2016年の映画『はなちゃんのみそ汁』の「はなちゃん」が書いたエッセイとレシピの本。映画では5歳だったはなさんが成長して12歳のときに書いている。レシピや食についてのコラムがおもしろかっただけではなく、ユーモアもあり、自分のことも将来の目標もしっかり考えていることが伝わってきて、本当に立派な人だなあと思った。
『はなちゃん12歳の台所』 (安武はな・著/タカコ・ナカムラ・レシピ監修/家の光協会・刊) |
はなさんは5歳のときから味噌汁を作っている。かつての私のように、化学調味料をぱっぱっと振り入れるとか、だし入り味噌を使うとか、インスタントをお湯に溶くとか、そういうのとは正反対。しっかり昆布と鰹節でだしを取る。しかも、鰹節を削るところからだ。
はなさんに味噌汁の作り方を教えてくれたのは、他界したお母さん。お父さんも料理をするようだが、はなさんに生きていく力をつけさせたくて、お母さんがこの世にいる間にはなさんにきちんとした料理を教えておきたかったのではないかと思う。「食べることは生きること」という言葉を思い出す。
はなさんは料理が好きで、月に1回、料理教室に通っているほど。お父さんの高血圧が心配で、はなさんの作る料理で「パパの血圧を下げてやるぞ」との決意から、12歳のときに夕食を一品作ることを毎日やることリストの1つに加えたそう。お父さんは血圧が高いが、濃い味付けの料理が好きで、血圧がなかなか下がらないとのことで、「というか、自覚が足りない。困ったものです」と書かれていた。思わず笑ってしまった。
自分でも料理が好きで、お母さんの想いを引き継ぎ、お父さんを大切に思う気持ちもあって、料理をしているはなさんだが、映画やドラマの反響の後、「お母さんが味噌汁の作り方を教えるべきだったのは、はなちゃんではなくて父親のほう」「子どもに料理をやらせるなんて虐待だ」という意見も寄せられたそうだ。そんなふうに考える人もいるのか、とびっくりした。
率直に言って、こうした意見は自分のことしか見えていないと思う。はなさんやはなさんの家族がどう考えているのか、どう感じているのか、といったことを尊重するのではなく、自分の判断基準に当てはめて、短絡的に答えを出し、その言葉をぶつけて、成敗したような気になっている。思慮深い行動ではないと感じる。
小さい子に、家事を手伝わせるのは虐待なのだろうか?
かわいそうなことなのだろうか?
子どもがやりたくなくて嫌がっても親に強制されて泣く泣く家事をやらされているのであれば、それはかわいそうなことかもしれない。遊ぶ時間もなく、ただ親の召使いのように、こき使われて、やらなければ罵倒されたり、殴られたりしているのなら、それは虐待だろう。でも、はなさんの場合、そうではないことは明らかだ。
小さい子を見ていると、大人のすることをなんでもやりたがる子が多いように思う。2~3歳くらいの子は、よく「自分で、自分で」と言う。大人にボタンをとめてもらったり、靴を履かせてもらったり、スプーンで口に食べ物を入れようとされたりすると、「自分で、自分で」と言って、大人の手を払ったり、大人の手からスプーンを奪ったりする。大人が包丁やのこぎりを使っているのを小さな子が見て、「やりたい」と言って聞かないこともある。
子どもが家事をやりたいという気持ちは尊重したほうがいいのではないだろうか。
私は1歳のとき、親のまねをして妹に哺乳びんでミルクをあげて喜んでいたらしい。妹がかわいかったし、親も喜んでくれるから、うれしかったのだろうと想像する。
6歳のとき、親が病気で数か月入院して、家事をするようになった。親戚が手伝いにも来てくれたが、親戚もそっと見守りながら、わりと自由にやらせてくれた。
その頃は、親もまわりの人も含め、食の安全や自然食に触れる機会が全くなかったので、はなさんのようなきちんとした料理ではなかったが、「自分にもおいしいものが作れるんだ!」という感覚は自信につながった。ガス代がもったいないからと、ほうれん草を茹でたお湯でマカロニを茹でて、マカロニの穴にほうれん草の根元から出たと思われる砂が入ってジャリジャリするという失敗もあった。失敗を繰り返したり、家族や親戚に教わりながら、だんだん上達したような記憶がある。
親が退院した後も、家事の分担に加わった。いやいやではなく、むしろおもしろがっていた。中学校、高校になると、テスト勉強や宿題が多くなって、家事の分担を負担に思っていたような気がするが…。今思えば、親は仕事も家事もそのほかいろいろもやることがたくさんありすぎて、やりたいことは全然できないくらいだったので、手伝ってよかったなあと思う。家族の暮らしは家族みんなで作るもの。子どもでも、できることでどんどん参加してもらうのはいいことだと思う。
大人になってから振り返ると、わりと小さい頃から家事をさせてもらったことに感謝している。生きていく力がついたから。小さいときにやると、コツを掴むのが早い。自分で味見をして繰り返し作ることを通じて、塩加減の感覚がちゃんとついた。舌がちゃんとできているから、一人暮らしをすることになっても苦労しなかった。
家事だけでなく、小さいころは家の仕事の手伝いも遊びのようなものだった。うちは果樹園で、畑に一緒に連れて行って、私を見守りながら親は仕事をしていた。私は広い畑で遊んでいたようだ。
親から聞いた話だが、私は5歳のころ、親のまねをして、収穫かごに実をいっぱいに取って入れたものの、重くて運ぶことができず、かごを引きずって登場したという。うっすら記憶に残っている。親は実に傷がつくと売り物にならないので青ざめたらしいが、怒られはしなかった。収穫がしたくて、学校をずる休みさせてもらったこともある。
小さい頃はは元気いっぱいで動き回れて、「ありあまる元気を何に使おう?」という感じだったように思う。その元気を発散しきれないとかんしゃくを起こしたり。元気があり余っていて、どんどん親のやることを覚えて、役に立ちたい気持ちが強かったような気がする。
『クーヨン』(2019年1月号)に載っていたが、モンテッソーリ教育では、2歳頃はなんでも自分でやりたがる時期だと言われているそうだ。どんどんお手伝いをさせるのが推奨されている。大人は自分でやったほうが速いし、見ていると危なっかしくてヒヤヒヤするので、なかなかやらせたくないものかもしれないが、いろいろなことを習得するのがかなりスムーズなこの時期に、生きるために必要な技術を実践させないのはもったいない気がする。
家事を自分ですることは自立につながる。誰かに料理を作ってもらわないと食事ができない、誰かに掃除をしてもらわないと部屋を清潔に保てない、誰かに洗濯をしてもらわないと着るものもままならない、こんな状態で大人になってしまったら、誰かに自分の幸せや人生を依存することになる。
自分で自分のことができない人は、お金や束縛、契約などによって、だれかに自分でするはずのことをやらせることになる。自分の生活や幸福が、誰かの犠牲の元に成り立っている。それでいいのだろうか。
自分で自分のことができる人は、自分の身体を自分で健康に保ち、清潔を保ち、元気に過ごせる。元気だから、誰かのためになにかしたくなったりして、誰かに料理を作って喜んでもらったり、元気にしたりもできる。自分が元気になって、大切な誰かも元気にできて、そしてそれが自分のさらなる喜びにもなる。
家事をする能力は、生存能力をアップさせるだけではなく、他のさまざまなスキルのベースになると思う。
段取りや順序を考えることはプロジェクトの運営能力や管理能力につながる。何かを達成したいとき、何かを学んで身につけたいとき、何かを作り上げたいときにも、最短距離で無駄なく進んでいく力になる。学校の勉強においても、学習能力の基礎にもなるのではないだろうか。
限られた時間内に家事をすることは、時間を効率的に使う能力も培う。これはタイムマネジメント能力そのものだ。本屋さんに行けばタイムマネジメント術の本が山のように並んでいるほど、大人になってからもまだ身についていなくて困っている人も多い。
予算を考えてやりくりすることで、お金の管理能力も身につく。料理はありあわせでぱぱっと作らなければならないときもある。今あるもので最善を尽くすことを繰り返すことで、臨機応変に対応する能力もついてくる。
思いつくままに挙げてみただけでも、これだけある。それだけでなく、料理はとてもクリエイティブな仕事だと思う。創造力も毎日鍛えることができる。
子どもが嫌がらないのであれば、あるいはむしろやりたがったり、自分でやると決めて取り組んだりするのであれば、早い段階で家事の手伝いを教えるのは、子どもの将来のためになる。虐待でも、かわいそうなことでも全くないと思う。
「子どもは子どもらしく」という型にはめて、子どもを見るのではなく、「その人らしく」あるかどうかを見るのが大切なのではないだろうか。なにかをやりたい気持ちになったり、できるようになったりする時期は個人差がある。自分が知っている範囲の「平均」的なものよりも多少早いからといって「子どもらしくない」と断罪するのは、だれのためにもならない。
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