先日、会話を訳す機会があり、女性の話し言葉の訳で苦労しました。最終的な納品先の業種上から判断して、たぶん、訳を見ただけで女性だとわかるようにしてほしい(「~するわ」みたいな、映画の字幕っぽい訳にしてほしい)のだと思われましたが、でも、今時、「~だわ」「~なの」「~のよ」「~かしら」なんて、古めかしい女性言葉を使う女の人はいない。昔もたぶんそんな女性はいなかった。
この論文によると、この女言葉には明治政府によるこういう押し付けがあったようです。
この女らしさを表す言葉、すなわち「女ことば」は、明治時代(1868-1912)に「教養ある東京人の言葉」を基準とした標準語を規定した時に、その亜流として構築された(中村, 2007: 35, 43-45)。明治政府は男女の役割を明確にする必要があったため、共学を禁じる法律が 1878年には制定され、女子学生はどのようにふるまい、話すべきかを教えられた。女子学生教育とは…〈中略〉…工業化を推し進める国家の戦力となる夫を支える妻— 有能で主人や父親に対して謙虚で従順、品行方正、貞節を守り、質素で節約に努める主婦— を養成するためのものだった(Nolte and Hastings, 1991:152,158; Inoue, 1994: 324)。換言すれば、社会が理想とする女性の養成と女ことばの構築は深く関わっていたのだ。(女ことばに起因する翻訳の問題 Translation Problems Caused by Women’s Language 古川弘子氏(東北学院大学・文学部英文学科講師))より )男は国家の道具、女は男の道具かぁ…。男も女も、自分の人生を生きたいように生きたらいいと思う。国家の戦力になんかならずに。今の時代に、まだこんな封建的なものを忠実に守っている翻訳の女言葉ってなんなんやろ…。
ちなみに、この論文で引用されている本は、こちらのことのよう。
翻訳がつくる日本語―ヒロインは「女ことば」を話し続ける |
いくらクライアントが望むにしても(私の推測であって直接命令されたわけではない)、なよなよした架空の女言葉を語らせるのではなくて、私の訳では男女が対等に協力関係を築いているところを描きたいと思いました。そういうわけで、中性的な訳に気をつけたのですが、かなり語尾で悩みまくりでした。
こんだけ苦労するということは、普段見聞きしている女性の会話の翻訳がどれだけ古めかしい「オンナことば」だったかを物語っていると思いました。
今住んでいる地域では、飲食店でテレビがついていることが多く、ラーメン屋さんに入ったときに、偶然、タレントのピーターさんがテレビに出ているのを見ました(うちにはテレビがない)。ピーターさんが、雑誌か何かのインタビューを受けたときに、実際には全然言っていないのに、発売になった記事を見ると、全部に、「~だわ」「~なのよ」とオネエ言葉になっていて、もう二度と取材は受けない!と思ったと話されていました。自分の発言がこんなふうにされたら私も嫌だ…。でも、外国人の女性の発言は、実在する人でさえも、字幕や吹き替えで「~だわ」「~なの」みたいな、なよなよした「オンナことば」にされています。
出版文化の中から、こういう、女=男の庇護の元で生きるひ弱な存在、ゆえに、男が気に入るような外見やふるまいでないと幸せになれない、みたいな、古っくさいナヨナヨした女像をなくしたいです。こんなナヨナヨした言葉づかい、そもそも現実にはないわけですから。キャラを強化するために、取り入れている人もいますが、全体的にはこういう言葉遣いをする女性は少ないと思います。
「こだわりすぎ」と言う人がありますが、「こだわりすぎ」って何を基準にして言っているのか、その基準の根拠は何なのか、その基準は理にかなっているのかどうか、よく考えてから批判してもらいたいものです。
おそらくは自分に見えている限られた範囲で、世間一般に「普通」だと受け止めていると思われるものを基準にしているだけであって、それがどういう影響を及ぼしているか、
どういうリスクをはらんでいるか、どういう経緯で生まれたものであるか、等々、考えたこともないのだと思います。真実かどうかではなく、多勢に無勢みたいな、数を笠に着て、力を持っていると勘違いしているだけです。
知性のある人たちが、そういうのに怯んでモノが言えなくなるのもダメだと思う。そんな人には、「それなら、あなたはこだわらなさすぎって言われたらどう思いますか?」って言ってやったらいい。自分で気づいてもらうのも、少し早くモノを知った者の役目だと思います。