似ているけれど対照的な人々と会う機会があり、考えさせられた。
好きなことを仕事にしている、という点では似ている2組。じっくり話を聞いていたら、対照的なところがあることに気づいた。
一方は、好きなことを仕事にしていて、好きなことで世間的な名声も得て、金銭的な安定も手に入れている。だが、晴れ晴れ・生き生きという感じがしない。なぜかどこか物憂げ。その人の書いた本を読み、トークイベントでお話をじっくり聞いていて得た印象だが、おそらく、本を読んで憧れたこと、他者から聞いた話、SNSなどで見聞きした話などから、「これをしないと」「あれもしないと」と思ったことを、自分でもどんどん取り入れている、という感じがした。
もう一方は、好きなことを仕事にしていて、金銭的にはまだ不安定だが、迷いがなく、目に純粋な輝きがある。心から湧いてくる「やりたい」ということをしてきて、その延長でまた心引かれるものに出会ってきたという感じだった。情報を受動的に見ることはないようで、手を動かして、自分がやりたいと思うことをしていくうちに、疑問に思ったことや、解決する必要が出てきたことについて、情報を取りに行くというスタイルのようだった。
前者は、好きなことの源泉が自分の外側の世界にあり、後者は自分の内側にある、という点で、対照的だった。
前者は、なにか憧れる像があって、それをなぞっていく、自分をそれに近づけていく。それは、触れた情報によってどんどん増殖していく。やらなければならないことが増えていく。それをやって、率直な感じ方は「疲れた」「キツイ」「ツライ」かもしれないのに、自分はダメだからそんなことを思ってしまうのだと、自分が素直に感じている感覚は封印して、「こう思うべきだ」と想定される感じ方を自分が感じていることにしてしまっている。
自分が無理をしてがんばっているから、自分がやっていることが素晴らしいことで、他の人もそうするべきだ、という論調になってきて、なんだか説教っぽい感じも否めない。
そうなってしまいがちなのは、憧れになるべく自分を近づけようと努力していても、本当の満足は得られないからなんだろうと思った。本当に自分の時間を楽しむことができなくなる。想像上の憧れの像を生きようと努力しているのであって、本当の自分を生きてはいないのだから。
後者は本当に素直に、自分が本当に感じていることをポンポン口にした。こんなところが大変、こんな苦労があった。そう言いながらも、自分が本当に心の向かうことをやっていくために乗り越えてきた(乗り越えようとしている)という感じで、今では苦労さえも楽しんでいる感じがした。心が引かれて、おもしろいからやっているだけで、「これ愉しいよ」「おもしろいよ」という語り方。説教臭さは一切ない。自分の人生を生きるとはこういうことなのかもしれないと思った。
我が身を振り返ってみると、なるべく自然な暮らしがしたいと思っていて、それは心が求めていることだとは思うのだが、怖い虫もいるし、身体もそんなに頑丈ではないし、今すぐ全部を楽しめるかというとそうではない。
自然な暮らし、ていねいな暮らしを営む人の中には、梅干しも漬けている、干し野菜、天ぷら油の車、自家発電、米も育てる、野菜の自給自足なんて当たり前、野草でお茶をつくる、草木で衣類を染める、ヤギを飼っている、ニワトリを飼っている、ミツバチも飼っている、石窯をつくった、薪ストーブに薪風呂じゃなきゃ、エアコンなんてけしからん、味噌仕込みなんか当たり前、糀から手作り、え、まだ醤油もつくってないの?…みたいな、「自然暮らし競争」になりがちな人もいて、これまた楽しくなさそうな、物憂げな、ゆとりのない顔をしている。もちろん、楽しくてどんどん切り開いていったという人もいるけれど、あまり多くはない。人と比べて優越感に浸ったりということはないけれど、これもできてないし、あれも楽しめそうにない、などと、自分を責めてしまうこともある。
自分を責めることなく、無理をせず、楽しめる範囲でやる、というのが何をするにも大切なことだと思った。そしてときどき、自分のしていることを客観的に眺めてみて、やらなきゃいけないと思い込んではいないか、本当にそれは自分が心からやりたいと思っていることなのかを自問してみる必要があるのかもしれない。
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