【旧暦神在月十六日 小雪 朔風払葉(きたかぜこのはをはらう)】
このまえ、日本の奨学金制度って国際基準で考えるとどうなのだろうか、という話を書きました。
政治を通じて、学費を無料にする、給付型の奨学金を充実させるというのも大事だと思いますが、もう一つ別な方向も考えました。
ナリワイをつくる、稼ぐ力をつける、生きていく力をつけるのに必要なのは、大学教育だけではないと思います。
20151127
20151126
お猿さんを虐待していないことがはっきりしているココナッツオイルは?
この記事、衝撃的でした・・・
◆ココナッツオイルに隠された猿の悲しい現実(ベジワールド)
*ちょっと衝撃的な写真もあるので、心の準備をしてから見てください。
巷でブームになったココナッツオイル。ココナッツシュガーやココナッツウォーターもはやっています。
でも、そのなかには、お猿さんを虐待して、ココナッツの実を取ってこさせているものもあるそうです。お猿さんが赤ちゃんのときにお母さんから無理やり引き離されて、お母さん猿が赤ちゃんを守ろうとすると人間に撃ち殺されるそうです。
◆ココナッツオイルに隠された猿の悲しい現実(ベジワールド)
*ちょっと衝撃的な写真もあるので、心の準備をしてから見てください。
巷でブームになったココナッツオイル。ココナッツシュガーやココナッツウォーターもはやっています。
でも、そのなかには、お猿さんを虐待して、ココナッツの実を取ってこさせているものもあるそうです。お猿さんが赤ちゃんのときにお母さんから無理やり引き離されて、お母さん猿が赤ちゃんを守ろうとすると人間に撃ち殺されるそうです。
幸せな人が増え、視野が広ってより高いレベルの幸せを考えられる人が増えると、世界は良くなるという仮説
【旧暦神在月十五日 小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)】
尊敬する活動家の田中優さんがよく運動のタテ・ヨコ・ナナメの話をされます。タテは政治、ヨコは市民に広げる活動、ナナメはそれ以外。
私はナナメを考えるのが好きです。
ナナメの方向の一つとして、最近相方と話していて、どっちか(定かではない)が閃いたことがあります。それは、幸せで満ち足りた人を増やすこと。これなら小心者の私でもできると思いました。
「社会問題とかってあんま興味ないんだよね~」ってかっこつける人(私から見るとかっこよくないが)、スピリチュアルボケしちゃっている人、「どうせわかんないしー」って愚かなフリをする人の共通点は、自分の心が満たされていないことです。
自分がハッピーじゃない。思考が自由じゃない。だから、自分のこと、自分の周りの狭い範囲のことで頭と気持ちがいっぱいいっぱいになって、地球の環境や社会のことに目を向ける余裕がないのです。視野が狭すぎる。でも、それでいっぱいいっぱいなのもわかる。自分もかつてはそうでした。こういう人たちは、まずは自分が幸せになる必要があります。
反対に、社会の問題にまっすぐ目を向けて行動をしている人たちは、自分は恵まれているという感覚があるみたいです。自分が幸せでたまたま恵まれた境遇にあるから、たまたま不運な状況にある人たちを少しでも早く楽にするためにできることをしたいと思っているように見えます。
そして、世のため、人のための活動をすることでまた、心の中に活力が生まれる。腹の底から力が湧いてくる。すっごくいきいきしていいオーラが放たれている感じがします。東京時代、宇都宮けんじさん(facebook/twitter)を生で見たことがありますが、まさにそんな感じがしました。
自分が幸せで満ち足りている人は、自分に降り掛かってくる問題に対処する時間が、そうでない人たちよりも少なくて済み、もっと大きな視野で世界の動きと自分のつながりを俯瞰して、考え、行動に移すことができます。環境問題、戦争、政治の状況、低い投票率、貧困、労働問題、ジェンダーの問題、不自然な食べもの―こうした問題は、実際、他人事ではないのです。巡り巡って、自分の生活の不安要素になってしまうからです(これについては環境の面でですが、過去に「エコ=エゴ?」という記事を書いています)。
だから、幸せで満ち足りた人を増やすことができたら、その人たちはきっと、頭と心に余裕ができて、もっと高いレベルでの幸せ、世界全体の幸せを考えるようになって、行動に移せる人も増えていくと思います。
幸せで満ち足りた人を増やすこと。方法はいろいろあると思います。だれかの悩みを聞く、(とくに当たり前のように扱われている人に)感謝をする、ほめる、笑いをおすそ分けする、本来の自分の望みに気づく手助けをする、いいところに気づいて本当の自信をつけてもらう手助けをする、今ある豊かさ、幸せに気づくきっかけをつくる、などなど。孤児院で奉仕活動をしているうちに、自分がすでに持っている幸せに気づけるようになったという人の話も聞きました。そういう機会をつくるのも一つの方法かもしれません。そこから、自分と広い世界との関連を考えられる人たちが増えていったら、世の中はもっともっとよくなる。これもナナメの方向の一つかなと思います。
尊敬する活動家の田中優さんがよく運動のタテ・ヨコ・ナナメの話をされます。タテは政治、ヨコは市民に広げる活動、ナナメはそれ以外。
私はナナメを考えるのが好きです。
ナナメの方向の一つとして、最近相方と話していて、どっちか(定かではない)が閃いたことがあります。それは、幸せで満ち足りた人を増やすこと。これなら小心者の私でもできると思いました。
「社会問題とかってあんま興味ないんだよね~」ってかっこつける人(私から見るとかっこよくないが)、スピリチュアルボケしちゃっている人、「どうせわかんないしー」って愚かなフリをする人の共通点は、自分の心が満たされていないことです。
自分がハッピーじゃない。思考が自由じゃない。だから、自分のこと、自分の周りの狭い範囲のことで頭と気持ちがいっぱいいっぱいになって、地球の環境や社会のことに目を向ける余裕がないのです。視野が狭すぎる。でも、それでいっぱいいっぱいなのもわかる。自分もかつてはそうでした。こういう人たちは、まずは自分が幸せになる必要があります。
反対に、社会の問題にまっすぐ目を向けて行動をしている人たちは、自分は恵まれているという感覚があるみたいです。自分が幸せでたまたま恵まれた境遇にあるから、たまたま不運な状況にある人たちを少しでも早く楽にするためにできることをしたいと思っているように見えます。
そして、世のため、人のための活動をすることでまた、心の中に活力が生まれる。腹の底から力が湧いてくる。すっごくいきいきしていいオーラが放たれている感じがします。東京時代、宇都宮けんじさん(facebook/twitter)を生で見たことがありますが、まさにそんな感じがしました。
自分が幸せで満ち足りている人は、自分に降り掛かってくる問題に対処する時間が、そうでない人たちよりも少なくて済み、もっと大きな視野で世界の動きと自分のつながりを俯瞰して、考え、行動に移すことができます。環境問題、戦争、政治の状況、低い投票率、貧困、労働問題、ジェンダーの問題、不自然な食べもの―こうした問題は、実際、他人事ではないのです。巡り巡って、自分の生活の不安要素になってしまうからです(これについては環境の面でですが、過去に「エコ=エゴ?」という記事を書いています)。
だから、幸せで満ち足りた人を増やすことができたら、その人たちはきっと、頭と心に余裕ができて、もっと高いレベルでの幸せ、世界全体の幸せを考えるようになって、行動に移せる人も増えていくと思います。
幸せで満ち足りた人を増やすこと。方法はいろいろあると思います。だれかの悩みを聞く、(とくに当たり前のように扱われている人に)感謝をする、ほめる、笑いをおすそ分けする、本来の自分の望みに気づく手助けをする、いいところに気づいて本当の自信をつけてもらう手助けをする、今ある豊かさ、幸せに気づくきっかけをつくる、などなど。孤児院で奉仕活動をしているうちに、自分がすでに持っている幸せに気づけるようになったという人の話も聞きました。そういう機会をつくるのも一つの方法かもしれません。そこから、自分と広い世界との関連を考えられる人たちが増えていったら、世の中はもっともっとよくなる。これもナナメの方向の一つかなと思います。
20151125
科学技術は嫌いではありません。それがあらゆる人に自由と幸福を与えるものであれば。
【旧暦神在月十四日 小雪 虹蔵不見(にじかくれてみえず)】
冷蔵庫なし、洗濯機なし、炊飯器なし、電子レンジなし、などなど、非電化生活をしていて、添加物などの化学物質はなるべく身体に取り入れないというお話をすると、たまに、科学技術を否定していると誤解されます。
そんなことはなくて、科学技術は好きです。ただし、本物であれば…。
冷蔵庫なし、洗濯機なし、炊飯器なし、電子レンジなし、などなど、非電化生活をしていて、添加物などの化学物質はなるべく身体に取り入れないというお話をすると、たまに、科学技術を否定していると誤解されます。
そんなことはなくて、科学技術は好きです。ただし、本物であれば…。
20151124
日本の奨学金制度について考えてみた。うーん、デンマークがうらやましい。
リテラにこんな記事が出ていました。
これでも奨学金は自己責任なのか? サラ金より過酷な取り立て、巨額延滞料、それでも借りるしかない現実!(リテラ 2015.11.24)
こんな本が紹介されていました。読んでみたいと思っています。
日本でもようやく少しずつ話題にされるようになってきた日本の教育支援体制の問題点。そもそも、日本の公的な奨学金は貸与型なので「奨学ローン」と呼ぶのが正しいようです。
日本は、ポツンと左上のゾーンにあります。つまり、学費が高くて、奨学金などの教育支援が少ない唯一の国だということです。Huffington postの記事「教育への公的支出日本は最下位 奨学金制度が鍵=OECD報告書」に簡単にまとまっていますので、ご覧になってみてください。
教育評論家の尾木直樹さんは、NHKの番組で次のように語っています。
「貧乏だもの、借りられるだけありがたい」と思って借りました。大学を出ればいい企業に入って一生安泰だから、らくらく返せると思っていた高校生のころ。でも、実際には、終身雇用の一生安泰な会社勤めの時代なんて、とっくの昔に終わっていた。私が高校生の頃にはすでに「過労死」という言葉が流行っていたし、今では「ブラック企業」「ブラックバイト」「社畜」なんて言葉が日常的に使われるくらい、働いて人間らしい暮らしを送るのが難しい時代になってしまっています。
いざ卒業してみると、返済のきついこときついこと・・。全部で400万円以上の借金をかかえて卒業しました。税金の控除があるとありがたいのですが、そんな制度は今のところありません。それでも、好きなことを仕事にして、返済できるだけ、恵まれています。
奨学金によるメリットは、学生に限定されるものではありません。前述のマガジン9の記事に、びしっとこう書かれています。
先ほどのグラフで、右下のゾーン、つまり学費が安くて奨学金が充実している国の一つ、デンマークの状況がひっじょーーーにうらやましいので駐日デンマーク大使館のツイートを引用します。本当の「先進国」ってこれなわけですよ。
これでも奨学金は自己責任なのか? サラ金より過酷な取り立て、巨額延滞料、それでも借りるしかない現実!(リテラ 2015.11.24)
こんな本が紹介されていました。読んでみたいと思っています。
日本の奨学金はこれでいいのか! ―奨学金という名の貧困ビジネス |
日本でもようやく少しずつ話題にされるようになってきた日本の教育支援体制の問題点。そもそも、日本の公的な奨学金は貸与型なので「奨学ローン」と呼ぶのが正しいようです。
"利子がつくか否かにかかわらず、返済しなければならない「奨学金」のことを、外国では「教育ローン」と呼ぶそうだ。日本の奨学金の概念は、国際標準からズレているらしい。"
*夢をかなえようと借りた奨学金を返すために、夢をあきらめる不条理(マガジン9 2011.2.2)より以下のグラフはOECDが2013年に発表した「図表で見る教育」からのデータです。縦軸が大学の学費の額(上に行くほど高く、下にいくほど安い)、横軸が公的な奨学ローンまたは奨学金(給付型)の恩恵を受ける学生の割合(右へ行くほど多く、左へいくほど少ない)です。
OECD「図表で見る教育」日本カントリーノートより |
教育評論家の尾木直樹さんは、NHKの番組で次のように語っています。
"国際人権規約で定められている「高校・大学の学費無償化条項」という項目があるのですが、この条項の批准を拒否しているのは、国連加盟国の中で日本とマダガスカルの二カ国だけなのです。国連からも、改めるよう勧告を受けています。"
【出演者感想】尾木直樹さん「日本の奨学金制度は国際標準とは呼べない」(NHK『シリーズ・貧困社会』2013.05.20より)日本の公的な教育支援体制が他国と比較したときに、大いに改善が求められるということを、私も数年前までは知りませんでした。
「貧乏だもの、借りられるだけありがたい」と思って借りました。大学を出ればいい企業に入って一生安泰だから、らくらく返せると思っていた高校生のころ。でも、実際には、終身雇用の一生安泰な会社勤めの時代なんて、とっくの昔に終わっていた。私が高校生の頃にはすでに「過労死」という言葉が流行っていたし、今では「ブラック企業」「ブラックバイト」「社畜」なんて言葉が日常的に使われるくらい、働いて人間らしい暮らしを送るのが難しい時代になってしまっています。
いざ卒業してみると、返済のきついこときついこと・・。全部で400万円以上の借金をかかえて卒業しました。税金の控除があるとありがたいのですが、そんな制度は今のところありません。それでも、好きなことを仕事にして、返済できるだけ、恵まれています。
奨学金によるメリットは、学生に限定されるものではありません。前述のマガジン9の記事に、びしっとこう書かれています。
"「奨学金は林業だ」と岡村さんは語っていた。貸与の効果は世代を超えて還元される、息の長い営みである。そして、その最大の受益者は社会だ。NHKの番組で学者が指摘していたが、人材を育てることが経済成長につながり、結果として国の競争力を高めると見れば、目先の「成果」だけにとらわれず国を挙げて支援すべきことは自明の理だろう。"国が教育を支援することは、貧乏人へのお情けではないのです。国全体の発展と幸福のために必要な投資です。
先ほどのグラフで、右下のゾーン、つまり学費が安くて奨学金が充実している国の一つ、デンマークの状況がひっじょーーーにうらやましいので駐日デンマーク大使館のツイートを引用します。本当の「先進国」ってこれなわけですよ。
デンマークでは大学院まで教育は全て無料です。その上政府が学生の生活費分まで給付をしてくれます。経済的な余裕がない学生でも教育を受ける権利を奪われることがないように配慮されています。
— 駐日デンマーク大使館 (@DanishEmbTokyo) 2015, 10月 22
デンマークでは全ての学生に月額8万円程度(条件により異なる)の給付金が支給されます(貸与ではなく支給されるので返済不要)。大学や大学院の授業料も無料ですので、基本的には個人の経済力に関わらず勉学の意思があれば大学院まで修了できます。小さなアパートを買って住む大学生も多いようです。
— 駐日デンマーク大使館 (@DanishEmbTokyo) 2015, 10月 23
ほんでもって、会社を出たあともこうです。
デンマークでは、最低賃金が時給110クローネ=約2,000円に定められています。
デンマークで仕事を探したいですか?こちらで探せます!
https://t.co/76Hfm0NvyR pic.twitter.com/7DcniyI3rH
— 駐日デンマーク大使館 (@DanishEmbTokyo) 2015, 10月 26
いやはや。。はい、デンマークで仕事を探したいですね。やはり教育は投資。繁栄しています。
#デンマーク、世界で3番目に「繁栄している国」に選ばれました!Legatum Institute @LegatumInst による、経済、起業の機会、政府、教育、健康、安全、個人の自由、社会資本の8つの要素の総合評価です。 pic.twitter.com/amfwftSaz1
— 駐日デンマーク大使館 (@DanishEmbTokyo) 2015, 11月 10
なぜ、デンマークはこんなに羨ましい状況なのか? それは政治への意識の高さにあるようです。
デンマークの投票率はOECDで第4位。上位3位の国は投票が義務で棄権すると罰金がある国ですので、デンマークは事実上、選挙で最も国民が投票に参加する国であると言ってもいいかも知れません。#デンマーク #選挙 #投票率 pic.twitter.com/JGql8e2QkY
— 駐日デンマーク大使館 (@DanishEmbTokyo) 2015, 11月 10
望む未来をつくることは、国民一人一人の意識と行動しだいです。日本がこんな状況なのは、政府のせいでも、おっさんたちのせいでもなく、自分たちの無頓着、無関心、無気力、無力感にある。デンマークを見習って、政治を通じても声を届ける努力をしていきたいです。20151119
「テロ」のこと
【旧暦神在月八日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせんのこと}がさく)】
この前あるグループワークに参加しました。どんな生き方、働き方がしたいか、どんな生き方、働き方はしたくないかをシェアするというものでした。
そのときに、20代の方が「優しくありたい。優しくあるには、自分に余裕がないとできない。自分がまずは満たされている必要がある」とおっしゃいました。
また別な若い方が、「わるいことをする人というのは、よくよく事情を聞いてみると、それをしてしまうのがわかる事情や考え方がある」とおっしゃいました。
こういう感覚は、社会のいろいろなことを考えるうえで、すごく大事な見方だと思いました。こうした感覚があれば、なにか残忍なことが起こったときに、単純に犯人を見つけてやっつけるのではなくて、その根本の原因を探って、解決に向かうために行動を起こすことができるからです。
パリで残忍な同時多発テロ事件があり、とても悲しい気持ちでいます。欧米と日本のメディアを見ていると、「ISISのせいだ、あいつらを許すな、やっつけろ!」という論調が多く見られますが、ほかの多くの社会的な問題がそうであるように、この事件の原因にはさまざまなことが関係していて、ISISを絶やせば世界が平和になるというほど、単純な問題ではありません。本当の原因を見極めて、根本治癒を目指さないかぎり、ISISがいなくなっても、また同じ苦しみが繰り返されると思います。
私の意見は以下に挙げる2つの論説に近いです。
*東京新聞 週のはじめに考える 9・11からパリ・テロへ
根本の原因は、志葉玲さんが記事で指摘されていることだと思います。
日本を含めた欧米諸国は、自分たちがしていることを直視しようとしていません。以下の記事が象徴的です。
*欧米からは完全に無視…“もうひとりのマララ”の悲惨な境遇(日刊ゲンダイ)
*ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その1) 無人機が奪った未来(毎日新聞)
別の記事で、プーチン大統領の側近が"ISIS is a byproduct of US policies in the Middle East.”(ISISは中東におけるアメリカの政策の副産物だ)と述べていました。
これは、ノーム・チョムスキー氏に関する映画で見たこととも共通しています。田中優さんの本「戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方」で読んだこととも共通するものがありました。
日本がすべきことは、アメリカと一緒に戦争をすることではなくて、まずは石油への依存をやめることだと思います(だから私はガソリン車を持ちたくないし、プラスチックや鉱物由来成分を含め、石油製品を使いたくない。有効活用されていない自前のエネルギー源を使うほうを選ぶ)。石油の魅力がなくなれば、資金源として役立たなくなるからです。そして、さらに言えば、中東を含め、世界で紛争や代理戦争の舞台となっている国や地域は、石油がたくさん出るところです。石油への依存をなくし、石油の魅力をなくしてしまえば、戦争をする理由がなくなる。これも真の平和へ向けた1つの非暴力的アプローチだと思います。
そして、国際社会は協力して、中東を無差別に爆撃するのではなく、苦しみのさなかにいる人たちの暮らしを一刻も早く楽にするよう協調し、憎悪の連鎖を率先して断つべきだと思います。その意味でも、日本は暴力を放棄し、暴力によって問題を解決しないという憲法を持っているのに、それを反故にすることは、憎悪の連鎖に加わることとなり、本当の平和からは退行するアプローチです。時間はかかることで、人権意識や支配的なシステムなどといった自分たちの未熟な部分と向き合って乗り越えていく苦しい毒出しもきっとあるでしょう。しかし、それは本当の平和と安全で快適な暮らしを実現するために必要な毒出しです。平和とは、与えられるものではなく、苦しくても、一人一人の在り方で創りあげていくものだと思います。
この前あるグループワークに参加しました。どんな生き方、働き方がしたいか、どんな生き方、働き方はしたくないかをシェアするというものでした。
そのときに、20代の方が「優しくありたい。優しくあるには、自分に余裕がないとできない。自分がまずは満たされている必要がある」とおっしゃいました。
また別な若い方が、「わるいことをする人というのは、よくよく事情を聞いてみると、それをしてしまうのがわかる事情や考え方がある」とおっしゃいました。
こういう感覚は、社会のいろいろなことを考えるうえで、すごく大事な見方だと思いました。こうした感覚があれば、なにか残忍なことが起こったときに、単純に犯人を見つけてやっつけるのではなくて、その根本の原因を探って、解決に向かうために行動を起こすことができるからです。
パリで残忍な同時多発テロ事件があり、とても悲しい気持ちでいます。欧米と日本のメディアを見ていると、「ISISのせいだ、あいつらを許すな、やっつけろ!」という論調が多く見られますが、ほかの多くの社会的な問題がそうであるように、この事件の原因にはさまざまなことが関係していて、ISISを絶やせば世界が平和になるというほど、単純な問題ではありません。本当の原因を見極めて、根本治癒を目指さないかぎり、ISISがいなくなっても、また同じ苦しみが繰り返されると思います。
私の意見は以下に挙げる2つの論説に近いです。
*東京新聞 週のはじめに考える 9・11からパリ・テロへ
*志葉玲さん ISを空爆するより、Facebookプロフをフランス国旗化するより、大事なこと―パリ同時多発テロ(結びが本当にすばらしいのでぜひ最後まで読んでください)
根本の原因は、志葉玲さんが記事で指摘されていることだと思います。
"何故、テロが起きるのか。IS的な過激思想に走る人間が出てくるのか。その根源には、「自由と民主主義」への絶望、そして憤りがある。空爆された市場で、猛烈な爆撃で地面ごとえぐり取られた民家跡で、血と膿と消毒薬の匂いただよう病院の中で、悲しみ、憤る中東の人々の、心が千切れるような絶叫を、私は何度も聞いた。”
日本を含めた欧米諸国は、自分たちがしていることを直視しようとしていません。以下の記事が象徴的です。
*欧米からは完全に無視…“もうひとりのマララ”の悲惨な境遇(日刊ゲンダイ)
*ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その1) 無人機が奪った未来(毎日新聞)
中東の過激派に襲われたマララさんは世界の注目を浴び、救済されているのに対し、アメリカの無人偵察機に爆撃された罪なきナビラさんは無視され、家族みんなで苦しい生活をしている。ナビラさんのような人がほかにもたくさんいるのだと思います。なぜ、中東の過激派が犯した蛮行には注目が集まるのに、アメリカが犯している残虐な攻撃は許されるのでしょうか。アメリカ側は対「テロ」戦争といいますが、アメリカ側がしていることも「テロ」と全く同じに私には見えます。
中東の人々は、欧米が過去にした戦争、そして今もテロ撲滅を掲げての欧米諸国からの空爆で、ずっと悲惨で苦しい生活を強いられています。希望を持つことができません。彼らへしているひどいことを素直に謝って、お詫びをし、彼らが希望を持って暮らしていけるようにすることが、根本的な治癒だと私は思います。
「自分に余裕がないと優しくなれない」「わるいことをする人にも事情がある」―人生に絶望した人、心が壊れてしまった人たちが殺し屋になってしまう。私はテロをする人たちの心境、事情を想像すると―想像を絶するほどの苦しみと悲しみ―、その人たちのこともかわいそうでかわいそうで心が痛くなります。暴力はもちろん許されることではないけれど、欧米諸国も暴力をしている。復讐に復讐しても、もっとひどい復讐を生む悪循環になるだけです。
解決に向かうためには、真実と向き合うことが不可欠です。ロシアのプーチン大統領はISISの存在を支えているものについて、以下のように語っています。
中東の人々は、欧米が過去にした戦争、そして今もテロ撲滅を掲げての欧米諸国からの空爆で、ずっと悲惨で苦しい生活を強いられています。希望を持つことができません。彼らへしているひどいことを素直に謝って、お詫びをし、彼らが希望を持って暮らしていけるようにすることが、根本的な治癒だと私は思います。
「自分に余裕がないと優しくなれない」「わるいことをする人にも事情がある」―人生に絶望した人、心が壊れてしまった人たちが殺し屋になってしまう。私はテロをする人たちの心境、事情を想像すると―想像を絶するほどの苦しみと悲しみ―、その人たちのこともかわいそうでかわいそうで心が痛くなります。暴力はもちろん許されることではないけれど、欧米諸国も暴力をしている。復讐に復讐しても、もっとひどい復讐を生む悪循環になるだけです。
解決に向かうためには、真実と向き合うことが不可欠です。ロシアのプーチン大統領はISISの存在を支えているものについて、以下のように語っています。
・ISISの多くは雇われた傭兵で、賃金の高いところで殺し屋をやる
・その賃金の資金源は石油の販売による収益
と言われています。
(YouTubeに動画があったのですが、削除されてしまったので、文字起こしのリンクを付けておきます→☆)
(YouTubeに動画があったのですが、削除されてしまったので、文字起こしのリンクを付けておきます→☆)
石油がISISの資金源であることはguardianにも過去に書かれています。
*Inside Islamic State’s oil empire: how captured oilfields fuel Isis insurgency
資金源を断つ、つまり、ISISから石油を買っている人たちが、石油を買うことをやめれば、もっと言えば、ISISから石油を買っている人たちから石油を買わないようにすれば、ISISの活動を大きく縮小することができるはずです。
では、ISISから石油を買っている人たちは誰なのか? プーチン大統領は、最近、ISISから石油を買っている国がG20を含む40カ国であることを突き止め、欧米諸国の首脳たちに知らせています。
*Putin: ISIS financed from 40 countries, including G20 members
別の記事で、プーチン大統領の側近が"ISIS is a byproduct of US policies in the Middle East.”(ISISは中東におけるアメリカの政策の副産物だ)と述べていました。
これは、ノーム・チョムスキー氏に関する映画で見たこととも共通しています。田中優さんの本「戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方」で読んだこととも共通するものがありました。
日本がすべきことは、アメリカと一緒に戦争をすることではなくて、まずは石油への依存をやめることだと思います(だから私はガソリン車を持ちたくないし、プラスチックや鉱物由来成分を含め、石油製品を使いたくない。有効活用されていない自前のエネルギー源を使うほうを選ぶ)。石油の魅力がなくなれば、資金源として役立たなくなるからです。そして、さらに言えば、中東を含め、世界で紛争や代理戦争の舞台となっている国や地域は、石油がたくさん出るところです。石油への依存をなくし、石油の魅力をなくしてしまえば、戦争をする理由がなくなる。これも真の平和へ向けた1つの非暴力的アプローチだと思います。
そして、国際社会は協力して、中東を無差別に爆撃するのではなく、苦しみのさなかにいる人たちの暮らしを一刻も早く楽にするよう協調し、憎悪の連鎖を率先して断つべきだと思います。その意味でも、日本は暴力を放棄し、暴力によって問題を解決しないという憲法を持っているのに、それを反故にすることは、憎悪の連鎖に加わることとなり、本当の平和からは退行するアプローチです。時間はかかることで、人権意識や支配的なシステムなどといった自分たちの未熟な部分と向き合って乗り越えていく苦しい毒出しもきっとあるでしょう。しかし、それは本当の平和と安全で快適な暮らしを実現するために必要な毒出しです。平和とは、与えられるものではなく、苦しくても、一人一人の在り方で創りあげていくものだと思います。
20151118
ノマドか、エグゼクティブか
【旧暦神在月七日 立冬 金盞咲(きんせんか[=すいせん}がさく)】
ノマド的な働き方とか、二地域居住とか、個人の自由を謳歌する働き方にも憧れる一方で、大企業や大きな組織で何かを大きく動かして社会に大きく貢献するような働き方にも憧れる。その辺、どうなんだろう?というような感じの質問をされたことがあります。
結論から言うと、どっちもやってみたらいいと思う。それで、合うほうを選んだらいい。こればっかりはやってみないことにはわからない・・・と言ってしまうと、ちょっと突き放しすぎな気がするので、今まで見聞きした範囲から私が考えていることを書きたいと思います。
私自身は、個人の自由を謳歌する働き方が働き始めてからのほとんどを占めていますが、大きな組織を垣間見る機会もありました。「社会貢献」をしたい、と思ったときに、どっちにも、やりやすいこととやりにくいことがあると思っています。やりやすいことを最大限発揮できて、やりにくいことはやりやすく変えていけるほうを選んだらいいと思います。
たとえば、大きな組織になると、個人として感じていることと、組織の一員としてしなければならないこととの間に大きな隔たりがあることもあるようです。私が2カ月だけいた中規模の会社でもそうでした。
そのジレンマを、組織の下層にいる間は我慢して、上層に上がってから変えていこうと思って耐えているうちに、だんだん個人の感覚が麻痺してきたり、上に上がるときにいろんなしがらみができたり、どんどんものが言えなくなって、結局、丸くなって終わる、という体験談も聞きました。
他方で、内側から変えていく勇気と粘り強さ、交渉力、推進力を持って、諦めることなく、組織のなかでいいことを広げている人の話も聞いたことがあります。組織と一口にいってもいろいろあって、自分にとってそういうことがしやすい組織だったら、組織で内側からいいことを広げていくのもやりがいのあることだと思います。
個人の自由を謳歌する働き方で、「社会貢献」に関して、だいぶやりやすいなと思うことは、
・やってはいけないことをしなくていい
・やってはいけないことに加担しなくていい
・やったほうがいいことをすぐに実行できる
・時間に余裕があるから、環境と社会のことをよく調べて考える時間がある
・よく調べて考えて買い物をしたり、意見を伝えたりすることで外側から働きかけができる時間がある
・いいことをしている人たちと網の目のようにつながって一緒に何かを始めることができる
あたりでしょうか。個人の決定権が大きいというのが一番の決め手だと思います。
たとえば、コピー用紙ひとつをとっても、パートタイムで行っていた会社では住民を焼き討ちにして追い出してまで熱帯雨林を破壊して作られた紙を使っていて、それを変えることは私にはできませんでしたが、個人で使う紙だったらすぐに変更することができます。家で使う紙は、びわ湖の森の間伐材と再生紙を使った「びわ湖の森の木になる紙」か、FSC森林認証紙にしていて、会社よりはわずかかもしれないけれど、少しでも、熱帯雨林の破壊を少なくできて、日本の森を再生するお手伝いができています。
やりにくいことは、やっぱり大金が必要なプロジェクトとかでしょうか。でも、そこの部分は長期的な目で見て、少しずつコツコツ幅広くいいことを積み重ねていって、じわじわと社会にいいことを広げていくやり方で補えるんじゃないかなぁとも思っています。
そして、そもそも、「社会貢献」ってなんなんだろうか?という、自分なりの定義や条件をしっかり持っておく必要があると思います。その定義や条件は、つねにアンテナを高くして、つねにアップデートしていかなければならないものです。そうしないと、「社会貢献をしている!」と思っていたのに、実際には、戦争に加担していたり、環境汚染や環境破壊につながっていたり、自由を妨げていたり、不公正や貧困を助長していたり、格差や差別を広げていたり、ということが往々にしてあるからです。
わかりやすい例として、原発はクリーンな未来のエネルギーだと言われていました。温室効果ガスの排出がないからというのが根拠です。これを鵜呑みにしている人にとっては、原発産業の推進は彼らにとっての「社会貢献」になります。
でも、稼働中も放射能を出し続け、ウランを掘る労働者には採掘中に大量の放射線を被ばくさせ、現場でも被曝労働者の犠牲なしに稼働することができず、周辺の海域の海水温を上げて生態系に悪影響を与え、大量に出る使用済み核燃料を安全に処理する技術がないために十万年以上も管理し続けなければならず、核爆弾をいつでも作れる状態をつくっている。これを知っている人たちにとっては、原発産業の推進は、「社会貢献」どころか、環境破壊と人権侵害以外のなにものでもありません。(原発のことを勉強するようになったころのことはこちらに書いています→「20130413脱原発を願うようになった経緯」)
こうしたケースが、さまざまな分野において見受けられます。だから、「社会貢献」をするうえでは、何をもって社会貢献とするのかを判断する、たしかな目と、自分なりの定義が不可欠です。
ノマド的な人たちはもしかしたら、世捨て人的な感じに思われるのかもしれません。でも私の知っているノマドワーカーたちは、ものすごく優秀で、その能力を十分に活かして社会貢献をしています。私自身も、暮らしが豊かだから、仕事もいい仕事ができているように思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、私の仕事は感性と思考力の両方が求められるので、心身の健康によって仕事にも多少なりとも変化が出ます。
自然系の人たちのなかには、世捨て人のような暮らしをしている人もいますが、二刀流の人もいて、私は後者です。世間に背を向けているわけではなくて、世間の支配的な動きに振り回されないように、徐々にシステム依存を減らして自分の自由度を高めている一方で、それがまだできない大多数の人たちが困らないように、見識を磨いたり、意見を発表したり、署名をしたり、お金や時間の使い方で意思表明をしたり、できないをできるに変えられるように情報や知恵を共有したりと、できる限りのことをするように努めていて、まわりでもそういう人が多いように感じています。
まずは、そもそも社会貢献ってなんだろう?ということをよく調べて考えてみて、そのうえで、自分は世の中に何ができるだろう?、何はしたくないんだろう?と考えてみるのはどうでしょうか。そうして、それらを実現するために、ぴったりのスタイルをいろいろ試してみて見つけていったら、いいんじゃないかなぁと思います。
ノマド的な働き方とか、二地域居住とか、個人の自由を謳歌する働き方にも憧れる一方で、大企業や大きな組織で何かを大きく動かして社会に大きく貢献するような働き方にも憧れる。その辺、どうなんだろう?というような感じの質問をされたことがあります。
結論から言うと、どっちもやってみたらいいと思う。それで、合うほうを選んだらいい。こればっかりはやってみないことにはわからない・・・と言ってしまうと、ちょっと突き放しすぎな気がするので、今まで見聞きした範囲から私が考えていることを書きたいと思います。
私自身は、個人の自由を謳歌する働き方が働き始めてからのほとんどを占めていますが、大きな組織を垣間見る機会もありました。「社会貢献」をしたい、と思ったときに、どっちにも、やりやすいこととやりにくいことがあると思っています。やりやすいことを最大限発揮できて、やりにくいことはやりやすく変えていけるほうを選んだらいいと思います。
たとえば、大きな組織になると、個人として感じていることと、組織の一員としてしなければならないこととの間に大きな隔たりがあることもあるようです。私が2カ月だけいた中規模の会社でもそうでした。
そのジレンマを、組織の下層にいる間は我慢して、上層に上がってから変えていこうと思って耐えているうちに、だんだん個人の感覚が麻痺してきたり、上に上がるときにいろんなしがらみができたり、どんどんものが言えなくなって、結局、丸くなって終わる、という体験談も聞きました。
他方で、内側から変えていく勇気と粘り強さ、交渉力、推進力を持って、諦めることなく、組織のなかでいいことを広げている人の話も聞いたことがあります。組織と一口にいってもいろいろあって、自分にとってそういうことがしやすい組織だったら、組織で内側からいいことを広げていくのもやりがいのあることだと思います。
個人の自由を謳歌する働き方で、「社会貢献」に関して、だいぶやりやすいなと思うことは、
・やってはいけないことをしなくていい
・やってはいけないことに加担しなくていい
・やったほうがいいことをすぐに実行できる
・時間に余裕があるから、環境と社会のことをよく調べて考える時間がある
・よく調べて考えて買い物をしたり、意見を伝えたりすることで外側から働きかけができる時間がある
・いいことをしている人たちと網の目のようにつながって一緒に何かを始めることができる
あたりでしょうか。個人の決定権が大きいというのが一番の決め手だと思います。
たとえば、コピー用紙ひとつをとっても、パートタイムで行っていた会社では住民を焼き討ちにして追い出してまで熱帯雨林を破壊して作られた紙を使っていて、それを変えることは私にはできませんでしたが、個人で使う紙だったらすぐに変更することができます。家で使う紙は、びわ湖の森の間伐材と再生紙を使った「びわ湖の森の木になる紙」か、FSC森林認証紙にしていて、会社よりはわずかかもしれないけれど、少しでも、熱帯雨林の破壊を少なくできて、日本の森を再生するお手伝いができています。
やりにくいことは、やっぱり大金が必要なプロジェクトとかでしょうか。でも、そこの部分は長期的な目で見て、少しずつコツコツ幅広くいいことを積み重ねていって、じわじわと社会にいいことを広げていくやり方で補えるんじゃないかなぁとも思っています。
そして、そもそも、「社会貢献」ってなんなんだろうか?という、自分なりの定義や条件をしっかり持っておく必要があると思います。その定義や条件は、つねにアンテナを高くして、つねにアップデートしていかなければならないものです。そうしないと、「社会貢献をしている!」と思っていたのに、実際には、戦争に加担していたり、環境汚染や環境破壊につながっていたり、自由を妨げていたり、不公正や貧困を助長していたり、格差や差別を広げていたり、ということが往々にしてあるからです。
わかりやすい例として、原発はクリーンな未来のエネルギーだと言われていました。温室効果ガスの排出がないからというのが根拠です。これを鵜呑みにしている人にとっては、原発産業の推進は彼らにとっての「社会貢献」になります。
でも、稼働中も放射能を出し続け、ウランを掘る労働者には採掘中に大量の放射線を被ばくさせ、現場でも被曝労働者の犠牲なしに稼働することができず、周辺の海域の海水温を上げて生態系に悪影響を与え、大量に出る使用済み核燃料を安全に処理する技術がないために十万年以上も管理し続けなければならず、核爆弾をいつでも作れる状態をつくっている。これを知っている人たちにとっては、原発産業の推進は、「社会貢献」どころか、環境破壊と人権侵害以外のなにものでもありません。(原発のことを勉強するようになったころのことはこちらに書いています→「20130413脱原発を願うようになった経緯」)
こうしたケースが、さまざまな分野において見受けられます。だから、「社会貢献」をするうえでは、何をもって社会貢献とするのかを判断する、たしかな目と、自分なりの定義が不可欠です。
ノマド的な人たちはもしかしたら、世捨て人的な感じに思われるのかもしれません。でも私の知っているノマドワーカーたちは、ものすごく優秀で、その能力を十分に活かして社会貢献をしています。私自身も、暮らしが豊かだから、仕事もいい仕事ができているように思います。どんな仕事もそうかもしれませんが、私の仕事は感性と思考力の両方が求められるので、心身の健康によって仕事にも多少なりとも変化が出ます。
自然系の人たちのなかには、世捨て人のような暮らしをしている人もいますが、二刀流の人もいて、私は後者です。世間に背を向けているわけではなくて、世間の支配的な動きに振り回されないように、徐々にシステム依存を減らして自分の自由度を高めている一方で、それがまだできない大多数の人たちが困らないように、見識を磨いたり、意見を発表したり、署名をしたり、お金や時間の使い方で意思表明をしたり、できないをできるに変えられるように情報や知恵を共有したりと、できる限りのことをするように努めていて、まわりでもそういう人が多いように感じています。
まずは、そもそも社会貢献ってなんだろう?ということをよく調べて考えてみて、そのうえで、自分は世の中に何ができるだろう?、何はしたくないんだろう?と考えてみるのはどうでしょうか。そうして、それらを実現するために、ぴったりのスタイルをいろいろ試してみて見つけていったら、いいんじゃないかなぁと思います。
20151101
寿命なんて思い込みかもの巻
【旧暦長月廿日 霜降 霎時施(こさめときどきふる)】
昨日の記事で、年齢に対する強い思い込みを外せば人間は150歳くらいまで生きられるんじゃないか、という話を書きました。
実際にそういう話をしている人がいました。95歳のトルコのヨガ師範カジムさんです。
うーん、写真を拝見しても、とても95歳には見えない。40歳でヨガと健康的な食生活を始めて、体力は30代のころと変わらないそうです。「心をそこに向けさえすれば、人は誰でも130才まで生きられる」と語っています。
私が150歳とか200歳とかまで生きられるやろーと思うようになったのは、一番最初のきっかけは、友人のススメで「神との対話」を読み、神さまが人間の身体を500年くらいは保つように作っているのに、人間は変なもの(化学物質とか)を身体に詰め込みまくるから、100年未満しかもたないと話していて衝撃を受けたからでした。その後読んだ、「引き寄せの法則―エイブラハムとの対話」にも強い思い込みが寿命を作っているというような話が出てきます。
心の持ちようはやっぱり大切。
昨日の記事で、年齢に対する強い思い込みを外せば人間は150歳くらいまで生きられるんじゃないか、という話を書きました。
実際にそういう話をしている人がいました。95歳のトルコのヨガ師範カジムさんです。
毎日のヨガが健康の秘訣?見た目も中身も若すぎる95才のトルコ人男性が話題に
うーん、写真を拝見しても、とても95歳には見えない。40歳でヨガと健康的な食生活を始めて、体力は30代のころと変わらないそうです。「心をそこに向けさえすれば、人は誰でも130才まで生きられる」と語っています。
私が150歳とか200歳とかまで生きられるやろーと思うようになったのは、一番最初のきっかけは、友人のススメで「神との対話」を読み、神さまが人間の身体を500年くらいは保つように作っているのに、人間は変なもの(化学物質とか)を身体に詰め込みまくるから、100年未満しかもたないと話していて衝撃を受けたからでした。その後読んだ、「引き寄せの法則―エイブラハムとの対話」にも強い思い込みが寿命を作っているというような話が出てきます。
心の持ちようはやっぱり大切。
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