20160331

「戦場ぬ止み」を観て

【旧暦如月廿三日 春分 末候 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】

週末に近隣で上映会があり、三上智恵監督のドキュメンタリー映画「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」を観てきました。




20160329

「男らしく」「女らしく」生きなくていい。「自分らしく」生きたらいい。

【旧暦如月廿一日 春分 次候 桜始開(さくらはじめてひらく)】

よく一般的に使われる「女らしい」、「男らしい」という形容。

「男の子だから料理ができない」
「女の子なのに料理が下手」

「男の子だから車が好き」
「女の子なのに車が好き」

「男の子なのにピンクが好き」
「女の子なのに青が好き」

こういった表現もよく耳にします。「男なんだから泣くな!」とかはもう最低だと思う。泣きたいときは泣けばいいんですよ。「女のくせにそんな乱暴な言葉遣いして!」とかも、男も乱暴な言葉は使わないほうがいいのではないですか。

スピリチュアル系の人たちがよく使う、「男性性」「女性性」。占星術(いわゆる星占い)にもよく出てくる用語で、星座も男性星座、女性星座に分けられています。

こういう言葉には、とても違和感を感じます。というのは、この、「女らしい」「男らしい」「男性性」「女性性」といった言葉は、定義がとても曖昧ではっきりしない言葉であるにもかかわらず、生まれながらの性別によって、「どうあるべきか」を強制してくるものだからです。もう少し厳密な定義の言葉ではっきりと言われたら拒否感を感じるものであっても、「女性性」「男性性」などという言葉で語られると、はっきりしていないためになんとなく受け入れてしまったり、刷り込まれたりしてしまうのも恐いところだと思います。個性を阻害するものだと私は思っています。

男が外で働いて、女は家の中にいて家を守って、みたいな固定観念があります。スピリチュアルやマクロビの人間に対する陰陽論などでは、女が外で活躍すると、「男性性と女性性のバランスが崩れる」(というか、男性性が優位になるって意味でしょ?女が男化すると言わんばかり)と言われることもあります。

「女が外に出ることは、男になるということなのか?」
「外でさまざまな人たちと交流するのは男の役割なのか?」
「女は家の中を守ってこそ女らしいとされるのか?」
「でも、そういう考え方があるから、国会議員や、会社の重役に女性が著しく少なくて、結果、一般的に『男らしさ』『男性性』として良しとされているものをマインドセットとして持っている男性だらけになり、自然を大切にしたり、弱者を排除するのではなくて守ったり、多様性を大事にしたりといったことが、現状ではできなくなっているのでは?」
…などなど、すごく腑に落ちない。

「男性性」ってなんなんでしょう? 同じく、「女性性」ってなんなんでしょう?

洗濯をしながら相方に、疑問をぶつけてみました(うちでは洗濯は外で相方と一緒に手洗いをしています、詳しくはコチラ→)。

tom-tom: 女だからってバカにされたくないんだけど、私の好きなことってチクチクだったり、お絵かきだったり、料理だったり、いわゆる「女らしい」ことなんだよね。見た目も世間一般でいう「男らしく」はないし。どうしたらいいんかなー。

相方: チェーンソー振り回したら、結構男はビビるで。山の活動に来ている女の人も、女だからってなめられんようにかなり強そうにしとるで。女らしい素振りは見せたらあかん。恐いオーラ出しといたらええんよ。

tom-tom: えー、私、ちょっと外仕事しただけでも、疲れてまうのに。。。ダンベルで鍛えようかなー。

相方: ダンベルらてしたら、関節壊して終わりやで。バイク乗り回すとか。

tom-tom: バイク? 排気ガスで空気汚すのやだー。

相方: じゃあ、競馬。

tom-tom: やだ!馬が(ムチで)叩かれまくるのめっちゃかわいそう。

相方: ほんなら、酒とタバコとギャンブルと女(=女遊び)や。

tom-tom: お酒なんてちょっとで眠くなるのに。タバコも嫌いだし、ギャンブルもお金もったいない。

相方: 男らしいことってロクなもんないな。tom-tomが坊主になって野球帽とかかぶって、ぼくが髪伸ばしてみる?

tom-tom: なにそれー(*_*; それもさー、「男性性」に縛られた女と、「女性性」に囚われた男にならない? ほんとにしたいこととか、ほんとはどんな自分でありたいかを、世間一般の「男性性」「女性性」に縛られてあきらめちゃうのもなんか違うなあと思うんだけど。

相方: それもそうやなー。そんなん、みんなそのうち気づくんちゃう? スピリチュアルで男性性だ、女性性がどうの、なんて言ってる人たちも、行き切ったら(スピリチュアルの世界に行くとこまで行けば)いつか「あれ?」って気づくやろ。

まあ、これは大げさな例ですが、世間一般の人たちが使っているこの「男性性」「男らしさ」、「女性性」「女らしさ」という言葉の意味は、前者が「攻め」「能動」で、後者は「守り」「受容」といった感じなのでしょうか。もう少し言葉を足せば、男性性は、「攻撃」「征服」「支配」「勝負」といったところ、女性性は「共感」「協力」「隷属」みたいな感じ? うーん、やっぱりはっきりしない。

「男性性、女性性」とか「男らしさ、女らしさ」とかいう言葉で言うんじゃなくて、男でも協力的な人はいるし、女でも攻撃的な人はいるんだから、もっと厳密な形容詞とか、名詞とかを使って話せばいいのにと思う。

男性性は「思考」「論理」「社会的な承認」、女性性は「感情」「直感」「精神的なつながり」なんて言う人もいるけど、そんなの男性でも女性でもどっちも持っているし、「思考力」や「論理」も「共感力」や「直感」も、男性だからとか女性だからとかに関係なく、訓練すればある程度は誰でもできるようになるものだと思います。だれだって、どんな自分になるのかは、自分の意志次第でどうにでもなるものだと思います。

それに、こうした言葉は、LGBTQの人たちを排斥する言葉でもあるよなーと思う。LGBTQとは、L=Lesbian(女性の同性愛者)、G=Gay(男性の同性愛者)、B=Bisexual(男女どちらにも恋愛感情を持てる)、T=Transgender(心の性と体の性が一致しない人のこと)、Q=Queer(LGBTのどれにも当てはまらないけど、明確な異性愛でもなく、流動的であったりする)の頭文字をとったもので、性的マイノリティーのことです。マイノリティだからって含めないのってどうなの?と思いますね。

「男性性」「女性性」という言葉でいろんなことを片付けるスピリチュアル系の人たちは、この、男と女に対して社会的につけられた役割を、後付ではなくて、「宇宙の法則である」「神話の世界で描かれている」「古来からある占星術にも残っている」云々と言って、自然が与えた役割であるかのように語ります。しかし、これが自然が与えた役割だと言っているのはだれに聞いたのか定かではないし、聞いたにしてもそれが本当かどうか確かめようがないし、そもそも、神話や占星術ができたころ、社会を支配していたのは、今の時代よりも男性たちが主だったのだから、男性に都合のいいように作ったということもあるんじゃないのかな、と私は思う。もう少し新しい時代で、マクロビを体系立てた人も男性だし。

「男性性、女性性」という言葉は差別じゃない、みたいな無理矢理に説明しているのもありますね。「男性性の強い女性というのもいますし、女性性に傾いている男性という人たちもいて、必ずしも、男性だからこう、女性だからこう、というものではありません」とか。だったら、その言葉、使わなくていんじゃないの?って思う。ほかにいくらでも適切な言葉があるわけだから。「勇ましい」「たくましい」「目標をしっかり定めて進んでいく」「人の気持ちがわかる」「思いやりがある」「人の成功を一緒に喜べる」とか、もっと定義のはっきりした言葉を使えばいいんじゃないの? そうした言葉は、男性だからとか、女性だからとかにかかわらず、個人個人の特性を表すものになるはずです。

「男性性」「女性性」「男らしい」「女らしい」といったレッテルをつけるような便利な曖昧語は、せめて、自分なりの定義で語れるようになってから使わないと、おかしな方向に行っていることすら気が付かないし、おかしな方向に引っぱっていこうとしている勢力を助長したり、加担したりすることになってしまうと思います。

「女らしく」「男らしく」よりも、生まれながらのものについたレッテルに期待されるものにかかわらずに、「自分らしく」を目指せる、「自分らしさ」を自由に生きられる世の中になったらいいのになぁと思っています。

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20160325

春分の次候は「桜始開(さくらはじめてひらく)」。桜が咲き始める頃。

【旧暦如月十七日 春分 次候 桜始開(さくらはじめてひらく)】

3月初めに撮った河津桜。満開でした
今日から七十ニ候は「桜始開」(読み:さくらはじめてひらく)に入りました。桜の花が咲き始める頃という意味になります。春分の次候に当たります。

近所の桜の花は、ようやくつぼみが少し膨らんできて、茶色の固いつぼみから淡い緑色の花芽が覗くようになってきました。写真の河津桜は今ではもう葉桜の趣きです。一般的には花は盛りに愛でる方が多いようですが、葉桜にも心惹かれるものがあります。花の名残りと、新緑の眩しさ、そして実を結ぼうとしている木のたくましさ。草花はどの瞬間にも、その時しか見られない美しさを見せてくれます。

おとといの夜、小指の先くらいの大きさのヤモリが今年初めて縁側に出没しました。暖かくなってきた兆しを感じます。夜行性のヤモリさん。まだ夜は寒いので、縮こまって動けなくなっていて、手を差し出すと、ぴょんと乗ってきて、手のひらの上で気持ちよさそうにしていました。温かくてほっとしたのかもしれません。ヤモリはかわいく思えるようになってきましたが、毛虫や蚊は、近づきすぎると痒くなったり腫れたりするので、まだちょっと好きになれません・・。ちょうどよい距離が保たれていれば、平和に共存できるのですが。それは人間も同じかもしれません。

20160324

悲劇は魂の選択か?を『引き寄せの法則』の原典から考えると―悲劇を終わらせるためにできること

【旧暦如月十六日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

先日、以下の記事を書きました。
20160312 悲劇は自分が引き寄せたもの?魂の選択?そんなわけないよ!の話。
この記事は、「悲惨な目に遭う人はそれを自分の思考によって引き寄せている」、「悲劇的な経験をする人は、それをこの世での修行や使命として選びとって生まれてきている」などという、特にスピリチュアル系の人たち(≠スピリチュアルな人。本当にスピリチュアルな生き方をしている人はこんな誤解はしない)によくある誤解を聞いて、考えたことを書いた記事でした。

「引き寄せの法則」というのがあって、スピリチュアル系の人たちには結構よく知られているのですが、これの曲解がそういうおかしな結論につながりやすいようです。

20160323

「足るを知る」は我慢を強要する教えではないと思う。

【旧暦如月十五日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

「足るを知る」という言葉は、いい言葉ですが、我慢を仕向けることにも使われます。

お腹が空いているのに「少しでも食べられただけよかったね」と思いなさい、とか、働いても働いても不当な賃金しかもらえないのに「仕事があるだけいい」と思え、とか、そういう意味で使われているのを見聞きすると、不公平や暴力を野放しにするのに、「足るを知る」を悪用しないでほしいなぁと思います。

20160322

啓蒙思想のこと。

【旧暦如月十四日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

最近訳している文章で、ヨーロッパの哲学者について調べる機会がありました。

こうした哲学者たちが当時置かれていた境遇と、私が今悩んでいることが共通している、…と言うと大げさですが、そんなふうに思えました。

当時の社会では、キリスト教の教会の教えていることが、真実とそうでないものとがごちゃごちゃに混在した状態で盲信されていました。教会という権威が言うことに、「それってちょっと違うんじゃないの?」という異論を差し挟むことは、かなりのリスクを伴うことだったようです。

それに立ち向かっていくために、勉学を積み重ね、自分の考えを理詰めで組み立て、どんな反論にも対抗できるくらいの強度を持たせて、自分の考えを形成していったのが、当時の哲学者たちだったんだなぁと思いました。

私が今悩んでいることというのは、人々が権威の言うことだからと盲信していることに、自分が「ちょっと違うんじゃないか」と気づいた場合に、それを言うと危険が伴ったり、まわりから危険人物扱いをされたりする、もしくはそれが怖くて言えない、という問題です。

権威が言うからと盲信していることというのは、例えば、放射能は怖くない、食品添加物も農薬も危険ではない、原発を動かさないと経済が不況になるといった、富裕層と政治の癒着から生まれているさまざまな神話や、日本の固定的なジェンダー観、それから、祈っていればすべて解決する、ネガティブなことはネガティブな現実を引き寄せるから言ってはならないという考え方、占いによる決め付けなど最近のスピリチュアルの思想に関するものなどです。

信じたくないことまで信じなきゃいけないと思って信じている人もいるし、真実とそうでないものがありとあらゆるものに混在して混沌としているのに、「先生がいうから」「国がいうから」「みんなそうしてるから」って、自分の頭で考えて判断する権利を譲り渡してしまうってもったいなさすぎる。だれでも考える能力が備わっているんだから、どんどん使っていかないと錆びついてしまうし、どんどん自分の行動の自由、思想の自由を奪われてしまうと思う。

啓蒙思想も、権威を盲信したり、固定観念にがんじがらめになって、蒙昧になっている自分自身の精神を解き放とう、自分の頭で考えよう、自分の心で感じよう、という思想だったんじゃないのかな、と思いました。

ブリタニカ国際百科事典の説明には、
啓蒙思想:神,理性,自然,人間に関する観念が一つの世界観に統合され,多くの賛同者を得て,芸術,哲学,政治に革命的な発展をもたらした 17~18世紀のヨーロッパの思想運動。人間の可能性は,正しい「理性」によって切り開かれるもので,そこにこそ真実の認識と人類の幸福とを得ることができるという確信に貫かれていた。
とあります。

そう考えると、人間の思考力は当時からそんなに進歩していないと感じれられて、愕然としました。当時の哲学者たち、革命を起こした人々が、自分の理性を使って考える権利を勝ち取り、後の世代にその自由を与えてくれたのに、私たちはまだ、何かを盲信したり、他人の頭で借り物の思考している。さらに状況を難しくしているのは、盲信するテーマが、キリスト教の教会の教えだけでなく、
科学、経済、スピリチュアルと、多岐に分化していること。盲信する対象が増えただけで、自分の頭で考える人間はそんなに増えていないように思います。

放射能安全キャンペーンはその筆頭ですが、まともに機能してない科学によって裏打ちされた「権威の言うこと」をまだ盲信している人たちが多いというのは、人類が進歩していない証拠なのではないかと思ってしまいます。啓蒙思想からもう3世紀も経っているこの2016年という時代に、まだこんな状況かと思うと、焦燥感を覚えます。

自分の頭を使うって、結構負荷がかかるので、筋トレと一緒で結構疲れるんですよね。インプットだけでなく、アウトプットもするとなるともっと負荷がかかる。だから、つい、惰性で、流されちゃう。自分の頭を使うのをやめて、誰か権威の言うことを信じていたほうが大多数がそうだから楽だし、お墨つきがついているから安心していられます。権威の言うことを組み合わせて説明できる自分にも、権威がついているような錯覚に陥って、自己過信に酔いしれたりもする。盲信するって、一見楽で気持ちいいことに感じられるけど、長期的に見れば、自分の頭の体力はどんどん衰えて、簡単に騙されたり、落ちぶれたりしてしまいます。

ある程度までがんばって、意識して自分の頭で考える訓練を積んでいけば、自分で自分の人生を切り開いていく力もつくし、社会をよりよい方向に導くために役立てることもできる。それはとても気持ちのよいことで、惰性で得られる刹那的な気持ちよさとは全く満足感が違います。マラソンも一定以上行くと快感になると友人が言っていたのを思い出しました。

20160321

バジルの種採り。種を採る理由。

【旧暦如月十三日 春分 初候 雀始巣(すずめはじめてすくう)】

ホーリーバジルとスイートバジルの種を採る。保存にはハーブティのティパックの空いた袋を再利用。

スイートバジルの種。ホーリーバジルはこれよりももっと小さい
写真はスイートバジルの種。スイートバジルの種は食べられるらしい。水に浸すとゼリー状になって、おもしろい食感になり、バジルシードを使った飲み物なども市販されている。