20160427

『世界』12月号掲載の「バーニー・サンダースの台頭」を読んで。市民の力はやっぱり大きい。

【旧暦弥生廿一日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

岩波書店の『世界』の2015年12月号掲載の「バーニー・サンダースの台頭」という記事を読みました。

世界 2015年 12 月号 [雑誌]

「リンカーンやルーズベルトが果たせなかった経済的正義実現の闘いを引き継ぐ米国の歴史的な文脈で語られるべき」とあり、すごい時代になってきたものだと思いました。

特に心に残ったのは、次の部分。
サンダースは、どのような複雑な問題について質問されても学校の先生のように分かりやすくすらすらと説明でき、指摘された無知や過ちから迅速に学ぶ姿勢がある
「指摘された無知や過ちから迅速に学ぶ姿勢」について、この記事の執筆者の宮前さんは、シアトルの集会で起こった出来事を実例として挙げていました。

20160426

『コンドルの血』という映画のこと

【旧暦弥生廿日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

先日、『右翼と左翼はどう違う?』という本を読んだ話を書いたのですが、その中に『コンドルの血』(1969年:ウカマウ集団)という映画のことが出てきました。

『コンドルの血』作品紹介より
インタビューで登場する方が、南米を旅していたときに知って衝撃を受けたというドキュメンタリー映画で、その内容を知って、私も驚愕しました…。

この映画は、アンデスの寒村(現在のボリビア)に、平和部隊として入ってきた北アメリカ人の医療チームが、先住民の女性たちに、強制的に不妊手術をしていたことを告発した映画。この映画をきっかけに人々は、ボリビアから北アメリカの平和部隊を追い出した、とありました。

20160425

国連・表現の自由調査官「日本の報道の自由は深刻な危機にある」。報道の自由度ランキングは72位に転落。

昨年11月に本当は来るはずだった国連の表現の自由に関する調査官の方が、ようやく来日を果たしました。政府が受け入れを拒んでいたために、なかなか来られなかったのだそうです。国際基準で日本の今のメディアの状況を見ると、どのような評価になるのでしょうか?

フリージャーナリストの田中龍作さんが現場にいながらツイッターに連投してくださっていたので、ご紹介します。臨場感たっぷりでしたし、「それって、このことを指して言っているのだろうか?」などと、読みながら、自分の頭で考える訓練にもなりました。


20160424

芸術の存在意義を改めて。

【旧暦弥生十八日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】

昨日、『右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)』を読んでの感想のようなものを書きました

「右翼」でも、「左翼」でも、団体に傾倒していって、その団体のなかで、自分の考えを構築していって磨き合って高めていくのならいいけれど、そうではなくて、その団体の考えに染まってしまう人もいます。その傾倒していく前段階には何があるのだろう。

著者の雨宮さんが、どういうふうにして右翼団体に所属するようになったのかを書かれていました。この生きづらい世の中において、自分がなぜ日本人として存在しているのか、なぜ生きているのかということに疑問を持つようになり、よりどころとなるものとして、たまたまタイミングよく、右翼の思想が現れた、という経緯だったのだと思いました。

20160423

雨宮処凛さんの「右翼と左翼はどうちがう?」を読んで 

【旧暦弥生十七日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】(2016/9/3 文末に関連記事を追加)

戦争をなくしたい、環境を守りたい、貧富の格差をなくしたい、原発をなくしたい、などと言っていると、「左翼」というカテゴリーにどうも入れられるらしいんだけど、私は自分のことを左翼だと思っていないので、どうも腑に落ちない。そもそも、「左翼とか右翼って何やねん!」と思っていたら、相方が、「図書館にこんな本あったでー」と借りてきました。

右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)

文庫版もあります。

20160422

ルサンチマンに負けるな。

【旧暦弥生十六日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】

最近、さまざまな偉人について、じっくり読む機会がありました。翻訳のお仕事でいただいた原稿で、さまざまな偉人が次から次へと出てきます。

調べないと訳せないので、ウィキペディアや百科事典などで、その人物について調べます。名前を聞いたことがある程度だった人々が、その人について調べて読んでいくうちに、だんだんと身近になってきます。

偉人というのは、同調圧力に負けずに、自分を貫き通した人なんだと思いました。同調圧力に負けないと言うと、言葉はかっこいいように聞こえるけれど、必然的に、孤独になるということです。

20160419

初対面で年齢を聞いても、関係の構築に負の結果しか生まないと思う理由

【旧暦弥生十三日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

昨日は、ところによって違いのある初対面でのコミュニケーションの始めかたについて書いたのですが、そういえば、西のほうへ移住してからというもの、初対面でいきなり、「何歳なんですか?」と年齢を聞かれることが多くて、ちょっとびっくりしています。生まれ故郷の田舎でも、東京でも、そういう場面に遭遇したことがなかったので…。「名前は聞かないのに、年は聞くんだ…」というときも結構ある。もともと地元の人だけではなく、移住の人からもたまに聞かれます。主に男性。

年齢なんて別に、知られたってどうってことないことなので、正直に答えてるんですが、聞いたほうはたいてい、「へー若いんだ~」(逆は思っていても言われないだろうが)とか、そういう感想だけで、自分は年齢を言わない。聞くことは美しいことに思えないので、聞き返しませんが、この情報ギャップ、かなーり、不公平な感じがして、いや~な感じがします。

年齢って、聞いても負の結果しか生まないと思うんですよね。

20160418

初めて会う人とのコミュニケーションのはじめかた。ところ変われば違うものです。

【旧暦弥生十ニ日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

私と相方と二人で、初対面の人と会うときの、相手のコミュニケーションのスタートの仕方は、国や地域によってかなり違いがあっておもしろいです。

イギリス出身の人と、アメリカ出身の人は、「わたしは◯◯(名前とか愛称)です。どこそこから来ました。今はここでなになにをしています。よろしく(ニッコリ)」みたいな感じでした。どちらも移住後に会った方です。

20160417

物を「嫁に出す」物が「嫁に行く」という比喩に対する違和感

【旧暦弥生十一日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

過去にも何度かジェンダーと言葉について書いてきているので、よく読んでくださっている方にはお察しの通りですが、私は、こうした表現、見聞きするたび、違和感を覚えます。

日本語の慣用表現に、大事につくった物について、「(物を)嫁に出したくない」、「(物が)お嫁に行きました。大事にしてもらうんだよ〜」などという比喩があります。

「『婿に出す』とは絶対言わないよね?」
「女は物と同じなのか?」
「女は物と同じくらい無力なのか?」
「女は自分の行き先、いや、それ以前に行くか行かないかも自分の自由意志では決められない存在なのか?」

…など、疑問が次から次へと噴出します。

物を「嫁に出す」「嫁にやる」、物が「お嫁に行く」という表現は、法律上の結婚という制度によって女性が男性の家の人間になることに、物を販売する、もしくは、無償で譲ることをなぞらえる比喩です。

以前にも書きましたが、人類最初の贈り物は、女性だったそうです。

20160416

私がこのブログでしたいこと、一言で言うとそれは個人のempowermentなのかもしれない。

【旧暦弥生十日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

このブログを書いている目的というか、意義というか。そういうものについては、旧暦大みそかに振り返ってみたのだけれど改めて考えてみたいと思いました。

相方が本格的にブログを書き始めたこともあり、内容が重ならないように、私は自然農についてや、古民家改装などの日々のこと、食べ物のことなどは、最近はあまり書かなくなっています。

というのも、共通の友人が多いので、どっちも読んでくれている(だろう)から両方で同じものを読むよりは、違う話題のほうがおもしろいだろうな、という理由が一つと、あとは、相方はおもしろくなってたくさん書き始めたらアクセス数も右肩上がりで(大体だけど一日当たりのPVは私の4-7倍くらいある)、収益化も視野に入れているので、どっちも書けるような情報はなるべく相方のほうに集約したほうがいいだろうな、というのもあります(私はというと、前にも書きましたが、あんまり本格的に収益化する自信がまだありません)。

読みにきてくださっている方々が、もし、これらにも関心を持ってくださっていて、読みたいと思っていただいているのであれば申し訳ないな、と思い、改めて各記事の閲覧件数を見てみました。ほとんど読まれてないですね(笑)。多く読まれているのは、政治や社会のことがやっぱりダントツで多く、あとは、私が人間全般や言葉について思ったり考えたりしたこと、ジェンダーのこともよく読まれているようです。

うん、なんとなくね、そう思ってました。自然に沿った暮らしのtipsなどに関心を持つ以前の壁があるだろうなぁと。個人のempowermentができてないと、そういう暮らしをしてみようかな、どうやるのか知りたいな、という気にさえなれないだろうなと思っていました。

個人のempowermentというのは、一人一人に力、powerがあるっていうことを、もう一度、思い出してもらって、使ってもらうこと、活かしてもらうこと、そういうことだと私は定義しています。言い換えるとpower to the peopleといったところでしょうか。

投票もそうだし、自分の望む選択を日々していくこともそう。そういう意味では引き寄せの法則もそうかも。大多数と違っていたって、自分の意見を言うこともそう。人と自分が違うということを認めているだけでもいい。食べ物や使うものを手づくりしていくこともそうかなぁ。働き方や機会を含めた生き方を自分でつくっていくこともそう。

個人に選択の自由があるということ、行動の自由があるということ、思考の自由があるということ、それを忘れてしまっている、あるいは無意識に手放して、なにかに委ねてしまっている人が多いように思う。だから、自分にこの世の中を、自分の生き方を創造していく力があるんだっていうことを、もう一度思い出してもらいたい。それを、個人のempowerment、self-empowermentと私は呼んでいます。

私は、このself-empowermentに役立つものを書いていきたいと思っています。選択の自由、行動の自由、思考の自由をフル活用して、望む世界をつくるためには、知ることが重要だから、世の中のいろいろなことについても書いています。知らないと、自由を手放して何かに委ねていることにすら気が付かないから。私一人の考えるプロセスを公開しているのも、自分の頭で考える人を増やしたいという気持ちもあります。

self-empowermentがまだできていない人は、たとえ、自然に沿った暮らしをしていても、自己肯定感の低さから、反抗心、虚栄心、そういったものを動機にして実践してしまう人もいる。そういう人たちは、ささいな意見の違いですぐに人を敵にするし、「サステナブル」や「スピリチュアル」の「科目」で競争を始めたりもする。健全な意見交換のを前提に調和を広げようっていう意識がなかったり、お互いに気持ちよくの心配りができなかったり。自然派の人たちにもいろいろいて、ちょっと幻滅したのもあるかなぁ。あと、自然の暮らしが長くなってきて、だんだん、こっちのほうが普通になってきて、何が珍しい(?)のかちょっとよくわからなくなってきたのもあるかも。たまにテレビを見るとびっくりしたりして、何か書きたくなったりもします。

つらつらと書きましたが、一言で言うと、このブログでやっていきたいことは個人のempowermentということかなと思います。ほんとはね、暮らしのことや畑のことなんかも、相方とは違う視点から書けたらいいのだけど。書けば書くほど書きたいことが出てきて、お伝えしたいことも山のようにあるのですが、なかなか追いついていない状況です。だからちょっと言い訳ではあるかも。時代や私自身の変遷で、またこのブログもどんどん変わっていくかとは思いますが…。

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20160207 なぜブログを書くのか

20160415

「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか。

【旧暦弥生九日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

ここのところ、頭で考えること、思考を否定する考えに対して、自分が思うことを書いてきましたが、最近思うのが、「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか、ということです。あくまでも、個人的な経験と、体感をもとにした意見ですが。

私は「思考」によって、自然とともにある暮らしをすることが、合理的であり、楽しいことであると思うようになりました。そうして、自然とともにある暮らしをするようになったら、自然からのインスピレーションのようなものを受け取ることが増えてきたように思います。「直感」も高まってきたように感じます。

「思考」をわるいことに使うのはいけないと思いますが、思考も否定せずに正しく作動させて、思考力を高めていけば、自ずと、「直感」や「感情」も感度が高まっていくような生き方にたどりつくものなのではないかと思います。

こういう暮らしをするようになってから、ふとしたときに、なんだか不思議なインスピレーションがわくことがあります。「ん? これって私が普段使っているような語彙じゃないよね?」と思う言葉が唐突に浮かんできたりします。つい最近の例ではこの前書いた「おかげさま」など。「自分に返れば、自ずと分かれ、自ずと分かる、それが自分」とか「えええー?それってどういう意味??」みたいなのもたまにあります。だれかの至らない行為に「なんでそういうことするんだろう?」と憤慨していたら、突然浮かんできた「あなたのところで終わりにしなさい」、あれも謎だったなぁ…。なんとなく引かれる方向へ行ったら、探していたものに出会えたり、会いたかった人に会えたり、おもしろいものがもらえたり、ということも。

思い描いたことが、結構現実になってしまうことが、自然とともにある暮らしをするようになって、私の体感としては多くなってきました。「石川県に住む友人に会いに行きたいな」と思っていたら、金沢旅行が当たったり、「パン屋さんができたらいいのになー」と思っていたら近所に大阪から移住してきた人が石臼挽きの自家製粉小麦のパン屋さんを開店されたり、「イオンに無印良品があれば最高なのに」と思っていたら数カ月後にイオンに無印ができたり(これはみんなも思っていたからかもしれないけど)、ミラクルが重なってびっくりすることがあります。どうしているかなぁ、と思い浮かべていた友人とばったりどこかで出会ったり。

だけど、直感を磨いている最初のうちは、それが自分の頭で捏造した「お告げ」なのか、それとも、本当に自然からのインスピレーションなのかが判断できない。たぶん。少なくとも私はそうです。インスピレーションかな?と思ったものを、自分のいい方向に役立てられるように、咀嚼して消化するのに「思考」は必要なんですよね。わるいものじゃないかどうか判断するのも「思考」です。

直感が変わってきただけでなく、感情もものすごく複雑に敏感になってきた気がします。欲望(も感情の一種か?)も、それは外部から操作されてのものなのか、自分の内側から湧いてきているものなのかが大きく違ってわかるようになったし、怒りや悲しみの感情も全身で感じるようになってきました。

それを後から「思考」をつかって分析しているから、また「感情」から学ぶし、「感情」も種類が豊かになってきたように思う。単純ではなくなってきたように思います。本来の感受性が研ぎ澄まされてきた感じで、たまに人と会うのが続くとつらかったりもする。そういう揺り戻しが起こっていて、これを乗り越えたらまたもっと人間的に成長できるのかなぁと、「思考」している自分がいます。

感情をもとに、直感をもとに思考して、思考をもとに行動を変えていったら、感情も直感も磨かれているような気がします。よく、スピリチュアル系の人は、「頭で考えるのをやめなさい。そうすれば直感とつながれる」と言ったりしますが、私の体感としてはむしろ逆で、頭(理性?)を使って考えて、行動をよりよくしていくことで、感情が豊かになり、直感も冴えてきたように思います。

頭も心も否定しないでほしいと思います。両方持って生まれた人間なのですから、バランスよく使っていけばいいと思います。

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20160413 「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話
20160412 「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

20160413

「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。

【旧暦弥生七日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

おととい昨日と「思考」を否定する言説について思うことを書いていて、かつて、私も「頭で考えるの、やめよう」と思ったことがあったことを思い出しました。

パパラギ」という本を読んだときに、「考えるという重い病気」という一節がありました。
パパラギ (SB文庫)

20160412

「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

【旧暦弥生六日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

昨日、"「頭で考えるな」という批判について。"というタイトルの記事を書きました。「頭で考える」ことを全否定するのではなくて、頭と心をバランスよく使うのが大切なのではないか、ということについて書いたものです。

これについて相方と話していたら、相方は、

「頭か心かではなく、心は頭の土台。どちらもよくなければならない。あるいは、直感はエンジン、感情と思考は車の両輪に例えることができる」

と言っていました。直感をきっかけにして、感情と思考を使って意見や行動を構築していく、ということだそうです。どちらが欠けても前に進むことができない。

頭で考えるのがわるいのではなくて、思考を何に使うかが大切なこと。思考はわるいことを遂行するのにも使えてしまうので、心を鍛錬することも非常に重要です。心を鍛錬しておけば、思考をいいことを遂行するために使うことができるからです。

「頭で考えるな」という人は、「心に従え」と言います。「心に従う」というのは、「直感に従いなさい」「考えるんじゃない、感じるんだ」という言葉で言われることもあります。つまり、直感や感情を道標にするということだと思います。

しかし、そういった人たちは、多くの場合、「直感」も「感情」も使いこなせているわけではないように感じます。だれかの言説を「頭で考えて」鵜呑みにしているだけだったりします。

「直感に従え」「考えるんじゃない、感じるんだ」と言う人も、結局はそれを頭で考えて命令しているだけだというのは、なんだか皮肉なことに私には思えます。「頭で考えるな」と言う人のなかで、直感と感情が使いこなせているのではないかと思う人にはまず会ったことがありません。

せめて、「思考」をやりきってからその境地に達しているのならばまだ納得ができるのですが、思考の放棄や、思考を中途半端にしていることの正当化に「直感と感情のみに頼ること」を使っているように感じます。「現実を直視しない言い訳にしないでほしい」、「考えない言い訳なのでは?」、と言いたくなることもあります。

結局のところ、現状では、「直感」だけで「神さま」や"something great"と呼ばれるものとつながって、人生を歩んでいける人ではないのだから、「思考」を頼りにするほかないんじゃないだろうか。チャネラーを名乗る人にも怪しい人もいるし…。「思考」を全否定してると、そういう怪しいスピ系の人に騙されたりもするし、世の中の望ましくない動きを止めることもできなければ、自分が望む方向に動かすこともできません。

心も鍛えつつ、思考力を高めることもやっていったらいいと思います。どちらかが優れば、どちらかが減るものでもないんですから。頭を使わない惰性の正当化のために、「頭で考えるな」と批判してくる人の言うことなんか、気にしなくていいと思う。もちろん、わるいことを遂行したり、人をだましたりするのに、思考力を高めることはよくないと思いますが…。「思考」がわるいんじゃなくて、それをどう使うかに問題があるんだと思います。

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20160411 「頭で考えるな」という批判について。

20160411

「頭で考えるな」という批判について。

【旧暦弥生五日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

論理や科学の行き過ぎからか、「頭で考えるな」という批判をよく耳にするようになりました。直感や感情を置き去りにしてきたことへの反動だと思います。

しかし最近は、その「頭で考えるな」という批判が行き過ぎて、思考を全否定するようなことを言われることも、私の体感として増えてきました。スピリチュアル系の人たちにも多いし、自然系、とりわけ発酵好きの人たちにも多いです。

具体例を挙げれば、「大脳を使うと直感が鈍る」というスピリチュアル系の人たちがいましたが、根拠が定かではありません。発酵好きの人たちの中には、「腸で考える」ということを合言葉のように言う人たちがいます。私にはその「腸で考える」という感覚が理解できないし、感じとることもできません(腸内細菌の働きを模範に、社会のなかにいる一人一人の役割や、動きを「頭で考える」というのだったら理解できるのですが)。

権力側や、99%の市民から富を吸い上げている1%の富裕層たちは、考えない人を増やしたほうが好都合でしょう。考える人や思考力の高い人が増えると困る。何も考えずに、マインドコントロールしやすい人たちが増えたほうが、自分たちの望むように世の中を動かしやすいからです。

「頭で考えるな」と言う人たちは、こういう勢力にうまく使われてしまっているように感じます。直感がすこぶる優れている人が増えていれば話は違ってきますが、現状は、直感も感情も育たないまま、考えない人間が増えているだけのように私には思えます。

こうした批判が頭を使わない考えない人間を増やすことにつながっているのではないかという危惧を感じています。直感や感情がなおざりにされるのがよくないということには同意見ですが、論理や思考を全否定することなく、頭も心もバランスよく使えばいいと思います。

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20160410

防御や反論よりも、正しい情報をわかりやすく伝えていくほうが効果が高いのかも、と思った話。

【旧暦弥生四日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

「右翼」とか、「左翼」とか言う呼び方は、曖昧すぎて本当に嫌いなレッテル語なんですが、いわゆる「右翼」と呼ばれる人々の考え方や主張も知っておいたほうがいいのかも、と思うことがあります。そうしないと、議論ができないから。

どういう考え方から、駐日アメリカ軍基地をよしとしているのか、日本の軍国化をよしとしているのか、原発にも賛成(これは原爆をつくる材料が持てるからなんだろうけど)、慰安婦の問題をないことにしようとするのはなぜなのか、韓国の人や中国の人を敵視してヘイトスピーチまでしてしまうのはなぜなのか。

そういうことがわかったら、事実として違うものは違うと話せば、事実をきちんと知れば、考えを改めてくれるんじゃないか。そう思って、「右翼」と呼ばれる人たちが信じこんでいそうな人たちの本も読んでみないとダメかなーと思っていました。

でも、どれも手にとる気になれないのです。まず、著者の顔の写真を見ただけで、ちょっと引いてしまう…。写真が載っていないものを手にとってみるものの、文章の攻撃性にさらっとパラパラしただけで、読み続ける気になれない。

たまたま目に入った数行に、論理が破綻しているものもある。全部の情報を調査したわけではないですが、ぱっと見たところ、私が知っている事実からすれば、嘘八百としか思えないようなことが書かれている部分もある。

とてもじゃないけど、身銭を切ってまで読む気になれないのです。「お金で投票する」という考え方では、「お金を払う」ということは、それを支持するということでもあるので、それを支持することは私はしたくない。

でも、彼らの意見も、聞いてみないことには、事実認識の相違があるところを正していけないし、どうしたらいいのかなぁ、と、ずーっと右往左往してきたんですが、ふと、思ったのです。

日本の軍国化が好きな人たち、隣人をヘイトする人たちを説得するよりも、まだ政治や社会のことに関心がない人たちに、正しい情報を伝えていくほうが、ずっとインパクトが大きいのではないかと。

私も数年前までは、社会のことに全く無頓着な人でした。大学時代に、「選挙行ったことない人?」と先生に聞かれて、手を上げて怒られた話を昔書いた通り、英語にしか興味のない「英語バカ」でした。英語は言語=伝えるツールでしかないんだから、英語ができたって、伝えるべき中身がなかったら全く意味がないのに、そんなことにさえ気がついていなくて、社会のことを広く考えるという姿勢がなかった。

そんな自分が、3.11の震災以降、世界で起こっていることに関心を持つようになって、まったく白紙の状態から、環境と平和を守る方向に、考えが動きました。

戦争好きで大企業寄りの人たちのものも、環境や平和を愛し、弱者を守りたいという市民寄りのものも、両方あったはずで、どちらかと言えば、大企業寄りの人たちの声のほうがずっと大きかったと思うんだけど、自分で情報をとりにいって比較して考えるようになって、こっちが本当だと思う、と思ったのは、環境や平和を愛する市民よりの人たちの声でした。

日本の投票率の低さから考えても、権力には抵抗できないと無気力になっている人々や、かつての私のような無関心な人々はまだまだ多い。無関心な良心的な人々に、正しい情報を伝えていけば、知りさえすれば行動を起こす人も増えてくるのではないかと思います。無関心な良心的な人々のほうが、いわゆる「右翼」の情報を信じこんでいる人々よりもずっと多いのではないかと思うので、きっと、正しい情報を広く発信していくほうが効果が高いのではと思いました。

政治状況が最悪ななかで、もう残された時間は少ないのかもしれない。効果の高いところから時間を使っていくほうが賢明だと思うので、「右翼」と呼ばれる人々が信じている言説を精査するのはやめることにしました。正しい情報をきちんと整理して伝えていくだけでも、今の私にはまだまだ時間のかかることなので。正しいかどうかを判断するというよりもは、まだ、「このことについては、自分はまだ何もわかっていないんじゃないか?」というところから情報集めをするので(背景知識がまだまだ追いついていないから)、とても時間がかかります。反対意見に反論したり、それに対して自分の意見を防御する用意をしていくことよりも、無関心な人たちに、正しい(と私が思う)情報をわかりやすく伝えていくことに力点をおいたほうが効果的だというのが、今のところの結論です。

20160408

いっぱい本を出しているからって、正しいことを言っているとは限らない。

【旧暦弥生二日 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

本屋さんに久しぶりに行ったら、一瞬、「戦前?」と思うような雑誌コーナーに出くわしました。日本刀が表紙にずらりと並んだムック、国粋主義的な雑誌、戦争にロマンを感じるような雰囲気の表紙の雑誌、などなどが並んでいて、ちょっとぞわーっとしました。普通の本屋さんです。

おんなじ人が、いっぱい本を出していて、いっぱい平積みになっているのもぞっとしました。

ぱっとみた感じ、陳列台1台の5~8割を1人で占領していたのは、池上彰さん(「週刊こどもニュース」でおなじみのジャーナリストさん)、竹田恒泰氏(この時代錯誤のツイートで初めて名前を知った→)、ケント・ギルバート氏(基地反対市民が日当2万円の給与をもらっているという根も葉もないデマを拡散しているタレント→参照)など。

いっぱい本出してるとすごい人なんだーと思って、信じてしまう人って結構いるのでは。池上さんのようにいい本を出されている方ももちろんいるんですが、たくさん本を出しているからと言って、その著者の言うことが必ずしも的を得ている、正確である、とは限りません。出版業界もとりあえず売れそうな人に声をかけてガンガン出させる、っていう感じになっているとも聞きます(ちきりんさんとか→)。

従って、いっぱい本を出しているからといって、まともな内容を書いているというわけではありません。嘘でもデフォルメでもなんでもいいから過激なことを言う、すると読者が快感を覚えていっぱい買ってくれるっていう人もいるし。「いっぱい本を書いているこの人が言っているから」と信じるのではなくて、内容一つ一つの真偽を確かめて、主張を下支えしている事例が正しいかどうかを検証する必要がある。そのためには、多様な人の意見を聞くことが重要で、人によって事実の認識に差異がある部分は、検証の余地があるということ。どっちの言っていることが正しいかどうかが一目瞭然なこともあります。

一部の人たちの声が大きくなるのは、本当に危険だと思います。多様な意見ではなくて、一部の人が棚を占領している。ぱっと目に入る円内、同じ顔。棚がジャックされてる感じ。多様な意見を比較検討することが大切なのに、同じ人の主張が本屋さんの多くの面積を占めているのは危険なのではないかと思いました。

今はまだ読者の思考力、判断力の水準が全体として低いために、嘘八百の本や論理が破綻している本など、おかしな本でも売れてしまって、いっぱい出せてしまう、という現象が起こっているのではないかと思います。読者のほうが賢くなって、情報の真偽が判断できるようになれば、「いっぱい本を出している人」=「すごい人」になるはず。みんな本当はきっといい頭を持っているんだから、使わなきゃ。自分の頭で考える人を増やしたいです。

20160407

私はこうしたい、ってはっきり言うのは大事かも。フェイスブックの利用方針を投稿したらすっきりしました。

【旧暦弥生朔 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

少し前に、フェイスブックが嫌になってきた話を何本か書いて、やめようかどうか悩んだりもしていたんですが、自分なりの利用方針をはっきり書いて投稿したら、なんだかすっきりしました。

自分はこういうふうに使うというのをはっきりさせておくのは、モノと人の主従関係が逆転しがちなこのご時世、結構大事なことなのかもと思いました。私はこれが嫌、こうしてもらいたい、とはっきり言っておけば、声が上げられない多数の人たちの代弁というか、「あ、これ、私は気にならないけど、気になる人もいるかもな」と、ちょっと考えてみてくれる人が増えるかもしれません。

何を書いたかと言うと、私の顔がはっきりわかる写真を無断で不特定多数に投稿しないでもらいたいこと、外部サイトからシェア機能などを使って投稿しているけど、本体のページはあんまり見ていないことなどを書きました。

写真の投稿は、たぶん、親切心でしてくれている人もいると思います。集合写真をメールでデータ添付するような感覚なのかもしれない(過去に、私が写っていた写真を無断で、営業目的も兼ねて投稿していた人もいたので、親切心でしている人ばかりではないんだけど)。それが不特定多数に公開されていることについて、考えが至っていないだけで、悪気はない。でも、嫌なものは嫌だって言っていいと思うんですよね。なるべく配慮は必要だと思うんですが。

相手も嫌な思いをさせようと思ってしているわけでなく、親切心でだと思うので、相手が喜ぶことをしたいと思ってくれている人がほとんどでしょうから、「私はこういうことはあまり好きじゃなくて、こういうのは好きです」ってはっきりしておいたほうが、お互いにハッピーなんじゃないかと思います。

たとえば、立場を逆にして考えてみると、私は相手を喜ばせたくて、みんなの前で相手にお酒をプレゼントしているんだけど、相手は実はお酒が好きじゃなかったとする。相手は何も感想を言わないんだけど、私はまたお酒をプレゼントし続ける。相手は内心、困っているかもしれない。みんなの前でお酒をプレゼントするもんだから、勝手にまわりが「あの人、酒豪なんだって!」と言い出して、私は相手に、自分の知らないところで、迷惑かけてしまうかもしれない。それなのに、お酒をプレゼントし続けるのは、私にとってもハッピーなことじゃない。相手が本当にしてもらいたいことをしたいと思う。

FB本体のタイムラインをあんまり見ていないことについて書いたのは、私の投稿に「いいね」を押してくれているのに、押してくれている人たちの投稿をあんまり見れていなくて「いいね」を押しにいけていないのが申し訳なく感じていたからです。

ときどき、「どうしているかなぁ?」と見せてもらいに行っているんですが、リアルタイムで最新情報は追っていなくて、時間と心に余裕があるときだけなので、「いいね」を押したいのがあっても、だいぶ時間が開きすぎていて、「今頃見に来たの?恐っ!」と思われそうでちょっと押せないのです。

ツイッターだと、気になる人のページに飛んで、一覧で投稿を見せてもらうのは、ブログを見に行っている感じと変わらないというか、そんなに気まずい感じがしないんだけど、フェイスブックのプロフィールページでタイムラインを見せてもらうのは、勝手に相手の部屋におじゃまして、アルバムとか日記をパラパラ見ているような感覚で、なんだか気まずい感じがするのはなぜなのだろう…。

FB本体のタイムラインは、前も書いたんですが、ちょっと苦手です。いろんな人が、いろんな場所にいて、いろんな気分で投稿したものが、一気に目の前に並ぶから、頭がごった煮状態になります。一人は動物園に行き、一人はデモへ行き、また別な人はステーキを食べ、また別な人はケーキを食べ、また別な人は温泉へ行き、また別な人は重大なニュースに危機感を募らせていて、また別な人は自分の子どもの写真を投稿している…。こんなのがずらーっとタイムラインにごちゃまぜに並んだら、すごく気持ちが混乱する。私が関心を引かれるのは、今挙げたような例のなかでだったら、デモや重大なニュースだけど、他の人のも見ないのは差をつけてしまって申し訳ないような感じになる。かと言って、順番に見ていくと、感情が両極に振れまくってとてもおかしな状態になる。

それに、「いいね」を押すことではほかのリスクも感じます。たとえば、仕事がまだできていないのに「いいね」を押したのを仕事関係の人に発見されたら気まずかったり、お誘いをもらっているけどまだじっくり読む時間が取れなくて保留しているものがあるのに、お誘いをくれた人に他の人のものへ「いいね」を押しているのがわかられると、お誘いをくれた人が不愉快を感じるんじゃないかと思ったり、tom-tomはAさんには「いいね」を押しているのに、自分には押してくれないとか思う人も出てくるんじゃないかと思うと、結局、全部「いいね」を押さなくちゃいけなくなったり、でも私にも信条があるから「いいね」が押せないものもあるんだけど(化学物質とか社会毒を摂取している投稿には「いいね」は押せないとか)、それを「tom-tomは自分の何が気に入らないんだ!」とか思う人もいるんじゃないか…とか、いろいろ考えてしまって、苦しくなる。はー、いいねってホント難しいものですね…。考えすぎねって言われますけども…。

フェイスブック自体がなんか苦手なんですよね。国会中継みたいな感じというか…。私の発言や質疑応答がすべて、いろいろな関係性の人たちに公開されていて、リアルタイムで見ている人がいるかもしれないというのも、なーんか、落ち着かない。個人に関する情報は、この人は大丈夫、と思う人には伝えているけど、この人はまだちょっとよくわからないと思う人には、まだ伝えていない部分や、見せていない面もある。それが全部公開されちゃう。検索がしにくいのも国会中継に似ていて、たまたま目に入った一部の投稿で、私のイメージが決まってしまう。逆も然りで、私がたまたま目にした相手の投稿や質疑応答で、その人のイメージができてきてしまうのも恐いなぁと思う。直接会っているときは全然嫌な感じがしないのに、むしろ大好きなのに、直接会うときと、フェイスブック上のキャラが一致しなくてその違和感に苦しくなったり。だから、なるべく見ないようになりました…。そういえば、相方は、「親類から一回会っただけの人まで、いろんな関係性の人たちがみんな参加している飲み会」、「だれにでも個展スペースが与えられていて、それが一挙に集まっている出入り自由の展覧会」と例えたことがあったなぁ。

もともとそんなに社交が得意じゃないし、リアルでのコミュニケーションで大満足です。みんなが見ているところでのコミュニケーションって、やっぱり浅くなるけど、手紙とかメールとか、直接会って話したりとかだと、もっと濃いコミュニケーションができる。それに、なあーんか、フェイスブックでアップデートを追っていると、直接会ったときに、近況を話さなかったりもする。「投稿もしたんだけど」と前置きされた上で話されたりとか、「(投稿を)見てないの?」と言われたことも…。

「私はこうやって使う方針です」とはっきりさせたら、だいぶ気が楽になりました。私はこうしたい、ってちゃんと声を上げるのって、結構大事なことかもしれないなと思いました。



20160405

全部わかってから何か言おうというのでは手遅れになる。

【旧暦如月廿八日 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

先日、「社会のことを考えるのに、どうして専門家である必要があるの? モノ言う凡人で何がわるいの?」というタイトルの記事を書きました。

私は何でもすべてをわかっているわけではありません。いずれは、全部わかるようになって、何を聞かれてもぱっと答えられるようになりたいと思っていますが、いろいろな問題に気がついたのはつい数年前のことですから、まだまだ勉強の途中です。こんなに変化が激しく、情報が溢れている時代にあって、すべてを知るなんて、死ぬまでにもできるのか定かではありません。

ちょっと前までは、全部わからないと意見を言ってはいけないような気がしていました。でも、それでは間に合わないと思うようになりました。今、わかっている範囲で、「これっておかしくない?」って、わかっている範囲で、最善の解決策を考えて、提示していかないと、間に合わないのではないでしょうか。

それに、隅から隅まで全部わかっていなくたって、今ある情報を考え合わせた結果、私はこう思う、というのを明らかにしていれば、もっと情報を持っている人が、補足してくれたり、私の詰めの甘いところを明白にしてくれたりして、解決策の提示をより早く、よりよいものにしていくことができます。

今の世の中、「なんか変だよね?」と思っている人はきっと結構いるのではないかと思います。でも、まだ全部はわからないから何も言わない。そういうことでは、結局、確信犯で騙そうとしている人たちに、流されてしまう人が多くなってしまうだけで、何も変わっていかないと思います。

わかるまで何も言わないでいたら、どんどん私の望まない方向に、この世界は突き進んでしまう。

数年前、消費税が増税されるかもしれない、という話が出てきたとき、知人と消費税増税の話題になり、私が「法人税はどんどん下がっているのに、消費税を上げるというのはどうなんだろう?税金は富の再配分のためにあるのに」と言うと、知人は、「法人税を上げてしまったら、海外に企業が逃げてしまって、職がなくなるから困る」と言いました。

私はそのとき、
「もうすでに生産拠点は海外にどんどん出て行っているよね? 法人税下がっても生産拠点は海外から日本には戻ってきてないよね?」

「法人税って本社がある場所でどこの国の税制に従って支払うかが決まるんじゃないの? 本社が海外に移転する日本企業って出てくるんだろうか?」

「カネがあって外国に逃げていける大企業には税金を高くできなくて、カネがないから逃げられない国民には消費税を上げていいって、道理があるんだろうか?」

「企業の内部留保は増えているっていうし、企業は税金もうちょっと払えるんじゃないの? なんで生活の苦しい人からとる税金を上げないといけないの?」

「企業は税金を節約して、貯めて、どうするんだろう? 雇用も増やしてないよね? 企業って何のために存在しているんだろう?」

など、いろいろな疑問を持ちました。

当時、確かに、大手メディアでは知人の発言にあるような論調が時折見られていました。法人税を上げると、国内産業の空洞化が起こり、雇用が危うくなる、と。

私は、まだそのとき、すべてをわかっていないから物を言ってはいけないんじゃないかと思って、これらの疑問を飲み込んでしまいました。

でも、今思えば、聞いてみればよかったと思うんです。もしかしたら、知人は、メディアに疑問を持ったり、自分でももう少し調べてみようかな、考えてみようかな、と思ったりしたかもしれません。

そういう人が増えたら、選挙に行く人も増えるだろうし、自分で考える人も増えると思います。

仮に、私が全部わかって、何を聞かれても怖くない状態になってから意見を言うようになったとして、私に噛みつかれるのが怖くて、私が気に入りそうな意見を持つ人が増えても、最終的な解決にはならないと思います。そういう人たちは、自分で考えて決めているのではなくて、簡単にすごそうな人の意見に流されてしまうので、すごく不安定だからです。

自分で常に考えて決めていく人を増やさないことには、この世の中は根本的には変えられないと思います。今井絵理子さんの会見を読んでも思いましたが、まわりの意見に流されるのではなく、まわりの意見を参考にしながら、自分の頭でよく考えることができなければ、戦争反対が戦争賛成に簡単にすりかわってしまうのです(ちなみに、今井さんが、人柄に感銘を受けて自民党からの立候補を決意したという山東昭子さんという方は、甘利明経済再生担当相の金銭授受疑惑を告発したメディアを「ゲスの極み」と呼んだお方です)。今井さんは、昨年の夏には安保法案に反対するような発言をツイッターでされていたので、まさか、国民の反対を無視して安保法案を強行採決し、平和憲法の解釈改憲もゴリ押しして、アメリカと戦争ができる国に日本を変えようとしている自民党からの立候補を決めてしまうなんて、初めて聞いたときは何かの間違いなんじゃないかと思いました。本当に悲しい驚きでした。

私は、私が言うことをまるごと信じてほしいというのではなくて、私の意見をきっかけにして、自分の頭で考える人が増えてほしいと願っています。まだ勉強途中の私の意見を読んで、まだ考えの足りないところを見抜いて、さらにそこからご自身で考えて、ご自身の意見を形成して、私にも共有してもらえたらいいなぁと思います(攻撃は何も生まないので、ケンカは売られても買いませんが…)。

仮に、私が何もかも知ったとしても、人間であることには変わりがないので、間違うことだってあると思います。そういうときに、私の意見に染まるのではなくて、それぞれ多様な意見を持っている人がいてくれれば、ひどい誤りを犯さずにすむと思います。

わからなくても、今持っている材料のなかで、ベストだと思える答えを出していくのが大事なことだと思っています。全部わかってから、と思っていると、手遅れになります。だって、憲法の根本をわかっていない安倍首相が憲法に手をつけようとしているんですからね…。そして、そうやって今あるなかでベストと思える答えを出していれば、自ずと、足りないデータなり、事実なりがはっきりしてきます。そうして明らかになった、足りないものを補っていく、さらに勉強を重ねていく、その積み重ねで、自分の思考力も、世の中も、だんだんと良くなっていくのだと思います。


20160402

社会のことを考えるのに、どうして専門家である必要があるの? モノ言う凡人で何がわるいの?

【旧暦如月廿五日 春分 末候 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】

政治のことや社会のことについて関心を持って、本やドキュメンタリー作品、ウェブなどで情報を集めたり、何が起こっているのかを伝えたり、意見を持ったり、どうしたらいいのかを考えたり、提案したりしていると、よく言われるのが、「政治家になれば?」「ジャーナリストにでもなれば?」「ルポライターになれば?」など。

SEALDs KANSAIの大澤茉実さんのスピーチの書き起こし(何度読んでも涙が出る)に、大澤さんも「政治家にならんの?」と言われるとありました。それに対して大澤さんは次のように考えを語られています。
私は政治家になんかなりたくない。

でも国会で寝ている議員よりも、ずっと真剣に政治のことを考えている自信があります。

それは、かなえたい夢と、生きていきたい未来があるからです。

毎日、命を懸命に生きているからです。

そして、そのささやかな夢や、生活や命を守るのも、殺すのも、まぎれもなく政治だからです。

おしどりマコケンポータル 2015-09-19「やべ~勢いですげー盛り上がるデモクラシー」
ほんとにその通りだと思う。政治次第で、自分のやりたいことの実現のしやすさがぜんぜん違ってきます。

私に「政治家になれば?」「ジャーナリストやんないの?」などとおっしゃる方には、中には純粋に期待しておっしゃってくれる方もいるのですが、冷やかしというか、裏には「凡人のくせに。専門家にまかせておけよ」っていう思いを持っておっしゃる方もいます。

専門家に任せていたら、こんな時代になりました。

貧困が広がり、原発は爆発して汚染が続き、アメリカと一緒に戦争をできる国づくりに向けてまっしぐら、沖縄の人々に対する人権侵害、挙げればキリがありませんが、政治状況を見ると、ため息しか出ません。

凡人が社会のことに関心をもって何が悪いのでしょう? 民主主義って、国民が主権者なんだから、ふつうの人がみんな主権者なんです。主権者っていうことは、主権がある、つまり、権利がある。権利があるっていうことは、責任もある。

世の中のことについて常に関心を持って、何を実現したいのかをよく考えて、それをどうやって実現していくのかをよく考えて、意見を持ち、投票や働きかけなどの具体的な行動に移したり、発信したりすることは、ふつうの人がなにも専門家にならなくたって、ふつうの人のままでやっていいことだし、それは、むしろ責務なんじゃないかと私は思います。

ふつうの人が専門家くらい知識があったっておかしくないと思うんです。真剣に政治のことを考えてもおかしくないと思うんです。それを、お金をもらっているかいないかで、お金をもらって職業としてやっている人を「専門家」と呼び、もらっていない人を「専門家ぶってるバカなヤツ」って見下げるのも、本質で人を見ることができない人のすることだと思う。

職業としてやっている人たちは、ともすれば、お金をもらっているクライアントの耳の痛いことは言えなくなったり、恩義があるからと目がくもってしまったり、ということもあると思います。真実を知りたい一心で、情報収集や発信をしている「専門家くらい知識が豊富なふつうの人」が増えたら、世の中はぐんと変わるんじゃないのかなぁ。

それとも、本当は主権者である国民ならだれでもやって然るべきことだっていう認識が薄々あるけど、自分はやれていない後ろめたさからそういうことを言ってくるんでしょうか。やりたかったらやればいいし、やりたくないんだったら、あるいは、やれない事情があるんだったら、やっている人の足をひっぱったり、気持ちを落とすようなことを言うんじゃなくて、むしろ応援したほうがいいんじゃないのかなぁ。

そんなことを言う人たちに、たまに折れそうになるけど、そんなことでめげていたら、世の中は変わらない。凹んだりもするけど、何度でも立ち上がろうと思うし、凹んで立ち上がるたびに強くなれる気がする。そう思ったら、嫌なこと言ってくる人も、ちょっとはありがたく思えるかもしれない。

どうせいつか死ぬんだから、そんなことでびびって、権力におとなしく服従して、おとなしくニコニコして、何もわかっていない「ふつうの人」を演じるより、次の世代によりよい地球を残すために、もっと生きやすい世の中を残すために、傷ついても、やれることはやって死んでいきたい。世の中が変わるのには時間がかかるから、すぐに死んじゃったりするようなやり方ではいけないけど、しぶとく長く生きて、世の中をよりよくしていくための行動をより長くできるように、知恵と工夫が必要だとも思います。そもそも、世の中を自分次第で変えられるって思ったら、まだやれることはあるって思ったら、黙って服従してるより、ずっと生きるのが楽しいんです。

よく、個人にできることは限られているから、大きいところにはもっとがんばってもらいたい、っていうような発言を目にします。大きいところの影響は大きいかもしれないけど、大きいところに動いてもらうために、自分にも何かできることはある。他人任せの姿勢じゃなくて、それを実現するには「どんなやり方があるだろう?」「自分には何ができるんだろう?」って、一歩も二歩も踏み込んで、考え抜いてみたほうが、あきらめるよりずっとおもしろいです。

それに、「がんばって」ってどうがんばっていいかわかんないし、がんばりたいけどがんばれない事情もあるのかもしれない。何を期待しているのか、それを実現するためには何が必要なのか、もう少し考えてみると、希望が湧いてきたりもします。ほかの人とディスカッションしたら、いいアイデアが生まれたりもします。初めて関心を持ってくれる人もいます。知らないだけで、知ったらできることはしたいっていう善良な人は結構多いんじゃないのかなぁと思います。ふつうの人が声を上げたら、世の中は大きく変わると私は思います。

最後に、野党5党が共同で提出した「保育士の給料を月5万円上げる」法案(正式名称は「保育士等処遇改善法案」)の筆頭提出者の山尾しおりさんの言葉を紹介します。山尾さんは、法案提出時に、議員会館で野党議員の帰りを待っていた母親や保育士たちに次のように語りました。
「ふつうの人が声をあげれば政治が動く」。山尾議員は、待機児童を抱える父母たちの悲鳴が世論を動かしたことを称えた。(田中龍作ジャーナル2016年3月24日「「日本死ね」から1ヵ月 保育士給与5万円UP法案、提出」
私はこれからも「ただの人」として、モノ言う凡人として、世の中のことをよく見て、勉強して、個人が自分らしく人間らしく生きられる、すべての生き物たちが平和に暮らせる地球を創るにはどうしたらいいのか、考え続けていきたいと思っています。それには専門家や職業人になる必要など、私には全く感じられないのです。

20160401

バーニー・サンダースさんの演説中に野生の小鳥が演台に。ほほえましい映像。

【旧暦如月廿四日 春分 末候 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】

アメリカの大統領選挙に立候補しているバーニー・サンダースさんのことを以前にも書きましたが、先日、ツイッターを見ていたら、とてもかわいらしい映像が飛び込んできました。

サンダースさんがオレゴン州ポートランドで開かれた支持者との集会で演説していると、小さな鳥さんが演台に飛んできました。鳥さんがきょとんとしてサンダースさんを見つめているのが微笑ましかったです。小さな鳥は警戒心が強いので、こんなに人のそばに寄ってくることはあまりないように思います。弱い者を守りたいという思いや優しさを、野生の鳥は感じとっているのかもしれません。