhalf-brotherで済むのに、日本語では、父と母のどちらが違うのかまで探らなければいけないのでしょうか。ニュース記事を検索してみたら「片親違いの」という表現が使われるようになっていたので(そういう意識を持った翻訳者さんたちもいるとわかってうれしかった)、「ニュースでも使われているので」とお願いして、「腹違いの」は「片親違いの」に直してもらいました。

他にも、議論になった訳語があり、「◯◯の雄(ゆう)」という表現に変えられていた箇所がありました。「~の雄(ゆう)」は、二つのうち大きくて勢いの良いほう、特に優れていることやその人物という意味で、「◯◯の雄」は、◯◯について優れた人物という意味になりますが、雄(オス)と雌(メス)ではオスのほうが優れているという観念が根底に感じられる言葉です。「地方創生の雄として注目されている」「書きおろし時代小説の雄」など、新聞や雑誌などでも粋な表現として使われるようです。

先方は、ウィキペディアによればこの人物はブイブイ言わせていたみたいだから「雄(ゆう)」のほうがいい、という意見でしたが、原文自体はそのような男女差別のニュアンスのない言葉だったので、わざわざそんな「オスとメスではオスのほうが優れている」というニオイのついた言葉にしなくても…と思い、よりニュートラルな第三案に変えてもらいました。

「言葉狩りだ」と非難されたり、「英雄の雄までダメとでも言うのか?」(英雄の雄は単なる男という意味でしかなく、雄のほうが優れているというニュアンスはないのであてはまらない例だと思う)というようなことも言われたりするくらい、かなりうるさがられはしましたが、呼吸をするように男女差別が行われている日本においては特に、ジェンダー差別や固定観念のある言葉は、私が扱うものからは極力なくしていきたいのです。原文がそういう言葉なら仕方ないのですが、この場合は、原文にはそういう男女差別のニュアンスがなかったわけですから、わざわざないところに男女差別のある日本語を持ち込まなくてもと思います。

しゃれた表現だとか、おおっと思われるような表現だ、とされる日本語は、ジェンダー意識や倫理観に欠けるものも多いのが残念です。戦争で使われていたような言葉が語源になっているものもあります。言葉を扱う者として、その言葉が背景に持つものや彷彿とさせるもの、根底にある観念などには、常に敏感でありたいと思います。

言葉は文化の反映であり、言葉が変わることで、個人の自由意志を妨げたり、人間性を低下させたりするような慣習が解消されていくということもあると思っています。言葉にはそういう力があると思います。どういう世界をつくっていくことを望むのか、それに応じた言葉を意識して使っていきたいです。もちろん、翻訳の場合は、原文から離れてはいけないので、その制約の枠内でということにはなりますが。

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20160828

言葉の背後にあるもの—「奥さん」「ご主人」という呼称

「奥さん」と呼ばれるのにも、相方を「ご主人」と言われるのにも、さすがにもう慣れました。他に使いやすい言葉がないので、まあ、仕方ないかな、と思っています。

(初めて読んでくださっている方へ補足:私と相方は人生のパートナーどうしですが、日本の法律婚という形式では苗字を変えないといけなかったり、不便が多いのもあって、しっくり来ていないために契約書を届け出ていません[過去にくわしく書いた記事:おもっていること]。東京にいたころは両方とも名前で呼ばれるか、「お連れ合い」「いつも一緒にいる方」などと言われることがほとんどだったのに、地方へ移住してからは相方(男)だけが名前を聞かれてあとは「奥さん」「ご主人(または旦那さん)」と呼ばれるのが大半になったのが軽くカルチャーショックでした。今は移住して数年経ったので慣れてきたという状況です)

ありがたいことに、相方さんと呼んでくれる人もいるし、ちゃんと名前で呼んでくれる人もいます。私と相方が、お互いを「相方、相方」と言っていたら、自分のパートナーを呼ぶのに相方を使うようになった人もいます。東京から地方へパートナーと二人で移住した友人は、移住にあたって、「田舎だと籍を入れていないといろいろうるさく言われるかも」と思って、入籍したと言っていました。それを考えたら、いちいち、籍を入れているかどうかと聞いてこないだけ、こっちの人は田舎のわりにはおおらかだと思います。

だんだん慣れてきたら、「奥さん」と呼ばれても、相方を「ご主人」と言われても、音としてしか認識しないで済む人もいるし、私の知性や能力やアイデンティティに敬意を払ってくれているのを感じる人もいます。仲良しで対等な関係の友人夫婦が他の夫婦について「奥さん」「旦那さん」と言うのも嫌な感じは受けません。

「すっかり慣れたのかな」と思っていたのですが、先日、久々に不快感を覚えました。

相手は、地元の人ではなく、関東からの移住者の人で、相方と一緒にいるときに1度会い、2度目は私が一人でいたときに会った方だったのですが、2度目に会ったときに、私を指すのに「奥さん」、相方を指すのに「ご主人」を用いました。その発言に久々に強く反応してしまって、「最近は全然なんともなかったのに、どうしたんだろう?」と思って、後になってよく考えてみると、相方の仕事についてはいろいろきくのに(相方の人間性とか考えとかはどうでもいいみたい)、私には子どもの有無しかきかなかったので(ほぼ初対面で子どもの有無を聞くのも不躾で本当に嫌い)、男が外で働いて、女は奥にひっこんで子どもを産み育て、家事を切り盛りする、といった、よくある古い固定観念がこの人にはあって、その固定観念が言葉に反映されていたために、それに反応したんだと思いました。

「奥さん・ご主人症候群」がまた復活してしまったのだろうか?と不安に思っていたのですが、それからひと月ほど経ってから、相方と付き合いのある地元の年配の男性に、「奥さん」と言われたときは、全く気になりませんでした。

相方に、「なんでやろ?」と聞いたら、その男性は、自分のパートナーをものすごく尊敬しているのだそうです。「tom-tomが翻訳とかの仕事してるのも知ってるから、知性のある人間やと思ってるで」という。それで全く不快感を覚えなかったみたいです。

その言葉を発している人の、その思考が反映されたものをキャッチしてしまっているようです。なので、「奥さん」「ご主人」「旦那さん」というときに、ただwifeとhusbandの意味で発している場合はそれほどなんともないのですが、古い男女差別の固定観念を持っている人がその言葉を発しているときは、ひどく不愉快を感じてしまう。そういうことみたいです。

「ご主人」って、言葉として文字通りに考えたら、私は相方の奴隷とかペットじゃないんだから、って感じです。飼われてるわけじゃない。飾り物じゃない。れっきとした人間です。私の主は私でしかない。相方の主も相方でしかない。相方が私のご主人様になって私の生命維持の責任を持つ代わりに自由を拘束するなんていうのはいつの野蛮時代だよって話です。日本語には今のところ、「ご主人」「旦那さん」くらいしか一般的な言葉がないので、まぁ、仕方ないところもありますが…。

「奥様」「奥さん」という言葉は、丁寧な呼称だというのはわかっていますし、通じなさそうな相手には私も仕方なしに、「奥さん」と言ったりします(パートナーと言ったら、「なんてぇ?なんや、奥さんのことかい」みたいに言われたことも…。横文字にアレルギーのある人もいるので要注意です)。

でも、「奥様」「奥さん」という言葉ができた経緯を振り返ってみると、江戸時代に殿様が城の中の「大奥」と呼ばれる奥の部屋に女たちを囲っていて、そこにいる女性のことを「奥の方」と言っていた、それが身分の高い男の妻を呼ぶ「奥様」「奥さん」になり、現代は丁寧語として定着するようになっています。

こうした背景から、「奥様」「奥さん」と呼ばれるとき、私の知性や能力や個性はどうでもよくて、かわいらしさと美しさで男を飾ることで外では夫の評価を高め、家の中では男を喜ばせ、期待されるのは料理の腕と家事をてきぱきとこなす能力と、子どもを生み育てること、という、長年しみついてきた思考が襲いかかってくる感じがあるのです。何も考えてはいけないような、相方のサブでおまけで、影で支える存在でいなければならないというような、強迫観念にとらわれることもあります(相方は全くそれを望んでいない)。

男性だけではなく、女性のなかにも、そういう固定観念を当然のこととして私に向けてくる人もいます。自分がそういうふうな扱いを受けているから、人にも同じ苦しみを味わわせたいのかもしれません‥。地元にずっと住んでいる女性で、意見や考えを表明しても女だからときちんと聞いてもらえないことが続いたせいか、男がいる場面ではもう押し黙るようになった女性の話も聞きました。その気持ち、ものすごくわかる気がします。

もはや江戸時代ではないのですから、そろそろ、もっとまともな対等な呼び方が広まって欲しいものです。

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20160827

「言葉は文化だ」

「言葉は文化だ」と、大学時代に出会った尊敬する通訳者の方がおっしゃっていました。その方は、長年国際会議で通訳をされてきて、これ以上勉強しなくても金銭的にも地位と名誉の面でも十分だったと思うのですが、「言葉と文化」に理解を深めようと、異文化コミュニケーションの大学院で学びたいと考えて入学され、お金だけではない使命を感じて見識を磨いているんだろうなぁと、ますます尊敬したものでした。

その頃は、「言葉は文化だ」の意味が、抽象的にしか理解できていなくて、「あーそうなんやろなぁ」くらいだったのですが、たくさん翻訳をするようになり、英語と日本語の行ったり来たりを繰り返すうちに、「ほんまにそうや!」と思うような具体例に出会うことが増えてきました。英語と日本語で訓練してきたせいか(?)、西のほうへ移住してからは、生まれ故郷、10年ほど住んでいた東京、今住んでいる西日本のとある地域の方言やコミュニケーションのスタイルの違いを敏感に感じ取るようになり、同じ日本語のなかでもやっぱり、言葉は文化だなぁ、と思います。

英語の例を一つ挙げてみたいと思います。

最小限のガスと水で作れて、洗い物も少ないスパゲティの作り方や、フライパン1つで一気に何品か作る方法を、相方がブログに書こうとしていました。相方はそれを「ずぼらレシピ」と読んでいて、二人とも、日本人が受け入れやすいのは「ずぼら」という形容詞だよね!ということで意見が一致しました。

英語では、「ずぼら」はlazyですが、「たぶん、lazy recipeと言ってもあまり響かない。efficient way of cooking(効率のよい調理方法)とタイトルを打ったほうがたぶん見てもらいやすい」ということでも同意見でした。でも逆に、日本人に「効率のいいレシピ」と言っても響かない(*)。

「この違いはなんだろうね?」と相方にきいてみると、「腹芸が通用するかどうか」だと言います。

日本人は異なる文化背景を持つ人々に触れる機会があまりなく、まわりの人々と同質意識があると思います。イギリスから日本に交換留学で来ていた友人が、東京は日本最大の都市で外国人も多いにもかかわらず、「ここではみんなが私のことをガイジン扱いする。どこへ行ってもガイジンって目で見られる。tom-tomは髪も黒いし、目も黒くて、外見はどう見てもアジア人だけど、ロンドンではあなたをガイジン扱いしたりしない。ロンドンの住民かどうかは見た目ではわからないから」と言っていました。そのくらい、日本は日本人ばかりが日本に住んでいると思っているのかもしれません。

同質意識があるので、同じ文化背景を共有しているということが前提で話すことができ、日本人は、本心で思っていることよりも程度を上げたり、下げたりしながら、相手への敬意や自分との力関係を調整するところがあります。極端な謙遜は本心がわからないので、私はあまり好きではないのですが、「私はずぼらなんで」と言って自虐的に自分を表現することで評価のハードルを落としたり、相手が「いやいや、そんなことないですよ」と返してくれて、本心で思っている「ずぼらレベル」に調整されるのを想定しての会話であったり、ということがよくあります。自分と自分の身内のことを貶めて語り、相手を立てるのが丁寧だという暗黙の了解があるため、自虐ネタが受け入れられやすいのだと思います。

一方、欧米の文化では、異なる民族が入り交じるのがある程度は当たり前だという感覚だと思います。相手とは文化背景が異なり、思考パターンやコミュニケーションのスタイルが恐らく違うだろうという前提で話すので、必要以上に自分を下げることで不利な状況が生まれる恐れがあります。 "I’m a lazy person." と言ったら、本当に文字通り怠け者だと思われる可能性が高い。怠け者だから、大事なことは頼めないな、と思われてしまう可能性もあります。欧米の文化では、integrityを重視するという面でも、本心とは異なる発言をすることは望ましくないのではないかと思います。よい印象を与えるefficient(効率のよい)のほうが、リスクが低いし、最大限やることを減らしたということを伝えているという点で、伝えたいことを明確に伝えていると思います。このレシピを紹介するにあたって、ずぼらな人がすること、と言いたいのではないからです。

*注:googleで検索してみたら、“lazy recipes” も出てきましたが、日本語で “ずぼらレシピ” の検索件数のほうが断然多い。 “efficient” も調べてみたところ、“efficient cooking” などは桁違いの検索件数でした。

日本語と英語は言語学的にも遠い言語ですが、文化の面でも大きな違いがあると感じます。冒頭で書いた通訳者の方がよく挙げていた例は、brotherとsisterを日本語に訳すときのことでした。日本では年齡が上か下かが重視されるため、年齡が上のほうに「兄」「姉」、下のほうに「弟」「妹」という言葉があてられます。だから、どちらが年上かがわからないと訳せません。これにはよく苦労していて、調べても出てこないときもあるので、そういうときは仕方なく「兄(または弟)」「姉(または妹)」などとするしかありません。ほかにも、そのまま翻訳したら誤解される可能性があったり、情報が足りなかったり、おもしろさが伝わらなかったり、ということも多々あります。英語圏の文化背景は、本でも感じ取れることは多いので、アンテナを高くして、吸収していきたいと思います。

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20160826

難解な言葉を使うと賢く見える?

私は平易な言葉を使うので、私のことをバカだと思う人もいるようです。まぁ、それでもいいのです。他人がどう思おうと、それはその人の自由ですから…。

何かを訳したり、書いたりするときは、「伝える」ということが私にとって最も大事な目的です。自分の使う語彙レベルの高さを見せしめることは目的のリストには入っていません。だから、だいたいみんなが辞書を使わなくてもわかるような簡単な言葉を書くようにしています。だって、辞書と首っ引きで読まなきゃいけない文章なんて、なかなか読む気にならないではないですか。読んでさえもらえないなら、伝えるという目的が果たせません。読んでもらえたとしても、辞書を使って意味を理解してくれなかったら、内容の一割も伝わらないかもしれません。

たとえば、次の文章はどうでしょうか。


1. その側近は躊躇した挙句、総理に誤謬を正すよう諫言したが、総理は渋面をつくって彼に罵詈雑言を浴びせた。


読めますか? 私は「誤謬(ごびゅう)」「諫言(かんげん)」「渋面(じゅうめん/しぶづら)」が読めず、「躊躇(ちゅうちょ)」はたぶん書けません。「罵詈雑言(ばりぞうごん)」はちょっと読み方があやふやで、念のため辞書を引きました。読めなくて書けない言葉というのは、馴染みが薄いので、なんとなくこんな感じかな?くらいの理解に終わってしまいがちです。腑に落ちて理解できた感じがしません。中国語を読んで、なんとなく漢字から意味を推測しているのに近いかも。

最近読んだ本に出てきたのが、こんな感じの訳文でした(訳者さんが特定されることは望まないので、引用は避けて、似た文章を作っています)。1ページのうちに何度も何度も辞書を引かないとわからない語がゴロゴロ出てくる。今、バーニー・サンダースさんの自伝を原文で読んでいるのですが、こちらよりもその訳書のほうが辞書を引く回数がはるかに多かったです。英和辞典よりも国語辞典を引くほうが多いっていう状況は、ちょっと初めてかもしれません。たぶん私は世間の平均(*)よりも多く本を読んでいると思うのですが、そういう私でもわからない言葉がたくさん出てくるので、世間一般では読み通せる人がどのくらいいるのだろうか?と心配になりました(重要な内容の本だったので)。

文化庁の調査によると、月に1冊も本を読まない人が約半数の47.5%。

私は内容にも言葉にも興味があるので辞書を引きながら読みましたが、辞書を引かないで読んだらほとんど表面的にしか理解できないのではないかと思いました。ちなみに、その訳文が出てきた本というのは、英語で書いている著者が一人で、複数の翻訳家が共同で訳したものだったのですが、他の訳者さんが担当した章はこんなに辞書を引かなくても読めたので、たぶん、原文が特別に難しい語で書かれているというわけではないと思います。

この訳文に出会ったときはちょうど、仕事で訳した文章について、日本語のレベルが低いというようなことを言われたばかりだったので、「あー、こういう文章だったら、すごいって思ってもらえたんだろうなぁ!」と思ったのでした。(原文が平易な英語で、日本語も原文の持ち味を生かしたかったので、平易に合わせただけだったのですが、相手は私と目標が違っていたみたいです)

ただ、私も仕事でこういう批評をされたばかりだったので、こういう難しい言葉がごろごろした訳文を書いた訳者さんにも、事情があったんだろうなぁ、と思いました。難解な語を連発して自分の語彙レベルが高いことを見せつけないと、編集サイドで好き勝手に変えられたり、足元を見られたりといった不具合があるのだろうということは、十分に想像できるからです。中身ではなく、表面的なことでしか、文章のよしあしがわからない人が、残念ながらプロの現場にもいるので、お金と地位と名声を得ていくためにはやむを得ないのかもしれません。

それでもやっぱり、私は1のような文章はあまり好きではありません。好みの問題だとは思いますが…。自分の語彙レベルの高さを自慢するよりも、伝わりやすい表現を選びたいからです。1のような文章は、次のように書き換えても、十分に伝わると思います。


2. その側近はためらった末、総理に誤りを訂正するように忠言したが、総理は不機嫌な表情になって彼にさんざんな悪口を言った。


もちろん、難しい表現がしっくり来る場面もありますし、その言葉でないと言い表せないということもあるので、そういうときは私も難しい言葉を使います。ですが、ゴロゴロとオンパレードのように並んでいるのは、「こんな難しい言葉をこんなにたくさん使いこなせる私ってすごいでしょ?」という自尊心は埋めることができるのかもしれませんが、伝えるという目的を果たすうえでは逆効果だと思います。私も初めて知った言葉は使ってみたくなったりもしますが…。

訳す場合は、原文の語彙レベルに合わせるので、難しい言葉も使うことがあります。でも、慣用句や日本語独特の言いまわしは、とってつけたようで浮きやすいので、慎重に何度も読み返して、浮いていないか確認します。

特に、文化的な背景を調べると、海外の文章にはそぐわないものもあるので、言葉の背後にあるものも配慮したうえで言葉を選んでいます。例えば、欧米人が "I want to die at home."と言ったとして、そのセリフを「畳の上で死にたい」と訳したら変な感じがしますよね。「皮切りに」という表現も翻訳の文章でよく見かけるのですが(便利なのでついつい私も使ってしまう)、もともとは最初に据えるお灸という意味なので、あまり大きな出来事でないものに使うのは仰々しい感じがしますし、海外の文脈で使うにはなんだか違和感があります。

知性のある人の文章に触れていると、やっぱり、文章の語彙レベルで内容の知性の高さは測れないというのがよくわかります。知性のある人ほど、そういうゴテゴテした言葉は使わないのです。

憲法学者の樋口陽一さんは、話すときも語彙レベルが高い言葉を使われるのですが、全く嫌味な感じがなくて、板についているというか、その言葉は本当に樋口さんのものになっていて、ひけらかす目的ではなく、その言葉が口をついて出ている感じで、樋口さんの品性を伴いながら、伝えたい内容を適確に表しています。

孫崎享さんの『戦後史の正体』は、辞書を引かなくてもわかる言葉ばかりで書かれていますが、内容が理路整然としていて、何が起こったのか、事実がわかりやすく説明されています。

英語でもバーニー・サンダースさんの自伝は本当に平易な言葉で書かれているのですが、知性と愛と感謝に溢れています。週刊STでエッセイを書いているKip Katesさんの文章も平易な英語でウィットに富んだ文章で、大学生のときからずっとお手本にしています。

何を優先するかは人それぞれですが、私はバカだと思われても、なるべく多くの人に伝わりやすい言葉を使っていきたいと思っています。バカだと思われると仕事で不都合のある人は、伝わりやすさよりも難解な語を使いまくって能力の高さをアピールするほうを優先するのも作戦だとは思います。

でも、私の場合はそうなのですが、自分の文章を貫いていたら、よさをわかってくれる人が繰り返しお仕事をくださったりします。そういう人は希少で、生活の不安が起こることもまあ、あるにはあるのですが、表面的にしか物事を判断できずにバカにしてくる仕事の相手がたくさんいても、ちっとも楽しくないし、疲弊するだけです。長期的に見れば、そういう本質で物事を判断できる仕事の仲間が徐々に増えていくと思うので、最初はちょっと大変でも、伝えるということを最優先事項として、自分が納得できる仕事を重ねていきたいと思っています。

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20160824

原爆投下の真実―オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史〈1〉を読んで

映画監督のオリバー・ストーンさんとアメリカン大学歴史学部准教授のピーター・カズニックさんの本『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史〈1〉―2つの世界大戦と原爆投下』(全3巻)を読みました。


この本は、アメリカの暗部にしっかりと目を向けたものであり、アメリカの美しい物語は巷にあふれているので、この本では取り上げないとしています。

原爆の投下は、日本の降伏を早めるためにやむを得なかったと、アメリカでは教えられていて、この本によれば、アメリカ人の85%がそう考えているそうです。以前、アメリカに核実験に関する博物館が開館したというニュースを訳したときにも、関係者の女性のコメントは、原子爆弾によって、戦争の終結を早め、戦争が長引いていれば失われる可能性のあった何百万人もの人々の命が救われた、というような信じがたい内容でした。

世界の原爆投下に対する認識はこちらの記事が興味深かったです。
上記の記事によると、アメリカの公式見解は、「原爆は軍事基地を標的に投下された。つまり、市民の犠牲は限りなく避けられた。原爆による死者数は7万人である」というものだそうです。事実とは全く異なっていますが、ほとんどのアメリカ人はそう習っているのだそうです(日本も、政府に都合の悪いことは隠されるので、他の出来事について、同じような誤った認識はあるのかもしれません)。

日本の場合は隠蔽体質ですが、アメリカの場合は公文書を公開するので、誰にでも真実が開かれていて、歴史から学ぶことができる状況があるということもあり、このまやかしに根拠に基づいて異を唱えるアメリカ人は数多くいます。

原爆投下の真実については、この本の4章で詳しく書かれています。

日本を早期に降伏させるのが目的であれば、原爆を投下せずとも、ほかにも方法はあったと、アメリカ政府は認識していたのだそうです。
サイパン島でアメリカが勝利を収めた少なくとも前年の八月から、日本は終戦工作を秘密裏に模索しはじめていた。〈中略〉リチャード・フランクは原爆投下を擁護する最も権威ある著書『没落』を書いた人物だが、その彼ですら「原爆投下がなかったにしても、鉄道網の寸断と封鎖・空爆戦略の累積効果が相俟って(あいまって)、国内秩序は深刻な脅威にさらされたであろうし、その結果として天皇は戦争終結の宣言に追い込まれただろう」と述べている。(p. 310)
すでに日本は負けに負けていて、終戦の道を模索していたことをアメリカは把握していたというのです。アメリカとイギリスが「無条件降伏」という言葉を使ってしまったために、日本は天皇が処刑される可能性があると考え、応じることができなかった。当時のアメリカ人も、日本人にとって天皇が殺されることは、アメリカ人にとってキリストのはりつけと同じようなことだから、天皇制の存続と、天皇の命を守ることをはっきりと示せば、日本が降伏に応じる可能性は高いという意見が中枢からも上がっていました。
マッカーサー指揮する南西太平洋司令部の調査報告には、「天皇の退位や絞首刑は、日本人全員の大きく激しい反応を呼び起こすであろう。日本人にとって天皇の処刑は、われわれにとってのキリストの十字架刑に匹敵する。そうなれば、全員がアリのように死ぬまで戦うであろう」とある。これを知った人の多くは降伏条件を緩和するようトルーマン大統領に求めた。(p. 311)
日本は、天皇制の存続が確保されていれば、早期に降伏する可能性が極めて高かったにもかかわらず、当時の大統領ハリー・トルーマン氏の側近だったジェームズ・バーンズ氏は(トルーマンが議員時代からの相談相手だった)、降伏条件の妥協をアメリカ国民は許さず、妥協すればトルーマン大統領の政治生命が危なくなると主張し、トルーマン大統領はそれを聞き入れてしまいます。

しかし、ワシントン・ポスト紙は社説で、「これは日本人を憎むとか憎まないとかいうレベルの話ではない。むろん私は憎んでいる。しかし、二年先に同じ条件で戦争が終結するのだとしたら、このまま続けてなんの益があるというのか」と書いていて、「無条件降伏」という言葉は日本国民の心に恐怖を植え付けており、戦争終結の障害になりつつあるとして、これが「致命的な文言」であると糾弾した(p. 314)、とあることからも、アメリカ国民がこれを承知しないということはなかったのではないかと思います。

天皇制の存続を約束する以外にも、日本を早期に降伏させる方法はありました。日本はソ連の参戦をなによりも恐れていたそうです。ソ連は、1945年2月にアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相とヤルタで行なったヤルタ会談で、ドイツとの戦いが終わってから3ヶ月後に日本との戦いに参戦するという約束になっていました(p. 260)。

日本の政治の中枢にいた人々は、共産革命によって天皇と天皇の周辺の人々の命と地位が危うくなることを最も恐れていました。アメリカとだけでもぼろぼろに負けているのに、ソ連に参戦されたら、日本は壊滅するだろうと(日本の最高戦争指導会議「帝国は使命を制せらるべき」と結論[終戦史録])考えていて、ソ連の参戦はなんとしてでも避けたかったのです。何も原爆を落とさなくても、ソ連が参戦するだけで、日本が降伏する可能性は十分にありました。

なぜ、今にも降伏しそうな日本に、原爆を2つも落としたのか?という疑問が湧いてきました。

原爆投下を決定したトルーマン大統領という人物は、白人至上主義団体クークラックスクラン(KKK)にお金を払うほどのかなりの人種差別主義者で、日本人のことを忌み嫌っていたようです。当時のアメリカ人もまた、ドイツ人のことは、善良なドイツ人とナチスドイツのような野蛮なことをするドイツ人とを見分けていましたが、もともとあった有色人種に対する差別からも、日本人のことは全部野蛮人だとみなし、ゴキブリや、ネズミや猿(「黄色い猿を殺せ!」という比喩はよく使われたそう)のように忌み嫌っていたのだそうです。

こうした背景から、原爆投下によって日本人を無差別に殺すことなど、当時のアメリカ人にとってはさほど心の痛むことではなかったのかもしれません。

アメリカは、原爆を日本に落とすことによって、第二次世界大戦後の世界における覇権争いで、ソ連を牽制したいという思惑があったようです。

物理学者のレオ・シラード氏は、原爆の使用について注意を促そうとトルーマン大統領との面会を図ったものの、かなわず、代わりに側近のバーンズ氏と会って得た回答に憤慨してつぎのように語っています。
「バーンズ氏の回答は、戦争を終結するためには日本の都市に原爆を使用せざるを得ないというものではなかった。政府の誰もが知っていたように、彼はそのときすでに日本が敗北したも同然であることを承知していた……当時のバーンズ氏の懸念はソ連がヨーロッパで覇権を握ることにあり、彼は原子爆弾の保有・示威行為によってヨーロッパにおけるソ連の影響力を抑えられると主張していた」(p. 335)
原爆投下標的委員会のレズリー・グローヴス少将も、ジョセフ・ロートブラット氏(原爆開発に関わっていたが、唯一離脱した物理学者)に次のように語っていました。
「むろん、この計画(日本への原爆投下)の主たる目的はソ連に対する牽制であるのは承知しているね?」(p. 335)
しかし、原子爆弾の原理は秘密にされているものでもなく、ソ連もすぐにアメリカに追いつくことが予想されていて、アメリカが優位に立てるなどということは考えにくいことでした。当時の学者さんたちも、アメリカが日本に原爆を投下することは、ソ連との核武装競争につながると警告していました。

前述のレオ・シラード氏は、嘆願書にこのように書いています。
われわれが手にしている原子爆弾はまだ世界が破壊に向かう第一歩にすぎず、将来の開発によって人類が手にする破壊力は実質的に限りないものになります。したがって、新たに発見された自然のちからを最初に破壊目的に使用した国家は、想像を絶する規模の破壊という時代の扉を開けた責任を負うことになるでしょう。(p. 336)(全文はこちらでも読めます→レオ・シラードの嘆願書
日本への原爆投下は、戦争の早期終結が目的ではなく、ソ連との覇権争いにおいて、アメリカが優位に立ちたいという権力欲でしかなかったのです。戦争の犠牲者を減らすという目的ではなかった。すごく悲しくて、腹が立って、もし、トルーマンが大統領でなかったら、もっと良識のある人が大統領だったら、あんな苦しみを広島と長崎の人々はしなくてもよかったのに、とものすごく心がかき乱されました。アメリカが心底憎たらしくなりました。でも、これを告発してくれているのも、アメリカ人なのです。レオ・シラード氏など、アメリカにもまともな人は結構いたのです。

当時の軍の指導者たちの意見を紹介して終わります。(☆マークがついている人は、アメリカの五つ星階級章将官。五つ星階級章将官七名中六名が原爆投下は不可欠ではなかったと述べている)

まずはおなじみのダグラス・マッカーサー元帥(☆)。
原爆の使用を「軍事的にはまったく不必要」と考えており、アメリカがまもなく使用する予定と知ると怒り失望した。(原爆投下発表以前に記者会見を開き)日本は「すでに敗北しており」、自分は「次の戦争が一万倍の恐怖を伴うだろう」と考えていると記者たちに漏らした。(p. 346)
ダグラス・マッカーサー元帥は、アメリカが降伏条件を変更したなら戦争は数カ月早く終結しただろうと一貫して主張している。
〈中略〉
フーバー(元大統領)が1945年5月30日にトルーマンに送った、降伏条件の変更を提案する意見書は、「賢明でまことに政治家らしい」ものであり、もしこの意見書が聞き入れられたのであれば、「広島と長崎の虐殺も……アメリカの空爆に寄る大規模な破壊もなかっただろう。日本が躊躇することなく降伏を受け容れたであろうことを私はいささかも疑っていない」(p. 363)
トルーマン大統領付参謀長で、統合参謀本部の議長だったウィリアム・リーヒ提督(☆)。
「日本はすでに敗北しており降伏する用意ができていた……広島と長崎に野蛮な兵器を使用したことは日本に対するわが国の戦争になんら貢献していない。はじめてこの兵器を使用した国家となったことで、われわれの道徳水準は暗黒時代の野蛮人レベルに堕した。私は戦争とはこのようなものではないと教えられてきたし、戦争は女子どもを殺して勝利するものではない」
「トルーマンは、われわれは原爆の使用を決定したが……目標を軍事施設に絞ったと私には言った。むろん、彼はかまわず婦女子を殺しにかかったのであり、はじめからそのつもりだったのだ」。(p. 362)
ヘンリー・アーノルド元帥(☆)。
「原爆投下の如何にかかわらず、日本が壊滅寸前であることはわれわれには以前から明白に思われた」(p. 363)
東京大空襲を指揮した鬼であるカーティス・ルメイ大将。
「原爆もソ連参戦もなくとも、日本は二週間もあれば降伏していただろう」
「原爆は戦争終結とはまったくかかわりがない」(p. 363)
太平洋戦略航空軍の指揮官カール・スパーツ大将。
「ワシントンではじめて原爆使用を検討したとき、私は投下には賛成しなかった。私はある町の住民を殲滅するような破壊を好んだことは一度たりともない」(p. 363)
連合国軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー元帥(☆)。
(日本への原爆投下について)「二つの理由から反対だと答えた。第一に、日本は降伏する用意ができており、あのような恐ろしい兵器を使用する必要はなかった。第二に、私は自国があのような兵器を用いる最初の国になるのを見たくはなかった」(p. 342)
海軍将官の意見も載せておきます。
合衆国艦隊司令長官のアーネスト・キング提督(☆)。戦争当時に補佐に話した言葉。
「私は今回の投下はすべきでないと思う。それは無益だ」「私はとにもかくにも原爆を好まなかった」(p. 363)
太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ提督(☆)が戦後しばらくして会議で発言した言葉。
「実際、広島と長崎の破壊によって核の時代到来が世界に宣言される前に、そしてソ連が参戦する前に、日本はすでに講和を求めていた」(p. 363)
南太平洋方面軍司令官のウィリアム・ハルゼー提督。(原爆投下の翌年に語って)
「最初の原子爆弾は不必要な実験だった……いや、どちらの原爆であれ投下は誤りである……多くの日本人が死んだが、日本はずっと以前からソ連を通じて和平の道を探っていたのだ」(p. 364)
トルーマン大統領の側近バーンズ氏までもが戦争終結に原爆は必要なかったと認めています。
ニューヨーク・タイムズ紙によると、「バーンズは、広島に最初の原爆が投下される前に日本は敗北を覚悟していたことをソ連はつかんでいたと述べている」(p. 364)

アラ探しをしているチームと、サポーティブなチーム、どちらが能力を最大限に発揮できるでしょうか?

常にアラ探しをしているチームと、自由にのびのびやらせてくれながらもサポーティブなチーム。チームのメンバーの能力が最大限に発揮されるのはどちらでしょうか?

昨日は翻訳の仕事で、翻訳者の悪口を言ったり、誤りを見つけて鬼の首を取ったような態度をとったりする発注者の話を少し書きましたが、そもそも、好き好んでミスする人なんていないと思います。

手を抜いていたとか、不真面目にやったとか、嘘八百を並べたとか、そういうことなら責められても仕方がないし、厳しく指摘して改善してもらうのが相手のためだと思います。でも、精一杯やって、それでも間違ってしまったものを、「それ見たことか!」と攻撃の材料にするなんていうのは最低だと思います。

人間は不完全な生き物です。そこをサポートしあうのがチームの役割。翻訳者一人でノーチェックで完璧なものができるんだったら、チェッカーも校正者もいりません。人間は完璧ではないから、どんなに気をつけていても、間違ったり、勘違いしたりすることがあるから、複数の目を通すわけです。立場を入れ替えてみれば、誰だってそのくらいはあるのではないかと思われるようなミスで、職能や人格までこき下ろすような攻撃をするのは、本当に最低だと思う。

このご時世、コンテンツを電子書籍にして読者に直接売ることもできるようになっていますから、状況としては著者と訳者と読者さえいれば、翻訳の本を販売するということは成り立ちます。こんな態度でいるのであれば、チェッカーも校正者も編集者も不要なわけです。現状は、正規の出版ルートを通さなければ、多くの人に届けることが難しいため、嫌な思いも我慢している人がほとんど。だから、こんな傲慢な人たちにも仕事がある。

電子書籍って言ったって、著作権や版権絡みでエージェンシーがどうたらこうたらという反論もあるでしょうが、著者が従来のルートを通さずに電子書籍でバンバンおもしろいものを出すようになったらどうでしょうか? 編集者が変な赤入れをしまくって、自分の言葉ではなくなってしまうし、印税が少なすぎる(だいたい10%)から、もう出版社からは出さないと宣言している著者も見かけるようになりました。やがてそれが一般化するようになれば、翻訳者が著者と交渉して、あるいは逆に、著者が翻訳者に直接依頼をして翻訳版を出すということも、可能になってくるでしょう。

そうなれば、編集者も、チェッカーも、校正者も、コーディネーターも、本当に感謝されるような役割を果たしていない限り、その仕事は不要になります。ミスを見つけて攻撃したり(というか、私がチェックの仕事をするときは、ミスを見つけるのが仕事だと思っている。あって当たり前で、なかったら私の仕事なんか無用だと思う…)、傲慢な赤入れをしたり、発注者だけに都合がよいスケジュールで翻弄したり、人をバカにしたり、そんな態度でいたら、むしろ足を引っ張るだけだと思います。

常にアラ探しをしているような相手と仕事をする場合、間違わないように、間違わないように、ということに気持ちが行き過ぎて、おもしろいもの、美しいもの、人々に喜びを与えるもの、いいものをつくりあげていく、ということに、力を注ぐことが難しくなります。

たとえば、スキーのジャンプや、水泳の飛び込みなどで、
「あんたなんかどうせ上手に飛べないわよ。今に失敗するから、ふん、見ててやる。失敗したら思いっきりこき下ろしてやるんだから」
と思って見ている人たちがそばにいて、上手に飛べる人っているのでしょうか?

「大丈夫、きっと飛べる。もし、失敗しても、ぼくたちが助けるから、心配しないで飛んでみて」
と思って見守ってくれる人がそばにいたほうが、成功する確率が高まるのではないでしょうか?

チームの役割とはそういうものだと思います。ミスがあったらフォローして、つらいときには支えになり、悩みがあったら相談にのり、体調がわるいときには十分に休めるように代わってあげたり、自信をなくしていたら励ましたり、改善すべき点があったら思いやりをもって提案したり、それがチームというものだと思います。

クリティカルヒットの機会を虎視眈々とうかがって、仲間のミスを探すなんていうのは、チームのやることではなく、敵のやることでしょう。それをして、チームにとって、どんないいことがあるというのでしょうか? 品質は下がるし、士気も下がるし、やっていてちっとも楽しくもない。

いいことが一つだけあるとすれば、それは、虎視眈々と狙っているその人のプライドが満たされるということだけです。「私のおかげでいい仕上がりになったのだ」「あいつは私よりできない」「ぎゃふんと言わせてやってすっきりした」、そんな浅はかな喜びは長続きしないでしょう。結局、この人の能力がそれほど高くないことには変わりはないのですから。

幸い、よくできる人と仕事をする機会に恵まれていて、そういう人たちとは本当にいい仕事ができます。ミスをしても、ミスについてのみ客観的な事実として指摘してくれるので、素直に受け入れられるし、次から気をつけられる。相手もミスをすることがあるけど、素直に認めてくれて、次に活かしてくれる(ミスを素直に認めるというのは本当に知性に自信のある人でなければできないことだというのも学んだ)。

リスペクトと感謝に基づいて、コミュニケーションをとり、仕事をつくりあげていけるというのは、本当に幸せなことだと思います。厳しいことを言うときも、普段からしっかりとした関係を築いているということもあって、相手のことを思ってのことだというのが自ずとわかります。そういう人たちと仕事をすると、「ああ、いい仕事ができたなぁ!」と思うことばかりですが、そういうとき「いい仕事をしたなぁ!」という達成感があるだけでなく、それを使う人たちにも喜んでもらえます。自分の能力も、人間性も、チームのメンバーのよいところに感銘を受けながら、自然と高めていけます。

針のむしろのようなところで精神を鍛えたいという人もいるかもしれませんが、私はやっぱり、人間性も能力も高い人たちと、サポーティブなチームのなかで仕事がしたいです。

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20160822

フェイスブック疲れ、再び

フェイスブック、選挙のときはちょっとがんばって書いていたのだが、もう疲れてしまって、10日ほど投稿が空いた。

世間はオリンピック一色だったようだけど、沖縄の状況、憲法の破壊、伊方原発の再稼働(「正気とは思えない」)、福島の凍土壁が凍らない問題(小出裕章さんなどが以前から指摘されていたとおりに)などなど、非っ常~~~~にたくさんの問題が山積していて、メディアがちゃんと報じないのないなら、私も何か言わないと、と久々にフェイスブックを覗いてみたのだが、うーん、やっぱり、すごい抵抗というか圧力を感じる。うーん、やっぱりこの空気、私の居場所じゃないわーという感じがした。

その空気をぶち破る勇気のある人は、活動家として認知されている人を除いて、そんなにいない。この空気をぶち破って書いている人も、単なる攻撃であったり、「こんなことを知っている自分はどうだ!」みたいな自尊心を埋める目的だったり、うっぷんを晴らすだけだったりして、重要なニュースを知ることができてありがたいにはありがたいのだが、かなり気持ちが滅入ってしまう(これについては先日も少し書いた)。

フェイスブックはショーみたいな感じで、「きゃっほー❤これ見てみて~♪」みたいなのは書きやすいんだけど、まじめな話って本当にしにくい。居酒屋で大勢に当たりさわりのない話をしたり、酒の勢いをかりてぶちまけている感じ。私はカフェで友人一人ひとりと深い話をするほうが好きなので、合わないわけだ。

私はこどものころから一匹狼という感じで(望んでそうなったわけではない)、常に浮いていたので、フェイスブックみたいな群れて楽しむところは、合わないんだろうと思う。今でも、みんなが白いものを見て黒だと言っていても、一人でぽそりと白いものは白いと言うタイプだと思う。目立つのは嫌だから、ぽそりと言う。社会活動に使いたいなら、フェイスブックよりツイッターのほうが私の場合は向いているのだと思うんだけど、ツイッターは誹謗中傷が増えてきているとも聞く。

愛嬌を振りまけるかわいいアイドルタイプ、おれについてこいみたいなリーダータイプ、他人にどう思われるかが気にならない人、ピエロを演じるのが好きな人、ちやほやされるのが好きな人、群れてワイワイするのが好きな人には楽しい場所なんだろうけど、私はどれも全然だめだ。誰にもついていきたくないし、ついてこさせたいとも思わない(各人の自由意志に従ってほしいから)。人に気を使いすぎる。つねに自分は自分のままでいたい。ちやほやされても下心は何かと勘ぐってしまう。わいわい騒ぐこともほとんどなく、騒いで楽しいとも思わない。静かに黙々と重要なことについて考えたり、何かを作ったりしているほうが好きだ。

フェイスブックでは、他人に対して疑心暗鬼になってしまうことも多い。「いいね」一つをとっても、「いいね」を押されても押されなくても本音を勘ぐってしまう人もいるし、Aさんのシェアした記事には「いいね」を押して、同じ記事をシェアしているBさんに「いいね」を押さなかったら何か思われないだろうかとか、あるいはAさんのある投稿にはいいねを押して、それ以外にはいいねを押さなかったら何か思われないだろうかとか、不安になる。それに、リアルでは私にカスタマイズして見せないでおいてくれている、私が見たくない側面も見せられてしまう。他人がどんどん嫌いになっていくループに陥りそうになることもある。

再び、いっそのことフェイスブックをやめてしまおうかなぁという熱が復活しているのだが、連絡手段にもなっているし、役に立つ面もあるし、しばらく開かないで不快感が落ち着くのを待ちたいと思う。

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20160821

身体は正直。痛みや不調は、何かが違っていることを知らせるサイン。

身体は正直です。私は基本的には玄米菜食で、白砂糖と化学物質は避けています。白身の魚や小魚は、放射能汚染に注意しながらときどき食べます。卵は、無農薬野菜と草をついばんで育った放し飼いの卵を自然派コープで届けてもらっています。

こういう食事について、ゆるくポップに書かれた本が、最近、書店に並んでいました。『「食事」を正せば、病気、不調知らずのからだになれる ふるさと村のからだを整える「食養術」』(秋山龍三/草野かおる・著)という本です。

「食事」を正せば、病気、不調知らずのからだになれる ふるさと村のからだを整える「食養術」

「こうしなきゃだめ!」みたいなよくある感じではなく、続けやすい形で提案されているところがよいなぁと思いました。読み物としてもおもしろく、必要な情報がよくまとまっていると思います。

私はこの本で言うと、仙人級まであと少しのゆる仙人みたいな感じかな、と思いましたが、こうした食生活にしてから、体調を崩すことがほとんどなく、肌がきれいになって化粧品がいらなくなりました。もともと身体が丈夫だったわけでは決してなく、幼いころから虚弱体質と言われていたほどで、1カ月に数日は寝込み、毎年3月と9月には総決算のように数週間寝込むし、風邪はしょっちゅうひき、月経中は頭痛と月経痛で鎮痛剤なしでは過ごせないくらいでした。

肌のほうはと言えば、鼻の毛穴の黒ずみが気になって、毛穴すっきりパックは「痛い(泣)」と思いながらもいろいろ試し、クレンジング剤、洗顔料、拭き取り化粧水、美容液、化粧水、乳液、クリーム、オイル、日焼け止め、と、化粧品はゴロゴロいろんなものを使っていたのに、皮膚表面が固い感じがするし、おでこと鼻(いわゆるTゾーン)はベタベタ、くすみが気になるからファンデーションでごまかす、みたいな感じでした。顔と身体と手でも分けていた化粧品が、今では天然素材の石けん一つと植物性オイル一本だけ。食べ物を変えた今のほうが、ずっときめも細かく、透明感が出て、皮膚も柔らかくなった感じがします。小鼻の黒ずみもなくなりました。

東京では、玄米菜食の飲食店が結構あったので、事前に調べて行けばたいていどのエリアでも(東側にはあまりなかった)、普段と近い食事ができました(放射能の心配が出てきてしまいましたが、それでも、そうしたお店は良心的なところが多くて、お客さんも気にする人が多いからだと思いますが、産地を表示してくれていたり、放射能検査済みで不検出のものを提供してくれていました)。

しかし、地方へ移住後、外でゴハンを食べるときには、無添加はそれなりに見つかるのですが、無農薬となるとかなり難しい。完全に菜食にするのが難しくなり、ときどき、お肉を食べることがあります。動物性の食品をたくさん食べるとお腹が痛くなることがあるので、メニューからなるべく入っていなさそうなものを選ぶのですが、勘がハズレて入っていることも。あんまり避けまくるのも身体にわるいし、食べ物にも、農家さんを含め、作ってくれた人にも、失礼なので、入っていたらありがたく感謝していただきます。

最近、相方はお付き合いで外食が増えていて、お肉を食べてもそれほどお腹を壊すこともなくなったので、また、マクロビを習っていた友人が「男性は動物性をとったほうがいい」(私はこれには懐疑的。男女問わず個人差があるはず)と言っていたこともあってか、ときどきはお肉をと言うようになりました。

それで、外食でお肉が入っていると、相方に食べてもらっていたのですが、ついに、てきめん、来てしまいました。鶏肉がごろごろ入ったメニューを食べた後、最終電車の中でお腹が痛い…と始まり、降りてしまったら次の電車がないので最寄りの駅までヒヤヒヤ。私も、その日は生クリームやチーズなど、動物性の食品がたくさん入ったメニューを食べたのですが、胃が気持ち悪く、翌朝になってお腹が痛くなりました。二人とも、合わない食べ物はすぐ排出するように身体が整ってきたようです。思い返せば、自然食になる前によくお腹を壊していたのも、身体さんが教えてくれていたんだろうなぁ、と今ならわかりますが、昔は下痢止めを飲んでも効かないと怒っていたものでした。

身体は正直だなぁと思った出来事をもうひとつ。この二ヶ月ほど、ちょっとストレスのかかることが多くて、甘いものが欲しくなり、白砂糖の入ったお菓子を調子にのって食べまくっていました。

白砂糖は身体を冷やし、カルシウムなどのミネラルを奪うと言われていますが、実際に白砂糖の入ったものを食べるとイライラしやすくなったり、頭痛が起こったり、顔色が悪くなることもよくありました。それで食べないようにしていたのですが、夏の暑さで顔色はわからなかったのと、もともとストレスでイライラしているので、変化がわからなかったのもあり、あんなに避けていた白砂糖の入ったお菓子をしょっちゅう口にするようになっていました。

その結果、やっぱり、身体さんは正直です。メイド・イン・アースのオーガニックコットンの布ナプキンにしてからはほぼ皆無だった月経痛が復活。鎮痛剤を飲むほどでもなく、昔ほどではなかったのですが、それでも身体が重くてしんどくて、内臓を冷やしてしまったということだなぁ、と反省しました。

身体の痛みや反応は、より健康になって人間本来の状態を取り戻すにはどういう食べ物を食べ、どういうものを使い、どういう生活をしたらよいのかを教えてくれるサインだと実感しました。痛みや普段と違う不調があったら、その原因を探ってみて、改善を図り、試行錯誤を続けることで、何を食べるべきか、どう生きるべきかがわかるのではないでしょうか。久々に体調を崩し、友人が自分の子に「身体さん感じて。まだ食べたい?」と聞きながら食事を与えていたのを思い出しました。

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20160820

『「憲法改正」の真実』(樋口陽一さん✕小林節さんの対談)を読んで。自民党改憲草案では新自由主義が国是に、など。

憲法学者の樋口陽一さんと小林節さんの対談をまとめた新書『「憲法改正」の真実』を読みました。

憲法のことだけでなく、議論のお手本にもなるような素晴らしい本でした。手元に置いておいて何度も読み返し、議論の作法を身につけるための教科書にしたいくらいです。

20160818

楽しむことを責める投稿を見て考えたこと。伝統的な祭りが市民運動に及ぼす影響について。

日本は今ようやく市民のための政治を取り戻そうという動きが始まったばかりで、まだまだ、長い道のりになると思う。末広がりに長く続いていく運動にしていくためには、知恵と工夫、そして人間性を高めていくことが肝心だ。ちょっとやそっとでは変わらない。先を考えずに全力疾走して再起不能になるといった状況は、避けるべきだと思う。

夏祭りのシーズンで、全国各地のお祭りを楽しむ様子がSNSでも流れてくるようになった。そんななか、日本はこんなに悲惨な状況なのに、お祭りに浮かれている場合かという怒りがこもったフェイスブック投稿の話を耳にする。日本人はみんなすでにお祭り頭なのに日本中で連日祭り祭りで、そのお祭り頭は一体いつ覚めるのかというようなことが書かれていたという。

20160815

71年目の終戦記念日に思う

太平洋戦争の終戦から今日で71年の節目を迎えました。

来年も、再来年も、10年後にも、100年後にも、ずっとずっとその先まで、日本が国内外問わず、人を殺し、殺されることがない時代が続くことを心から願います。憲法で大切にされている平和を貫く精神を守り続けていきたいです。

数年前まで、具体的には2011年に東電の原発が爆発してしばらくするまで、原爆が広島と長崎に投下された日も、終戦の日も、特別な気持ちを持つことは特にありませんでした。何も知らなかったし、知ろうともしなかったからです。そういうムードだから、なんかそういうふうに思わないといけないのかな、くらいにしか思っていませんでした。日本が戦争をしないことの意味を、憲法9条に象徴される平和主義の意味を想うことはありませんでした。でも、自由と民主主義と平和主義の精神が薄れ、憲法までもが危機にされている2016年の今日、その意味を思わずにはいられません。

20160814

思ったことをきちんと伝えることが、自分以外の人のためになることもある

昨日も書いた通り、私は必要だと思えば、関係が悪化する可能性があっても、思ったことは正直に伝えるほうです(もちろん、言い方には配慮しますが)。

思ったことをちゃんと伝えるとよいことは、声を上げられない人や、未来の潜在的な被害を防げることだと思います。

かつて、残業代を払ってくれないのに、部長の気まぐれで業務が増えまくるバイトを数カ月の間、していたことがありました。大学時代にパートタイムで働いていた出版社に戻れるめどが立ち、辞められることになったのですが、後任を探さないと辞めさせてもらえないと言われました。

大学で一つ下の学年だった人で、その仕事に興味を持っていた人がいたので、その人を紹介することになりました。記憶が曖昧ですが、残業代がないことと、部長の性質は話したと思います。その人は働いてみたいということだったので、部長に話してみることに。

この話を別の人にしたら、「あなたね、自分が辞めたい仕事に、だれかを紹介するなんて、そんなことはよくないですよ」と憤慨していました。そう言われて、「確かに…」と自分が情けなくなりました。自分が逃れることしか考えていなくて、相手が行きたいと言うんだからいいじゃないか、くらいにしか考えていなかったのです。

幸い、部長がだらしのない人で、後任を紹介する話は流れたまま、私は退職の日を迎えました。

このときの反省から、自分がされて困ったことが、ほかの誰かに及びそうな場合、きちんと伝えるようになりました。困ることをしてきた人に直接言って、改善をお願いしたり、それが不可能な場合は、判断できる別の人に伝えたり、それでも改善が見込めないときは、被害が及びそうな人に事実を伝えて判断材料を提供したりします。

こんなことがあったのです、と正直に伝えてみると、「実は私もこうだったの!」と打ち明け話をされることも多く、自分だけではない場合がほとんどだとわかりました。「実はこの人とはこういうことがあって、気をつけたほうがいいよ」といった話をしてみると、「え!実は私もこんなことが!」みたいなことになり、「被害者の会をつくろうか」という冗談が飛び出すこともありました。

声を上げることによって、恐ろしくて黙ってしまっていた人が声を上げる勇気につながったり、心につっかえていた悲しみを外に出すきっかけを与えることができるのだとわかりました。泣き寝入りしないことで、被害を未然に防ぐことができると思いました。

困ったことをする人の行動を改善できたことはあまりないのですが、ときどき、素直に聞き入れてくれて、改善に活かしてくれる人もいます。相方もそうだし、私も相方に言われて改善できたこともある。素直に聞き入れられることは聞き入れてもらい、改善に活かしてもらえれば、相手もトラブルを未然に防げるようになったり、人間関係が円滑になったり、人間的に成長できたり、といういい循環が生まれます。

困ったことをする相手に、その困った行為について批判をすると、「愛じゃない」だのなんだとの非難を受けることもありますが、相手に好き放題にさせておくことが愛ではないと思うのです。相手の人間的な成長につながることが愛であって、わがままを許し、他者の自由や尊厳を阻害させておくことが愛ではないと思います。

20160812

バカの壁と、自他の境と

高校生のときにヒットしていた養老孟司さんの『バカの壁』という新書。国語の先生に貸してもらって読んだのを記憶しています。

バカの壁 (新潮新書)
「バカの壁」ってこれか!と思うことが、大人になってから増えてきました。なかなか理解できなかったことが、思い込みを外すことで、「あ!わかった!」と、堰を切ったようにわかりはじめることがあります。そういうときに、自分の「バカの壁」を認識します。無意識レベルの思い込みに気がついて、それを手放していける感覚があります。

20160811

民主主義は至るところに。

最近、ちょっとした困りごとがあり、それを乗り越えるなかで、民主主義の勉強になったことがありました。「あ、今やっているのが民主主義なんだ」と。面倒だけど、民主主義の実践の訓練になっているんだな、という感覚を味わいました。

民主主義は、民が主、市民が主権を持っている、主人公であるという考え方。大事なことを決めるときは話し合う。人はそれぞれ個性を持っていて、考え方や思考パターン、意見が異なるというのが大前提です。一人で決めるよりも面倒です。

20160810

民主主義ってなんだ?を読む

民主主義ってなんだ?
「市民集いの丘公園」という名前の公園で、木陰のベンチに腰掛けて、『民主主義ってなんだ?』を読む。

本では、民主主義とは何かということが問い続けられている。原初の民主制は、古代ギリシャに遡る。市民が丘に集い、社会のことを真剣にみんなで語り合う。ここは「市民集いの丘」という名前だが、語り合う市民は見当たらない。ちょっと、皮肉な偶然だった。

聞こえてくるのは、蝉たちの合唱。鳥の歌声。虫の羽音。ウシガエルの大きな鳴き声。かざぐるまの回転する音。

眠くなるほど平和な時間が流れている。

本に目を戻すと、この国のこと、未来のこと、世界のこと、民主主義とはなにか、を真剣に語り合う若者たちと経験を重ねた大人がいた。

この公園に流れる平和な時間と、本の中の世界は、どちらも確かに現実だけど、身の回りの世界しか見ないで生きている限り、本の中で語られているような状況を知ることはできない。

片目は堅く閉ざしたままのナチュラリストも例外ではない。原発や化石燃料に頼らないで生きていこう、自然を汚さないように、化学物質を使わない暮らしをしよう、なるべくゴミを出さないように循環させられるものを使おう、そういう暮らしは気持ちいい。気持ちいいから、平和ぼけになりがちだ。気持ちいい世界と同時に、気持ちいい世界を侵食する動きがある。

化石燃料を大量に使い続ける社会システム。

民主制の崩壊。アメリカと大資本にコントロールされた一党独裁。

それによって生まれる増税と社会保障費の削減。

沖縄の米軍基地問題をはじめとする日本人への人権侵害。

戦争ができる国づくり。

放射能のばらまき(*)。

ワクチンによる健康被害。

安全な食べ物が手に入りにくい状況。

憲法から基本的人権が消える。

声を上げないと、どんどん蝕まれる。主権者として現実を見据え、語り合わなければ、どんどん崩れていく。もう、来るところまで来てしまっている。

個人の暮らしを楽しむことは大切なことだ。しかし、努力して見ようとしなければ見えないところで、重大な危機が起こっている。自分は大丈夫というのは幻想だ。主権者である以上、面倒くさくても、現実を見て、考え、意見を語り、他の人の意見を聞いて、社会の在り方を決めることに、参加しないといけない。そうしたほうが、望む世界をつくっていける。

自然と共にある暮らしは気持ちいいけど、隠遁して、社会に対する責任を放棄してはいけない。長い目で見れば、その気持ちいい暮らしが少しずつ切り崩されていくことになるのだから。切り崩されてからよりも、早めに行動して手を打つほうが絶対に楽だ。壊れたものを直すより、壊れる前に予防するほうが簡単だ。

「市民集いの丘」に本当に市民が集って社会のことを語り合うようになったら素晴らしい。そういう場所が日本中にあふれる日が来るだろうか。

*東電福島第一原発から海や空気に今も出続けているだけでなく、日本政府は8000ベクレル/kg以下の汚染土を全国の公共事業で利用することを決定(→詳しくはコチラ:"「8,000Bq/kg以下の除染土を公共事業で再利用」方針の矛盾と危険性(解説と資料を掲載しました)"FoEジャパン 2016年5月2日)。フランスのヴィオリア社は、廃炉需要を見込み、日本に放射性物質を運びこんで処理する方針を固めていて、「日本が世界の核のゴミ捨て場になる」という危惧する声も多い。

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20160801

ポケモンGO、いい大人が浮かれている場合だろうか

ことでんの駅に、スマートフォンを片手に歩いてぶつかりそうになっている男女のイラストに「ぐるり見てんまい!」(「まわりを見てみなさい」という意味の讃岐弁)というコピーが添えられたいわゆる「歩きスマホ」をしないように促すポスターが大きく拡大されて掲示されるようになった。近所のイオンでも館内放送で「歩きスマホ」に注意を呼びかけるアナウンスが頻繁に流れるようになった。ポケモンGOというゲームは、それほどまでに「歩きスマホ」を促進するようだ。

イオンのなかの喫茶店でPC作業をしていたら、横に座っていた女性2人が旅行の計画を立てていた。夏休みの海外旅行のようだ。片方が突然スマホを取り出した。何かを調べるのかと思ったら、なんと、ポケモンGOだった。「ポケモンGOなんてやっている人、本当にいるの?」と思っていたら、ここにいた。30代後半くらいに見えるいい年をした大人だ。「みんなやってるからさー」と言ってアプリを開いている。電波が悪かったのか、「あれ、ここ入らない!」と憤慨して、「上のマックには結構(ポケモンが)いるらしいよ」と言う。相手の女性は旅行の計画をしにきたのであって、特に興味もなさそうだが、とりあえず付き合って聞いている。しばらく電波の回復を待ちながら関係のない話をし続けた後、ポケモンGOのほうの女性は、3階のマックに行ってしまった。旅行の話をほとんどしないまま、一人残された相手の女性は一人で旅行雑誌を広げている。なんとも気の毒だった。

3階のフードコートを通ると、家族で食事にきているテーブルで、母親とみられる女性が憤慨した表情で座っている。子どもがわるさでもしているのだろうかと見てみると、食事の終わった子どもはノートを広げてシールを貼ったりして遊んでいる。問題はどうやら父親のようだ。もう40代後半くらいに見える。テーブルに置いたスマートフォンの画面にポケモンのカプセルが写っている。ポケモンGOに夢中になりすぎて、食事が進んでおらず、家族みんなが待たされているようだ。家族で会話することなく、食べ物に感謝することもなく、架空のポケモンに浮かれて食事をしている中年のオッサン。女性が呆れるのも頷ける。

新聞で読んだが、ポケモンが現れたからと夜中にたくさんの人が公園に集まって騒いだり、画面に気を取られて階段から落ちたり、事故につながったりということも現実に起こっているという。立ち入りが禁止されている場所や不適切な場所(平和を祈るための厳粛な場所など)に架空のポケモンが現れたからとユーザーがやってきて、危険につながったり、迷惑になったりということも起きているそうだ。

こんな人間を堕落させるようなゲームはなくていいと思う。自分の時間と、相手の時間、まわりの人たちの時間を大切にできない状況をつくってしまうものは害悪でしかない。架空のポケモンをつかまえて何がおもしろいのだろう? 目の前のことを着実に進めていくほうがずっと有意義だ。

目的地に行くために携帯電話を使うのではなく、携帯電話が示す場所に人間が行かされる。完全に物に使われている。物に使われて、事故に合って、ケガをしたり、ケガをさせたり、ひどい場合は死んでしまったり、死なせてしまったりする危険だって十分あると思う。技術は進化しても、人間は退化している。人間の退化もここまで来てしまったのかと嘆かわしい。

子どもならまだしも、いい年をした大人が架空のポケモンをゲットするのに夢中になっているなんて本当に情けない。それは自覚がある大人もいるようで、聞くところによれば、ポケモンGOをやっているのがバレると恥ずかしいからと、犬を飼う人が急増しているそうだ。犬の散歩をカムフラージュに、ウロウロとポケモンをゲットしに繰り出す。犬に失礼ではないか。命を何だと思っているのか。犬は10年以上生きる。うちの犬は17歳まで生きた。ポケモンGOに飽きても、犬を大切に育て続けてくれるように願っている。

オリバー・ストーン監督は、監視全体主義の一環だと警鐘を鳴らしていたが、これに加え、愚民政策の一つではないかとも思っている。アメリカと日本だけでなく、自分の短期的な損得にしか関心がなく、うまい汁を吸わせてくれる富裕層のほうばかりを見ている政府は、国民に知らせたくないことがたくさんある。知らないでいてくれれば、主権を行使することもなく、コントロールしやすいから、なるべく何も知らずに、何も考えずにいてほしいのだ。

社会のことや自分の暮らしのことを真剣に考えてもらわないほうが、彼らにとっては好都合だ。そうすれば、選挙に行かないでくれる。選挙に行っても、自分の生活を良くするため、社会をよくするためといった目的を持たずに、無批判に戦略なしに投票をしてくれる。彼らは組織票だけで勝っているので、今の投票率なら楽勝だ。「今だけ、カネだけ、自分だけ」の政治を続けることができる。主権者である国民の目を背けたい。そう思っている可能性がかなり高いと私は思っている。

例を挙げれば、参議院選挙のときだって、憲法が変わるかどうかの瀬戸際だというのに、メディアはほとんど報じなかった。選挙が終わった途端に、改憲を言い出す有様だ。NHKに至っては、週末の行事を紹介するコーナーで、7月10日について、参議院選挙の投票日を紹介せずに、「納豆の日」で終わった。国民の生活の根幹に関わるような重要なことは、すべて隠されている。TPPだって全部黒塗りだ。主権者である国民の目を背けようとしていると言っても、おかしくはない状況だとわかってもらえるのではないかと思う。

国民にはバカでいてほしいのだ。そうすれば、操りやすく、自分たちの権益のためだけに、保身のためだけに、政治を動かすことができる。ポケモンGOのようなゲームも、愚民政策の一環ではないかと思わずにはいられない。先日、たまたま目にしたポケモンGOユーザーたちは、いい大人なのに、実在である家族と友人の時間を大切にすることよりも、架空のポケモンをゲットすることに夢中になっていた。これがなければ愚かではない人間だと信じたいが、完全に愚かな人間に成り下がってしまっていた。ポケモンGOではそもそも、賢くなりようがないのでは。

賢く、心意気のあるシリアの活動家たちは、ポケモンGOの人気を逆手にとって、シリアの支援を訴えることに活用している。シリア国外のアーティストたちもこれに加わっている。
「僕を助けに来て」 ポケモンGO人気をシリアの子供支援に(BBC 2016.7.22)
スウェーデンの作家のものというこの言葉がまさに適確に異常さを指摘していると思った。
「おじいちゃん、世界がひどいことになってた2016年の夏には何をしていたの? ああ、愛する孫たち、おじいちゃんたちは電話でポケモンを探していたんだよ」
シリアだけではなく、日本もとりわけ沖縄や福島は現実としてひどいことになっているし、潜在的には日本中がひどいことになっている。憎しみの連鎖や環境問題など、世界中がひどいことになっている。この状況を変えることができるのは、この世界に生きる一人ひとりの人間であり、私たちが何をするかにかかっている。架空のモンスターに浮かれている場合だろうか?