20160307

自分のことだけを信じこませようとする人のことは信じない。

【旧暦睦月廿九日 啓蟄 初候 蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)】

かつて、知人からこんな経験談を聞きました。信じこませようとしてくる人のことは信じないのが一番という教訓です。

腰痛に悩んでいた知人は、いろんな整体を試してきました。あるとき、別の知人の紹介で、バキバキやるのではなく、波動を発する道具を使う痛くない整体を知りました。波動具で脳幹に共鳴現象を起こし、脊椎の一番上と二番目の骨を整えると、あとはドミノ倒しのようにまっすぐになっていき、内側から外側へ、本来の位置に身体が戻っていくというもの。摩訶不思議で半信半疑でしたが、施術料も数千円と手頃だったので、通ってみることにしたそうです。

共通の友人の紹介で、私も無料のお試しを受けたことがあるのですが、それはすごい効果でした。寝ているだけなのですが、肩が開いてきて、胸が開き、背骨がきれいなS字になっていくのが自分でもよくわかり、腿が内側にきゅっと戻って、と、上から下へ順に、身体のパーツがぐりぐりまわって正常な位置に戻って行く感じがしました。翌日には偏平足気味だった足に土踏まずができてきて、甲が高くなったので靴がちょっときつく感じるほどでした。

効果は個人差があるようで、私は自然に近い暮らしをしているために、珍しいほど反応が早かったみたいです。自然に近い食べ物を食べている人は、毒素がない分、効果を感じやすいそうです。自然から遠ざかった食べ物を食べている人は、「好転反応」と言って、毒出しが始まったり、今まで食べていた不自然な食べ物が食べられなくなる人もいるんだとか。

私もですが、知人も、半信半疑だったのに、効果がかなり感じられたので、すごいなーと信じていました。私はそこまで身体に痛みがないので、お試しだけで終わったのですが、知人は腰痛が長年の悩みだったので、続けて通うようになりました。

その波動の整体に通い始めて数カ月後、知人はレイキのアチューンメントを受けました。レイキは、ヨガでは「プラーナ」、ロミロミでは「マナ」、気功では「気」と呼ばれているものと同じエネルギーで、自然界に存在する生命エネルギーを指します。アチューンメントを受けることで、だれでも手から出すことができ、一生使い続けることができると言われています。

話を聞いていると、波動の整体で使われている主な波動は、レイキに似ているように思えたので、道具を使わずに、自分の手でできるんだったらそれが一番いいよねぇ、ということで、知人はレイキのアチューンメントを受けました。レイキを自分で自分にかけてみると、かける前と後では、姿勢が全然違っていて、身体の前にまっすぐに垂らした紐と一緒に写真を撮ると、レイキ前は歪んでいたのが、レイキ後はだいぶまっすぐになっていたそうです。

それで知人は、波動の整体をしている施術師の人に、併用したら相乗効果がありそう、ということで、レイキの話を出したそうです。「気」や「波動」に関心のある人ならば、さらに能力を磨くためにも役立つものなので、私も知人からそこまで聞いたときに、施術師の人はきっと関心をもって聞いただろうと予想しました。

しかし、予想に反して、その施術師は、レイキのことを知らなかったのに、よく調べもせずにレイキを「対症療法」と断定して、自分たちがやっている道具を使う波動の整体のほうだけを知人に信じさせようとしたそうです。

知人は、レイキとその波動の整体のどちらが優れているかの話をしたのではなく、併用したら効果がありそうだという話がしたかっただけなのですが、その施術師はその次の予約のときに、姑息な手段でレイキを悪と信じさせようとしたそうで、その手口があまりにもハメようとした感満点でびっくりしました。知人も怒りで身体がひんやりしてきたそうです。

この話を聞いて、宗教的なものは無理矢理に盲信させようとしてくるんだなぁと思いました。AかBかで、自分たちのほうだけを信じてもらえなかったら、「商売上がったりだ!」と思うのでしょうか。

私が習ったレイキのNPOはさっぱりしていて、レイキとは何かと使い方を教えてくれて、信じるも信じないも個人の自由に任せるというスタンスでした。自分が本当にいいことをしていると自分を信じられている人は、中身の説明だけして、あとは相手に任せる。無理矢理に他者を動かそうとはしないものなのだと思います。自信のあるものを提供していれば、自然とついてくる人はついてきてくれるものだから。

この話を思い出すといつも、相方から聞いた、ガユーナ・セアロさんというミャンマーにいるお坊さんの話を思い出します。セアロさんへの「母親が亡くなったのですが、母親が信じている宗派と、自宅の寺の宗派が違います。どちらでお弔いをしたらよいでしょうか?」という質問に対して、セアロさんはこう答えていました。「うちにしなさい、というほうはやめろ。どちらでもお母さんの望むと思うほうにしてください、というほうのお寺にしなさい」(細かな表現は違ったかもしれませんが)。このエピソードは『私は私―ガユーナ・セアロの至道録』にあるそうです。

自分の得だけでなく、相手のことを思える人の言うことを信じるのが一番。AかBか、という選択で、自分のほうだけを信じさせようとして、自分以外のほうを悪く言う人がいたら、その人のことは信じないのが得策かもしれません。