71年前の3月9日の夜中から今日3月10日の未明にかけて、東京大空襲がありました。
「1945年3月10日 東京大空襲」
学校で習ったものの、最近まで自分の中では、文字としてしか認識されていなかったように思います。防空壕、サイレン、B29、焼夷弾。どれもなんだか遠い世界のもののことのように思えていました。
でも最近、翻訳の仕事で、イギリス人の方が書かれた東京大空襲に関する寄稿文をいただいて、この悲しい出来事と、じっくりと向き合うことになりました。これは、日本で起こった戦争にもっとしっかりと向い合いなさい、という巡り合わせだったのかもしれません。
日本人である自分よりも、イギリス人の若い方が、東京大空襲のことをよく知っていて、心を痛めているということに、なんだか不思議だなぁと思いました。自分の国で起こったことなんだから、本当は私のほうがよく知っていないといけないのに、と。
そのイギリス人の著者さんは、東京大空襲の夜の様子を刻銘に描いた後、最後に、アメリカ軍で東京大空襲を立案したカーティス・ルメイ氏が、アメリカ軍がこの戦争に負ければ戦争犯罪者になることは間違いないと認識していた、しかし、負ければ犯罪になることが、なぜ、勝てば犯罪にはならないのだろうか、という疑問を、ルメイ氏の下でこの作戦に参加していたマクナマラ元米国防長官の言葉を引用して露わにしていました。
マクナマラ元国防長官の言葉は、こちらのドキュメンタリー映画に出てくるそうです。
フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白 (字幕版) |
戦勝国であるイギリスの学者さんが、71年経った今、戦争での出来事について、事実と向き合い、こういう考えを持ってくださっているのは本当にありがたいことだなぁと思いました。そして同時に、自分の無知を悔やみました。
惨状については、コトバンク「知恵蔵2015の解説」に端的にまとまっているので引用します。
B29は、長時間燃焼するナパーム弾を江東区・墨田区・台東区にまたがる40平方キロメートルの周囲に投下し、火の壁で住民の逃げ道をふさいでから、その内側に1665トンの焼夷(しょうい)弾を投下。市街地は完全に炎の海と化し、26万8358戸が焼失。100万8005名が罹災し、死者は8万3793名、負傷者4万918名とされるが(警視庁調査)、実際の死者は10万名を超えると言われている。「知恵蔵2015の解説」の続きを読んで、びっくりしたのは、こんなにひどい作戦を計画し、実行して、一般市民への無差別殺人という戦争法規違反をしたカーティス・ルメイ氏に、日本が勲章を与えているという事実です。自衛隊を育成したことで勲一等旭日大綬章を授与したと書かれています。日本人はどんだけ健忘症なんだ、と呆れました。
もっと呆れるのは、日本は、国民を悲惨な目に合わせたアメリカには、軍事基地を置かせたり、集団的自衛権でアメリカに応戦しにいったりするのには国民の声を無視してでも無理矢理押し通すくせに、悲惨な目に遭った国民には何の補償もしておらず、今なお、被害者が苦しんでいるということです。
「『私たち空襲の犠牲者を助けてください』と言えば助けてもらえると思っていた。足をなくしたもの、手をなくしたもの、何人も引き連れてやってきたが、だめでした」。杉山さんはこの日、訴えが結びつかない苦しい心境を明かしつつ「二度と戦争のない国にしなくてはいけない。頑張りましょう」と気勢を上げた。全国空襲連:空襲で失明の女性、援護法訴え 100歳まで苦しんだ(毎日新聞2015年12月9日東京朝刊)より当時、国民には防火義務があったために、逃げ遅れた人も多かったそうです。そのせいで空襲にあって心身に支障をきたした人には、当然国が補償を与えるべきだと思います。軍人には恩給などの手当がつくのに、国の過ちの犠牲になった人たちには民間人だからという理由で何の手当もないのはおかしいと思います。
もちろん、こういうことに目を向けない国民に一番問題があるということは言うまでもありません。私も含めて。国民主権の国なんだから、選挙に行くまでに常にアンテナを張って世の中のことをよく知り、自分の考えを持ち、選挙で意思表明をする人が増えるだけで、こんなおかしな政府を変えることはできるのだから。変化は一人一人の思いと行動から始まります。
東京大空襲ほど悲惨で、それなのに忘れられている出来事はないかもしれません。前述の「知恵蔵2015」によると、「東京大空襲の記録を残すための施設は、国立にも都立にもなく、民間の「東京大空襲・戦災資料センター」があるだけ」なのだそうです。
平和が何かを深く認識するために、平和を構築するにはどうすればいいのかを理解するために、過去の過ちをきちんと知っておくことはとても重要なことだと思います。私はそれをしてきませんでした。テストでいい点数がとれても、それでは全く意味がありません。その反省から、今後は、悲惨な出来事があった日には、当時の史実を振り返り、犠牲となられた方々の魂を追悼したいと思いました。それを通じて、決してあきらめることなく、平和への構築の道を歩んでいく、という思いを新たにする機会にしていきたいです。