世間一般で「すごい!」と言われることに、つい骨髄反射的に「すごい!」と思ってしまう。
たとえば、金メダルを取ったとか、栄誉ある賞を受賞したとか、長者番付に載ったとか、本がベストセラーになったとか、SNSでフォロワーが何万人超だとか。
こういう話題を聞くと、思わず「すごいねー!」と反応してしまう。でも、その数秒後には「果たしてそれは本当にすごいのか?」と問いかける自分が心のどこかにいる。
何年か前に翻訳の仕事で、日本人力士で何年かぶりの横綱になった人のニュースを訳した。それがどれだけすごいことかが数値とともに強調されていて、かなりもてはやされている印象だった(そもそも、「日本人」かどうかで差別すること自体が好きではない)。訳語を探すためにニュース検索をかけてみると、その快挙をほめそやすニュースばかりが並んでいた。メディアは、横綱という称号がついたからと、そのすごさを証明するデータを探し集めている。
最近、その力士が引退したニュースを訳した。当時とは打って変わって、彼はこき下ろされていた。勝ち数が少ない、日本人力士だからといって横綱昇進を急ぎすぎたのではないか―引退する人をねぎらうのではなく、どれだけ弱い横綱だったかを書き立てる論調に、なんだか切なくなった。メディアは、横綱になったときとは真逆で、どれだけしょぼいかを証明するデータばかりを探し集めている。
その力士は、ケガに悩まされていたという。「何年かぶりの日本人横綱」としてかけられるプレッシャーもあるなかで、ケガがありながらもベストを尽くしたのだから、よかったところを振り返ったほうが読んでいるほうも気持ちがいい。
なにかすごいとされる称号がついたら大騒ぎして、称号がなくなったら手のひらを返したように見下す。「横綱になったから、『すごい』と思って期待したのに、全然だめじゃん、あーあ、がっかり」とでも言わんばかり。勝ち負けという単純なものさしだけではなく、もっと多様な見方をすれば、いいところはたくさん見つかると思う。
称号や権威、賞、数値的な「すごさ」、そういうわかりやすいラベルは、指標にはなるかもしれないが、そればかりをありがたがるような目でいては、大切なことを見失う。
それに、数字が大きいからといって、人間に善い影響を与えているとは限らない。
たとえば、嘘をついたり、差別を助長したり、不安を煽ったり、刺激の中毒にしたり、そんなふうにしてベストセラーになっている本やページビューを稼いでいるサイト、SNSのフォロワー数を増やしているページや人物など、いくらでも見つかる。そんなことが本当にすごいのだろうか。
なにかすごい賞を取らなくたって、競争するのが嫌いだったり、平穏な暮らしを大切にしたかったり、そういった何らかの理由で「出場」していないだけで、「すごいな」と思う人は世の中にはたくさんいるし、身近にもたくさんいる。表彰するカテゴリーがないものもある。数値化できないものもある。うまく言い表せないけど、すごいな、えらいな、と思う人はたくさんいる。
もちろん、世間的な栄誉や名声を得ている人のなかにも、尊敬している人はいる。でも、世間的な栄誉や名声だけを見ていると、おかしなところにたどり着いてしまうのではないかと思う。
数字で見せられたり、権威がついたり、そういうわかりやすいすごさに、なんとなく「すごい」とついつい思ってしまうが、それよりももっと大切なことが、なんでもないように思える日常のなかにたくさんある。
先日すれ違った小学生の男の子は、びっくりするほど元気な声で「こんにちはー!」と挨拶してくれた。「満面の笑み」とはまさにこの笑顔という素晴らしい笑顔で私を見ていて、こちらもつられて笑ってしまった。ちょっと曇っていた心が一気に明るくなって、抱えている問題がどうでもよくなった。すれ違った人の心をぱっと晴らしてしまうようなパワーがあるのは、とてもすごいことだと思う。
家族の健康を考えて、毎日、おいしい料理を楽しみながら作る人。楽しい気持ちで作るから、その気持ちがこもって、食べるとなんだか元気になる。その人は、誰からの注目も集めなくたって、大切な人たちを健康にしたい、喜ばせたいという気持ちで何十年も毎日料理を作り続ける。
命を大切に考えている人。他者から出されない限りは、お肉を食べない。魚も卵も食べない。植物はなるべくまるごといただく。ゴキブリが出ても殺さない。そっと厚紙や箒に乗せて逃がす。ハエも虫取り網で逃がす。雨の夜はタイヤでうっかりカエルを踏まないように、慎重に運転する。誰も見ていなくてもそうする。命を大切にするということをここまで徹底的に一貫して実践している人を、ほかに知らない。
誰に顧みられることがなくても、世間の注目を集めなくても、誰かに表彰されなくても、どんなにささやかに思えることでも、まわりの人をハッピーにすることを日々積み重ねていく。それは見過ごされがちなことだけど、とても尊いことだと思う。
こうして考えてみると、誰もが誰かにとっての「すごい」人だと思えてくる。スーパーにちょっと買い物に行っただけでも、道を安全に渡らせてくれる親切な運転手さんや、マナーの悪い人が置き去りにしたカートを一日中黙々と片付けてくれている係の人、親切で気の利くレジの人…何人ものすごい人たちのお世話になる。
ただ、まわりの人をハッピーにするには、その前に、まずは自分を大切にして、自分で自分を幸せにしておく必要があると考えている。まわりの人を笑顔にしたり、だれかの望みの実現や成長の助けになれたり、それは喜ばしいことではあるが、自分で自分を満たしていない限りは、純粋にだれかのために行動することは難しいこともあるだろう。
自分で自分を大切にしていないと、誰かに良かれと思って自分がしたことが、顧みられなかったり、感謝されなかったり、気づいてもらえなかったりしたときに、相手を恨んだり、憎んだり、自分を責めたり、健全な結果につながらないこともある。
相手が喜んでくれて初めて満たされるという条件付きの満足では、相手にも自分にもあまりいいとは思えない。自分が何かを与えることそのものに喜びを感じるのではなく、相手に自分が期待する行動を要求してしまうことになる。相手に精神的な安定を依存してしまうことにもなりかねない。
相手がどう感じるかは相手の自由だ。相手が自分の望むような反応をしないとしても、本当に相手のことを思って何かをすることそのものを喜びと感じられるようになるには、まずは自分で自分を大切にして、幸せにして、満たしておく必要があると思う。だから、自分を大切にすることも、尊い活動をするために必須で、大切なことだと思う。
それから、だれかにしてもらったことをありがたいなあと気づけることも大事なことだと思った。「ありがとう」の反対は「当たり前」だと言われる。してもらって、その真価をきちんと理解して、感謝を相手に誠実に伝えるだけでも、その人を笑顔にしたり、うれしい気持ちにしたりすることができる場合もある(英語のappreciateには、「真価を理解する」と「感謝する」の両方の意味がある)。
それに、これが得意になれば、自分を幸せな気持ちで満たすのも簡単になってくる。その結果、誰かを幸せにしたり、笑顔にしたり、まわりにハッピーを広げられる人になりやすくなる。
数値や権威や賞といった分かりやすい「すごさ」は、誰かが一面を切り取っている評価しているに過ぎない。それを与えられたことで、人間性全体としては墜落していってしまう人もいる。何がすごいのかは自分の心に聞いてそれぞれ判断したらいいし、自分がどう在りたいのかも自分の心に聞きながらどんどん変化していくものだと思う。人として大切なことは、もっと身近にあふれている。
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