20160223

知ってること、知らないこと、みんなそれぞれ違うからこそおもしろい

【旧暦睦月十六日 雨水 初候 土脉潤起(つちのしょううるおいおこる)】

昨日は、見知らぬ男性に布ナプキンの話をしなかったからって遅れていると糾弾された話を書きましたが、これも、知識偏重型教育の後遺症かな、とふと思いました。

自然系の人たちが学ぶべき「科目」に、「食」「衣」「住」「性」「スピリチュアルなこと」「政治」「経済」「テクノロジー」など、いろいろとあって、その科目ごとの知識レベルで進んでいるとか、遅れているとか比較したり、競争したりという姿も見られます。

知ってるからエライとか、知らないからダメだとか、こういう分裂しか生まない価値基準って本当につまらない。

テレビを見なくなって、かれこれ10年以上になるでしょうか。

だいぶ昔のことで、相手ももう忘れているだろうと思うので書きますが、社員食堂で年上の知人と一緒になり、蓮舫議員の話をされました。たしか、蓮舫さんが息子さんのゲームのことをツイッターで書いて問題になったとかいう話でした。

私はテレビを見ないので、その話題も知らなかったし、当時は蓮舫さんのことを知らなくて、「蓮舫さんってどなたですか?」と聞いたら、

「あーなたの頭は、どーこへ行っちゃってるのっ!?」

と、宇宙人でも見るような目で見られました。

私は知らなかったら、正直に知りませんと言って、「誰ですか」「何ですか」と聞きます。たいていの人は「そんなことも知らないの!?」という反応をするので、こういう反応には慣れています。

なんで、自分が知っていることを相手が知らなかったらばかにする人って多いんだろうなぁ。蓮舫さんのことも、正直に質問して、その時点で知れたから、それでいいと思う。

蓮舫さんの息子さんがゲームをするとかしないとか、そんなことを一刻も早く知ったら、社会や地球を良くするために、私に何かできることがあるのでしょうか。一刻も早く知ってアクションを起こすべき大事なニュースはほかにもあると思います。

当時、私が仕事で追っていた環境関係のニュースを全てこの知人が知っているかといえば、恐らくそんなことはないでしょう。

「それなら、このニュースを知っていますか?」なんて意地悪なクイズは出しませんし、仮に出して知らなかったとしても、「地球上の危機だというのにそんなことも知らないなんて! あなたの頭はどこへ行っちゃってるの?」なんて言って、どんないいことがあるのでしょう。

もし、蓮舫さんのニュースが極めて重大で、私にも何か協力できることがあるのであれば、知らないからといってバカにするのではなくて、その方がどういう人で、どういうことをしていて、何が問題だと自分は思っていて、私に何をしてほしいのか、それをしたら世の中がどうなるのか、などを丁寧に説明するほうがずっといいと思います。バカにされたら、大抵の人は協力する気になれないでしょう。

私は芸能人とかも全然知らないので、私がテレビを持っていないことを知っている人の中には、「○○に似ててさ、…って言っても知らないよね。 女優で、すらっとしてて、□□っていうドラマに出て・・・」のように説明してくれる紳士もいました。その人のことはいつも、よくできた人だなぁ、と思ったものでした。

私が知っていることを、だれかが知らないときに、いつもお手本にするのはこの紳士。知っていることが違っていて当たり前という前提で、バカにするでも、自分の知識をひけらかすでもなく、誰にでもわかるように説明する。これができる人というのは、なかなか出会うことがありません。

教科書に書かれていることを頭に詰め込んで、テストでそれを書き出して、覚えていたことが多いか少ないかで優劣がつけられる。そういう、知識偏重型の教育をほとんどの人が受けてきているから、知っていることが多ければ多いほど賢くて、自分よりも少なければバカにしていい、みたいなメンタリティになる傾向があるのかもしれません。

もちろん、当然知っておくべき立場の人間が、それについて学んでいない、考えていないというのは、責務を果たしていないことになるので、問題だとは思います。

北方領土を担当する大臣なのに歯舞群島が読めないとかはさすがに問題だと思いますが…。「どんだけ普段、北方領土のこと考えてないんだ?」という感じがしますよね。(ご参考:【北海道新聞02/11】島尻北方相「歯舞」読めず 11月に視察したばかり 元島民ら「残念」「勉強を」

でも、そこまで問題にならないようなことを知らないからってバカにするのって、バカにしてなんのいいことがあるの?と思う。

先日、問題発言で最近有名なアメリカの政治家の話を友人にしたら、友人はその人のことを知りませんでした。でも、私がその政治家を知ったのも、つい半年前かそこらのことで、たまたま、仕事で翻訳をする機会があったから、目にしただけのこと。その人のことを自分が知っている期間が長いかどうかが世の中に影響を与えるようなものではない。

その友人が知っている立派な人のことを、私が知らなかったりします。

みんな知っていることが同じだったら、世の中おもしろくない。みんな違うからこそ、いろんなアイデアや、つながりや、連携が生まれておもしろくなっていくんだし、知らないからって、バカにしたりしないほうがいい。

バカにされるのを恐れて、知っているふりもしないほうがいい。知っていることが多くなると、組み合わせのバラエティが増えて発想が豊かになったり、物事を考える材料が増えて厚みが出たりするから。

知ってること、知らないこと、みんなそれぞれ違う。知らないことがあるから、斬新な切り口が生まれたりもする。ゼロベースで考えることにつながったりもする。知っていることが増えて、突破口が見つかったり。そういう前提で協力し合ったほうが、ずっとおもしろいものが生まれます。

「あーなたの頭は、どーこへ行っちゃってるのっ!?」

これも、なければよかったなーと思う不愉快な出来事ではあったけど、これがあったから、知ってること、知らないこと、みんな違って当たり前で、みんな違うからこそ、おもしろい、ということを学べたと思います。

みんなちがってみんないい。金子みすゞさんのこの詩を金言として引用する人はよくいますが、きちんとこれが実践できる人が増えてくれることを願います。

わたしと小鳥とすずと―金子みすゞ童謡集