20160322

啓蒙思想のこと。

【旧暦如月十四日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

最近訳している文章で、ヨーロッパの哲学者について調べる機会がありました。

こうした哲学者たちが当時置かれていた境遇と、私が今悩んでいることが共通している、…と言うと大げさですが、そんなふうに思えました。

当時の社会では、キリスト教の教会の教えていることが、真実とそうでないものとがごちゃごちゃに混在した状態で盲信されていました。教会という権威が言うことに、「それってちょっと違うんじゃないの?」という異論を差し挟むことは、かなりのリスクを伴うことだったようです。

それに立ち向かっていくために、勉学を積み重ね、自分の考えを理詰めで組み立て、どんな反論にも対抗できるくらいの強度を持たせて、自分の考えを形成していったのが、当時の哲学者たちだったんだなぁと思いました。

私が今悩んでいることというのは、人々が権威の言うことだからと盲信していることに、自分が「ちょっと違うんじゃないか」と気づいた場合に、それを言うと危険が伴ったり、まわりから危険人物扱いをされたりする、もしくはそれが怖くて言えない、という問題です。

権威が言うからと盲信していることというのは、例えば、放射能は怖くない、食品添加物も農薬も危険ではない、原発を動かさないと経済が不況になるといった、富裕層と政治の癒着から生まれているさまざまな神話や、日本の固定的なジェンダー観、それから、祈っていればすべて解決する、ネガティブなことはネガティブな現実を引き寄せるから言ってはならないという考え方、占いによる決め付けなど最近のスピリチュアルの思想に関するものなどです。

信じたくないことまで信じなきゃいけないと思って信じている人もいるし、真実とそうでないものがありとあらゆるものに混在して混沌としているのに、「先生がいうから」「国がいうから」「みんなそうしてるから」って、自分の頭で考えて判断する権利を譲り渡してしまうってもったいなさすぎる。だれでも考える能力が備わっているんだから、どんどん使っていかないと錆びついてしまうし、どんどん自分の行動の自由、思想の自由を奪われてしまうと思う。

啓蒙思想も、権威を盲信したり、固定観念にがんじがらめになって、蒙昧になっている自分自身の精神を解き放とう、自分の頭で考えよう、自分の心で感じよう、という思想だったんじゃないのかな、と思いました。

ブリタニカ国際百科事典の説明には、
啓蒙思想:神,理性,自然,人間に関する観念が一つの世界観に統合され,多くの賛同者を得て,芸術,哲学,政治に革命的な発展をもたらした 17~18世紀のヨーロッパの思想運動。人間の可能性は,正しい「理性」によって切り開かれるもので,そこにこそ真実の認識と人類の幸福とを得ることができるという確信に貫かれていた。
とあります。

そう考えると、人間の思考力は当時からそんなに進歩していないと感じれられて、愕然としました。当時の哲学者たち、革命を起こした人々が、自分の理性を使って考える権利を勝ち取り、後の世代にその自由を与えてくれたのに、私たちはまだ、何かを盲信したり、他人の頭で借り物の思考している。さらに状況を難しくしているのは、盲信するテーマが、キリスト教の教会の教えだけでなく、
科学、経済、スピリチュアルと、多岐に分化していること。盲信する対象が増えただけで、自分の頭で考える人間はそんなに増えていないように思います。

放射能安全キャンペーンはその筆頭ですが、まともに機能してない科学によって裏打ちされた「権威の言うこと」をまだ盲信している人たちが多いというのは、人類が進歩していない証拠なのではないかと思ってしまいます。啓蒙思想からもう3世紀も経っているこの2016年という時代に、まだこんな状況かと思うと、焦燥感を覚えます。

自分の頭を使うって、結構負荷がかかるので、筋トレと一緒で結構疲れるんですよね。インプットだけでなく、アウトプットもするとなるともっと負荷がかかる。だから、つい、惰性で、流されちゃう。自分の頭を使うのをやめて、誰か権威の言うことを信じていたほうが大多数がそうだから楽だし、お墨つきがついているから安心していられます。権威の言うことを組み合わせて説明できる自分にも、権威がついているような錯覚に陥って、自己過信に酔いしれたりもする。盲信するって、一見楽で気持ちいいことに感じられるけど、長期的に見れば、自分の頭の体力はどんどん衰えて、簡単に騙されたり、落ちぶれたりしてしまいます。

ある程度までがんばって、意識して自分の頭で考える訓練を積んでいけば、自分で自分の人生を切り開いていく力もつくし、社会をよりよい方向に導くために役立てることもできる。それはとても気持ちのよいことで、惰性で得られる刹那的な気持ちよさとは全く満足感が違います。マラソンも一定以上行くと快感になると友人が言っていたのを思い出しました。