20190528

望まされている望みと、自分の本当の望みを区別する

ツバメノートは書きやすくて、もう何冊も使っている。クリスマスが近いある日のこと、使用中のノートがあと数ページになっていることに気づき、近所のショッピングモールへ買いに出かけた。

文房具コーナーへ着くと、いつもツバメノートがあった場所がゲームだらけになっていた。ツバメノートは隅っこに見つかった。クリスマスシーズンだけに、サンタクロースにどのゲームをねだろうか、子どもたちに目移りさせようという作戦だろうと想像した。

色とりどりに装飾され、楽しそうに演出され、華々しく宣伝されて、動画ディスプレイでは夢中になってしまいそうなゲームの一幕が繰り返し映し出されている。テレビCMなどでも盛んに宣伝されているのだろう。子どものころに通ったら、もしかしたら欲しくてたまらなくなってしまったかもしれない。

この光景を見ていて、多くの人が「欲しい」と思っているものは、本当に本人が「欲しい」と思っているものなのだろうか?と疑問に思った。

ゲームも見なければ欲しくならなかっただろうし、ここまで「ものすごく楽しいものですよ!」と刷り込まれなければ欲しくはならないかもしれない。「欲しい」と思っているものは、自分が本当に望んでいるものではなく、誰かに操縦されたり、誘導されたりした結果、「欲しい」と思わされているものかもしれない。

流行っているから欲しい。みんな持っているから欲しい。憧れの芸能人が持っているから欲しい。ブランド物だから欲しい。こういう類の「欲しい」は、本当の自分の「欲しい」ではない可能性が高い。

広告やマーケティングによって、望みが仕向けられ、まんまと策略にはまってしまう場合もある。

コンタクトレンズの広告を見ていると、メガネのときは暗くて地味で垢抜けない感じに演出された眼鏡をかけた若い女性が、コンタクトレンズにして「きれいに」なり、明るくなって人生が華やぐ、といったものが多すぎてヘドが出る。コンタクトレンズにした途端、彼氏ができたり。そんな見た目でしか判断できないような人間が素敵な人なはずがない。

あんなものは、売りたい側の人間に都合よく作られた虚構にすぎないのに、繰り返し見せられているうちに、眼鏡をかけている人が「私、眼鏡かけてる。眼鏡かけてるときれいじゃないのかも? 素敵なパートナーに出会えないかも」などと不安になり、「コンタクトレンズにしたい!」という望みを持つようになる。眼鏡が似合う素敵な人も、素晴らしい伴侶と巡り合って、幸せな人生を築いている人も、現実にはたくさんいる。

仕向けられている望みには、いくつか種類があるように思う。

承認欲求を利用しているもの(SNSで「いいね」をいっぱいもらえるとか)。仲間意識を利用するもの(みんなと一緒がいいとか、浮くのは嫌だとか)。恐怖や不安を利用しているもの。簡単に得られる満足や達成感、幸福感を与えて中毒状態に陥らせるもの。刷り込まれた固定観念に基づくもの。

誰かや組織が人の望みを操ったり、仕向けたりしてくるのは、それが自分の利益になるからだ。だから、そういうワナに陥って、大事な自分のエネルギーを他者に吸い取られないように、自分の望みなのか、望まされているものなのかを明確に見分ける必要がある。

区別するには、たとえば、こういったことが役立つかもしれない。

何かが欲しいと思ったとき、あるいは、こんなふうになりたい、と思ったとき、それはなぜなのか、思いつく限り理由を書き出してみる。思いつく限り理由が並んだら、その理由はさらになぜなのかを1つずつ、思いつかなくなるまで掘り下げていく。

それが手に入らなかった場合、あるいは、それが実現しなかった場合、状況がどんなふうになるかを想像してみる。案外、あってもなくても大して変わらない場合が多い。

ないことで、恐怖心や不安が起こるとしたら、それは本当の望みではないかもしれない。法的に絶対にアウトだとか、どう考えても危ないとか、そういう場合を除いて、たいていのことは、どっちに転んでも、結局はうまくいくようになっているし、代替策が複数見つかる場合がほとんどだ。それなのに、恐怖心や不安が湧いてくるなら、それは何かに怖がらされているからであって、「不安でしょう? 怖いでしょう? でも、これさえあれば大丈夫」と誘導されている可能性が高い。

時間を置いてみるのもいいと思う。本当に欲しいわけではないものは、時間が経つと忘れてしまったりもする。

私の親は、私が必需品ではない何かを欲しがったり、習いたいと言っても、すぐには与えなかった。少なくとも一度は「だめ!」と言う。時間が開くと、忘れていることも多かった。時間が経ってもまだ望みが消えなければ、親を説得する材料を考えて、また頼みに行った。すぐには与えてもらえないのだが、納得の行く理由や条件があれば、親は協力してくれた。それを繰り返すうちに、本当の望みだけが残るようになった。

ただ、世間の固定観念から来る望みは、時間が経っても消えないことが多い。たとえば、何歳までに結婚して、子どもを産んで、みたいなもの。それは、広告やマーケティングなどとは違って、一過性のものではなく、代々受け継いでいるものだからだ。

固定観念によって生じた望みと、自分の望みを区別できるようになるには、固定観念を知る必要がある。それには、幅広い本を読むこと、多様な人の意見や考え方に触れることが役に立つと思う。私の場合は、日本以外の国の人の考え方や本、自分のまわりにはいない感じの人(性的少数者の人や貧困をなくす活動をしている人、差別を受けている人、障がいを持っている人など)が書いた本や文章を幅広く読むことが、視野を広げ、自分の中に巣くっていた固定観念に気づくことに役立ってきた。

経験からも常々感じることだが、食べるものや使うものを自分で作るようになると、自分の望みを識別する感度が高まってくる。料理一つとってみても、今は本当においしいものが納得できる材料で自分で作れるようになったので、外では食べたいものがほとんどない。

昔、新宿に行列のできるドーナツ屋さんができたときは、「絶対一度は食べてみたい!」と思ったものだったが、今は行列のできる店を見ても、欲しいと思うことは全然なくなった(時間があったときに並んで食べ、あのときは「やっぱり並んでいるだけあっておいしい!」と思ったが、今思えば、それほどおいしいものでもなかった)。今「食べたいな」と思う数少ないものは、本当に自分が望むもの。食べることができたときの喜びは、欲しがらされたものを得たときの喜びの何倍も大きい。

何かを「欲しい」と思ったとき、あるいは、こんなふうになりたい、あんなふうにしたい、といった望みを持ったとき、それが本当に自分の望みなのかどうか、誰かから仕向けられたものではないのか。それを見分けるのは難しいかもしれないが、注意深く確認する必要がある。

誰かに操られて貴重な時間やお金を使い、本当に自分が望んでいることを実現するのに使えなくなってしまう。自分の望みと他者に仕向けられた望みをしっかり見分けられるようになれば、本当に望むことを実現するのに集中し、自分で自分の人生を創造していくことができる。

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