【旧暦睦月十五日 雨水 初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)】
昨日、歪められた女性の性に、笑いとアートで立ち向かっているろくでなし子さんのことを書きました。
書きながらふと、代々木公園でのオーガニック系のイベントで起こった出来事を思い出しました。
たしか満月に収穫されたヘンプの商品だったかと記憶していますが、満月と何やら関係のありそうなネーミングの大麻の無染色の布が販売されていて、きれいな布だったので、「素敵だなー。何をつくろうかなぁ?」と眺めていたら、テントの奥から出てきた30代後半くらいに見える男性に、「布ナプキン、使ってますか?」と唐突にきかれました。
私は面食らってしまいました。布地を見ていただけなのに、なぜに今その質問!?
どうやら、その布は「ハンカチ」と書かれてはいたものの、布ナプキンとしても使えるものだったらしい。
別に生理は、排泄や発汗などと同じ生理現象であって、恥ずかしいことでもないのですが、なぜ、初対面の、いい人かどうかよくわからない男性に、そんなかなりプライベートなことを話さなければならないのだろう。この人がよからぬ想像をしないとも限らないのに。
そもそも、こういうぶしつけで、下品で、粗野な振る舞いは嫌いです。
言葉に詰まっていると、返事を催促されました。返事に困ったのもあるし、男性がかなり気持ち悪かったので、「なぜ、初対面の男性にそのような話をしなければならないのですか?」と聞き返すと、男性は、「まーた、そんな遅れたことを言う!」と嗤い出しました。
スピリチュアルに詳しい自然系の人から聞いたことがあるのですが、女性の性が隠されたり、性エネルギーの交流のことが隠されたりすることが、性産業を生み、それによって莫大な利益が生まれ、戦争に利用されているという考え方があるそうです。
隠すから、いががわしいものになって、隠すから見たい、と欲望がかきたてられて、欲望を利用した商売になってしまう。本来の純粋な愛の表現ではなくて、罪深き行為みたいになってしまっている。
(戦争にまでは言及されていませんが、そうした性の考え方についてはこちらの記事がよくまとまっていると思います→☆)
それはおかしいんじゃないか?という疑問には「うーん、確かに!」と思う反面、「だから、なんでもみんなでオープンに話そうよ!!」っていうのには、躊躇してしまいます。
地方に移住してからも、全く知らない人たちと、性について語り合うカフェ的なイベントへのお誘いを受けました(クレイファンデーションづくりのワークショップがメインでしたが)。知らない人とそういう話をするのはあまり好きではありません。
隠されているから、欲望オンリーの性しか知らずに成長してしまっている人が多いというのは問題だし、「神との対話」や「アナスタシア」などに述べられているような本来の性のことを学んでいく必要はあると思います。
でも、実際には、そういうことを知っている人たちが少しずつ出てきた段階、言い換えれば、まだ移行が始まったばかりであって、純粋にいかがわしくない気持ちで、性は純粋な愛の表現かつ創造のエネルギーだと捉えられている人が、まだ実際にどのくらいいるのかわからないし、レベル感がまだ違うだろうから、そういう話を聞いて性的な刺激に興奮する人がいないとも限らないし、そこまでオープンを求められると困ってしまいます。大事なことだから、大事な人としか話したくないという気持ちもあります。
私はよく、自然系のカテゴリーの人だと見られているようなのですが、そういう、性をオープンに話そう、みたいなのに戸惑っていると、「あいつ自然系のくせに遅れている」とか、「自然系だと思ってたのに・・」みたいな反応をされるのには、「おいおい、十把一絡げにすんなよ」と言いたくなります。分類って便利だけど、個人差を見落としがち。
だいたい、それって「遅れてる」とか「進んでる」とか、何を基準にして言ってるの? 自分は100%実践できているの? ただ何かで読みかじったり、聞きかじったりして、ちょっと知ったくらいで、進んだような気になっているのは全然地に足がついていないし、それで他者を見下すなんて、そういうことをする人間が「進んでいる」人類でしょうか?
意見の合うところもあれば、合わないところもあっていいし、人それぞれで温度差や濃淡があって全然いいと思う。みんながそれぞれ違っているという前提で、みんなが気持ちよくいられるような思いやりがどうして持てないんだろう。
あの満月の大麻の布のお店にいた男の人のことは、今もときどき、気持ち悪かったなぁ、と思い出しますが、多様性を尊重しながら、いかにしてお互いに気持ちよく、協力関係を築いていくかが重要だよっていうことを学ぶ、良い機会になったと思っています。