20190402

自己犠牲について

自分のことは後まわしにして、まわりのために尽くす。世間では、自分を犠牲することは、立派な行為、尊い心がけのように見なされているように思える。

「世のため、人のため」という教えを、小さいころから叩き込まれてきたような気がする。「自分はいいから」と身を引いたり、我慢したりすることが、立派な人間のすることだという考え方に、あまり疑問を感じてこなかった。

でも、自分を犠牲にすることは、本当の意味では「世のため、人のため」にはならないと最近思う。

会社や組織、地域や国に忠誠を尽くす。これは、平和を構築するには遠い姿勢だと思う。自分が属している狭い世界に認められることが最優先され、それ以外を敵視しはじめる。

自分を犠牲にして「世のため、人のため」に尽くせ、という教えは、国家にとって都合のいい人間、企業にとって都合のいい人間を育てるのに、便利なツールのようにも思える。

自分が困っていることは、ほかの人が困っていることでもある場合も多い。自分はだめなんだと思わず、「自己責任」論に潰されずに、助けを求めたり、解決策を提案したりすることは、自分のためにもなるし、ほかの人のためになることでもあるかもしれない。

だれかのために自分を犠牲して何かをしても、そのだれかが喜んでくれなかったり、感謝してくれなかったり、気づいてくれなかったり、自分のことを一番だと思ってくれなかったりすると、怒ったり、悲しんだり、相手を恨んだりしがちだ。これは本当に相手のためになることを与えているのだろうか。

自分を犠牲にしていると、行動が報われない場合に腹立たしく感じてしまいがちだ。自分が満たされていないのに、それでも相手のためにしてあげたのに、相手が自分の期待した反応を返してくれない。相手が自分の望む反応をして初めて満たされるのなら、それは本当に与えているのではなく、相手に自分を満たしてくれるように要求していることになるのではないだろうか。

贈り物をしたり、食べ物をごちそうしたりして、相手を手なづけ、恩を打って、いずれは自分のコントロール下に置こうとしてくる人もいる。そこまで意図的ではないにしても、自分を犠牲にして、だれかのために、と続けていると、自分が何かをしてあげた相手に対して、見返りを期待するようになりがちだ。

他人がどう感じるか、どう反応するかはその人の自由だ。何かをしてもらったことの意味が理解できるかどうかも、その人の成熟度合いや経験の質と量にもよる。

期待する反応が返って来ても来なくても、相手の望みの実現や成長の手助けができたこと自体に喜びを感じることができる。その境地に達するには、まずは自分を大切にして、自分に必要なことを満たして、自分が幸せだと感じられることをたくさんして、自分のことを自分で幸福感に満たしておくことが必須条件だと思う。

たとえ、期待する反応が返ってきたとしても、それが本当に相手のためになっているかどうかは疑問が残る場合もある。相手が本来自分ですべきことを肩代わりして喜ばれ、感謝されても、それは相手の成長にはつながらない。その人はそのときはどうにか乗り切れても、また同じような課題にぶつかるだろう。そのたびに、味をしめて誰かに頼る。その人自身が人として成長できないだけでなく、次の犠牲者を生んでしまうことにつながることも多い。

学生時代の「ノート見せて」「宿題うつさせて」に始まり、人のために役立つことは善いことだと思ってきたが、そうでもないと思うようになった。本当に善いことでないことはたぶん分かっていたのだと思う。心のなかがモヤモヤした。そう思う心は、本当に正しいことを伝えていたのに、「世のため、人のために」が善いことだという自己犠牲を推奨する教えを鵜呑みにして、自分がこういう気持ちになるのは、自分の心が狭いからだと勘違いしていた。

だれかを幸せにするのに、自己犠牲はいらない。してもらう立場で考えてみると、私に何かをしてくれた人が自分を犠牲にしていたのだったら、気の毒な気持ちになるし、申し訳なくて心から喜ぶことはできない。「そこまでしてくれなくていいから、自分のことは自分でできるから」という気持ちになる。

今はできるだけ、本当に助けたいと思った場合にしか助けないことにしている。そう言うと、「冷たい」「ひどい」「自己中」「もっと優しい人だと思っていたのに」と批判されることもある。でも、それは仕方ないと思っている。そういうことを言う人は、相手のためになることをすることそのものに喜びを感じるという経験をしたことがないのかもしれない。

ときどき、断れなくて渋々協力してしまうこともあるが、自分のことを二の次にしてでも「やっぱり協力してよかった!」と思うことはない。でも、自分を犠牲にすることなく、気持ちよくできる範囲で、本当に助けたいな、と思ってやったことは、相手のために役立てたこと自体がうれしいと感じる。相手に感謝されたり、相手が笑顔になったりすると、もっとうれしい。どっちにしても幸福感が生まれてくる。

まわりを幸せにするには、自分が幸せで満ちあふれていることが大前提だと思う。自分のことを二の次にしてしまう人ほど、もっと人はわがままになったほうがいい。誰もが自分を優先するようになれば、わがままが通らない状況が生まれ、わがままが通らないことで、誤りに気づける。本来は自分がやるべきことだったのだと気づいて、自分で取り組むことで、成長する機会を掴むことができる。

まずは自分を幸せにする。そして、本当に助けたいと思った場合のみ、助ける。自己犠牲に基づく貢献は、「こんだけ我慢してるのにアイツは何だ」みたいに、他者にも犠牲を強いる考え方を持つことにつながるリスクもある。自分を犠牲にすることなく、まわりに幸せを広げる。それが基本だと思う。

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