20170126

フェイスブックをやめてみて

フェイスブックをついに退会してひと月が過ぎようとしている。さみしくなるかもという不安もあったが、思いの外、氣持ちが軽くなった。やめてみると、思っていた以上に氣持ちが疲れていたようで、しばらくは、どーっといろんなものが出ている感じがした。

フェイスブックを使い始めた頃は、東日本大震災と原発事故の後の頃で、重要な活動をしている人や団体のことをたくさん知ることができた。フォローしている人や団体から、現場の一次情報や、マスコミでは報じられない重要な真実など、衝撃的なことをたくさん知ることができて、自分で情報を取りに行って、発信することの重要性に気が付かせてもらった。

しかし、しばらく経って、フェイスブックはワイドショー化してしまったように思う。食べ物とか、お店とか、ゴシップとか、そういう大衆受けするものばかりが流れてくる。

重要な情報や真剣に考えたことを発信する人は減った。筋金入りの活動家や、鋼のココロを持っている人を除いて、柔らかい真心のある人は、何か思っても、だんだん何も書かなくなってきた。反応もしなくなっていった。

フェイスブックは邪念の強い場になった氣がする。フォローしていたある活動家(といっても一般市民)も、向けられる邪心に抵抗を感じている発言を以前からしていたが、消耗しきってしまったのか、いつのまにか退会していた。

直接会って話すときには邪氣のそれほど強くない人も、フェイスブックでは大多数の邪念にわるい部分を引き出されるのか、攻撃性が高くなったり、考慮の足りない投稿やコメントを目にすることもあり、嫌いになりかけることもたまにあった。フェイスブックを見るべきではなかったのだろうか、それとも、早く知ることができて危険回避につながったと考るべきか…。

フェイスブックは情報収集のツールだけにしようかな、と、一時は読むだけにしていたこともあったのだが、主体的に使っていないと自分が萎んでいき、他者の思惑に取り込まれるような恐怖も感じるようになった。しかし、何を書いてもわるく思う人がいるし、何も書かなくてもわるく思う人がいる―何かを知っていても疎んじられ、何かを知らなくても蔑まれ、何かポジティブなことを書けば妬まれ、ネガティブなことを書けばうざがられ、社会的な問題に意見を言えば疎まれ、口をつぐめば臆病者となじられる…ような気がする。それに近いような攻撃もあった。

「いいね」を押しても押さなくても、ネガティブな感情が必ずどこかで沸き起こっている感じがする。「私には押してくれないのにあの人には押してる」、「私は押してあげてるのに、私のには押し返してくれない」、「こういう投稿には押すのに、こういうのには押してくれないのはなぜだ」、「いいねを押している暇があったらイベントの誘いに返事をくれ」…いろんな声が聞こえてきてしまう。結局、メッセージのやりとりで使うだけになったのだが、返事をしようとたまたま開いたときに目に入るタイムラインには、知れてよかったな、と思う情報よりも、もやもやを感じることのほうが多かった。

やめる動機として一番大きかったのは、子どもの写真や動画が投稿されているのが嫌だったこと。子どもネタは「いいね」がもらいやすいのか、多くの友人・知人が投稿していた。七五三や儀式など、写真を人に見せることを前提に撮ったことが子どもにもわかるような機会の写真であればまだ理解できるが、水着姿でプール遊びをしているところや、泣きわめいているところ、何かを食べて口のまわりをぐちゃぐちゃにして変な顔になっているところなど、笑いの種にされるような写真の場合も多い。そういう写真ほど「いいね」がつきやすいから悪趣味だ。

子どもの写真を投稿することは、誘拐などの犯罪にもつながりかねないし、いじわるな人間の格好のネタにされかねないし、将来、子どもが大きくなったときに、自分の知らない多くの人が自分の幼いころの泣き顔や寝顔を知っているのは、自分が子どもの立場だったら気味が悪い。子どもの写真や動画を載せている人が自分の写真は載せない。自分が自分の顔のわかる写真を載せたくないのなら、子どもだって嫌かもしれない、という至極当たり前のことに想像力が働かない。わかりながらも「いいね」をもらいたいという承認欲求のほうが勝ってしまうのか。

犯罪などのリスクについては、前にも書き、自分のタイムラインにも何度か、子どもの写真を投稿する危険性について書かれた記事をシェアしたりして、警鐘を鳴らしてきたつもりだが、子どもネタの投稿は増える一方だった。自分が退会すれば、そうした写真を見ない人間を一人増やせる、と思った。親の無神経による子どもへの被害の程度をほんのわずかでも減らすことができると言えるのではないかと思った。

情報を抜き取ることが目的のスパムではないか、と言われているアプリにはまっている人とつながっているのも不安だった。ウソかマコトかわからない占いアプリの結果など、安全だとわかっていない不必要なアプリを使って、もしつながっている人たちにまでスパム被害が及んだらどうするつもりなんだろう。悪意はないのだろうが、何も考えずに使っている思慮分別のなさに辟易としたりもして、フェイスブックさえなければこの人のことも好きでいられたのに、と思うこともあった。

リアルでは縁の切れた人と、すでにフェイスブックでつながってしまっていると、縁が切れたのでフェイスブックでもフレンド辞めます、とは言えないもので、なんとなくどちらからもフレンドの解除をしないため、いつまでもつながり続けることになる。フェイスブックさえなければ、思い出すこともない縁の切れた人のことを、いつまでも思い出させられ続けるのは、お互いに不快な感情が出てきてよくないし、不自然な状態だと思う。思い出したくない人どうしが近況を知り続けるなんて、こんなに不毛なことはない。

フェイスブックが嫌になっている人の声もよく耳にするようになり、「もう全然見てないのよね」「メッセージだけで使ってる」という人は、まわりに流されることなくよく考えて行動している人に多いような感じがする。もちろん、フェイスブックを上手に活用しているよく考えている人もいるが。社会のさまざまなことについて考えたことや知ったことを発信するのに使ってきたつもりだが、その声が届く人は、もうとっくに変わっているし、その声が届きそうな人はもうフェイスブックをあまり見ていなかったりする。声の届かない人にいくら叫び続けても効果は薄く、消耗してしまうほうが早いような気がする。

情報を得るのも、フェイスブックでは流れてくるものが増えすぎて、消化不良になっていた。フェイスブックで情報を追うよりも、本や雑誌などをじっくりと読み、情報を精査するほうが効率が良いように思う。以前は、何も知らなかったため、どこから手をつけていいかもわからず、フェイスブックを通じてさまざまな方が発信してくれていたことが、その手がかりになった。今はだいたい当たりどころもよくわかってきたように思う。もう卒業する時期が来ていたのかもしれない。

正しい情報を得る方法も、それをもとに行動につなげる方法も、フェイスブック以外のほかの方法をいろいろと試してみたい。それに集中するためにも、フェイスブックをやめたことで時間に余裕ができたことはよかったと思う。

友人との交流についても、よくよく振り返ってみれば、フェイスブックでつながっている人よりも、つながっていなくてメールや手紙のやりとりを続けてきた人とのほうが密な交流ができていた。あんな不特定多数に丸見えのところで、表面的なやりとりしかできないのは当然のことだと思う。あまりよくわかっていない人が、二人きりで話すようなことでもコメントに書き込んでしまい、知られたくないであろうプライバシー性の高い情報が何百人もの人に公表されてしまった、というのも何回か目撃したことがある…。自分はそうなる前に退会できてよかったのかもしれない。たいした秘密もないけれど。

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